理論的考察
一体「科学コミュニケーション」というのは何なのか?本来、「公共圏」「コミュニケーション」「市民社会」どういう意味だったのか?本来の意味を取り戻し、反省を加えるために、私はハーバーマスやジーン・コーヘン=アンドリュー・アラート、ハンナ・アレントなどの研究を精読した。一見迂路に思えるかもしれないが、事物の本来の意味を知るためには、古典的書物のほうが新しい本よりもはるかに有効なのである。だから、ハーバーマスが
「公共性(広報活動)はいわば、特定の立場に『信用』(good will)の体裁を調達するために、上から展開される」(『公共性の構造転換』第2版、234ページ)
などと言っているのをみると、1996年以来の原発疑似公共圏の出来を予言しているかのような響きを持つ。『公共性の構造転換』の初版は1962年出版。引用部分も1962年発表だ。
だから、原発屋は事故を起こすたびにgood will を調達しようとして、強迫的に、屋上屋を架すようにコミュニケーションの場を設定してきた。円卓会議、懇談会のほかにも、「原子力長期計画策定へのご意見を聴く会」。先にあげた「原子力安全委員会地方開催」もまたしかりである。
原子力政策円卓会議の小川順子氏に対しては、以下のコーヘン=アラートの言葉がよくあてはまる。
「始めに、市民社会を、政党、政治組織、そして政治的公衆(とりわけ議会)からなる政治社会と、生産、分配を行う、会社や企業、連合体といった組織等からなる経済社会からわけることは必要でありかつ意義のあることである」(Jean Cohen and Andrew Arato, Civil Society and Political Theory, ⅳ)。
要するに、ヘーゲルの『法哲学』では市民社会はただ「欲求の体系」とだけ定義されているにすぎないから、その中にさらに「政治社会」「経済社会」の差異を導入せよ、というのである。市民社会と大企業中心的経済領域が区別されておらず、市民と企業社員が区別されていないから、経済的特殊利権の代弁者である小川順子氏などを「市民」として、国の政策決定過程に入れてしまう。これを「御用市民」「御用コミュニケーション」と言わずして何と呼べるだろうか?
主に原発のことでリスクコミュニケーションということをかなり批判的に考えてきたわけだが、どうしたってこういったことを見聞きしていれば、いい印象は持てない。新しいリスクコミュニケーションの場が必要とされているのではない。過去のそれらが、なぜ事故抑止にここまで意味をなさなかったのかを、きちんと検討する、反省する態度のほうがずっと重要であるように思われる。
今のままでは少なくとも、「リスクコミュニケーション、もうたくさんだ」としか言いようがない。「3・11以降~」という常套句をよく見かけるのであるが、3・11以前にきちんと目を向けなければそれ以後は見えてこないはずなのである。