リスクコミュニケーションという虚構
試みに、「リスクコミュニケーション」でWeb検索して適当に用例を拾ってみるとよい。必ずと言っても予定調和的に最後には、「住民の理解・信頼」で終わるようになっているから。たとえば、文部科学省ホームページにある『リスクコミュニケーション案内』などその典型であろう。結局「(科学技術の)受忍性・受容性の判断」が問題になるので、「受忍拒否・受容拒絶」は問題にならないか、リスクコミュケーションの失敗と判断されるしかないようになっている。もちろんリスクの「受忍拒否・受容拒絶」も立派な一つの判断なはずである。そうでなければ、初めからコミュニケーションなどする意味がないではないか。
だから、上述の原子力安全委員会の地方開催が反証例になっているように『リスクコミュニケーション案内』など虚構である。現に、無理矢理にでも発言をして原発を止めようとした人々のほうが、正しかったことは約10年後の福島第一原発事故で明らかになった。すこしでも、ともすれば過激にも見える市民たちの言うことを聞いていたほうが原発の稼働は安全になったように感じる。今になってみれば、実に皮肉なことだ。