リスクコミュニケーションの死
社会学という学問のいいところは、頭で考えたことを足を使って確かめるということができる、というところにある。早速、原子力安全委員会の一般市民を交えての地方開催というのが大阪であったので、出かけてみてみることにした。
早速驚く。初めに、ステージでエラい先生方がお話をして(原発安全ですとか、原発のおかげで電気ができますみたいなこと)フロアを交えて討論、なのだがそれが異様である。まず挙手をして、それを司会がさして発言するのが普通だと思うのだが、それをしない。参加者はさされもしないで、勝手に大声で意見を言ってしまうのである。ステージの人はそういう意見にも一応答える。だが、しゃべっている最中にも、これはおかしいな、という発言が出てくると、お構いなしに参加者の人はフロアから、すかさず大声で突っ込む。
「学会とかのやり方とはえらい違いだな。原子力安全委員会が本気で市民の言うことなんか聞く気ないのは想像つくからこんなもんなんだろう。市民たちももう粘り強くやってきて、原発屋はどうせ聞かないのを承知で来ているようなところがあるんだろうな」と思った。後年になって、こういうたぐいの「住民のご意見を聴く会」に主催者側が原発屋の社員を動員していたことが分かったので、事後的に「ありゃ、わかっている人にはわかっていたんだろうな」と思うのであった。こんなんであるから、なるほど「リスクコミュニケーション」といって原子力資料情報室の人が怒るのも無理もないことだ、と納得してたものである。少なくとも2000年の時点で「リスクコミュニケーション」は死語であった。その後も使われるが、すべて、実態を無視したゾンビ用法で使われている。