1. 落ちこぼれの魔女
赤子の産声だ。
逞しく、そして生命の力強さを体現した騒がしさ。
産まれ落ちたことを、あらん限りの声で主張する。
それとも。
もしくは全身を包み込んでいた母親の体温が、急に感じられなくなったことへの不安を表しているのだろうか。
ともかく、その赤子は文字通り輝いていた。
その輝く赤子を、明滅する母親が受け取る。
二人の姿は、正に対照的だった。
輝きと明滅、生命の誕生と消滅。
しかし赤子の母親は、消え逝く己の生命を理解して、それでも、儚く崩れ落ちそうだと言わんばかりの手つきで、大切そうに慈しむ。
その表情は喜びに満ち、一切の隈も屈託も見えない。
新たな生命の誕生を言祝ぐ、一人の母親の姿だった。
『契約の魔女』、ヴィオレッタ・マリーゴールド。
それが、この母親の正体である。
清潔が保存された庵の一室は、普段、魔女のアトリエとして使われていることを窺わせる、怪しげな品々があった。綺麗に分けられ、棚に置かれた草や何かの塊、粉末。使途不明の器具や、種々の写本。
部屋の中央には、分娩台代わりなのか、清潔なシーツを敷いた鈍重な机があった。
その上で、辛うじて消えずに残った自己の存在の、その心血の一滴まで子供に託そうと、愛を注ぐ契約の魔女。
それを、二人の女性が見守っていた。
産婆代わりに赤子を初めに取り上げた『魔女の魔女』、ナーマ・ククル=カンと、助産役の『妙齢の魔女』、マダム・シルヴィア・ククル=カン東方女公爵。
ナーマはヴィオレッタの実の母親であり、そしてシルヴィアは姉だった。
二人の表情はヴィオレッタの笑顔と比して、趣が異なっていた。
ナーマは怒ったような渋面であるし、シルヴィアの能面の、あまりの空虚さには戸惑いさえ覚えるだろう。
ここは『不知時の森』に、ナーマが構えた庵の一室。
床一面に広がる魔術紋と、空間に浮かぶ大小様々な光の玉や輝く紋様が躍り狂う中、『契約の魔女』、ヴィオレッタが最期の魔女魔法を行使していた。
『運命の呪縛』。
一般に、魔女と敵対してはならない、と習う理由に挙げられる魔女魔法だった。魔女が、死の寸前に自身を殺害する相手を呪うために用いる魔女魔法。
それを、この世で初めて祝福のために行使した。
『運命の呪縛』は、消え逝く生命の、残りすべてを燃やし尽くして行使する。その際の激情が、呪う相手に運命の悪戯を引き寄せ続ける。
そういう魔女魔法だった。
しかし、室内を満たすのは暖かで柔らかな光のみ。
ヴィオレッタは全身全霊を以って、神話を紡いでいた。
脳裡に浮かぶ慈愛の祝詞を、極めて軽やかに口吟む。
それは、両腕に抱える我が子に聞かせる、寝物語のようでさえあった。
いつの間にか、赤子の泣き声も聞こえなくなっていた。
健やかで、安心しきった寝顔。
それを見つめるヴィオレッタの、母親としての眼差し。
色彩豊かなヘーゼルの瞳は、我が子の安寧を祈る母の慈愛に満ちていた。
やがて、暖かな光も収束する。
「……お母様。」
「なんだい?」
「ありがとう。」
その言葉の重みにさえ、ナーマは表情を崩さない。
「縁起でもないことを言うものじゃない。300年は音沙汰も無かったバカ娘が、突然帰ってきて何を喚いたかと思えば、魔女らしくもない。」
「ええ、本当にそう。」
ナーマの言葉に重ねる、シルヴィア。
虚空に話しかけたかと錯覚するほどの無表情から、溢れるほどの優しさと温かさの篭った声がした。
「シルフお姉様まで、そんなことをおっしゃるの?」
「決まってるわ。ヴィーは昔から王子様に憧れて、ちっとも魔女らしくしなかったもの。」
「そうだったかしら。」
クスクスと笑う姿は、まるで少女たちが秘密を囁き合っているよう。
しかし、その姿がまやかしであるとわかっている。
明滅が弱くなっている。
「……お母様、お姉様。」
「改まって、どうしたんだい?」
「この子を、『ヴィヴィアン・マリーゴールド・ククル=カン・ガルド・ドゥ・ルクスリア』をお願いね。あの人との、唯一の思い出だから。」
「立派な名前を貰っちまって、なあ。」
「ええ、此方が立派な淑女にしてあげるわ。」
「お姉様、ヴィヴィは皇女よ?」
「減らず口は嫌い。」
悪戯っぽいセリフは、ヴィオレッタの無邪気さを表すかのようだ。まるで、少女の口からこぼれた竪琴の音のような軽やかな言葉。
誰だってその音に、愛らしく華やぐ乙女の笑顔を連想するだろう。しかし、口調の割に、表情は穏やかだった。
「どっちにしたって、その子は魔女としてここで修業をする身だ。情けをかけるつもりはないよ。」
「それでこそ、お母様だわ。ね、シルフ姉様? ヴィヴィに、しかるべき頃合いで、貴族の作法を教えてくれないかしら。」
「此方は干からびた礼節しか伝えられないけど、いいの?」
「いいの。300年前くらい前に亡くなっちゃった国の、しかも直系の皇女だから。少しくらい古めかしい方が、しっくりくると――ああ、もう、時間ね。」
すでに、ヴィオレッタの明滅は仄か。いよいよ存在が希薄になっていると、見て取れる。
「ええ、きっと。どこへ出しても恥ずかしくない皇女にしてあげる。……だから。」
「ゆっくりと、流れに身を任せな。」
ナーマの、その言葉を最期にヴィオレッタは消滅していく。風に舞う砂に夕陽が反射するように、鈍く輝く粒子となって散っていく。その姿は、まるでお伽話に出てくる勇者の母のようだった。
遺された赤子は何かを感じ取ったのか、安らかな眠りを破り、大音声で泣いて、母の存在を感じ取ろうとした。
けれど、赤子を受け取ったのはシルヴィアであり、ヴィオレッタは消え逝くだけだ。
遺されたのは赤子と、用を終えた魔術紋、そしてヴィオレッタが発動した『災禍の祝福』の残光だけだった。
『魔女の魔女』ナーマ・ククル=カンは、すべての魔女魔法が自動的に記載される書物、『饗宴の鏡』が薄く発光していることに気づく。
そして、眉根が僅かに動いたか、何かを噛み締めるような面持ちで、手を翳して目当てのページを開いた。
それに気づいたシルヴィアも、ナーマが開いたページに目を落とした。
「本当に、あの子は。」
「ええ、魔女失格だったわ。皆が言う通り。」
果たして、そこにはひとつの魔女魔法が追記されていた。
災禍の福音:ヴィオレッタ・マリーゴールド・ククル=カン・ガルド・ドゥ・ルクスリア『祝福の化身』。
それがヴィヴィにとって唯一、直接渡された形見となった。
*** ***
「本当にトロいのね。落ちこぼれ。」
薄汚れた布切れを乱雑に縫い合わせたそれが、ベチャリと床に投げつけられた。
『不時知の森』の奥深くに魔女の庵がある。この庵には、真に魔女を目指す見習いたちが、勝手に押しかけて出来上がった学び舎があった。
そのアトリエでヴィヴィは一人、掃除をさせられていた。
「……。」
ヴィヴィアン・マリーゴールド、推定4歳のある日のことだった。
年上の魔女見習いが触れたくも無いとばかりに杖を振って操った、汚い布から水滴が飛び散って、ヴィヴィのスカートを汚す。それを見たヴィヴィは、ボンヤリと働かない頭で考え、眉を寄せた。
『落ちこぼれの魔女』。
その烙印は、ヴィヴィアンに対するものではなく、その母親であるヴィオレッタに対する評価だった。ひいてはその娘であるヴィヴィへの、嫉妬にも似た悪態の言葉になっていた。
300年ほど昔に滅んだ帝国、ルクスリアの園。その、最後の皇帝に正妃として迎えられながら、帝国の崩壊を防ぐことが出来なかった魔女に対する評価だった。
「口もきけないの? ふんっ。」
「…………。」
こう言うときは、黙っていればいい。
いや、黙っているしかない。
早熟な魔女見習いが、最初に覚えた処世術だった。
ぼんやりと鈍った頭で、それでもヴィヴィは思う。
黙っていれば勝手に飽きて、勝手にどこかへ行く。
ヴィヴィは、見た目だけならば8歳か、9歳か。窮屈な思いを強いられながら、しかし、くじけずに耐えていた。
魔女の子供は、たいていが早熟で、遅くとも4歳を迎える頃には魔女としての修行を始める、と言われている。
現に、この見習い魔女たちのアトリエには、一見すると10歳くらいの子供か、もしくは歳をとった1代目の魔女のどちらかしかいない。
ヴィヴィなど、2歳になる前から修行を始めていた。
「まあいいわ。私が道具をそろえてくるまでには終わらせていなさいよ?」
「…………わかった。」
ようやく飽きてくれたことを察して、ヴィヴィも返事をする。こういうとき、最後に返事をすれば相手は何かを勝手に納得して、去っていく。
傍流の傍流とはいえ、ククル=カンの名を持つ高慢な見習いの行動が理解できなくて、ヴィヴィは去り行く後ろ姿に首を傾げた。
「さっさと終わらせないと。」
部屋掃除を、できる限り早く終わらせる。それが、何かが身中に渦巻いて気分が優れないヴィヴィに出来る、唯一のことだった。
――そのはず、だった。
ビチャリ、と動き出したヴィヴィの足元で音がした。
不思議に思って、目を向けるのが普通だろう。ヴィヴィも例に漏れず、キョトンとした顔で下を向く。
それが、頭に負荷をかけることになる。
「……あ。」
サラサラとした朱にドロドロとした赤が混じっている。
ヴィヴィが気づいたときには遅かった。
ゆっくりと倒れながら、掃除を終わらせられないことに、あの、高慢な見習いが何と言ってくるか、不安でいっぱいだった。
「……。」
ヴィヴィは、動けなかった。
「ああ、いけない!」
いつも通りアトリエに顔を出した見習いの一人が、ヴィヴィの様を見て叫ぶ。
言葉とは裏腹に、表情には何かの感情が浮かんでいるようには見えない。『不知時の森』に囚われ、『永劫の歯車』となった者の末路。魔女にすらなれない者の残骸。
そんな、死者と生者の狭間にいるようなモノによって、ヴィヴィは生かされていた。
~to be continued~
見切り発車で更新したので、次回の更新の予定は。。。