前書き
その日、私は吸い込まれるように、とある古書店へと足を運んだ。そもそも私は古書店を見かければ、いつの間にか店内で本を手に取っているような人間なのだから、その休日の行動にも不思議なところなど何一つなかった。
と、書いてしまえばそれまでだ。けれどその時は何か感覚的に折り合いをつけがたい、義務感に囚われていたかのような小さな胸騒ぎがあったと思う。
店内に入って最初に気付いたのは、海外の文学を中心に取り扱うような個性の強い店構えということだった。私も本の虫の一匹で、そういう信念やストーリーめいた何かを敏感に察知するのは得意だった。きっと店主が選りすぐって古書たちを揃えているのだろうと、入り口から近いところに設置されたロシア文学の棚を何気なく漁り始めた。
こういった初版で絶版になるような本は、大抵ハードカバーの装丁だから余計に値段が増して売れなくなるのだろう、なんて本を漁りに来たとは思えないようなことを考えつつ、背表紙を指でなぞるのが好きだった。
そうして指が辿っていった先に、奇妙な本があった。
奇妙。というよりは、こういった古書店の普通の棚には陳列されないであろうアンティークな装丁の、おそらく稀覯本が何気ない顔をして、窮屈そうにいた。
ザッと見た限りでは、何かの革が表に使われていて肌触りはしっとりとしている。金を圧して施された装飾は精緻で、いつの時代の物なのか見たこともない様式だった。小口は防虫の為か、やはり金が塗られていた。さらにご丁寧なことに、跳ね上げ式の留め具が付いていた。
何か言い知れない矛盾のような引っ掛かりを覚えながらも、何語なのかもわからない表題を眺めていたとき、ふと気付いたことがあった。
読めた。読めてしまった。
それはおかしな話だった。何語かもわからない、という感情とは別に表題の意味を理解した感覚が同居していて、何かに化かされているのではないかと思い、左右を一瞬確認してしまったほどだった。きっと何かの間違いだったのかもしれないと、視線を表題に戻せばまた内容を理解できる感覚に襲われる。
しかしそんなことよりも私の頭を悩ませた……もとい痛めたのは、その装丁から想像も着かないような物語の表題であった。
『くっつき魔導師ヴィヴィアン・マリーゴールドは、鋼の聖騎士さまに恋してるっ♡』
私が目を擦って何度も確かめてしまったことは、書かずとも理解してくれるだろう。
自分の頭がいよいよ壊れたのだと思った。そしてこんな装丁にこんな表題だから店主も悩みに悩んで、この棚に押し込んだのではないかと邪推してしまった。そんな思いと並行して、ロシア語でもない謎の文字列を解読できたことに取り乱していたのだろう。自分を落ち着かせようと思ったのか、本をひっくり返したり無意味に振ったりしていた。
しかし間違えて逆さまにしていたわけでは、なかったようだった。
混乱の極みだった。
しかしそういった頭痛でさえ、むしろ楽しいと感じてしまっている好奇心の塊みたいな状態の私が取る行動なんて明らかだ。ひとり相撲のような困惑が落ち着けば、すぐに留め具を外して表紙を開いて中を確認していた。こういうときに私は律義なのか、必ず表紙から1ページずつ捲る癖がある。中には意味もなくパラパラと全体を捲ってしまう人もいるだろう。だけれども、私はそれが古書といえど捲られていないページが待っていてくれるような気がして、不用意に開くことを避けている節がある。以前、本を取り落としそうになって慌てて拾い上げた際に、開いてしまったページにネタバレになるような挿絵があった。それ以来、怖くて先を開きたくないというのもある。
さて、著作者はATTPPK氏というらしい。
名前の頭文字だけを集めてきたようなペンネームだと思いながら、この本の表題が間違っていなかったことを確認してしまった。
そして氏の前書きを読んで――読めてしまって――ようやく、なぜ氏ではなく私こと朝倉 ぷらすが前書きを書いているか、という謎に繋がる。
曰く、改ざんを恐れて前書きには強力なプロテクトがかけられている、というのだ。
確かに初めは私も氏の前書きを翻訳して――もはや、なぜか理解できてしまった文章を翻訳とするが――書き写そうとした。氏曰く、神話であるこの奇書の前書きを。
しかし何か言い知れない違和感のような不安が襲い、どうしても翻訳が出来なかった。とはいえすべて翻訳出来ないというわけでもないようで、文章そのものでなければいくらかは書き残せた。これが『時の化身の眷属』とかいう存在のプロテクトらしい。氏によれば、前書きの書き換えを防ぐための物だそうだ。これがどういった作用によって成されたものか知る由もないのだけれど、そういうわけで前書きを私が代わりに書いている、というより書く他がなくなった。
さて、そもそもこんな奇書を翻訳しようと試みたのも、本編を開いたからに他ならない。読みはじめて数秒もしないうちに、内容に驚いて本を取り落としそうになった。文章を目で追うと映像が透けて見えたのだった。
確かに私は文を目でなぞっている。しかし視界には同時に、その内容の動画のような物が重なって見えている。音も匂いも、風の感触も日差しの温かさも、そして登場人物の感情さえリアルに感じ取れた。
私は、この奇書を少し馬鹿にしていた節があった。
前書きで威すようなことを書いてリアリティを出したがる、ありがちなファンタジー。それがこの本の印象だった。
しかしどうだろう。
世界に記述された改変できない記憶の断片を、集めて紡いだとかいう神話。氏によれば、ノンフィクションだというそれらが目の前で躍動していた。氏の前書きが記すように魔法の存在を思い知らされた。氏の前書きが読めてしまったことは何かの間違いだと割り切れても、こちらはどうしようもない。どう割り切ることも出来なかった。
私は書を閉じて、すぐに店主の言い値で引き取り、そして古い友人である言語学者の下へ走った。
アポなしで突然来るとは何事だと、嬉しそうな女史の研究室は、資料である本が何度も雪崩を起こした跡が散見され、以前に来たときよりさらに歩ける場所が少なくなっていた。
はじめから望むべくもなかったが、お茶の一つも出さない彼女の対応に懐かしさを覚えつつ、早速とばかりに本を広げて見せた。このとき、私は秘密を共有するときのような胸の高まりを静かに感じていたと思う。
彼女は子供のように目を輝かせて、鼻先が付くぐらいじっくりと眺めて、そして一言告げた。
読めない! と。
彼女は世界中のありとあらゆる言語を、朧げながらも読む程度の能力はあった。その彼女が全く読めないという。前書きは当然ながら、本編の映像も見れないという。解読しようにも比較するための資料がないから、解釈のしようも翻訳のしようもないという。
当然、彼女はこう続けた。
私が読めるのなら、それを書き記せと。
私は彼女に、前書きは読めても翻訳が出来ず、本編は読めるというよりも見えるのだと告げたのだけれど、それでも構わないと手を離してくれなかった。
こうなった彼女を止める術を私は知らない。私は仕方なく、などと嘯いて、本書そのものの翻訳ではなく私が見た映像の記述ならしてもいいと、言ってしまった。本編の翻訳も、おそらく可能なのだろうけども、単語を拾うならともかく文章単位で翻訳しようとすれば、目の前に広がってしまう映像は邪魔でしかない。しかもそれを無視しようと目を凝らしても、文の上を目が滑っているのがわかった。
本質的には、私も文そのものを読めているのではなく、魔法の作用か何かで理解できているに過ぎない、ということなのだろう。
けれどこうして、言語学者である彼女のために奇書の内容を書き記すならばいっそのこと、ネットに上げてしまおうと思い立った。誰か他にも私のような荒唐無稽な体験をしている人がいるかもしれない。
そういう思いも少なからずある。
この奇書の内容を公開する本当の目的は、私が見た光景を伝えたいからに他ならない。私の語彙力や表現力でどこまで伝えられるかわからない。
しかし主人公であるヴィヴィアン・マリーゴールドという人物を中心とした一連の物語は確かな面白さがあって、少なくとも私一人の心は惹き付けて離さなかった。
私はその姿を一人でも多くの人に知ってもらいたいのだと思う。今のところ私しかこの奇書を読むことが出来ないのだから。
そして重ねて記す事になるが、本作はフィクションである。この奇書がノンフィクションであると記していても、それを私が確かめる術がないのだからノンフィクションであるとは書けない。
また、言語学者である私の友人とも相談して各話の更新をすることになるだろうから、更新速度には期待しないでいただきたい。すでに不定期になることが決まっている。
そのような不思議な本作ではあるが、どうぞ楽しんでいただきたい。
2018年10月 朝倉 ぷらす




