二章 辻行
いつものように辻行は、ズボンのポケットに両手を突っ込んで歩く。
真新しい制服のポケットは少し窮屈だった。
『本音は、いつもポケットの中に入れて歩きなさい』
無風先生がそう言ってくれたことで幼い日の辻行は救われた。
その言葉は、やがて癖になり不安な時、怖い時、心配な時、心細い時、辻行はきまってポケットに手を突っ込む。
本音と一緒に。
『あれれ。八重君はお口をお家に忘れてきちゃったのかな』
担任の先生のその冗談が辻行は嫌いだった。
決まって教室に笑いが起きて、辻行は下唇を強く噛んで耐えた。
言えない事、表せない事を指摘されるのはいつだって苦痛だった。
八重辻行少年は、物静かで人の輪の外に立っている体の弱い子供だった。
死んでしまう前は、心配性の母親と、良薬を求めて旅する父親がいた。
顔は青白く、頻繁に倒れる辻行のことを
「今にでも死んでしまいそうだ」と周りの大人たちは心配していた。
死にそうな少年が今となっては、何百年経っても死ぬことがない身体になったのだから笑うしかないと辻行は思う。
「なあ。リンガベル。きっと俺についてきたことを後悔する。今からでも、家に帰る気はないのか?」
隣を歩く、制服姿のリンガベルは微笑んだ。
「ありません。これから地獄に行くような台詞ですね。地獄でも、学校でも私は辻行と片時も離れるつもりはありませんよ。任務ですから。どこまでも、いつまでもお傍にいます」
いくら服が好きだといっても日にちごとに学校にきていく服を選んでいたら毎朝、皆が遅刻してしまう。学生だけは、ミリアッドであれ、人間であれ、制服で通学することになっている。この制服がなんとも有能で万能なものである。
学校によって異なるが、この中央都立六賢第二部中等学校では、男女共に白を基調とした制服になっている。
男子は、黒いワイシャツの上に、白地に金色のラインと同じく金色の大きめのボタンがついたブレザーを羽織り、ズボンも太い金色の一本線があしらわれた白いものになっている。
制服は上下ともに長袖長ズボンで冬季用にみえるが、裏地に温度調節加工がされており、猛暑日でも制服さえ着ていれば涼しい。
一方、女子は黒を基調としたワンピースの上に、中央で左右に分かれる長めのチュニックを羽織い、その下には丈の短いかぼちゃパンツを履く。
スカートではなく、ズボンにこだわったのは、動きやすさを備え、際どさをおさえたためである。
どちらも生徒には好評である。
リンガベルの制服姿はスカートよりかえって際どい気がするが……と、辻行は思った。
「十年越しの留年か……」
初夏の日差しを浴びている校舎を辻行は見上げた。
この先にあるのは更なる絶望しかない。
かつて辻行には夢があった。
学校に通い勉強をして、大学に進むというありふれていて、それでも大きな夢だった。
辻行はそれすら望めない環境下にあった。
それゆえ、望める自由が与えられた時、強く願い、心に決めた。
その夢の実現の為に無我夢中で努力をした。
しかし、その夢への道は閉ざされた。失った。その手を自らが汚したことでなくしたのだ。
一つの命を奪っておいて夢なんて望めるものか。
その夢を目指すためだけに通っていた中学校に目的を失った今、戻され一体何をしろと政府は言うのか。
だからといって目的もなく、家にこもっていることをリンガベルは許してはくれなかった。
面と向かって駄目だと言われたわけではない。
ただ、正当な理由を用意することなどできず、断りきれなかった。
流されるまま、ここまできた。
ここからも同じように流されればいいだけだ。
周囲に合わせて、荒波を立てず、何の感情も込めず抱かず、そこにあればいい。
辻行は形式上、転入生として学校に戻り、リンガベルはその付き人として同じクラスで過ごすことになった。
より高度な教育を受けたいと、中央都市にある学校にやってくる学生は多く、その人数は年間で一クラス分に相当する。
志半ばで、故郷に戻る人もまた多く、郷の学校はさておき、中央都市の学校では転入も転校も、編入も中退も珍しくはない。
ミリアッドは専門の養成所があり、人間の学校に一人の生徒として転入することはない。
もちろん例外はある。
ミリアッドの同伴を学校側も社会も認めている。
ミリアッドの補助を必要とする生徒や、教育係や世話係としても有能な彼らを傍におく生徒やその両親も多い。比較的、郷より富裕層の人々が多い中央都市では、同伴者としてミリアッドを連れている生徒の転入は言うほど珍しくはないのだ。
復学に伴う、書類の提出や手続きはリンガベルがほとんど済ませてあり、職員室では担任の紹介をされただけで教室に案内された。
しかし、教室に足を踏み入れたと同時に辻行もリンガベルも己の考えの甘さを瞬時に悟った。
既に着席しているクラスメイトから一斉に向けられた視線は、法廷に現れた辻行を見つけた時の傍聴席にいた一般市民と全く同じであった。
軽蔑や畏怖を露わにした犯罪者に向ける好奇の目。
知っている。
この教室にいる奴、全員が俺のしたことを知っている。
全身の血の気が引くと同時に、逆撫でされたように鳥肌が立った。
担任の教師に背中を押されるまま、足は教壇に向かって動くものの、上履きの先を凝視したまま、顔を上げることができなかった。
全身に刺さるような鋭い視線を感じて、足が震えた。
「転入生の八重辻行君と、リンガベル・レイさんだ。一言ずつ、自己紹介を」
何も察してない担任がそう言って多分、笑いかけた。
「や……え辻行、です。あ、の…………」
声が震えてまともに喋れない。発する言葉の一つ一つが呪いたいぐらい上擦っている。
ちゃんと話さないと。
「あ……の」
隣からそうっと囁かれた。
「私がいますよ、辻行」
リンガベルは、振り向かず真っ直ぐ教室を見据えていた。
俺は、彼女に後押しされ、よろしくお願いします、と言った。
……言えたのならよかった。
そう思った時には、辻行は床に倒れていた。
ぐるぐる回る頭が徐々に冴えてきて、意識がはっきりした時、辻行は保健室であろう、白いベッドに寝かされて薄い布団をかけられていた。
仕切られているカーテンの向こう側からは声が聞こえた。
「彼はまだ復学するには早いのでは。八重君は、体調が悪かったのか、リンガベル・レイさん」
これは、洞察力の低い担任の男の声だ。
「いえ。そんなことはございません」
それに応えるリンガベルの声。
「彼の倒れた理由がストレスやトラウマからくるものなら、一教師の自分にできることは他の施設をすすめることだけだ。悪いが学校では手に負えな……」
担任の話が途切れたのと、辻行が上半身を起こしたのと、仕切りのカーテンが乱暴にあけられた三つの出来事はほぼ同時だった。
開けた視界の先には、勢いよくレールを滑って行くカーテンの端を放り投げるような動作で手放したまま、直立している背の低い少年がいた。
黒髪の少年は、驚いている辻行に対して見下ろした。
「盗み聞きはよくないですよ、辻行」
まるでリンガベル本人が言ったかのような口調と声のトーンで少年は話した。
声の音質自体は少年のものであるのは確かだが、錯覚してしまうほど、その言い方は本人に似ていた。
「真似田、やめなさい」
背後から掴みかかる担任の手を振りほどいてでも真似田と呼ばれた少年は、辻行から目を逸らさなかった。
「なん……だよ、お前」
「なんだよ、お前」
辻行が発した言葉を真似田は、オウム返しのように繰り返した。
「馬鹿にしてるのか……?」
「いえ。そんなことはございません」
またリンガベルの口調で真似田は話した。
「馬鹿……馬鹿にしてるのか、お前」
今度はさっき辻行が言った言葉を組み合わせて真似田は話す。
「なんの真似だ!」
ベッドから跳ね上がり、胸元に掴みかかった勢いで、真似田の左手から音を立てて黒い鞄が落ちた。
目をやると、それは辻行が学校に持ってきたものだった。
鞄を、届けにきただけ……?
「おいっ、二人ともやめろ」
声を荒らげる担任が仲裁に入り、辻行の右手を下すように押さえつけた。
その後ろからリンガベルが駆け寄ってきた。
「リンガベル、なんだこいつは」
「クラスメイトの真似田君です。辻行の鞄を持ってきてくれたんですよ」
落ちた鞄を拾い上げ、真似田と担任に向かってリンガベルは深々と一礼した。
「ありがとうございました。後は大丈夫です。お戻りください」
「だがしかし」
「ありがとうございました」
躊躇った担任に制するように二度、礼を言い、リンガベルは遠まわしに部屋を出て行ってほしいと意思を示した。
それに気圧され、真似田を連れて担任は保健室を後にした。
人間に対してミリアッドが歯向かったり、指示をすることは、ミリアッドの地位が高い場合以外は、タブーとされている。
リンガベルはタブーを避けたまま部屋から強制排除した。
「リンガベル。帰ろう」
ベッドから降りた辻行の前に両手を広げたリンガベルが立ちはだかった。
「何を言ってるんですか、辻行。教室に戻るのです」
「お前は何を見てたんだ」
辻行は大きくため息をつき、鋭く睨みつけた。
「駄目だったじゃないか。無理だったじゃないか。あいつら、あいつらは一人残らず、俺が人殺しだって知ってたんだ」
「だからなんだと言うんです? ああ、駄目だとわかったら家に帰って毛布にでも包まって一生過ごすんですか」
「……言葉に気をつけろ、たかがミリアッドの分際だろうが。逃げて何が悪い? 学校に行かないことは悪か? 他の道を選ぶことは卑怯か?」
リンガベルは、肩にかかった銀髪をはらって、辻行が寝ていたベッドに腰掛けた。
「もちろん悪くない、悪くないですよ、辻行。
学校以外で生きる世界を見つけたのなら私はサポートいたします。
そのための叉瞳の私ですから。
しかし、どうですか? 辻行は他の道を探す気はありますか? 本当は、どんな場所でも生きたくないと思っているのではないですか。恐怖に負けたふりをして逃げたふりをして、生きる道も可能性も潰して全部、諦めようとしているのでは。
だとしたら、私は許しません。辻行が辻行の未来を潰すことも、この校舎から一歩出ることも」
「ふっ……くくっ、大層、優しいことで」
リンガベルの左手から鞄を引っ手繰って、辻行は向かった先のドアノブに手をかけてから、首だけ向けた。
「早くしろ。教室に戻るぞ。俺がどんだけ性根が腐った駄目人間かを知ることになるだろうな。その時はどうする?」
「……一緒に家に帰って洗濯の仕方から、紅茶の淹れ方までお教えしますよ。もしものときは、このリンガベル・レイが命に代えてもお守りしますよ」
微笑むリンガベルが背中に回していた左手の甲に右手の爪を強く突き立てていたことに辻行は気付けなかった。




