一章 辻行(3)
食糧や洋服といった生活に欠かせないものがないこの家にもどうやら暮らしていくには最低限必要なものは一通りあるようだった。
カーテン、机、ベッド。
体を預けるシーツの敷かれたベッドの柔らかさや、そこに自分がいる所為で生まれる温もりが不愉快で仕方なかった。
「……気持ち悪い」
辻行は眉間にしわを寄せた。
昨日までいた生き地獄の堅くて痛い寝台で寝返りも打てないで過ごす夜と、太陽の匂いがわかってしまうようなタオルケットとシーツに包まれて眠るこの家での静かな夜。
どっちが息苦しいのだろうと思った。
十年過ごした監獄での夜は静かだったことなど一度もなかった。
太陽の見えない、昼も夜もわからない窓のないあの場所では、どんな時間に床に入ることも決まってなかったし、咎められなかった。
『まともに寝られるものなら寝てみせろ』
受刑者の一人一人を罵る為に頻繁に遮要壁にやってくるヴァン・レイは嘲けながらよくそう言ってきたものだった。
昼と夜との境がないというのは、他人もそうであり、自分にとって夜であっても他人には昼であるということだ。
ゆえに、二十四時間、どんな時間でも誰かしらが刑を執行されている。
その苦痛に耐えきれずあげる断末魔のような叫び声や、絞り出すような泣き声がやむことなく、絶えることなく響き渡っていた。
その中で安眠するなんていうことはまともな精神をしていたら土台無理な話であった。
募った苛立ちを一身に受けたタオルケットは投げ飛ばされ、床にふわりと舞い落ちた。
その姿が余計に辻行を腹立たせた。
俺は何にムカついてるんだ。
昼間にリンガベルに投げつけた言葉が蘇る。
酷いことを言った。
そう思っても謝る気にもそれ以上に後悔する気にもなれなかった。
リンガベル・レイ……か。リンガベルの微笑む顔はどうしても同じ顔をしていたホーリィを連想させる。
「ホーリィ……君に、似た子に出会ったよ……」
もういない君に囁いて辻行は目を閉じた。
その日、リンガベルは家に帰ってはこなかった。
翌日、辻行が目を覚ますと、ベッドの足元に折りたたまれた新品の服がおいてあった。糊のきいたワイシャツに袖を通して、一体どこで知ったのかサイズがぴったりのジーンズを履いた。
部屋から出ると、ダイニングには紅茶の香りが漂っていた。
「辻行、おはようございます。どうぞ」
昨日のように微笑んではいないリンガベルに勧められるまま、椅子に腰かけると、すぐ紅茶がテーブルの上に運ばれてきた。
それは、辻行が昨日市場で買って、家の床に袋もあけず放っといた紅茶の茶葉であった。
梅雨の肌寒い朝にティーカップの温もりはうれしかった。
壁の外に出てから二度目に飲む紅茶を堪能していると、同じように皿に乗せられた市松模様のクッキーが運ばれてきた。
その足で、リンガベルは辻行の向かい側の椅子に座りこんだ。
「いただきます」
合掌してからリンガベルは歪な形のクッキーに手をつけた。
よく見ると、リンガベルの皿に乗っているクッキーはどれも拉げていたり欠けているものばかりだった。
それに比べて目の前の皿にあるのは選び抜いたらしく、形も綺麗で焦げていないものだった。
昨日と今日でリンガベルの態度も話し方も違っていた。
リンガベルは昨日の出来事を、辻行に傷つけられたことをなかったことにはしなかった。
あたかも傷つけられていないかのように笑顔で振る舞うことも、謝ることを迫るようなわかりやすく落ち込むような真似もしなかった。
「うまくできてるよ、このクッキー。悪くない」
「光栄です。ありがとうございます」
リンガベルはこちらを見ようとはしなかった。
「リンガベル」
「はい」
「行きたい場所があるんだ。食べ終わったら一緒にきてくれるか?」
飲み終えたティーカップを置いてリンガベルは微笑んだ。
「もちろん」




