一章 リンガベル(3)
あまり気乗りしていなかった辻行を市場まで連れ出してよかった、とリンガベルは安堵した。
屋台で売られているものをしげしげと見て歩く辻行はどこか楽しげで、死んだ魚のような目に変わりはないが、そのずっと奥で光っているものがあるように見えた。
人通りの多いところやにぎやかな場所は嫌いかもしれないと思ったが、どうやら辻行にとって心躍る場所のようだ。
以前は頻繁に来ていたかもしれない。
そう感じられるほど、辻行の口数はわかりやすく増えた。
「魚多良場がまだあるのか、懐かしい。リンガベル、お昼はここにしよう」
嬉しそうに辻行が指差す先には、魚多良場と呼ばれるなじみ深い屋台がある。
その場で料理を作って、店先のカウンターで食べる、食堂のようなものだ。
カウンターの一つ上の棚には、ずらりと魚の頭が鎮座している。
リンガベルはどうも頭の目と目が合う気がして、気味悪がっていた。大抵、魚多良場にいるのは、ロンか男性なのでどうもレイのリンガベルには入りづらいものがあった。
「本当に懐かしい。ホーリィとよく来てたなぁ。リンガベル、あっちにも面白そうな店がある。行こう」
魚多良場の向かい側にある紅茶専門店に目移りした辻行は、さっさと人ごみをかき分けて行ってしまった。
リンガベルが後を追って、店に入った頃には、辻行は店員に勧められた試飲の紅茶の香りを楽しんでいた。
「辻行。ホーリィさん、とは友人ですか?」
「俺が殺した子だよ。朝の紅茶はどれにしようか?」
その瞬間、地面に叩きつけられたような衝撃をリンガベルは受けた。
習慣で、朝食はどこの家庭でもクッキーと紅茶と決まっている。
その為、どこの人でも朝一番に飲む紅茶にこだわりがあり、それを決めるのは重要なことでもある。
しかし、紅茶をどうするかと同じテンポで辻行の口から出たことにも、その内容にもリンガベルは驚いた。
リンガベルは、八重辻行という人間が犯罪者であることと、刑期を終えたことしか知らなかった。
目の前で紅茶を大事そうに飲んでいる十四歳の少年の犯した罪が人殺しであるということも今、初めて知ったのだ。
しかし、それ以上聞くことは躊躇われた。
自らの使命は、彼を更正させることであり、彼の罪にとやかく口を出したり、犯した罪を知ろうなどということはおこがましい。
その権利が私にはない。
「これなんかどうかな? リンガベル。リンガベル?」
問いに答えないリンガベルの肩を揺すり、それでも反応がないのをみて、辻行は少々残念そうに、店員に代金を支払いに奥のカウンターへ行った。
政府はどういうつもりか、リンガベルに支給金を与えた。
管理の一切はリンガベルに任せ、必要に応じて辻行に渡す。リンガベルは、買い出しで生活に必要なものをそろえる為に辻行にもその一部を手渡していた。この場合、紅茶専門店で支払った料金は全て政府に与えられたものであった。
「リンガベル」
「……はい」
心配そうに顔を覗き込まれてリンガベルはようやっと一言、返事をした。
「リンガベル。次はクッキーを買いに行こう」
「辻行……」
「なに?」
聞いてしまおうか、そんな考えが頭をよぎった。
気にならないわけがなかった。ホーリィとは誰。なぜ殺したの。
「……うまくできるかはわかりませんが、養成所の料理教室でクッキーの作り方は習いました。私が作ってもいいですか?」
「もちろん」
リンガベルは悲しい気持ちになった。
しかし、これ以上それを悟られて余計な心配をかけたり、気分を害するような真似はできない。
心の中で深呼吸をし、微笑んで見せた。
「辻行のタイミングでいいのですが、中学校に復帰でき次第、復帰するようにと託けを預かっています。教科書が……必要ですね」
「中学校か……今更……。教科書をそろえるなら、精霊の住処だな。あそこにはついでに会っておきたい奴がいるんだ」
リンガベルは頷いて、二人は歩き出した。
誰にも親しい人や会いたい人はいる。
孤独を愛していても一人で生きている人はいない。
服役していた辻行にももちろん会いたい人はいる。
そのことに驚いたりはしないが、その相手が精霊の住処にいることは少し意外だった。
精霊の住処というのは人々がそう呼んでいるだけの通称だ。
本当の名前は、国立大図書館という。
歴史を綴った資料から、学校で使われる教科書まで書物と呼ばれるものは全ておいてある。
国から許可の下りた書物なら貸し出しもしているし、教科書等の販売もしている。
人々が立ち入ることを許されない場所もあるが、それ以外の多くの場所は自由に入ることができ、静寂の中でそれぞれの読書なりの時間を楽しんでいる人も多い。
しかし、そこを管理しているのは、一人を除き、ミリアッドである。
機密文書や国の資料を管理する上で、ミリアッドの正確さが求められたためである。
そこが精霊の住処と呼ばれる所以は、ミリアッドを精霊と見立てているわけではない。
そこに住まう唯一の人間、通称ドライアドの存在により、その名前がついた。
動かざる辞書。
静寂の制裁。
そんな呼び方をされていたこともある。
精霊の住処の古風な木製の扉を押し開けると、辻行は教科書を販売している区間を素通りし、赤いカーペットの上を道なりに直進した。
両脇の壁には高くそびえたつ本棚、その中央よりに長いテーブルと椅子が並ぶ。
入口近くに、ローブをきたレイが山積みにされた教科書を数えている。
静かな空間に辻行と、そのあとをおずおずとついていくリンガベルの二つの足音が響いた。
赤いカーペットはそのまま、低く短い螺旋階段に続き、昇った先に他の床より、2mほど高い場所に本が散乱した七畳ほどの空間があった。
この空間があることは、今通ってきた道からも読書スペースからも見ることはできる。それにも関わらず、ドライアドと呼ばれる彼女の姿を螺旋階段の下から見ることができないのは、螺旋階段のスペースを残して、積み上げられている本で天井までの高い壁ができているためである。
リンガベルは初めて彼女の領域に踏み込んだ。
高くそびえたつ本の壁に三方向を囲まれた中央で、さらに小高く積み上げたられた大きめの資料やスケッチブック、地図帳の山の上にドライアドと呼ばれる彼女がこちらを見ていた。
「久しいな、命明」
黒縁の奥の目つきの悪い目でドライアド、命明は二人を見下ろした。
雑に結ばれたゆるい三つ編みが、彼女の小さな身体を追いぬき、土台にしている資料まで垂れている。
リンガベルは初めて見る彼女の緑色に見とれた。年輪を重ねた大木の葉のような深緑色の髪に。
「八重辻行か。いつ壁から戻ったんですか」
命明は、重い口を開いてぼそっとつぶやいた。
「随分と冷たいな」
「いいえ。大層心配してましたぁ」
「……まるで心がこもってないんだが」
二人の会話を聞いてリンガベルはただ驚き続けた。
口数が多くなったとは言え、辻行が呆れたようで楽しいようなそんな声をしていることにも、静寂の制裁と呼ばれるほど、他者と口を利かない命明が辻行相手であればこんなにも流暢に話すのかと。
「命明は相変わらずこうなのか。十年も経てばコンピュータのほうがよっぽど、調べものをするのに優れてるだろう?」
「最新機器はもちろん素晴らしいですよ。でも命明は書物しか信用する気になれません。コンピュータなど信頼できるものですか、この目で見ないと」
「わかった。わかった。好きにしたらいいさ。今日は教科書を買いに来ただけだからさっさと帰るよ。また今度、外でお茶でもしながら語らおう」
「死んでも嫌ですよ。この命明の引き籠り魂を甘く見ないでください」
「そういうと思った」
くるりと背を向けてポケットに手を突っ込んで辻行は螺旋階段を下って行った。
リンガベルは、緑色の少女に一礼すると、そのあとを追った。
「辻行はさきほど十年と言いました。それは刑期ですか?」
「……そうだ。俺は壁の中に十年いたんだよ」
わずかに抱いた希望を打ち砕くように、振り向いた辻行は命明と話していた時に見せていたような生き生きとした表情を向けてはくれなかった。
命明に向けていた目には確かに光が宿っていた。
市場を歩いていた時のようないつかは尽きてしまうか細いものではなく、本来の人間なら当然のようにそこにある安定した強い光。
彼らの関係を今日知り合ったリンガベルは知らない。
それが当たり前にもかかわらず、リンガベルはその心に静かに生まれた邪心に戸惑っていた。
それが疎外感や嫉妬心という名で人の心に存在するものであることを彼女が知るのはもう少し後でのことだった。
「そんな、そんなのはおかしいです」
辻行の言っていることを一瞬では理解できなかった。
目の前にいる少年が人間である限り、不可能なのだ。
十年を遡れば、八重辻行が人を殺したのは、彼が四歳の時の出来事になる。
リンガベルが知っているどの四歳の子も人殺しができるようには到底思えなかった。
もし、仮にそれが可能であってもいくら罪人の裁きに厳しいこの国でも四歳の子を十年も生き地獄のような監獄に放り込むほど無慈悲ではない。
「そうだな。可笑しいな。いいか、リンガベル。お前は俺のことを何も知るな。わかろうとしなくていい。そのままでいるか、それができないなら浮林檎に還れ」
「……っ!」
その言葉がミリアッドに対して放たれる言葉の中で最も侮辱であることを理解できないほどリンガベルは愚かでも無知でもなかった。
返す言葉を失うどころが、開けた口を閉じることさえも忘れた。
「俺は家に戻る。あれを家とは呼びたくないが」
背中を向け、立ち去る辻行をすぐに追う気にはなれなかった。
崩れてしまいそうな脚を支えることに必死だった。
顔を覆っても、床に膝をつけるような真似をプライドの高いリンガベルはしたくなかった。
浮林檎に還れ。
すべてのミリアッドは浮林檎で生まれる。
どんな道を歩んだミリアッドでも元を辿れば浮林檎にたどり着く。
辻行が口にしたのは、生まれた場所に帰れという意味ではない。
そんな話ではない。
浮林檎は広大で巨大な施設で、養成所に任せていること以外のミリアッドのことは全て行っている。
生成する場所であり、解体する場所でもある。
生み出すだけ、生み出して後のことを放棄するような無責任さなど浮林檎には存在しない。
多くの優秀なミリアッドが生まれる陰には、同じ数の犠牲がある。
失敗した実験体、役目を終えたミリアッド、役立たずだと見放されたミリアッド、どれも行く先は同じである。
大切な国の資源は保ったまま解体されるのだ。
それを幾分かましな言い方をして、『還る』という。
顔を覆っていた両手の隙間から水滴が流れた。




