十四章 無風
悪い噂を耳にした無風は血相を変えてクーレントの住む地下室に戻った。
これから地下室の片隅を本格的に住居として使う為に生活の必需品を買いに行くさ中だった。
両手に持っていた今さっき買ったばかりの物を放り投げて走った。
背後から罵倒する声が聞こえようがそんなことはどうでもよかった。
「今すぐここを出よう、ここは危険だ。一部のミリアッド達が反乱する仲間を募ってる。打倒クーレントの旗を掲げていた。どうやって場所を突き止めるつもりか知らないがここに攻め入ってくるのも時間の問題だ。腕が五十二本あっても大勢では、太刀打ちできない。何とか、何とかするから」
近くで喚き立てる無風に対して、不快感を露わにしたクーレントは眉間にしわをよせてから皮肉な笑みを浮かべた。
「……何とかするからってどうしようと言うのだ、無風。私はここから一歩も動くことなどできない。一歩進む脚も持っていないのだ」
「クーレントなら半身を削いだって死なないでしょうっ」
「……随分と乱暴な言いようだ」
「何の、何のために私が十年以上かけて万能薬を作ろうとしていたか、貴方の痛みを和らげる為じゃないか!
その貴方が死んでしまったら何の意味もない。馬鹿げている! ミリアッドの痛みの全ての受けている貴方をそのミリアッドが殺そうとしているなんて!」
無風はクーレントが愛しているミリアッドを憎み、クーレントを中枢として醜い姿に変えた人間を憎み、そしてクーレントだけを愛した。
かつてクーレントは、その時はまだ名前を陸子といった彼女は、愛する子供と夫を持つ妻で母で人間だった。
そして唯一無二の無風の親友でもあった。
突然、愛するものを失った彼女が人間であることすらやめてしまったことを無風が知ったのは、陸子が今のクーレントとしての姿になってからだった。
止める間もなかった。
のこされてしまった陸子は、一人で生きていることに対して自責の念すら感じていた。
そこにミリアッドの開発で中枢としてその身を捧げる存在が必要であるがその人物がいなくて研究員が困っているという話が飛び込んだ。
陸子は誰にも何の相談もせずに浮林檎のドアを叩いた。
ミリアッドの中枢として生きる事は苦しみを常に伴った。
全てのミリアッドが与えられる外的刺激の一部の痛みを一身に受けることは日々、その衝撃に耐えることだった。
痛みを共有することによって個体のミリアッドに起きる異常事態をいち早く察知する意味も含まれているが、それで未然に事件を防ぐことは稀であり、実際のところの理由としてミリアッド全個体を一か所にまとめてしまったことで生じた一番の不具合が挙げられている。
なぜ、刺激の中で他を例外とし、痛覚だけを共有しているのか、なぜクーレントが一方的に受けているのかは不具合だけに不明なのである。
それが一体どれくらいの程度伝わっているのかはクーレントだけが知っていることなのだが、それについて陸子は語ろうとしない。
無風にとって万能薬を研究することは、この事態に及ぶまで陸子に何もできなかったことに対する罪滅ぼしであり、今も自責の念に苦しんでいる陸子を救えるかもしれない手立てであった。
陸子がそのどちらも望んでいないことも既にわかっていた。
それでも何もしないでいることなどできなかった。
流れ込んでくる病も痛みも未然に防ぐことは不可能であり、せめてそれを軽減することができる薬を追い求めていた。
どんな病にも怪我に効く万能薬を作り上げる為だけに捧げた十年間であった。
そのために多くのものを犠牲にした。
一人の少年の命を弄んだとしてもやめることはなかった。
その夢が夢に過ぎなくても。
「まるで……戦う前から私が負けるような言い草だ」
「しかしっ……」
今にも泣きだしそうな顔で訴える無風の頭を五十本の触覚のうちの一つが優しく撫でた。
この戦いに勝算がないことはわかりきっていた。
クーレントはミリアッドの痛みを受けているのだから、ミリアッドに攻撃されようが攻撃しようがそれは同じことなのだ。
それをこれから攻め入ってくるミリアッド達は知らない。
正々堂々と挑んだ化け物は、見えない傷を負って身も心もボロボロの元人間なのである。
「……我が子に殺されるなら、死ぬのもありかもしれぬ」
小さく呟いて前を見据えるクーレントの姿を見て、無風は心中することを決意した。




