十二章 リンガベル
リンガベルが見上げる先には天高くのびる遮要壁の外壁が続いていた。
辻行とここで出会い全てが始まった。
リンガベルにとってここは大切な場所であった。
最初に辻行を目にした時、その死んだような光を失った虚ろな目に畏怖さえも感じた。
十年の月日で何もかも悟って、それでいて全てを拒絶している目。
養成所で優秀であったことを鼻にかけるようなリンガベルではなかったが、みなぎる自信を喪失しかねないほど、彼との生活は困難を極めていた。
ホーリィの話をする時や、命明や無風先生と話している生き生きした彼を見た時の胸の辺りでつっかえるような靄の正体を今では理解できる気がする。
そして掴まれた手と手の先に彼がいたことで、この気持ちは決定付られた。
きっと自分が気付くよりずっと前には辻行のことが好きだった。
無風遥瀬に対する警告を辻行がきいてくれなかったことは、悲しくはあったがいなくなるほどの理由ではなかった。
彼が追わぬように傷つけて去るつもりだったのに、言ってしまったのは真逆の言葉だった。
心のどこかでもう一度、もう一度彼に見つけてほしいという期待をしていたのかもしれない。彼に縋ってでも生きたいという未練だったのかもしれない。
どこまで甘い考えを持っているのだろう、リンガベルは肩を落とした。
ミリアッドとして人間である辻行に恋心を寄せることも禁忌であるが、心に留めておく分なら誰にも伝えずそこにおくのなら他人にわかるわけがなかった。
しかし、リンガベルが望んでいたのはそれよりも上であった。辻行に気持ちを伝え、その気持ちが同じであったら。ホーリィのように恋仲になれたのなら。叉瞳ではなく、恋人として手を繋いでくれたらいいのに。
その気持ちはもう抑え込める範囲を大きく超えていた。去る必要があった。
その恋が実ってしまったら、先人が培ってきた皆が生きるこの世界を根本から揺るがすことになってしまう。
人間の影として生きるミリアッドが同じ光を浴びることは、人間とミリアッドとの境をなくす。見境をなくしたミリアッドがどうなるかは想像できないが、その先の世界に人間とミリアッドが共存している世界はない。
そんな心配は杞憂かもしれない。恐らくその恋は実らない。
辻行の心にはいつもホーリィがいるのだから。
そんな理性との葛藤や、未来のミリアッドを考えて犠牲になる道を選んだなんていうのは実際のところ、真実ではなかった。
ただ、もう我慢ならないほど苦しくて仕方なかった。
嫉妬することも、ひがむことも、諦めることも、叶わぬ恋に悩むことも。全て苦しかった。
誰が。
誰が半身も片目も失った醜い私を愛してくれるのだろう。
どうしたらミリアッドとしての機能も叉瞳としての夢も失った私を私は愛せるのだろう。
片目からしか涙が出ないことに気付き、リンガベルは笑った。
地面においたアタッシュケースを開け、中から両手サイズの円盤を出した。
その中にはもうCDがセットされている。
この機械の正しい名称をリンガベルは知らない。
今やCDはミリアッドの体内に取り込んで聴く。人間はそうする。
同様にして聴くことも可能だったが、リンガベルはわざわざこの機械を店をまわって手に入れた。
ファッションとして使うヘッドフォンの正しい用途を聞いた時から、正しい使い方に憧れていた。
恰好いいとかいう小さくて単純な理由でも、せめて多い悲願の一つぐらい叶えたかった。
逝く姿を自分で選びたかった。
大きめのヘッドフォンを耳に当て、外壁にもたれかかった。
震える指で円盤型の機械の再生ボタンを押した。
それは少女が歌う美しいメロディだった、と言うことすらできなかった。
3分47秒を刻む一曲は無音できていた。
多くのミリアッドが途中で曲を停止させる所以は、流れているかすらわからない恐怖であった。
3分47秒の先で死ぬのか生き残るのかわからないまま過ごす無音の時間は生き地獄だ。
死ぬ決意をもって再生したのに、助かる希望を抱かせる、そして耐え兼ね停止を押してしまう。
恐怖に震えるリンガベルを置き去りにして、気が狂うような無音は続いた。
『一人殺した、と言ったの?』
救いを求めて必死に遡る記憶の中で古雅先生の言葉が鮮明に蘇った。
中庭で飲んだ冷たい缶コーヒー。
古雅先生は言葉を妙なところで繰り返した。
なぜ、今こんな事を思い出すのだと、思った時、大きな違和感に気付いた。
『君みたいな可愛い子を一人ぶっ殺したんでね』
あの時の辻行の言葉を勘違いしていた。
人間の全てがミリアッドのことを一体、二体と数えるわけではない。
恋人であった彼女のことを辻行は量産型の一体ではなく、特別視して一人と呼んでいてもおかしくはない。
ホーリィという名を呼ぶ辻行、古雅先生、無風先生、三人ともが彼女にレイをつけなかった。
その理由をリンガベルは知らない。
しかし、例外なく全てのミリアッドはレイを名乗るというルールに囚われていたのは自分のほうであった。
その中の誰一人、ホーリィをホーリィ・レイと呼ばなかったことを全ての所為にはできない。
リンガベル自身が知りたくも気付きたくもなかった。
ホーリィ・レイが同じミリアッドであることを。
「私は……本当に……」
カチッと小さな音がしてCDの再生が終わったことを告げた。
その時、背後からおぞましい気配を感じた。
振り向く間もなく、その影はリンガベルにしがみ付き、耳元で囁いた。
よ・う・こ・そ。
ヘッドフォンを外そうとしたが、もう遅かった。




