十章 辻行(2)
目を覚ましては、微睡んでまた寝ることを繰り返し、何度目かでようやっと意識がはっきりした時、辻行は救命救急センターのベッドの上だった。
隣には椅子に腰かけるリンガベルがいた。
微睡んでいた間もそうだった気がする。
「奇跡を起こしてくれたドクターに感謝するべきですよ、辻行」
リンガベルはそう言って微笑んだ。
彼女が手を引いて言った言葉の意味を吐きながら思い知ったことをうっすら思い出した。
全部を理解したわけではなかった。
ただ、信頼していた恩師に何かされたことだけはわかった。
注射をして十分と経たないうちに、吐き気と眩暈に襲われた。
バスルームで吐き続けている間に診療所の表の扉が開く音と閉まる音がした。
それが異常な事態であることに気付いた。
そして無風先生は戻ってくることもなく、記憶は途切れた。どういう経緯なのかは不明だが、悪い夢を見て言った言葉だと決めつけたあの時のリンガベルは何かを知っていた。
愚かな自分よりずっと。
「……あ」
酸素マスクのせいで発声した声はこもって聞こえた。
鬱陶しく思えて外そうとするとリンガベルにすかさず阻止された。
「外すときっと苦しいですよ」
「……話せ。知ってること……全部……聞かせてくれ」
困ったような顔をしたリンガベルだが意を決したように話しはじめた。
その内容に終始驚かされた。
無風先生とは十年以上の付き合いなのに初めて知ることばかりだった。
自分が陥った事態考えなければ、きっとリンガベルを疑っていただろう。
危害を加えられてやっとリンガベルの言葉を事実として受け止められるなんて酷い話であった。
初めて無風先生に出会ったのは浮林檎の中だった。
郷から出て中央都市にきた辻行には住む場所もお金もなかった。
そんな辻行に命明は浮林檎を頼ることを勧めた。
生きる為に不老不死を利用しろ、と。
浮林檎で二日間に渡るよくわからない実験や調査をしたところ、確かに不老不死であることが証明されたらしく、浮林檎は提案してきた。
浮林檎の為にその身を捧げてくれるなら、その身の一切を保障する、という言葉に頷いた日から辻行は浮林檎で暮らすことになった。
その時に主治医として紹介されたのが無風遥瀬だった。
浮林檎にきた頃の辻行は塞ぎ込んでいた。
その身と心に負った傷が癒えずにいた。そんな辻行が明るさを取り戻したのは、医者の枠を越えて世話を焼いてくれた無風先生と、ホーリィ・レイのおかげであった。
しかし、かけられた優しい言葉も、その笑みも偽りだった。
無風先生は、万能薬を作るという野望の為に利用していたモルモットだとしか自分の事を思っていなかった。
「俺は……騙されていたってことか……はは……」
もはや笑うしかなかった。
「辻行が搬送されてから二日が経ちますが、診療所に無風遥瀬は戻っていません。浪勢がいるからかもしれませんが」
「リンガベル……俺は何を信じたらいい?」
辻行はあれほど止められた酸素マスクを引きはがすように外した。
喋る度に呼吸の音が大げさに聞こえるのが耳障りだったせいでもあるが、自暴自棄にもなっていた。
「先生に裏切られていたことは……いい。裏切られたぐらいで嫌いになれるような信頼関係ではないから。だけど……俺は何を信じたらいいんだ」
「……私を信じなさい。私があなたを助ける」
即答した彼女の言葉に少し驚いた。
出会った時から今までどれほどやめてくれと言っても敬語を突き通した彼女が放った強みを込めた言葉は心の奥底にある開かずの扉をノックした。
しかし、その扉はあくことも中から応答があることもなかった。
何重にも鎖で巻かれ、その上に南京錠をかけられたかのような扉は外側からこじ開けることは到底無理なのに内側から開けることはできた。
内側から軽く押しさえすれば魔法のように鎖も南京錠も消える。
そのことを本当はわかっていた。
何度も扉をノックする音を聞かなかったふりをして扉の中で耳を塞いでいるのは紛れもなく、辻行自身であった。
扉の中で外側の世界を羨んで皮肉を吐いているくせに扉を開くことも、扉の中に誰かが入ってくることも許せない辻行がそこにはいた。
次に目を覚ました時、ベッドの脇の椅子には誰も座っていなかった。
戻ってくるだろうと思ったがその次に起きた時も、そのまた次の時もそこは空席のままだった。
入院にかかった費用も既に払われていて、書類等の手続きも既に済まされていた。
それを辻行が知ったのは、退院するにあたって迎えにきた浪勢に説明されてからだった。
呆れた医師も、憐れむ看護師達も薄情だと役目を放り投げた叉瞳を罵った。
浪勢に付き添われ、辻行は診療所ではなく積み木のような自分の家に帰った。
この期に及んでサプライズの退院祝いをされることを期待していたわけではなっかったが、大掃除した際に机においた花瓶の花が萎れていたのを見て肩を落とした。
「どうして……」
リンガベル・レイは姿を消して戻ってくることはなかった。




