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サイ・リンリ  作者: 天宮蓮
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十章 辻行

 リンガベルとの再出発に向けて、家の隅々まで掃除して、全ての段差を板を用いてバリアフリーにする作業を終え、辻行が診療所に戻ったのは日が暮れた頃だった。




「おかえり」


「ただいま、先生。リンガベルは?」


 辻行を出迎えたのは微笑む無風先生だった。






「今日はリハビリを頑張ってね、疲れて眠ってるよ」

 コートを脱ぎながら、その言葉に感じた少しの違和感を辻行は気にしないことにした。


 診療所を出た時、既にリンガベルはいなかったと思うが。

 出かけていると思い違っただけで風呂にでも入っていたのかもしれないし、出かけていたとしても、どこに行ったのか毎回聞くようなことはしたくなかった。

 叉瞳だとしても、それくらいの自由は尊重したいと考えていた。




「ところで今日、浮林檎から連絡があってね。前回の精神訓練の結果がいい数値だったようだ。当面、投薬治療だけでやってみようということになったのだよ。それ用に微調整した薬も届いているよ。今日はまだだし、さっそく投薬してみよう」


「そうなんですか? 先生のおかげですよ」


 顔を綻ばせた辻行は心からその言葉を喜んだ。


 今まで、訓練の効果も薬の効果もあまり感じていなかった。

 それを相談すると、「全てがすぐによくなるわけじゃない。治療を続けていることで未然に防げているものもある」と先生は言っていた。


 いまは血を見て暴走するかはわからないが、最近は以前より心が穏やかになったと感じていた。

 辛い事があっても自分なりに考えて答えを見つけられるようになった。昔のように歯止めがきかず、喚くようなことも少なくなった。

 その実感は嬉しい結果として返ってきた。



 先生は、浮林檎から辻行の治療の全てを任されている。

 訓練の結果は先生を通して浮林檎に報告される。

 以前からそのことは聞かされていたが、浮林檎が治療の方針を指示してきたのは今回が初めてだった。





「リンガベルの顔を見たらすぐに行きますね」


「はーい。奥のベッドはリンガベル・レイが使ってるから、診察室で待ってるよ」






 準備を始める先生の横を通って、薬棚の向こうの部屋に向かった。


 散らかった床の散乱する書類を避けて、ドアを開けるとベッドの上で横になっているリンガベルがいた。リンガベルが起きていたならきっと照れくさくて話せないことも寝顔に向かってだったら話せる気がした。



「リンガベル、ただいま。本当によく眠ってるんだな……今日、家を掃除しながら思ったんだ。俺にとっても……君にとってもここが帰る場所になればいいなって。今度こそ、きっとやり直せる」


 言葉にした先から恥ずかしくなった。柄にもないことを言って。


 もしリンガベルに直接言えたのなら、彼女は一体どんな顔をするのだろうか。





「おやすみ」


 立ち去ろうと背中を向けた辻行の手は突然、掴まれた。


「リンガベル……? 起きてたのか?」



 振り返ると、薄目を開けた状態のリンガベルの手があまりに弱弱しい力で手を辛うじて掴んでいた。

 口を動かしているのに、その声は小さすぎて聞こえなかった。


 手を握り返して、口元に耳を近づけた。



「せん……せいに……ころ……され」


「何を……言っているんだ?」


「に、げて」


 先生に殺される、逃げて。

 彼女はそういった。


 二人の中で先生という呼び名で共通して連想されるのは、無風先生のことだろう。

 しかし、無風先生に殺される覚えも、逃げる必要性も心当たりがなかった。


 辻行は、うんと頷いてその頭をそうっと撫でた。


「大丈夫。それは悪い夢だ」


 その瞬間、リンガベルは目を見開いた。

 張り裂けそうな表情をしたが、意識が遠のいたのか、再び目を閉じ、眠りについた。


 彼女の異変には気付いていた。

 様子がおかしいとも感じていた。


 しかし、悪夢にうなされて目を覚まして言った言葉なのだろうと納得した。

 でなければ、突拍子もない話だったからだ。よっぽど酷い夢を見たのだろう。


 はだけた毛布を掛けてやってから、辻行は無風先生の待つ診察室に戻った。



 薬の力を借りてでも、しがみ付けるものなら何にでもしがみついて、這い上がりたい。


 這い上がった先で手にするのはリンガベルを支えることができる強さだと辻行は信じて疑わなかった。


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