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サイ・リンリ  作者: 天宮蓮
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九章 リンガベル

 その夜、いつまで経っても眠りつくことができず、リンガベルは布団にもぐって膝を丸めていた。




 なんてことを……なんてことを……なんてことを……なんてことを私は言ったの。



 辻行の驚いた顔が忘れられない。

 「人として生まれたかった」その言葉で驚いたのは辻行だけではなく、リンガベル自身も言って気付いた本音に驚いていた。

 そして後悔の念に襲われた。自分の中に潜んでいる何者かが自分を支配していくような恐怖に見舞われたが、それもまぎれもない自分であった。言葉にしてしまったことでここ数日感じていたもやもやしていた気持ちの正体を知った。



 握られた手はそんなに大きくなかったけれど、心の底も手のひらも温かくなる魔法にかけられたようだった。手を繋いで歩く自分と、目の前の辻行が周囲にどう見られているかが気になった。

 叉瞳と担当ではなく、人間同士に……あるいは恋人に見えていないだろうか。



 名前を尋ねられた時、リンガベルは一つの賭けに出た。

 「レイ」さえ名乗らなければミリアッドではなく、一人の少女に見えるだろうか。

 そして、「レイ」を名乗らない事で辻行はどういう反応をするだろうか。


 賭けの答えを導き出したとしたら、それは負けであった。

 お茶屋の店員は「そうなんだ」とは言ってくれなかった。困ったように首をかしげただけだ。それは、リンガベルが苗字を名乗らない不思議な少女として映ったからだろうが、リンガベルにとっては大きな問題だった。


 「レイ」を名乗らなくても、人間には見えなかったのだ。

 そして折角、うまくいっていた辻行に大きな不信感を抱かせる結果となった。






 ミリアッドとして生まれ、叉瞳になるために生きてきたリンガベルはここにきて目的を失っていた。

 あれほど夢に描いていた叉瞳の姿は、サポートする為の担当にサポートされるような姿ではない。


 叉瞳になって人間に尽くし、生涯をかけて救いの手を伸べ続けたかった。

 しかし、現実はうまくいかなかった。鉄板むき出しの醜い姿になり、与えられた身体を半分失ってまで、人間の力を借りて生きている。

 辻行と字名海里に救われたものの、叉瞳として今の自分は役立たずだ。



 そんな絶望感の中で辻行に縋りつきたいだけなのかもしれない。しかし、生きる目的を失ったリンガベルにとってそれだけが自らを突き動かす力になっていた。





 八重辻行が好き。


 過ちだとしても傍にいたいほどに。




 そんな気持ちを抱える自分は酷く滑稽に思えた。

 ミリアッドが担当に恋をするなんて話は聞いたことがない。


 誰かが禁じたわけではないが、人間とミリアッドの歴史と人々の心の中に根付いている常識であった。


 先代が受け継いできた常識や決まりに真っ向から歯向かってでも突き進む勇気を到底リンガベルは持ち得なかった。

 決して叶わないし、叶ってはならない。

 ずっと人間の影として補助を続けていたミリアッドが人間と肩を並べて歩くことはこの社会の仕組みの崩壊になる。ミリアッドと人間が結ばれた時、間に存在するそれは一体何だ、という話では済まされない壁が高くそびえている。



 そうとわかっているつもりでも、もっともっとと望んでやまない。

 人間と同じように嬉しいことで笑い、悲しいことで泣き、悔しいことで怒ることができても人間ではない。



 リンガベルがミリアッドで、辻行が人間である限り、これ以上近づくことはできない。

 不老不死の力を持った辻行は朽ちない。先に朽ちるのはリンガベルのほうだ。

 それ以前に辻行が更正すればリンガベルの叉瞳としての任務は終了する。

 別れの日はくる。

 全てが無限でない限り、必ず。その後、リンガベルは別の人間をサポートして、辻行はもっと広い世界で添い遂げる人を見つける。それが当然の未来だと認めたくはない。



 ならば、何もしないべきだ。どれほど優しい言葉をかけられても心が波打つことなく、手の温もりを求めることをせず、淡々と日々を繰り返し、やるべき任務を遂行して、別れの時もそうっと身を引く。



 そんなことできるわけがない。


 もっと多くの事を語らいたい。

 辻行が今までどんな場所でどんな風に暮らしていたのか、何を考え、何に悩み、何に喜びを感じたのか知りたい。

 彼が立ち止まった時に真っ先に頼られる存在になりたい。彼の中で見え隠れする心の闇の全てを理解することができなくても、周囲で一番の理解者になりたい。

 悩みを打ち明けられれば背中をさすり、悪夢にうなされる夜はそっと頬の涙を拭う存在に。そして振り向いてほしい。

 私だけに向けた笑顔と、私だけに向けて発せられる言葉で、信愛を込めて私を呼んでほしい。




 頭に浮かぶ微笑む辻行の姿になぜか心は冷えていった。


 死んでも尚、愛されているホーリィが羨ましかった。





 その時、久しぶりに深夜の街を徘徊したい衝動に駆られた。

 この身体では遠出はできないが、家の周りをゆっくり歩くことぐらいは自力でもできる。歩きまわることよりも、外に出て夜風を吸い込むことが重要に思えた。

 そう思い立つと、行動に移すのは早かった。



 ベッドから静かにおり、一番奥の部屋から出て、散らかった部屋の床に寝袋で寝ている辻行を避け、診療所への入り口のドアに手をかけた。ドアは横にスライド式になっていて、診察室の薬棚と連動している。しかし、わずかに横にずれているドアの隙間からもれている光に気付いたリンガベルはその手をとめた。



 光の向こうには、苛立った様子で頭を掻きむしって机に向かって作業をしている無風先生の姿があった。

 リンガベルが知っている楽天家で陽気な無風先生が見せない一面だった。


 擦り切れるような危機感の迫った顔つきで見つめているのは、薬品の入ったいくつもの試験管だった。試験管に入っている液体はどれも色がなく、リンガベルにはその正体を推測することができなかった。


 しかし、同じ机の上に複数並べられている注射器には見覚えがあった。無風先生が白衣の下に忍ばせている他の注射器と識別する為か、辻行の精神訓練後の投薬治療に使う注射器は刻まれた数値のメモリの色が赤であった。赤のメモリの注射器がそこにあるもので間違いなかった。





「そこにいるのはリンガベル・レイだね」


 物々しい表情が一変して、いつもの柔らかい顔になった無風先生は椅子ごと薬棚のほうに向きなおした。隠れようとしたリンガベルはそれが無駄な事だと知り、引き戸を開けた。



「君はもっと気高い人だと思っていたよ。人の仕事を盗み見するなんて残念だな。買被りすぎたね」


 笑みを浮かべる無風先生の言い方一つ一つは毒を帯びていた。


「それは辻行に投薬しているものですね。新薬を開発しているようにはみえませんでした。それは何ですか先生」



「さあ。なんだろうね。なんだと思う? 

 君のことだ。明日にでもこっそりこの試験管でも持ち去ってこの中身がどういうものなのか調べるつもりでいるんだろう?

 でも、今の君にこれの正体がわかるような知人がいるとは到底思えない。仮にいたとしても私からどうやってこれを奪う?

 こうなった以上、明日も机にこれを置いたままにするわけがないだろう。薬棚にある膨大な薬剤から探すかい?

 それとも私が白衣を脱ぐ隙を狙うかい?

 さあ、どうするリンガベル・レイ」



「策はありません。私が思いつくようなことは先に言われてしまいました。先生は安全な薬だと言えばよかったのです。先生がそこまで言うのだからそれは辻行の為の薬とは思いません。

 先生は辻行の恩人であり、私の恩人でもあります。しかし、こんな成りでも私は辻行の叉瞳です。辻行に危害を加える存在とみなしたら例え、相手が恩人でも容赦しません。

 私のような非力な存在の為にも浪勢があるんです」



 目を離さない根競べに負けたのは無風先生だった。

 最後の言葉を聞くなり、仰け反って、額に手を当て声をあげて笑った。



「それは困る。この診療所の半分は国には認可されていないのに浪勢なんか呼ばれたらたまったもんじゃない。

 はははっ。私を二度も浪勢に突き出すなんて、とんでもない恩知らずだな、君は。脅されるなんてわかってたら夜通しで粗大ごみと化した君を治療したりしなかったのにな」


「申し訳ございません」


 深々と頭を下げるリンガベルに、一しきり笑い終えた無風先生は白衣の内側から一本の注射器を出して、カバーが外れていない事を確認してから、突き出した。




「これは君に預ける。これで満足だろう?

 好きに使うといい。いざとなったら私に使ってもいいし、伝手を頼って成分を調べてもらってもいい。それから夜道は段差も障害も気付きにくい。大人しく布団に潜って頼れそうな友人の連絡先でも思い出しなさい。おやすみ」


「……必ず役立てます。先生もあまり夜更かしされると寒さがご老体にこたえますよ。おやすみなさい」



 薬棚を元に戻し、リンガベルは決意を胸に立ち去った。


 音も立てず崩れ落ちる信頼関係の足元から敵意が芽を出した。二人の戦の火蓋は静かに切られた。










「まあ。嬉しい。それは助かりますわ」


 棗と呼ばれる女性は、リンガベルの提案に手を合わせて喜んだ。国立大図書館で働く職員に話しかけたところ、「棗に聞いてみないとなんとも」と言われ、呼ばれた先から栗色のショートヘアの女性が現れた。

 棗の後ろについていき、開けられたドアの向こうにアイランドキッチンが中央にある台所があった。


「こんな場所があるのに驚いたでしょう?

 本来は命明の為に国が設置してくれたものなのだけど、もっぱら職員の食事を作ったり、時々、小さな料理教室を開催したしますの。図書館はまめに掃除するのだけど、こっちはおざなりで。多分、こっちならいると思いますわ」



「ありがとうございます。見つけ次第、こちらで処分するので、後ほど報告だけします」



 お気に入りのボーダーのワンピースではなく、灰色のツナギを着たリンガベルは、アルミの籠を床において、右手に持っている箒でアイランドキッチンの下を掻きだし始めた。その姿を確認してから棗はドアから出て行った。




 無風先生が言うように、一晩あらゆる方面の知人を思い浮かべたが、今のリンガベルが頼れるような毒物か薬に詳しい人物はいなかった。


 最も有力な候補の人物がヴァン・レイであったが頼れるわけがなかった。

 ヴァン・レイに相談できたのなら、浪勢の中でその手に詳しい人物の一人ぐらい見つけ出して紹介してくれるかもしれなかった。


 けれど、辻行が語った話で思い出す。辻行と共に脱獄した字名海里はほぼ間違いなく、ルルーシュ・ロンを殺している。

 彼の名前は聞いたことがなく、彼の存在も辻行の話でしか知らない。どういう経緯で出会ったのかわからないが、卒業間近のヴァン・レイが「秘密」だと人差し指を立てた時、彼女の心にいたのはルルーシュ・ロンではないかとリンガベルは思っていた。

 ルルーシュ・ロンを殺した字名海里はリンガベルの手を引いた。

 それをヴァン・レイがよく思うはずがなかった。



 そうでなくても、リンガベルとヴァン・レイの友情は既に失われたようなものであった。

 彼女は、失望したといい、永遠の別れを告げた。そんな彼女に合わせる顔なんてなかった。


 ヴァン・レイはミリアッドであることを誇り、ミリアッドとしてのプライドも高い。

 そんな彼女は、醜く生きる自分のことを見てどう思うのだろう。




 次に頭に浮かんだのは、養成所に戻ることだった。

 養成所には、優秀な教授がいる。一級のミリアッドを目指す者の為に医学や薬学を教えている教授もいる。

 もちろん生徒だって。その中の一人ぐらい知人でなくても協力してくれる人物も端から当たればいるかもしれない。


 しかし、それも不可能なことだった。卒業したミリアッドは養成所には戻れない。

 卒業したミリアッドの中には学生時代を懐かしんだり、あるいは戻りたいとすら思う者もいる。


 叉瞳や浪勢になっても別の生き方をしても、人間の補助をする中で辛いことも悲しいことも多くある。あくまで人間を中心としてまわるこの国は、ミリアッドには冷たい部分もある。人生の壁に立ち止まる時、旋廻して後ろに向かって走り出すことを国は許さない。



 ミリアッドにとって人間の役に立つことは生まれてきた以上、使命である。

 当然のように全てのミリアッドは人間の役に立つことを夢見る。

 しかし、ミリアッドの人生において最も楽しく過ごせるのが養成所の学生時代だと言われている。夢の為に勉学に励み、切磋琢磨する友人や仲間もできる。周囲を囲むのがほぼ全員、同じミリアッドなのだ。


 そこには、人間との間に生まれる格差も、主従関係も、優劣もない。ミリアッドだから、ミリアッドのくせにと言われ差別されることもない。まるで人間のような学生生活を送る。


 楽しかった学生時代に戻りたいと思わなくても、卒業した校舎をみて懐かしむことすら許されていない。

 養成所の学生や職員のすべてがカードキーを持っている。学生書の役目も果たすカードは図書を借りる時も授業に出席する時も使う。養成所の入り口すべてにゲートがあり、カードを挿入しないと入る事さえできない。よって卒業と同時にカードキーを回収されてしまったリンガベルは養成所に一歩も入ることができない。





 結果、リンガベルは人を頼ることを諦めた。


 自力でなんとかするしかない。


 手に入れた注射器を自分の腕で試すことは恐ろしくてできなかった。

 これは辻行が日々、注射されているものだ。


 同じことが自分にはできないのかといえば、できない。辻行の為に命を差し出せないわけではなく、得体のしれないものを注射した結果で死にたくない。


 一度、解体されかかった命だ。諦め、棄てられた命。そして辻行に救われた命だ。

 だからこそ惜しかった。

 今、ここで死んでしまったら辻行はずっとこの薬を無風先生の手によって与え続けられる。

 死ぬわけにはいかない。



 それでも薬品の正体を知りたい。

 リンガベルが出会う前から、無風先生と辻行は恩師と患者の関係だった。

 その間も恐らく投薬され続けた。

 今のところ、辻行は異常はない。辻行は精神訓練と投薬治療を行った後に眩暈や吐き気といったわずかな体調不良を起こす。それを本人は精神訓練の副作用だと思っているが、リンガベルは投薬治療で使われる注射がまさにその原因ではないかと踏んでいる。




 昨晩の無風先生の口ぶりや、差し迫ったような表情で机に向かう姿を見てそう感じた。







 その時、冷蔵庫の下から現れ視界の隅を横切った灰色の影を捉えた。

 小さな段差に躓いて転ぶような片目を失ったものとは思えないような俊敏な動きで野良猫のように片手で灰色の足元をすくいあげた。投げ捨てた箒が床に落ちた時には、痩せたネズミはリンガベルの右手で手足をばたつかせていた。



「犠牲になって頂戴」


 ツナギのポケットから出した注射器の針をネズミの首から背中に通すように添わせた。

 メモリ一つ分を注射すると、床においた籠を引き寄せ、手放したネズミが逃げる前に籠の蓋を閉めた。



 詳しいことは知らないが、辻行は血管に注射されるのだから、ネズミにも同様に血管に注射するべきだったのかもしれない。

 人間と比べて小さな身体のネズミだ。メモリ五つ分ある内のどれくらいが適量なのかもわからない。少なすぎて何の異常も見られないかもしれないし、ネズミにとっては多すぎる量でそれ以上の効果が出てしまうかもしれない。

 ネズミに起こる異常を見て、何が起こったかを判断できる知識も持ち合せていない。





 籠と睨み合って三分もしない内にネズミは死んだ。


 多くの謎を残してネズミは痙攣を起こしたのち泡を吹いて死んだ。


「……ごめんなさい」


 籠の中で倒れるネズミに両手を合わせてから静かに立ち上がったリンガベルは天を仰いだ。

 ネズミは死んだ。

 過剰摂取の為かもしれないが、辻行に注射されているものと同じ薬でネズミは死んだ。





「生き物の命を一つ奪って何か得られましたか?」


 自分しかいなかったと思っていたのに背後から話しかけられ、おどろきのあまり、目をカッと開いてリンガベルは振り向いた。

 立っていてもなお、毛先が床についているほどの樹木のような深緑の長髪の小さな少女が見上げていた。


「ドライアド……何故」


「命明でよろしい。ここも命明の縄張りですよ。棗が許可したんでしょうが、命明はお前に害虫駆除は頼んでいませんよ」


「申し訳ございません」


 リンガベルは驚いていた。

 ドライアドと呼ばれる緑の少女は、本の山から降りないと思っていた。

 彼女はどんな時も、本の上から見下ろす。




 頭を下げるリンガベルの横をすり抜けた命明は開けた籠の中から息絶えたネズミを両手で包み引き寄せ、目を伏せた。


「そう……苦しかったんですね。もう辛くないですよ。安らかにお眠り」


 ネズミに語りかける命明はまるでネズミが死にゆくまでの痛みの全てを理解しているかのようにその体を優しく撫でた。

 命明はミリアッドではないが、人間と神の間にいるような存在だと言われている。

 人間離れしている命明には全てが見えるというのだろうか。




「リンガベル・レイはそれをどこで手に入れましたか?」


「……言えません。何が入っているんですか?」


「虫がいいこと。残りを貸しなさい」



 ふん、と鼻を鳴らして命明は籠の中にネズミを戻した。



 リンガベルが差し出した注射器を受け取ると、二滴ほど手のひらに出して顔を近づけた。

 リンガベルが無臭だと思っていたそれを命明は嗅いで嫌そうな顔をした。





「よく消毒したつもりだろうけど使いまわしたものですね。

 針だけ交換しているけど、色んな臭いが残ってるですよ。今、入っているものを含め、辿れるもののほとんどは毒物ですよ。これはエザニウムアサトキスという有毒植物の毒成分を濃縮したものです。まぁ、三滴もあれば病院にお世話になるでしょう。

 その前に入っていたのは、ロ・エリサだと思うです。これは毒というより、薬ですね。医学的に大きな一歩を踏み出すと期待されていた薬剤ですが残念ながら研究段階で失敗に終わったものです。

 その他も似たり寄ったり。

 で、これで誰を殺すつもりですか?

 あるいは誰のものを拝借したんですか?

 あなたのような一般のミリアッドが持っていたとは思えないですよ」




 眩暈を起こしそうで立っていられず、リンガベルはその場に膝から折れた。

 絞り出した声は恐怖で震えていた。




「八重辻行の……投薬に使われている……ものです」



「ああ。なるほど。では誰も死んでないですね」


 命明は驚くこともせず、代わりにうっすらと笑みを浮かべ、注射器を持ち直し、空いた右手を真っ青な顔をしているリンガベルに差し出した。





「どうしますか、リンガベル・レイ。あのヤブ医者を浪勢に突き出しますか?

 電話を貸しましょうか?」



「待って……待ってください。先生と話す時間を下さい。まだ聞かなきゃならないことがある……」


「了解しました。命明は何もしない。そうしたいなら早くお帰り」



 命明の手を借りて立ち上がったリンガベルは一礼すると、足早にキッチンを後にし、大図書館を出た。




 一刻も早く診療所に戻らなくては、と思いながら走ることができずもどかしかった。

 ネズミを捕えた時のように潜在能力を駆使すれば、走ることはできた。


 しかし、キッチンにはない段差や側溝がある。

 いくら気を張っていても片目と、思い通りにならない体では転倒しかねない。その時に手を着けるかどうかもわからない。転倒して、起き上がることに四苦八苦するよりは、先走る気持ちを抑えて歩くことの方が賢明な判断であるとリンガベルは考えた。





 頭の中でぐるぐるとまわっているのは、命明の言葉だった。


 無風先生の目的は話してみないことにはわからない。

 ただ、無風先生は辻行の治療をしているわけではなかった。

 治療するふりをして、巧みに辻行を騙して、毒物を投与し続けた。


 辻行と無風先生は、遮要壁から出て十年ぶりに再会した。

 しかし、入所する以前からの知り合いであることも、その頃も同じような治療を行っていたこともリンガベルは二人の会話から知っていた。


 十年前も同じように毒を盛っていたとは考えたくもなかった。再会してから何かのきっかけがあって毒を盛るようになったとしても同じことだ。





 無風遥瀬は八重辻行を殺そうとしている。


 辻行が不老不死であるため、どれほど毒を盛っても辻行は死ぬことがない。

 そのことを一番知っているであろう無風先生が何故、繰り返し繰り返し辻行を殺すような、普通の人間だったら死んでしまうような事をしているのかリンガベルには全くわからなかった。


 わかってたまるものか、と。何の理由があったら、自らを信頼し慕う辻行を殺すような真似ができるのだ。

 治療だと偽り、笑顔で毒を盛り続けた。





 あの場で浪勢に通報しなかったのは、納得できなくても理解できなくても本人の口から理由を聞きたかった。

 遮要壁の中で自白する言葉で初めて理由を知るだなんて辻行が認めるとは思えなかった。何かの間違いだと、先生はそんな事をしない、と辻行は否定することだろう。






 リンガベルは息を切らせ、診療所の扉を押し開けた。無風先生がリンガベルのいない間に辻行に何もしないとは限らない。

 注射器を渡したことでリンガベルは液体の正体も無風先生の正体も知ることになる。その場で通報しないことは、辻行を危険に晒していた。



「おかえり。リンガベル・レイ」


 しかし、開けた扉の向こうで無風先生はいつもと変わらない笑顔で出迎えてきた。


「辻行はッ……辻行はどこですか」


「安心するといい。彼は君らの家に戻っているよ。二人で暮らす前に大掃除をすると張り切って出て行ったからしばらくは帰らないだろうさ。その様子だと、あれを有効的に使えたようだね。話が長くなりそうだ。紅茶でも淹れようか?」



「不味い紅茶も、嘘に塗れた笑顔も結構です」


「ふふふふ……」


 腹を抱えて笑ってから無風先生の顔は一変して、昨晩、試験管を睨んでいたのと同じ目でリンガベルを睨んだ。




「まったく小生意気な餓鬼だね」


 無風先生は、待合室の長椅子に腰かけ、腕を組んでこちらを見上げた。


「そこまで大口叩くのだからあれがどういったものかぐらいはわかっているようだね?」


「ええ。注射器の中身が毎回、同じものでないことも知っています」



「おやおや。そこまでわかっているとは驚いたな。誰に渡して調べてもらったのかはわからないが、ふむ。素直に感心するよ。

 敬意を払ってどの質問にも嘘偽りなく正直に応えよう。君が信じるかは別の話だが。

 何もせずここに帰ってきたということは私に何か訊きたいことがあるのだろう?」



「いつから毒物を盛っていたんですか? 何の為に?」


「そう急かすのはよくないね。答えてやると言っているのだから一つずつに決まっているだろう。

 で、いつから……ね。最初からだよ。

 無夢を用いた精神訓練は彼には有効的な治療だったけど、それに伴い注射をする必要なんて最初からなかったのさ。彼には血を見て暴走するのを抑える薬だとか、心を落ち着かせる効果があるとか言っていたが、まさか一度も疑われないとは思っていなかったな。

 彼が壁に入った十年は手を拱いていたよ。馬鹿な事をしてくれたせいで人体実験が行えなくなってしまったからね」



「人体……実験?」



「彼と出会った時は痺れたよ。何て言ったって不老不死だ。

 何回、殺しても死なないんだからね。犠牲を用意する必要もなくなった。

 彼に毒を注射することによって彼の中で抗体が作られることも知った。死なない実験体として重宝していたが、それ以上に彼は利用できた。不老不死と言えども、病気にぐらいはかかる。

 しかし、彼は違っていたんだよ。彼の中で恐ろしいほどの強力な抗体が毎回、毒物を解毒させる。私が欲しかったのはその抗体なんだよ。

 私は万能薬が作りたいんだよ。どんな病気も治せる万能薬を。

 人を救える薬になるんだから、出来損ないの彼も役に立ってるんだよ」



 手振り身振りを添えて、誇らしげに語る無風先生に掴みかかり唾と罵声を吐きたい気持ちを必死に抑え込み、リンガベルは震えていた。



「辻行を……なんだと思ってるんですか?」



「ただの実験体だよ。

 モルモットとそう変わらない。実験体に同情したり、愛を持て、だなんて無理に決まってるだろう。

 で、ここまで知ったところで君はどうするのかい?

 今度こそ浪勢に突き出すかい?」



「今すぐ実験をやめてください。辻行に全部話して、自首してください」





「……わかったよ」


 スッと立ち上がった無風先生は、危険を察知して後ずさったリンガベルのみぞおちを下から殴り上げ、背中を丸めたところで前髪を掴み床に向かって叩きつけた。


「うッ。無風……」


 顔面から床に叩きつけられたリンガベルが起き上がろうと着いた両手を馬乗りになった無風先生がひねり上げた。



「ここでやめるわけにはいかないんだよ。たかがミリアッドの分際で思い上がるな」


 抵抗することもできず、冷たい針が自由を奪われた右腕に深々と刺さった感覚だけで絶望するには充分だった。





「おのれ……お……のれ」


 呂律が回らなくなり、思考がゆっくりになり、そして停止した。


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