八章 辻行(2)
木々が桜色に染まる土曜日の午後、無風診療所の入り口のドアを強く叩く音は、短かった逃走劇の終わりを告げた。
解体の日から二日後のことであった。
その間にリンガベルは一度も目を覚まさなかったが、診療所での日々はそれなりに穏やかなものであった。
料理下手な無風先生に代わって、先生が買ってきた材料で辻行は朝食用のクッキーやお昼ご飯にパウンドケーキを焼いた。
横から手を出す程度しか手伝わなかった海里だが、自分がかたどったクッキーが焼きあがると大喜びして、寝たままのリンガベルのところにも自慢してまわった。そのあと、紅茶を誰が淹れるかを争って大人げなく言い争った。
逃げ込んできて最初の頃は、海里はあからさまに無風先生を避けていたが、嫌な臭いを気にならなくなったのか、気にしないことにしたのか、二人は特に問題なく、親しくなっていた。
医者と子供というよりは、全員が子供のように診療所の奥の部屋が防音に優れていることをいいことに昼夜問わず騒いだ。
騒いだほうがリンガベルも目覚めた時に楽しい気分になる、と海里は心配そうな辻行に言った。
「リンガベル・レイのところに隠れてなさい」
声を潜めて言う無風先生だったが、それまで中間の部屋にいた二人は、診療所へのドアに向かって歩いた。
「その必要はないです、先生。これからきっと迷惑をかけます。今まで、ありがとうございます。僕ら、見つかったら降服することに決めているんです」
「医者、感謝するよ」
ドアから出る二人の後を無風先生がついてきた。
「それなら私も行こう。この病院は私のだよ。私がいなかったら浪勢は隠し部屋まで探してしまうだろうよ。隠し部屋が見つかってしまったら、私も研究を晒されて困るし、リンガベル・レイを浪勢に渡してしまったら何をされるかわからない」
そして鍵をかけたドアを薬棚でふさぎ、三人は診療所の玄関の扉をあけた。扉を開けるや否、ヴァン・レイを先頭に十数人の浪勢達が押し入ってきた。
「リンガベル・レイを探せ」
ヴァン・レイは半数の浪勢に指示を出してから、残りの浪勢によって待合室の中央に追いやられて羽交い絞めにされた三人の元へ歩み寄ってきた。
「久しいな、八重辻行」
「随分と、人様の家で好き勝手やってくれるじゃないの」
「黙れ。貴様には話していない」
無風先生の言葉を遮ったヴァン・レイの目元が赤くはれているのに辻行は気付いた。
やはり、ルルーシュ・ロンは海里に殺されたのだ。
冷酷で残忍なヴァン・レイが変わり果てたルルーシュ・ロンを目にして泣き叫ぶ姿が頭をよぎって心が痛んだ。
「貴様のその目。気に食わない。私はお前らを許さない」
それは拒絶の言葉だった。
辻行は薄々気づいていた。
ヴァン・レイにどういう意図があったのかはわからないが、リンガベルが解体されることを告げたのは、単に何もできない状況の辻行を責める為だけではなかった。
だからこそ、解体の正確な日にちまで教えたのだ。ヴァン・レイは、見ものにして面白がっていたのかもしれないし、辻行の味方をしてくれていたのかもしれない。あの時のヴァン・レイの行為は、リンガベルを助けろ言ったようにもとれる。
しかし、辻行が逃げる過程で同輩のルルーシュ・ロンは死んだ。
もし、ヴァン・レイが少しでも辻行の味方であったのなら、きっと味方をしたことを後悔し、己も辻行も責めたはずだ。
「まさかこの程度の人数で僕を捕えられるなんて思っていないよね?」
ヴァン・レイは一瞬、殺気のこもった目で海里を睨みつけたが、次の瞬間にはいつもの何の感情も読み取れない氷のような目になった。
「私はウドの大木のような馬鹿なあれのように仲間を無駄死にはさせない。この場で同じようにクーレントに殺されて堪るものか。そうでなければ、お前等なんて虫けらのように握り潰してくれる」
「クーレント。クーレント・レイチャムパロキロンのことか?」
「白々しいぞ、八重辻行。クーレントに何を言ったのか知らないが、奴の命令のせいで浪勢が無抵抗のまま互いに銃口を向け合って殺し合ったのだ。何をしたのか、わかったうえでそんな口を利くのなら、私は容赦しないぞ」
あの時、海里は何が起こったかわからないと言ったが、辻行はあの光景も海里の何らかの力が働いたもので、海里は知らないふりをしていると思い込んでいた。
海里が何かをしたのだ、と。
辻行は何もしていないのだから。
しかし、そこに働いていたのはクーレント・レイチャムパロキロンの力であった。それがわかった今でも、心当たりが全くない。
クーレントは、ミリアッドのベースであって彼らの脳である。
そんなことはこの国に生まれてきた者であれば全員が当然のように知っている事実だ。
クーレントの命令にはミリアッド達は逆らうことができない。
ミリアッド達も、ミリアッドを操作されて支配されること恐れるはずの人間達でさえクーレントを脅威としないのは、クーレントが何者より国に忠実な生き物であるからである。教科書の挿絵ですら見た事がないが、クーレントには意思も感情も存在するらしい。
それでも彼女の信頼はあつかった。ミリアッドが作られ、今に至るまでの間、たった一度でもクーレントはその信頼を裏切ることはなかった。
そんなクーレントが絶対絶命の危機に陥った二人を助ける為に浪勢を犠牲にした。
辻行にも海里にもクーレントとの接点はない。
あるとするならば、その先で救われることになったリンガベルである。
彼女はミリアッドの一人である。辻行にとって大事な存在であるリンガベルだが、クーレントが浪勢達を犠牲にしてまでたった一人のミリアッドを助けたのは考えにくい。
「お前等を引き摺って壁に放り込みたいところだが、何がクーレントの地雷かわからない以上、下手に動くことはできまい。同意したうえで一緒にきてもらおうか」
「そこまで言われて大人しくお縄にかかる馬鹿がどこにいるんだ」
その言葉は想定していたらしく、ヴァン・レイは痛々しい顔のまま、高らかに笑った。
「八重辻行、お前と交渉する為に私は寄越されたのだ。リンガベル・レイをどう隠したとしても見つけるまでにそう時間はかかるまい。見つからないとしてもあれだけの傷を負ったリンガベル・レイが自力で逃げることはできないだろう。介抱する医者も必要だろう。
自分を匿ってくれたお優しい恩師が罪に問われて、何年も網羅拾に苦しむ日々を送ることになってもお前は少しも心が痛まないのか?
悪い話ではないはずだ。字名海里をこちらにくるように説得するのなら、お前とそこの女と隠れているリンガベル・レイの罪の一切をとわないと政府は言っている」
横に立っている海里は眉一つ動かさなかったが、辻行はその言葉だけで充分すぎるほどに狼狽えた。
リンガベルと出会ったのは、海里より前であるし、無風先生とは中央都市にきてからの付き合いだ。
海里と過ごした年月も情も浅い。
共に逃げて、共にリンガベルを救い、たった数日楽しく過ごしただけだ。
海里の両親の話もした。
しかし、意見の食い違いや、衝突がなかったわけではない。
海里は殺人鬼だ。同情の余地のない。それでもいい友達になれると思ったんだ。
「お前等の罪は軽いものではない。国のセキュリティも国民の安全も崩壊させた。それでも政府は、息をするように人を殺す殺人鬼がこれから起こす事件を未然に防ぎ、犠牲者をこれ以上増やさない為なら、お前等を無罪放免してやることのほうが負うリスクが低いと判断された。せいぜい政府に感謝することだな。
聞くまでもないが、どうするつもりだ、八重辻行」
リンガベルを探していた浪勢達も探す手を動かす足をとめ、辻行の決断に注目した。
診療所の全ての音が奪われたように静寂が辺りをつつんだ。
黙っていた辻行が沈黙を破った。
「字名。犠牲になってくれ」
その言葉に海里は驚きもせずに頷いて静かに微笑んだ。
「それが正解だよ。辻行」
羽交い絞めにしていた手が離された海里は自分の足で歩いて、ヴァン・レイの元へ行った。
すぐさまヴァン・レイの両隣に立っていた浪勢が海里を拘束した。
手枷をかけた腕ごと身体を縄で締め上げた。
「壁に入る事がこんなに悲しかったことはなかったな……。辻行。今度は壁の外で出会おう」
海里はもう振り向かなかった。
「撤収」
ヴァン・レイの一言で浪勢達は捜索をやめた。
薬棚から手を離した浪勢も含め、全員が診療所を去った。
ようやっと両手の自由を取り戻した辻行はその場に崩れた。
「くそ……畜生、畜生っ、畜生っ」
床を殴り続けるその手を無風先生は静かに掴み、動かせないように捩じり上げた。
「無駄な事はやめなさい」




