八章 無風
無風はクーレントを責める為に、彼女の住む浮林檎の地下室を訪れた。
しかし、クーレントを監視している研究員の話を聞いて血相を変えて駆け、何重にも重なっている扉をあけた先で、研究員の言葉の通りただならぬことが起こっていることを知った。
「ガァアアアアアア……」
彼女の呻き声は地下室にこだまし、地下室全体が軋んで揺れていた。
天井からバラバラとはがれて落ちてくるタイルを避けながら無風は声を張り上げた。
「クーレント! 落ち着きなさい!」
研究員の話によると、彼女の様子がおかしくなったのは昨日の昼過ぎからだという。
外部から攻撃を加える者などいるはずがないのに突然、クーレントは歯ぎしりをはじめ、徐々にそれは悪化し、今に至るという。
きっかけがなにかは研究員にもわからず、彼女はそれを語ろうとしない。
それ以前の彼女の様子としては、目を閉じて瞑想のようなものをしているだけであったと研究員は証言するが、眠らない彼女でも目を閉じることはあるし、考え込むこともある。
いつもの様子として変だとは思えない。
「クーレント…………陸子っ!」
その名を口にした途端、風を切って伸びてきた長い腕が無風の首を掴み、身体ごとすくってそのまま壁に叩きつけた。
「その名を口にするなぁぁ……黙れ。無風。耳障りだ」
「ぐっ、う」
低い声で吐き捨て、呼吸ができずにもがく無風を床に放り投げた。
受け身をとれず、背中を強打した無風は痛みに耐え、うずくまった。
見上げても暗闇の向こうにいるクーレントの姿は見えなかった。
それでも腕を床に叩きつけて動けない足の代わりに地団駄を踏んでいる音は聞こえて、クーレントが自暴自棄になっているのはわかった。
その原因に全く心当たりがないはずはなかった。
そのことについて彼女を責めたてにきたのだから。
買い出しに市場に出ると、そこで道行くミリアッド達の話が聞こえた。昨日、クーレントが一部のミリアッドに命令を下したと。
そして浮林檎の付近で三十四人のミリアッドと一人の人間が互いに撃ち合い死んだことに関係があるのではないかと。どうもそのようなことを話していた。
無風が知る中でも、クーレントがミリアッドに命令を下すことはなかった。
自らの声にはミリアッド達が逆らえないことを知っていたクーレントは駒のようにミリアッド達を扱うことを嫌っていた。
彼女は研究員たちよりもずっとミリアッドのことを愛している。
時に我が子とすら言う。
そんな彼女があろうことか我が子を利用して我が子を殺させた。
「クーレント……」
死んだミリアッド達はいずれも浪勢であり、そして二人の少年を追っていたという。
まぎれもなく昨晩、診療所にやってきた八重辻行達のことだろう。
無風は立ち上がり、白衣の内側から注射器を出して左右の手に一本ずつ持ち直した。
巨大なクーレントに対してこの鎮静剤の量と強さでは足りないだろう。
これを打ったからといって彼女の苦しみを取り除いたり、この興奮状態を抑えることはできない。
蚊に刺されたぐらいの痛みを与えるだけかもしれないが、何もせずにいられるはずがなかった。
こんなことでは、リンガベル・レイに鎮痛剤なんて使うんじゃなかった。
無風は闇に向かって走り出した。




