六章 リンガベル
パチンッと心の中で何かがはじける音がして、リンガベルは空を見上げた。
空を見上げたところで頭上に広がるのは微塵切りの一部でしかない。
微塵切りは、機械としては大きめに作られている。上下、左右に開閉式の扉の口を今は開けている。
養成所で教えられた音の正体は知っていた。
しかし、その音を聞くのは生まれて初めてだった。
全てのミリアッドは、誰一人として例外なくクーレント・レイチャムパロキロンという巨大な脳の元にある。
養成所でその事実を知った時は、震えがしばらくとまらなかった。
ミリアッド達は、クーレントの複製に過ぎない。
クーレントをベースにしてミリアッドが作られる。多種多様なミリアッド達にもはやクーレントの面影はないという。
しかし、最初に作られたミリアッド達は似ていたらしいが。ミリアッド達はクーレントと会うことなく生涯を終える。
会う必要はないし、望んで会えるような人物でもない。
ミリアッドの全てを司る大脳を持つクーレントは害のないものだと聞いていた。
クーレントが右と言えば、ミリアッド全員が右を向くぐらいの力を持っている。
しかし、リンガベルが今日まで生きていてクーレントが大小問わず、そのような命令を下したことはない。
そう、さっきまでは。
大脳のクーレントにどれくらいのことができるのかは計り知れないが、クーレントを通して全てのミリアッドに共通するものの一つはこの音だ。
クーレント事態はどうだかはわからないが、ミリアッド達が直接つながっていたり、心の中で交信をしたり、他のミリアッドの痛みや喜びを共有したりすることは一切できない。
しかし、防衛本能なのか、他のミリアッドにクーレントの命令が下った時に小さなシャボン玉がはじけるような音がする。
どこかで何かが起こっている。
クーレントがどこかでミリアッドに命令を下した。
シャボン玉のはじけるような音は小さくても確かに聞こえたが、それだけではどんな命令を下されたのかまではわからない。あるいは、下されたミリアッドだけと、クーレント本人にはわかったのかもしれないが。
しかし、何が起こってもリンガベルのリンガベルとしての未来は変わらない。
開閉式の扉はリンガベルの頭上辺りから、足元まで広がっている。
リンガベルの体重を支えているのは足元の鉄板一枚である。
その一枚は、外部からの信号を受けると後方に引かれ、リンガベルが前方に落下するという仕組みである。鉄板一枚の大きさは、幅がそろえた足一つ分。長さが3m。後方に引かれる速さが相当遅くない限り、引かれた鉄板にしがみ着くのは不可能である。
病院から浮林檎の微塵切りの前まで先導した番人と呼ばれていた人物はとても親切にしてくれた。
挨拶を交わし、「おいしいものは食べましたか?」と尋ねてきた。
リンガベルは横に首を振ると、ポケットからフィルムに包まれた飴玉を一つ差し出した。
「浮林檎につくまで舐めていなさい」
と言って笑いかけた。
番人は女性でどうやらミリアッドではなく、人間のようだった。
もっとお大勢がやってきて、リンガベルを拘束して連れていくのかと思ったら、現れたのは番人と、一言も話さないレイチャムの二人だけだった。
逃げるつもりがないのは、リンガベルも解体されるミリアッド達も同じらしかった。
リンガベルは微塵切りを見上げる。
解体されるのは自らが至らなかった為である。
仕方がないのだ。
ずっと夢見ていた。
叉瞳として傷付いた人間の補助をしながら何かしらの救いになりたかった。
その為に努力をしてきた。
そしてはれて叉瞳になり、担当につき重要な任務を与えられた。
そこで八重辻行と出会った。
十年もの月日で目の輝きを失った少年。辻行に傷付けられた出来事も多かった。きっとその分、自分も辻行を傷付けていた。毎日は楽しくはなかった。悩む事も悲しむ事がほとんどだった。それでも毎日必死で生きた。もがいてもがいて、それでも辻行と生きた。
そして、辻行を裏切った。
その結果が、今の現実だ。
駄目だった。
努力してきたつもりだったけれど、目的を失い、やり方を間違えた。
辻行を救うつもりが、利己心で貶めた。
辻行は壁に戻され、そして私は解体される。
最期の時がこんなにも穏やかだとは思わなかった。
解体された先で新しいミリアッドとして生まれ変わった私は今度こそ過ちを繰り返さず、その先で出会った人間を助けることができるだろうか。
記憶は引き継がれない。
叉瞳は目指さないかもしれない。それでも意志が、心が残っているならもう一度、同じ夢を目指してほしい。
そんな未来を信じたい。
ねぇ。私。
どこで間違ったの?
「……何故」
瞳から零れた水滴が頬を伝った。
解体されることは悲しい事ではない。
その先で新しい自分に生まれ変わり、やり直せるのだから。
それでも。
「リンガベルッ!」
振り向いた。
鉄柵を越え、駆けてくる辻行の姿がそこにはあった。
「辻行ッ! 嫌っ、解体されたくない!」
走り出そうとして踏み込んだ右足が宙に浮いた。
足元の鉄板はそこにはもう存在していなかった。
伸ばした手は空を掴み、リンガベルは背中から落下した。




