六章 辻行
「おはよう。八重辻行。気分はいかが?」
眼鏡をかけた白衣の三十歳前後の男性が穏やかな口調で話しかけてきた。
どこから情報が漏れたのか、部屋には辻行が聴きなれた音楽が調度いい音量で流れ、窓からは光が差し込む。植物の香りと、水のせせらぎが聞こえる。
「何か食べたいものはある? 可能であれば何でも用意するよ。それとも音楽を変えようか」
ここはどこだろう。
心が不思議と落ち着いて、安らぐ。
こんな幸福な気持ちを味わったのは、どれくらいぶりだろう。
辻行は、天井の小窓から差し込む朝日に顔をほころばせた。
気持ちのいい朝日だ……朝日?
朝日だと?
「あれから何日経ったんですか! 今日は、何日ですか!」
辻行は、柔らかい毛布を放って飛び起きた。
眼鏡の男の白衣を掴んだ。
こういう状況に慣れているのだろう。男は、少し驚いてから腕時計を確認して、静かに言った。
「ここに運ばれてから一晩。刑が執行されたのは昨日だよ。一戒はクリアしたよ」
「昨日……」
愕然とした。ヴァン・レイに言われた日から数えて、リンガベルが解体されるのは二日後。
「今、何時ですか!」
「ん。十一時だよ。午前十一時」
三日後というのは、何も三日目の0時をまわった瞬間を意味するわけではない。
三日目のどこかでリンガベルは解体される。
それは、夕方かもしれないし、早朝かもしれない。
そこまでをヴァン・レイは教えてはくれなかった。
二日目の今が既にほとんど正午であるということは、リンガベルが解体されるまで実際の時間は一日もない。
それなのにまだ二十四戒の内、一戒しかクリアしていない。
あと、二十三戒を一日でクリアするなんて、不可能だ。
「あっ、どこに行くんだ。無理をするな、まだ精神が回復したわけじゃないんだ」
「そんな! 時間がないんです! こんなところにいる場合じゃないっ」
ベッドから降り、部屋を出ようとしたが当然、鍵がかかっていた。
後ろから眼鏡の男が追ってきた。
「開けてください! 今すぐ監守を呼んでください、刑の執行を受けると俺が言ってるって伝えてください!」
「馬鹿な真似はよせ。そんな状態で刑の執行は許可できない。落ち着きなさい」
「構わないです! 執行してください!」
暴れる辻行を必死におさえつけていた眼鏡の男はいきなり大声を上げた。
「いい加減にしろ!」
驚いて言葉を失う辻行の肩を強く掴んだ。
「刑の執行はできない。
君に会いたいと言って昨日から待っている受刑者を別室で待たせてある。
何に焦っているのか何に追われているのか俺にはわからないが一刻も早くここから出たいのなら、しっかり回復を待ってそれから一戒一戒を受けるしかない。
毎日をがんばるしかないんだよ。
あいつが君に何を話したいのか聞いてはないけれど、ずっと待っている人がいるんだから行ってやってくれ。
牢にはまだ戻れる状態にないけれど、別室で話をするぐらいなら許可できる」
彼の言った言葉は辻行を冷静にさせたが、同時に失望させた。
どうすることもできないのか。
リンガベルが解体されるのをここで待つしかないのか。
眼鏡の男が人を呼び、やがてやってきた監守によってふたたび手錠をかけられた辻行は、部屋を出て同じ廊下にある部屋に通された。
「何かあったら呼べ。部屋の外で立っているから。
あいつが何かしようとしたらすぐだ。
わかったな、入れ」
監守は脅すと、ドアをあけて辻行の背中をおした。
監守が警戒するのも、辻行の身を案じているのに部屋に入りたがらない理由も部屋で待つ人物を見た時、理解した。
本来は、受刑者ではなく壁の外からくる訪問者の為に用意された客間らしく、低いテーブルに向かいあっておいてある黒いソファに深々と座り、白いマッシュヘアの少年はこっちにきて座れ、と手招きして微笑んだ。
辻行を待っていたのは、最速出所の人外と壁の皆に呼ばれる殺人鬼、字名海里だった。
「座ってくれないか。それから自己紹介をしよう」
辻行は、驚きを隠せないまま海里の正面のソファに浅く腰かけた。
字名海里の事を知らない者はここにはいない。
それでも、彼のような別の世界を生きている人間と交わる日がくることを想定していなかった。
海里は残酷なほどに平和主義なこの国で壁を恐れない唯一の殺人鬼なのだ。
「僕の名前は知っているだろう。字名海里だ。
君は八重辻行君。もちろん、君のことを知っているから僕は君の事を一晩も待ち続けていたんだよ。
へえ。しかし、君のことは初めて見るよ。素敵な黒髪だ」
海里が口にする一言一言がそれぞれ他意を持っているようで気味の悪さを感じた。
字名海里のことは知っていた。
十年間、遮要壁にいて幾度となく彼が出所と入所を繰り返しているところを人伝いに耳にしていた。
その話、一つにしても彼の異常性をはかることはできる。
海里が起こすのは、軽犯罪ではない。
殺人罪に問われてここにやってくる。
それにも関わらず、最速で出所する。
精神の強弱に関係なく、刑の執行は一日二戒以上は不可能だと言われている。
それは規則でも平均でもない。
ただ、一日で二戒以上を受けると大抵の人間は正常な精神状態を保つことができないであろうという憶測である。
精神攻撃を受けてその日に治癒処置が終わることもほとんどの場合はない。精神攻撃を受け、その回復に一日かかる人もいれば、一週間以上かかる人ももっとかかる人もいる。
それだけの精神負荷を与えているのだから。
しかし、字名海里は刑を連続で受ける。
それでも化け物だと言われているのに、彼はその後の治癒処置を全て拒否している。
治癒処置に要する時間さえも彼は刑の執行にあてる。
刑が終わった日でさえも、何事もなかったかのように食事をしている。
遮要壁には食堂がある。
基本的に二十四時間やっていて、許可が下りれば好きな時間に行くことができる。
壁の中で食事の時間は睡眠の時間と同じく、自らが決めることができる。
いつでも食べていい、という感覚よりは食べられる時にはいつでも食べていい、といったほうが正しい。
牢の中に響く、刑執行の泣き声、叫び声が食堂に限って聞こえないわけがない。
食欲も失せるような環境下で受刑者は生きる為に食事を無理やり胃に詰め込む。
十年の間、辻行も食堂の中で何度か海里を見かけたことがある。
海里がくると食堂の空気が変わる。
叫び声の中で誰もが耐え、無理して一口一口をまともに噛まず飲み込んでいる中、海里は頬を押さえ「おいしい」ともらし、時折笑みさえ浮かべて食べているのだ。
「……一晩も待って、俺に何の用だ」
「おお。驚いた。自己紹介をしたうえで、容姿についてべた褒めしたつもりだったんだけど。どっちも無視されたときた。あはは」
そう言い、海里はのけぞって笑った。
「僕の牢は君の二つ隣でね。ヴァン・レイとの話が筒抜けだったんだよ。
いいなぁ。ヴァン・レイはいつも僕のところにはこないんだ。
君の叉瞳が微塵切りにかけられるんだってね。微塵切りは痛くて辛いだろうなあ。生きたまま四股千切られるんだから」
「俺に殴られたくてそれを言いに来たのか?
監守は外だ。物音を聞いて、ドアをあける時間があればその細い腕ぐらいへし折れる自信がある」
「わあお。僕が今まで何人殺してきたかわかって言っているなら、君は恐れってものを知らないのかな。腕をへし折られるのは君のほうだよ。何十年生きようが君の体は僕とそう変わらない十四歳なのだからね。
だけど早々に監守を呼ばれかねないから僕は本題へ移るよ」
敵意をむき出しにしている辻行の目の前に、海里は笑顔で手を差し伸べた。
「一緒に脱獄しよう。八重辻行」
「……何の真似だ。ヴァン・レイの話を聞いて同情してやったつもりか?」
「僕の良心に期待するなんて愚かだよ。僕の動機なんてどうでもいいことでしょう? 八重辻行。君には僕の手を取る以外に選択肢なんかないんだよね」
差し出された手を払いのけた手で、胸ぐらを掴んだ。
「よろしく」
「へへへ。改まって言われると照れちゃうね」
逃げる為の作戦などなかった。
作戦を練る時間も、逃げる隙をうかがっている時間もなかった。
話しこむには時間がかかりすぎると思った監守がドアをあけた時に既に二人は部屋にいなかった。
海里がこの部屋を指定したのは、この部屋から逃げられる隙がいくつもあったからだった。
あらかじめ下調べをしていたらしくよじ登った通気口を抜けると、容易に五つあるゲートのところへ行くことができた。
遮要壁が誇るのはそこからのセキュリティの高さだ。
ゲートにたどり着くことはその気になれば、受刑者の誰にもできる。
遮要壁は、それを既に想定している。
ゲートのセキュリティに自信があるからこそ、そこまでの道のりを抜け出すことを甘んじて許している。
むしろゲートを通れるものなら、通ってみろと言っているのだ。
「ここまで準備しておいて手段がないなんて今更言わないだろうな?」
正規の方法で出るならば緑色をしている光線は浴びる前から非常事態の赤色をしている。
壁内にはサイレンが響く。
ホーリィの最期の日を思い出させる。
「もちろんだよ。十年間、何もせずボーっと過ごしてた君と一緒にしてくれちゃ困っちゃうな」
軽くたたいた壁から現れたタッチパネルを素早く操作してから、海里は懐から出したカードキーをスライドさせた。
3mごとに並ぶゲートは魔法にでもかかったかのように次々と開いていった。
「何をしたら……こうなるんだよ」
遮要壁が、この国が誇るセキュリティをいとも簡単に破ったことにもたいして驚きもせず、海里は辻行の手を取った。
こうして二人の十四歳の少年は脱獄した。
この行為が国を揺るがそうが、自らの罪がより重くなるだろうが、いつかは必ず捕まろうが、そんなことは今の辻行にとってはどうでもよかった。
リンガベルを救えるなら、解体を防げるのならそのあと、さらに罪に問われて、二度と青空を拝めなくなっても構わなかった。
柔らかな木屑でできた人工ブロックの道を二人でひたすら走った。
リンガベルと出会った日に互いに互いを疑いながらゆっくり歩いた道を息が続く限り走った。
リンガベルと傷つけあいながらも過ごしてきた日々は無駄ではなかったと辻行は思った。
心臓が破裂しそうな痛みを伴っても、脚が震えるほど疲れても、走ることをやめたくはない。
リンガベルを失いたくない。
その気持ちがこんなにも足を動かしてくれていることも、折れそうな心をつなぎとめてくれていることも辻行は確かに感じていた。
リンガベル・レイ。
君がそうは思わなくても、俺は君に出会えてよかった。
「さっきの、カードキーは誰の、だ?」
「ルルーシュ・ロンのだ、よ」
その名前はよく知っていた。ヴァン・レイが壁の中を徘徊する際に、受刑者を罵りはじめるとどこからともなく、駆け付けてくるのがルルーシュ・ロンだ。
罵り始めるとヴァン・レイは自分が飽きるか、ルルーシュ・ロンが止めるまで言葉の暴力をやめない。
ヴァン・レイは、人間を含む浪勢の中で上位に立っている。
浪勢に所属するミリアッドの中では最高位である。
だからこそ、壁で人間を罵ることも許されている。
許可されているというよりは、ヴァン・レイに逆らえるような権力者が遮要壁には多くいない。
そんなヴァン・レイをとめることができる壁の中の権力者の一人がルルーシュ・ロンだ。
ルルーシュ・ロンのことについて詳細を知っている者は少ない。
普段、何をしているのかよくわかっていない。
ただ物腰柔らかな彼こそが、実は精神鑑定装置を操作しているのではないかという噂が絶えない。
そんなルルーシュ・ロンのカードキーを指に挟んでチラつかせている海里はやはり化け物だと辻行は思った。
彼のカードキーがここにある以上、彼の身の上には間違いなく何かがあった。
そこまで海里は語ろうとしないし、聞きたくもなかった。
ルルーシュ・ロンは、壁の中にいる人物にしてはかなり良心的なパロキロンであったからだ。
片道三十二分の中央都市への一本道を十分と少しで走り抜けた。
目指す浮林檎は、中央都市をはさんで北方に位置する。
「都市の人ごみの中を走るのか?」
辻行が立ち止まって、振り返ると海里は口角をあげて足元を見下ろした。
「役人達や、怠けることしか知らない金持ち共が中央都市から四方に分布する地区に行くためにどうやって道のりを短縮するか知ってる? この地下に道がある」
なるほどな、と合点した。
空飛ぶ乗り物や、鳥のようなミリアッドは空にいないが、代わりに地下を使う移動手段が発達したのかと。
辻行が壁に入る前にそれらは存在しなかった。
海里に言われなければずっと知らないままだったのだろう。
中央都市の門をくぐり、門のすぐ傍にある民家のドアを迷いなく開けた。
その民家の装いをした空間には、地下へと続く、ベルトコンベア状の階段が続いていた。
「こんな場所があるなんて知らなかったな」
「無理はないと思う。二、三年前に作られたんだ。あとは居眠りでもしていれば浮林檎側に着くよ」
そう言って、地下に向かって進んでいくベルトコンベアの一枚に海里は腰を下ろした。
生まれて初めて目にする別世界のような画期的な空間にしばらく見とれていた辻行だが、地下に潜ってしばらく進んだところでさすがに疲労感に耐えきれず、海里と同じコンベアの上に座り込んだ。
すごい空間だなと初めて中央都市に感心した。
大きく四つのレーンベルトコンベアが隣同士になってそれぞれの方向へとやがて枝分かれする。
「字名。最速出所のお前ならわざわざ脱獄しなくてもよかったんじゃないか?」
腕を組み、目を閉じたまま字名海里はうなった。
本当に脱獄中に居眠りをするつもりらしかった。
「海里でいいのに。
おかしなことを聞くんだね、辻行は……。
そうだね。あそこの生活にはそろそろ飽きていたんだ」
「何度も入って知っているはずだ。あそこは面白い場所じゃない。何故、懲りずに戻る?」
「懲りずに、ね。
辻行は、殺人鬼の人生論を聞きたいのかい? 話したところで何も得ないよ。
僕は正当化してほしいとも理解してほしいとも望まないよ。望んだところでどちらも叶えられないけれど。
僕の中のものさしと君の中にあるものさしが違うっていうだけど話だよ。
それとも、僕が殺人を繰り返すほどの同情の余地や壮絶な過去を探してくれているのなら、諦めるべきだよ。
僕に、そんなものはない。話すほどの昔話は持ち合わせていないよ」
ふうっと大きく息を吐いて、海里は立ち上がり、手を差し出した。
「君を選んだのは何も特別ひかれるものがあったわけじゃない。逃げて見たい気分になった時に、一緒に逃げてくれそうな人を探していた。
僕の何も理解しなくていいよ、辻行。君と話してみて、僕は君が気に入った。
どこまでも行こう、辻行。さあ。そろそろ出口だよ」
「俺は、どこまでも逃げ切れるなんて思ってない。字名に聞きたいことはいくつもあるが、語らっている時間もなさそうだから一つだけ。
……何故、浪勢が追ってこない?」
「それは僕の計らいではないよ。浪勢の力は巨大だ。
……どこかで待っているのかもしれないね」
それを確かめるまでもなかった。
地上に出た階段式のコンベアの先では浪勢の集団が待ち構えていた。
返り討ちにして剣を奪い、二十人を容易に超す、群れに果敢に立ち向かうなんて真似ができるわけがなかった。
いかにも指揮官だと言わんばかりに仁王立ちしている大男以外、全員がこちらに銃口を向けていた。
拳銃について詳しくない辻行でもそれが散弾銃の類だということは理解できた。
どうやら打たれて頭が吹っ飛ぶぐらいで許してくれるつもりはないらしい。
出口を囲って半円に整列する数の弾をどうやったら避ける術があるのだろう。
そうか。
一般市民には縁遠いが、いざとなれば浪勢は拳銃も使うのか。
何も馬鹿正直に体一つで戦う理由はない。
「さて。字名。この事態はどうしてくれようか」
「これは参ったね。ルルーシュ・ロンをもっと脅せばよかったなぁ。浪勢の短銃で二、三発撃たれたことはあるけど、さすがにこれはねぇ……。
逃げろ、とも言えないや。まことに参った。はは。お手上げだよ。浅はかだった。僕が。
ごめんね、辻行」
両手を挙げて無意味な降参をした海里は微笑んだ。
「じゃあ、一緒に死のうか」
懺悔も命乞いもさせずに大男は手刀を前方に振った。
「撃てッ」
しかし、銃口から発射された銃弾はたった一個も二人の元には届きはしなかった。
全ての銃口は引き金を引く直前で天井に向けられた。
事の事態を理解できないのは、二人も大男も浪勢達も同じのようであった。
「なんっ……」
周囲を見回そうとした大男の額を真隣にいた浪勢の一人が腰にあった短銃で撃ち抜いた。
大男の脳みそが飛沫をあげて爆ぜた。
「走れッ」
茫然と立ち尽くす辻行の手を素早く引いて海里は駆け出した。
「何が、何が起こってるんだっ」
「わからない! 本当に心当たりがないんだっ」
わけもわからず二人は駆けた。
背後で一斉にいくつもの銃声が響き、飛び散った何かが地面を滑る音と、断末魔が聞こえた。




