一章 リンガベル
名を呼ぶ声に、リンガベル・レイは半歩さげた右足を軸にして体ごと振り返った。
そして、心の中でため息をついた。
追いかけてくる妹分のレナベル・レイを鬱陶しく思ったわけではない。自分の悪い癖がまた出てしまっていることに呆れたのだ。
振り返るためにわざわざ足を半歩さげるのは浪勢ぐらいのものだとレナベルに指摘されたのは随分と前のことだ。それまで自分の動作に浪勢の要素が含まれていたことにリンガベルは気付かなかった。
レナベルと出会う以前に、リンガベルによくしてくれたヴァン・レイは浪勢に入り、第一線で活躍して、日々この国の治安を守っている。ヴァンはきっと自分の後を追ってリンガベルも浪勢に入ることを期待して教えたのかもしれないな、と複雑な気持ちになった。
「リンガベル・レイっ、どこ行ってたのぉ」
自らに呆れた次にレナベルに呆れて今度は心の中でなく、本当にため息をついた。
「その話し方は適切ではありませんよ、レナベル・レイ。明日から私なしであなたがどうやっていくつもりなのか心配でなりません」
リンガベルは面倒見がいいほうではないが、それが妹分のレナベルのことになれば話は別である。
叉瞳になるという自らの夢が叶った今、次に望むことは、レナベルも同様に立派な叉瞳として学び舎である国立ミリアッド養成所を卒業することである。
人間補助機械生命体、通称ミリアッドは起用されて十年で国内の人口の四割を占めた。
男性型をパロキロンと呼び、女性型をレイチャムと呼ぶ。
脅威にすら感じるほどの急成長を遂げるミリアッドの真髄は、謙虚なものである。
彼らは、人間をサポートする為だけに作られ、様々な面において必要あらば寄り添い、助言をし、そして必要とされ続ける限り、それに応える。
その先にある終わりを彼らは果たして理解できているのかは定かではないが。
ミリアッドには、人間の社会とは異なるが、役職がある。
役割の為に作られた存在ではなく、自らの意志で選択し、掴み取る。その中で最も犠牲的であると言われている役職が叉瞳である。
叉瞳は、国家資格であり養成所の何年生であれ、試験にさえ合格すれば成ることができる。
これは叉瞳に限ったことではなく、ミリアッドの大抵の役職はそのような仕組みで出来ている。
その名の通り、担当する人間を影のように片時も傍を離れず、補助をし続ける役職である。
人間の影になるために努力を重ね、影として生きようとする叉瞳のことを犠牲的だと人々は言うのだ。
「うわぁ。お説教はいいから、はやくぅ」
レナベルは、半ば強引に連れて行こうとリンガベルの手を引いた。
「もうっ、レナベル・レイったら……」
彼女の引き際の悪さを最もよく知っているリンガベルはひかれるまま、ついていくことにした。
甘え上手で強情な彼女に連れまわされることに関してリンガベルはまんざらでもなかった。
呆れることのほうが圧倒的に多いが、感謝する時もあった。
レナベルがいなかったら、自らの学生時代はきっと面白みがなく、日々、勉強だけして終えるのだろうと思っていた。
入学した時は、それでも構わないと思っていた。夢をかなえる為に勉学は必要であるが、友人はさほど必要でないと考えていた。しかし、彼女に出会い、リンガベルには多くの友人ができた。養成所で過ごした月日は、卒業することが惜しくなるほど、楽しいものであった。
「みんなで空間写真撮ろうって言っていたの。いいでしょうっ」
レナベルは、歯を見せて微笑みかけた。彼女が手招きすると、教室にまばらだった生徒がぞろぞろと集まってきた。
窓の外から見える景色を見て、リンガベルは頷いた。
「そうですね。窓際がいいかと。今日は土曜日ですし、桜が見えますよ」
リンガベルは、記念すべき卒業する今日が土曜日であることを心から嬉しく思った。曜日ごとに四季が異なるこの国でリンガベルは、土曜日を最も愛していた。
雨降る梅雨の月曜日は憂鬱だし、セミの鳴く夏の火曜日は暑すぎる、上旬の秋の水曜日と、紅葉の見える下旬の秋の木曜日は好きだけれど、雪降る金曜日は論外、日曜日は春だけれど、同じ春でもやはり、卒業する日は桜の咲く春先の土曜日がいいと、リンガベルは常々思っていた。
まさに今日が絶好だった。
「はぁい。撮るよぉ、笑って!」
シャッター音がして間もなく、レナベルの手のひらの上に半透明の小さな四面体が浮かび上がった。そこには、教室を丸ごと縮小した写真が前後左右の面から映っている。
四面体を軽くノックし、人数分に割るとレナベルはふっと息を吹きかけた。四面体はそれぞれの手元で受け止められた。
「やだ、後ろの髪はねてる」
「レナベルが撮ったわりには上出来じゃん」
色んな感想が飛び交う中、リンガベルは四面体に映る卒業写真を宝物にしようと思った。
この先、どんな困難が待っていようとこの一瞬を忘れなければ乗り越えていける気がした。
リンガベルは、卒業と同時に、叉瞳の中でも難関とされている『犯罪者監視特別枠』として国に承認され、既に担当先も決まっていた。
自らが目指した道だと言え、不安がないわけではなかった。介護枠でもなく、教育枠でもなく、監視枠を選択したことについては何があっても後悔しない自信があった。それなりの誇りを持って、長年夢にみていたのだから。
しかし、担当先は決まっているのに、担当する人物の詳細を教えてはくれなかった。
犯罪者監視特別枠は基本的に民間ではなく、政府の要請により政府に雇われる形になる。リンガベルも例外ではなかった。
しかし、通常、そこで政府が担当先の犯罪者の情報を提示する。そこはあくまで義務ではない。政府の判断にゆだねられる。
リンガベルの場合、政府は「知らなくとも業務に差支えはない」という判断を下したのだった。
そういうケースはたまにあるのだと先生は言ったが、リンガベルにはそれが不安だった。
政府が特例として扱っているその担当先の犯罪者は何をしたのか。
どんな人物なのか会うまでわからない。
その先で、リンガベルは叉瞳としていかなる時も傍を離れず、更生するまでサポートをする。
それがリンガベル・レイに与えられた指令であり、使命であった。




