二章 無風
無風遥瀬は、目の前に広がる暗闇に向かって話しかけた。
「八重辻行に対する人体実験を再開することになった」
くすんだような青色のタイルが天井にも床にも壁にも広がる、この部屋の八割は闇に包まれている。
彼女を閉じ込めておくだけの為に用意されたこの空間は通常の研究室四つ分の広さだが、闇は空間をさらに広い者に感じさせる。
浮林檎の一部だと思えない異空間のようなこの部屋の存在を研究員達は知っているが、誰も恐れをなし、訪れることを拒絶する。
訪れなくても、彼女は逃げることができないし、要件を伝えるだけならスピーカーを通せば事足りてしまう。
彼女は動かなくとも、ただそこにいるだけで役目を果たしている。
そんな彼女は、中枢と呼ばれる。
彼女の一声で全てのミリアッドを動かすことだって可能である。
彼女は浮林檎や政府に忠実であり、独断で指令を出すことはない。
「そうか」
彼女の一言は地響きを起こす。
わずかな振動ではあるが、研究員はそれでさえ、脅威として感じる。
彼女は、決して国を裏切らない。
研究員を攻撃したりすることもない。
しかし、威圧感を感じる口調と、おぞましい姿を目の前にして平然としていられるのは無風ぐらいなものだ。
「ところで無風」
暗闇の中からぬうっとのびてきた長い腕は、無風の首を掴んだ。
「完璧なミリアッドを造らないのは、何故だと思うか?」
「……さあ。たかが研究員の一人に過ぎない私にはわからないな」
さらに伸びてきた二本の長い腕の片方は無風の髪を撫で、もう一方は白衣の皺をのばした。
「完璧な彼女等など存在してはいけないのだよ。人間と人造人間の境が消えたらどうなると思う? 彼女等はあっという間に人間を支配下に置いてしまうぞ」
左右で二十五本ずつ、五十本の触手のように長く伸びた腕を持つ化け物クーレント・レイチャムパロキロンは暗闇の遥か向こうで笑った。
「しかし、何もないところから何かを生むことは想像以上に大変なのだよ。……そのために私がいるのだ。わかるか? 無風」
三本の腕が暗闇に引っ込んでいくのを見て無風は下唇を噛んだ。
事は急がねば。
少々、乱暴に扱ってでも実験を成功させよう。
八重辻行は道具の一つに過ぎないのだから。




