20160804.spectrum
◇1.越して来た者(203)
ごみを出そうとしたある朝だった。
「あっ」
階段を下りた先で眼があった。彼はとっさに視線を逸らす。102の一人暮らしの男だ。学生かと思ったが、どうも長い間外出している気配がない。寝癖で長髪がアンバランスに靡いているが、髭だけは綺麗に剃っている。決めつけては失礼かもしれないが、ニートという存在かもしれない。
「えっと、すす、すみません。その、今日は、あの、あのですね」
ドモりがひどく本題に進まない。と思ったら、彼は意外な俊敏さで集積所の金網へ走り寄った。ガシャン、と金属が叩きつけられる音が響く。
白い指で付いたのは集積日程表だ。掠れた文字を見て私は納得した。
「燃えるごみは出せないんですね」
彼はタメの大きな動きで、水のたまった鹿威しのように頷く。
無言が続く。
「あっ、あの、上の階の……」
私が階段へ戻ろうとした瞬間、彼が声を張り上げた。私は頷く。
挨拶しなければと思っていた。すでに他四戸の住人と顔会わせは済んでおり、彼が最後になる。ちょうどいい、と言っていいのか。出勤までは少し時間がある。
「ええ、はじめまして。203号室の……」
彼は何度も首を振る。横に。一体なんだ。
階段を上がろうとすると彼はあわてて答える。
「はじめまして。いえ、そうじゃなくて、すみません」
「……どうかしましたか」
血色の悪い瞼が、ふと細められた。引きつった顔は笑っているようにも見える。
「変ですよね。隣」
私は、彼の話を聞く他になかった。
◇
無数の書籍とゲーム、そして動くかも分からないPCのパーツ。散らかった102号室のリビングの中心に腰を下ろす。この程度の惨状は私も学生時代に作り上げたものだ。カップ麺の容器などの食品ゴミが玄関にまとめられているだけ、まだ彼の方が几帳面でもある。電灯は点けられることなく、北側窓の光だけが室内を照らす。
大人へ変わる前に子供は自分の城を欲しがる。それを築き上げる力がないために、自分だけが踏み込めるようギターアンプや、凝った服や、繊細な他人に扱いづらい物でせめて与えられた部屋を固めるのだ。抜け出せなければ、いつまでも片付けられない。
「ちょっと待ってください」
自己紹介もそこそこにPCのマウスを掴んで小刻みに動かす。スリープ状態に入っていた画面が点灯しデスクトップが表示される。カスタムしてあるのか右上のタスクバーには今日の年月日と時刻が表示されている。2016年8月3日 7:30。
彼は飯津と名乗った。童顔の割に年を食っていたらしく、私より十六も年上だった。表札に名前を出していないのはどの住人も同じらしい。彼は大抵朝から夜まで寝て過ごしており、私とは生活のタイミングが合わなかったようだ。
デスクトップはマイデスクとゴミ箱、システム上表示しなければならないアイコンが上端にあり標準よりも整理されていたが、「あの音」と名付けられたフォルダがひとつ、その隣に並んでいる。
彼がフォルダを開くと、数列と拡張子だけが名付けられた大量の音声ファイルがずらりと並んでいた。
「二日前に、この部屋で録ったものです」
一番左上の音声ファイルは『201608020319.mp3』となっていた。ダブルクリックすると無骨な見た目の音楽プレイヤーが立ち上がり、音と同時に波形が現れる。しばらくは低いノイズだけが続いた。
足音が聞こえる。
軽い足音。
カーソルが動いて、再生位置を変更した。足音に混ざって人の声が入っている。幼児の笑い声。
私が首をかしげていると、彼は天井を指さした。声に出すのも忌まわしいとでもいうように。
この部屋の真上、202号室は私が入居した部屋の隣だ。
「誰もいないはずです」
彼は短く続けた。私は予想した仮定を声に発する。
「子供が空き部屋に侵入して、遊んでいたとか」
「深夜の三時でした」
彼の言葉に私は息を飲む。ファイル名の文字列は記録した日時だろう。夜に子供の駆ける音と笑い声。古典的だが、怖いものは怖い。
それは彼も同じだったらしく、泳いでいた目は恐怖を共有したことで幾分落ち着いてきていた。
ただただ新入居者をからかう目的ではないらしい。
「もう一つあって」
彼は上擦った声で言うと、今再生したファイルの一つ隣を再生する。『201608030408.mp3』。
くぐもって音質も悪いが、今度ははっきりわかった。男の怒号。乱暴な重い足音と何かが倒れる音。抑揚も安定していない。
「これは……」
「そちらの壁に当てて録音しています。これは昨日の夜、というか、今日の早朝四時です」
彼が指したのは101号室とこの部屋を隔てる壁だった。
声はなにかを罵倒し続けている。目の前の飯津が発する妙に高い声とは違う。少なくとも単なる悪戯ではないようだ。
二週間前、101の住人と挨拶を交わした時は、彼は穏やかな中年だった。
「このアパートは、少しおかしいんだと思います」
懸念した内容とは違っていたが、彼の話を聴いておくべきだろう。
◆ 『私』:会社勤め。26。男。秘密主義。
◇2.不審な音に眠れぬ男(102)
2014年8月30日
余計に夜眠れなくなった。
先週から気付いたが、天井から音が聞こえる。たたたた。そんな乾いた音だ。古い建物だしネズミでも走っているのかと思ったが、検索してみるとどうも違うように聞こえる。野生のアライグマやイタチが住み着く事例もあるという。凶暴で伝染病も媒介すると聞くので大家に伝えたほうがいいかもしれない。深夜の三時から四時くらい、ネットに張り付いていると時折その音がする。ごく小さな音のはずだが音楽でも掻き消せないほどにはっきりと耳に届く。
2014年9月5日
長年使っていたヘッドフォンが壊れた。外へ出ざるを得なくなる。午後四時頃、隣部屋に住む家族の子供が廊下を走っていた。たたたた。
あの音と歩幅のタイミングが同じように聞こえた。
ずっと、物事にはあるべきリズムがあると子供の頃から信じてきた。
小学生に入る前から、調和を乱す人間など珍しくはなく、また自分自身も調和を崩す『失態』ばかりをする。完璧主義者だと言われたこともあるが、きっとそれは違う。完璧であることは問題ではない、ただ、リズムが、タイミングが違うのだ。
そうこうしているうちに自分は縄跳びに入れない子供のように、いろいろなタイミングを逃して今日まで生きてきた。卒業するタイミング。就職のタイミング。辞めるタイミング。才能を見極めるタイミング……むしろ今の自分は自分自身の「あるべきリズム」という強迫観念を振り切ろうとして、逃げて来た結果なのかもしれない。
たたたた。たたたた。
自転車を漕いでいる時も、少年とあの足音が頭の中で反響していた。
歩幅が近い、つまり同じくらいの身長ということだ。
2014年9月10日
ようやく己を奮い立たせ、管理者へ取材しに行った。
上の階、つまり202はここ十八年間、入居者を受け入れていないという。噂の始まった八年前以降から「何かが『いる』」と言うことがあり、短期間で自主退去や入院による解約が続き、祈祷や除霊を頼んでも一向に改善されなかったという。築三十年、土地の歴史を遡ってみても処刑地だとか墓場だとかいう話はない。事故物件でもない部屋にそのような存在が住み着くことはあるのだろうか。
断られたため、インタビューの録画はできず。
2014年9月12日
洗濯物を取り込もうとして、101の住人と遭遇。会社の誰かに傘を取られてしまったと笑っていた。
彼が部屋に入ったあと、雨が止んだため窓を介してしばし話す。
同居人が居るが、出不精なので顔を見ることはないだろうと聞いた。そのためか自分のようなニートが相手でも言葉に棘がなく、気兼ねなく話せた。父とは大違いだ。希少な存在だと思う。
例の音を彼は聞いたことがないらしい。九時には床に入って熟睡してしまうという。
参考にならないことを謝られ、少し気まずかった。
◇
◇
◇
2016年7月5日
103の長男が消えた。
昨夜、彼は例の部屋へ入ったらしく、大きく叫んだあと母を呼んで泣いていた。カーテンを開くと窓にぶら下がった彼の足がバタついているのが見えた。
こちらで保護した後は、管理室へ父親と共に向かっているのを見ている。二人とも部屋に戻って就寝したはずだが、彼が深夜、窓から外へ出ていったのを偶然目にする。すぐに追いかけようとしたが玄関へ回りこんだ間に見失ってしまう。
今も戻って来ていない。小学生の失踪は夜のニュースで報道され掲示板にも貼られていた。
2016年7月15日
あの足音が今日は一晩中鳴っていた。録音した時間もこれまでで一番長い。
何かが『いる』ことは確かだ。
2016年7月20日
新しい入居者が入る。例の部屋の隣。被害者にならなければいいが。
夕方に窓を開けると、聞き慣れない声と201のコウさんが会話しているのが聞こえてきた。彼女の大声と距離感は、少し苦手だ。
2016年8月3日
深夜4時。隣の101から怒号。なにか事件だとしたら証拠になるかと思い、あの足音と同じようにマイクを当てて記録した。同居人との口論のようだが、聞こえる声は一人だけだ。普段の穏やかさからは想像がつかない。アップはせず夜が明けたら事情を聴くべきだろう。
二年も住めば薄気味悪さよりも嫌気が勝る。マイクをオンにしたまま近所のコンビニへ自転車を走らせた。鼻歌は何も気分が上がった時にだけするものではない。あの足音を記憶から振り切ろうとしていた。
◇
コンビニの中は静かだった。
真昼のような明るさの店内に入ると安堵して、真新しいヘッドフォンで耳をふさぎながら、適当な漫画雑誌を立ち読みしていたのだ。
たたたた。
幻聴だと思った。
ふと黒いガラスの向こうに目を向ける。自分の不摂生な顔に重なりそれは見えた。
足。
細い少年の裸の足。脛から上がなく、赤い肉と骨の断面をさらしていた。
完全に気が動転し、飛び退った勢いで背中を打ち付けてしまった。棚から化粧品がバラバラと落ちる。
「大丈夫ですかあ」
覇気のない声で話しかけたのはレジにいた店員だった。見たものを説明しようとしたが、あまりのことに喉が動かず、唇が空振りする。
店員の手が肩に置かれた。振り払い、店の外へ出る。駐車場に落ちていたはずの子供の足は、すでに見当たらなかった。
自転車のライトだけが世界を照らす。わずかな霧が出ている。闇の中、ただただペダルを漕いで走らせていた。
逃げ続けるもあの足音は離れない。それは脳の内側に張り付いているのかというくらいの大音量だった。
神社の前を通り過ぎる。鳥居の向こう側に血の気のない膝が見える。脛から腿までが闇に浮いている。
たたたた。
廃ビルの窓に短パンを履いた腰が引っかかっている。
たたたたたた。
腹から胸。干したままの洗濯物に混ざって子供用シャツの裾から、臓物が。
たたたたたたたた。
たたたたたたたたたたたた。
たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた
いつの間にか自分はハイツへと戻って来ていた。前輪の歪んだ自転車を押して。闇夜に見える恐ろしいそれに視線を奪われ、深夜走行のトラックに掠られたせいだ。どうにかまだ生きている。
部屋に戻るとパソコンを起こして、メモ帳でいつものように今日の体験を雑感と共にまとめはじめる。疲れ果てていたが、寝てしまえば都合よく記憶が変わってしまうかもしれない。
怪奇現象の根源がこの場所であることは疑いようもない。だが、逃亡した人間がどこへ連れていかれるのかを想像すれば、逃げてはならないのかも知れない。ネットの噂によれば、この裏野ハイツから退居しようとした者は、皆失踪や変死を遂げているという。それだからここへ来たのだ。
自分自身をこの場所の検体とすることで、何もないこの身に『意味』を持たせられたならと、わずかな蓄えを使い切るつもりで自分は来たのだ。それは浅ましい自己顕示欲かも知れない。
こうして書きためた体験は心霊情報サイトに投稿している。ハイツの名は伏せてあるが、サイトの掲示板の一角でそのトピックは続いている。フィクションだろうと揶揄されることもあるが、それでも読まれないよりはいい。
一心不乱にキーボードを叩いているうち睡魔に負け、手の甲を額で押したまま熟睡してしまった。翌朝親指に押されていたキーがそのまま画面に残っていた。
その間もあの足音は天井を走っていた。
目が覚めても心臓がざらつくような、嫌な感覚は取れなかった。カーテンの隙間から見える快晴ですらも偽物ではないかと疑い始め、自分はふらふらと部屋の外へと出た。幸い部屋を出ても空は青いままだった。
このざらざらした恐怖を、今すぐにでも吐き出したくて仕方がなかった。
自転車が壊れている。直しに行かなければならない。だが、ここを離れるのは恐ろしい。
そんなことを考えている時に、新しい入居者と鉢合わせたのだった。
◇
飯津は時折言葉に詰まりながらも語り終えた。記憶を辿るようにパソコン画面を見つめながら。
彼の話がすべて事実である確証はないが、ハイツの噂があることは確かだ。
この場所に何があるのか私は慎重に見極めるべきだろう。
メモ帳のウインドウに重なって『あの音』のフォルダは開かれたままだった。彼が録り続けた音声ファイルが画面に何百と並んでいる。
「それでは」
私は画面から目を離さない彼に告げ、部屋をあとにした。
◆ 飯津:無職。42。男。映像制作会社に勤めていたが五ヶ月で辞めている。強迫観念あり。ハイツの怪奇現象の噂を聞き、記録を続けている。
◇3.無人の部屋に隠れた子供(103→202)
母さんが帰ってくるまで僕は上の階に隠れようとした。それまでよく入っていた203号室は新しい人が来て、大家さんとスーツ姿の知らない人が出入りしている。カギも最新型に変えられたみたいだ。僕は隣の202号室のカギに取り掛かった。
僕は小さなドライバーを持ち歩いている。授業で使うために買ってもらったやつだ。203号室以外のカギは古くて単純な形で、このドライバーと伸ばしたクリップさえあれば簡単に開く。以前家に入れなかった時に見つけた方法だ。外からの施錠も、逆の手順でやればいいだけ。
人がいる部屋に入ったことはない。それでは泥棒になってしまう。
中へ入る。僕が住む部屋とよく似ているが、中身は空っぽだ。すこし怖いが、僕はその空気も好きだった。別世界に迷い込んだみたいな感覚がする。
廊下から物音。
あわてて押し入れの陰に隠れた。戸を閉めると音が鳴るので少し開いたままになる。足音は近付いてくるが、大人のものではないみたいだ。たたたた。小さな軽い音。
足は白い靴下を履いていた。
気配が消えたので外へ出てみたが、誰も居なかった。
僕はいつものように時間をつぶし始めた。窓枠に隠れて外を見るとランドセルを背負った影がちらほらと道を歩いているのが見える。僕も自分のを担ぎなおして、足音を消して母さんが帰って来ている103号室へ戻った。
その日の夕食はハンバーグだった。
「たかし、学校はどうだ。もう慣れたか」
「うん」
「そうか、よかったな」
父さんの言葉はどこかうわっつらだった。
まだ小さな弟は母さんの手にあるスプーンを掴んで、自分の好きに動かしたがっている。
僕にとっての学校を、つまらなくするあいつは、いつでも正しい。正しいからこそ、正しくない生徒を掃き捨てようとする。トイレを汚したから「顔を使って拭け」と水の中に押し付けられた。1つの罪状に対して10も20も責任を取れと押し付けてくるタイプがあいつだった。あいつが日に日に調子に乗り始めていることは、クラスで見ている皆はよくわかっていたけど、誰も何も言おうとはしなかった。
ちょくちょく学校を早退して僕がしていることを見たらあいつは何というだろう。保健室の先生はまだかばってくれているが、いつか家に連絡が来るかもしれない。やはり仮病サボり魔は『死刑』だろうか。罪人の僕は逃げ続けている。
弟が味噌汁を床に零した。母が仕方ないなという顔でティッシュを手に取る。
顔を使って拭け。
僕の頭にあの声が反響した。
僕はもう一度あの部屋へ入ってみようと考えていた。あの時、ドアが開く音もなく、窓のカギも閉まったままだった。足だけが見えたあの子供がどこへ消えたのか、気になって仕方なかった。
別世界につながっているのかも知れない。
◇
ケータイを操作して懐中電灯モードにする。位置情報が送信されると聞いたけど、同じハイツでしかもほぼ真上なら関係ない。
木でできた古い建物はそれでも何度か工事されて、軋む床が減ってきていた。それでも僕は慎重に階段を上がる。
202号室。
僕はいつものようにドアを開けた。
真っ暗な室内は昼間の何倍も怖い。それでも、ケータイを向けて確認しながら奥へと進んだ。
最初の部屋。フローリング。キッチンもまっさらで、なにもない。
洗面所に行く。鏡には光と僕の顔と室内が反射している。背後に何も居ないか、ついじっと見てしまう。
トイレのドアを開く。白い洋式便器は蓋が閉まっている。念のため蓋を上げる。もちろんだが、幽霊の顔が出てくることもない。水が止められているので使うことはできない。以前我慢できず用を足してしまった時は焦った。
戻って風呂場。ここもまっさらで何もない。
胸のドキドキも歩いているうちに慣れてきた。
二つ目の部屋にはいり、押し入れを開けて中を見た。やはり何もない。
昼間の時と同じく、何もないがらんどうの空間だ。特に変わった様子はない。
部屋中を捜索し終わり、僕は窓から見える星空に目を向けた。
たたたた。
足音がした。僕はそちらを反射的に振り返っていた。
そして、見てしまった。
「わあああああっ!」
つい大声を出していた。
混乱した僕は窓から逃げようとしたが、二階は思ったよりも高い。
僕はサッシを掴んでぶら下がったまま泣きわめいた。
「かあさん、かあさん、かあさーん!」
真下の部屋のカーテンが開き、光が漏れた。
僕は捕まってしまった。
空き部屋は大家さんの持ち物だから『フホウシンニュウ』になるらしい。よくわからないが、夜中に起こされた両親と一緒に管理室で怒られた。僕は言いたいことを飲み込んで反省した。
そんなことよりも、消えない不安がある。
あれが追いかけてくる気がする。
僕は夜のうちに、小遣いの入った箱を鞄に詰め込んだ。もうここにはいられない。靴を手に玄関ではなく窓から外へ出る。
たたたた。たたたた。たたたた。
足音が聞こえる。
僕は走って逃げた。駅に向かって。こういう時にもっと足が速ければと思う。駅に着くまでにあれが何度も見えた。殺される。
たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。
ごめんなさい。ごめんなさい。僕は心の中で何度も謝った。
あれは、憎んでいるんだ。
あれは罪人の僕を罰しに来る。
角を曲がると駅の明かりが見えた。ようやく逃げれる。電車に乗って遠くへ行こう。学校も恐ろしいあれもない場所へ。
たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。たたたた。
た。
◇
「早く見つかるといいですね」
挨拶に伺った時、私は彼らにそう言葉をかけていた。
七月五日の夜、小学生の上の子が行方不明になったのだという。貯金箱とリュックがなくなっており、形式上は家出捜索となっていた。
駅へ走る少年を見たという証言がありながら、駅の監視カメラにも駅員の目撃情報にも、その時間帯に小学生が交通機関に乗ったという形跡が存在していない。途中の道路には彼のスニーカーと携帯電話が落ちていたという。
神隠しの類か。そう心に浮かんだが、私は話すつもりはなかった。
同推定時刻に彼のクラス担任教師も消えていた。場所は遠く離れており関係は薄いだろうが、嫌な偶然もあると夫婦は眉根をひそめた。そちらは後の三十日、遺体となって見つかったとニュースが入った。
夫婦は悔やんでいた。仕事の疲れがあるにせよ、何も知らず息子を放っておいて寝てしまった。彼が何度も空き室を出入りしており、学校を抜け出していたことがわかっていながら、何もしていなかったと。
放任で見て見ぬふりをして彼を追い詰めていたのだと。
私は、彼らに同情しかねた。その嘆きも後悔の言葉も、どこか浅く感じてしまうからだ。考えることを諦めてしまったような。
まだ3歳の次男は母の腕に大人しく抱かれている。ある程度の言葉は理解している頃だが、まだまだ自分からは喋らないと夫婦は言う。
彼は兄が消えたことを正確には教えられていない。いなくなってしまったのだと、ぼんやり認識しているだけだ。
笑顔を浮かべて少年が舌をはじく。
「たたたた。たたた、た」
小さな手に見送られながら、103をあとにした。
◆ 戸壬鷹志:小学生。7。男。3歳の弟がいる。担任への反抗的態度を指摘されている。202に侵入し怪奇現象の正体を目にし、失踪する。
◇4.天井へ罵倒を繰り返す男(101)
あの声が聞こえる。
◇
入居後になって、寝室の天井に染みが広がっているのに気付いたのだ。
毎晩横になるごとにその染みを目にすることになる。それはじわじわと広がり、今となっては十センチ程度の楕円になっていた。黒い斑点の形が滲んだ人の顔のように見えて不気味ではあるが、特に何もしないまま放っておいている。
目覚まし時計が鳴り響く。
私はその計算され尽くされた不快な音を止める。
携帯の電源を入れる。十件のメールが受信されていく。元妻からの脅迫文も要領を得てコンパクトになりつつあった。髭を剃り身支度を整える。二つ隣に住む夫婦の片割れに出会い、口角を上げて挨拶を交わす。
いつものように会社まで歩き、いつものように朝礼の五分前に到着する。特筆する連絡もなく、自分の席につくと次の会議のプレゼン資料をまとめる。
一時間後、自分の名が書かれたプレートを裏返して休憩に入る。塔野単。部署に同じ苗字の者が移動してきたために下の名も書かれている。女性社員は珍しいと言っていたが興味はなかった。血縁関係もない赤の他人だ。一人息子は今、都内の小さなベンチャー企業で働いている。高校入学と同時に妻の下を離れた彼は、大学を中退してさっさと就職したらしい。
昼食は必要ない気がしてこのところ食べていない。代わりに一時間置きの煙草の煙で腹を満たす。
喫煙室で部下たちの雑談に付き合った。広報部の一人がへらへら笑いながら「新人が使えなくて殺してやりたい」と呟くが、実行する気がないのはわかった。私が人畜無害、つまりはくだらない人間関係を仕事に持ち込まないことを知っていて、壁に愚痴るよりマシだと彼らが噂しているのも知っている。どう思われようがどうでもいい。私は仕事の一部として、なお彼らの望む通り、気兼ねなく話しやすい上司を演じている。
子供の泣き喚く声が聞こえる。
私は煙の溜まる天井を見上げた。茶色くヤニのこびりついたクロスにぽつんと、黒い染みがあった。
あの顔だった。
◇
目覚まし時計を、鳴る前に止める。
携帯の電源を入れる。六件。髭を剃り身支度を整える。
いつものように会社へ行き、いつものように仕事をして、いつものようにわずかな残業をして退社する。
あの声が聞こえる。いつものように。
ハイツに帰宅する。
夕立に降られた。シャワーを浴びてから壁に掛けたスーツをドライヤーで乾かす。それが終わると、インスタントと作り置きで形ばかりの一汁一菜を揃えた夕食を摂取する。電灯もつけないまま。
今日という日も起伏なく過ぎていく。
昼間よりもマシだが、陽が落ちてからも蒸す暑さは続く。タンクトップとトランクスだけのだらしない恰好は妻が見れば小言をぼやくだろう。昔から太りにくかったが腕と脚はここ数年でいっそう痩せはじめ、貧相さに拍車がかかっている。
万年床になりつつある布団に私は寝転がり、網戸の緑色を通して薄明りの残る空を眺めていた。
天井を見ないように。
たたたた。と何かが走る音がする。古い木造のためか防音に難がある。位置もあって集積所での会話すらもノイズとなって届くほどだ。それはどの部屋も同じで、騒音を立てるような住人は今は入っていない。
二つ隣の家族は実に静かだった。以前住んでいた社宅に比べれば悪くない環境だ。
また声が聞こえはじめる。泣き喚く声が。
あの家族の部屋からではない。それは私の頭の真上から降ってくるように、私にだけ聞こえる。
紫色の空に黒い靄が浮かんでいた。それは徐々に大きくなり、顔の影のような濃淡へと変わる。
子供の顔だった。
「お前は」
私はまたも、私の目に張り付いた幻覚に語り掛ける。
「お前は、なぜ、私についてくる」
五年間、ここへ引っ越してから、この独り言をやめられずにいる。内容までは知られていないだろうが、周囲には同居人がいることにした。
子供の顔は知っていた。二十五年前の今日。言っておくが、快楽のためではない。私は狂人ではない。ただ苛立ちが、我慢ならないレベルまで膨れ上がっていた。
社宅時代の隣は教育熱心な家だった。しつけと言って手を上げるのも、一日外に締め出すのも普通だった。あの声は私の部屋にも響いた。
あの声を止めなければ私の気が狂っていたのだ。いや、すでに狂っていたのかも知れない。
鳴りやまない目覚まし時計のスイッチを押すかのように、深夜に締め出されたこの子を、私は五階から落とした。
この子を、殺したのだ。
「仕方がない」
元妻はそう言った。
我が子を溺愛し、わずかな傷を作っただけで動揺する妻が、他人の子供に対しては驚くほどに冷酷な生物だった。
私は恐ろしかった。
私自身も、彼女も。
理解ができないわけではない。妻は殺人者の伴侶という罪を被りたくなかっただけだろう。死体を隠し、八方に手を回し、詭弁を組み立て、責任を回避しようとする。欺瞞だ。欺瞞によって己の小さな世界を保っている。それは何も珍しいことではない。だが理解と共感は別物である。
三年後、離婚を切り出してから彼女の態度は急変した。
私は彼女を糾弾するつもりはない。ただもう、暮らしていくことはできない。説明しても彼女は信用することはなかった。それもまた、当然の反応だろう。
いつからか家の中の雰囲気も険悪になり、当時四歳の息子もあの騒音を立てるようになった。
私は。
「なぜお前なんだ」
なぜ自らの子ではなく、あの子供の顔が浮かぶのだろう。
『虐待の苦痛から救ってあげたのでしょう』
欺瞞に満ちた一言だ。妻の言葉で最も、最悪の言葉だ。可能性をつぶす行為を『救い』などと殺した側が言うのは。
私は、自分の子供は、殺せなかった。その代わり別居することとなった。
妻に訴えられれば、警察にか弁護士になるかはわからないが、殺人のことも話すつもりだった。だが彼女は何もしなかった。すでに自分も重い罪を背負っていることくらいは理解していたらしい。調停離婚で話は進み、結局十ニ年前にあっけなく成立した。それまで逃げ続ければ「いずれ時効が来るだろう」と彼女は思っていたようだが、それも当時の改正で無しになった。彼女の憎悪と絶望に満ちた文面は燃やしてもう存在しない。
脅迫の手紙は別居してから毎日送られてくる。昔は便せん十枚にびっしりと支離滅裂な恨み事が連なった封筒が届いたものだ。電子メールになったのは十年前か。
すでに赤の他人であるはずなのに、変えるたびに律儀に連絡先と転居先を教えるのは同情心からだろう。慰謝料の支払いもあるが、噴出口が無ければ彼女の怨嗟が息子に向かうことは想像に難くなかった。
共犯関係だけがぐずぐずと腐れていくまま、解け落ちずに残っている。二十ニ年間よく続くものだと感心する。出会った時から彼女とは利害だけの間柄で、結局、愛は生まれなかった。
子供の顔は泣き喚き続けている。他人の子供だ。ろくな付き合いもなく、抑圧された彼が何を考えていたのかも、私にはわからない。
泣き声に重なるまま生活音も耳に届く。隣部屋のトイレの排水。ゴミ漁りをしていたカラスの羽ばたく音。遠くから製パン店の移動販売車が流す珍妙なメロディが響いては遠ざかる。
無数の音がこの世には存在する。どれもそこまで不快には感じることがなかったのに。なぜ、あの声は。
私はクーラーをつけてガラス扉とカーテンを閉める。さっさと意識を閉ざしてしまえば何も聞こえなくなる。私は再度仰向けに、布団に横たわった。
目を瞑ってもあの声は聞こえ続けるが、徐々に小さくなっていく。
たたたた。
天井から何かが走る音がした。軽い、子供の足音だ。
泣き声が薄れるのに相対して、そちらが大きく聞こえはじめる。
たたたた。
たたたた。
たたたたたたたたたた。
たた。
急に音が止まり、私は気配を感じて目を開いた。
頭のすぐ上に、黒ずんだ子供の顔が浮かんでいる。
あの声が轟音となって響いた。
◇
◇
◇
「なぜお前なんだ、なぜ、なぜ付きまとう。なぜ今更になって、そうやって俺の前に現れる」
「供養をしろとでも。懺悔しろとでもいうのか。だが苦痛から逃げたがっていたのはお前だろ。未練はないんだったろ、覚えているんだ。『死にたい』とたしかに言っただろう。俺に! 俺はただ、お前の足を少し持ち上げてやっただけだ。お前が選んだんだ」
「いつまで泣いている! いくら泣こうが、もう俺にはどうすることも出来ないんだ!」
「…………、ああ……、何度もバラバラにされて……、埋められて……、なぜお前は、泣き止まないんだ……」
「俺だって似た境遇だった。だけど親には感謝しているよ。恐怖と苦痛で尻を叩かれて、無駄な遊びを全部切り落とされたおかげで、そこそこの拘束時間で食っていけるようになったんだ。定年を過ぎても生活に困ることはないくらいにな。お前も我慢すれば、大人になれば苦痛から逃げられるだけの力はついていたはずさ。そうだ。そのはずだ」
「俺は逃げなかった。逃げる必要がないと思っていた。……いや逃げられなかったのか。両親が死んでも同じだ。心にはずっと残っている。恐怖と苦痛で自分を奮い立たせなければならない。他人の人生など見ないようにして、そう生きていくことしか知らなくて、ずっとだ。だけど……、お前は、気付いていた」
「……この世界の理不尽さに。俺が必死でしがみついているこの生活が、幸福を得る、必須条件ではないことに。気付いていた」
「馬鹿にしていただろう」
一秒ほど蛍光灯が点滅して、明るくなった頃には子供は消えていた。
寝たままその顔を掴んでやろうとしたがすり抜けてしまったのだ。部屋の隅々までアレの居場所を探す。声はいまだ絶叫となって響いている。私だけに聞こえている。
わかっている。
「あの時の俺の二十五年間を、お前の目は、見下ろしていただろ。俺はずっとただ生きてきた。考えることもできなかった。俺の積み上げてきたものを、なんて悲しくて血まみれの日々だと、そんな風にはなりたくないと一蹴しただろ。はは、勝手に共感した気になって、俺自身の欺瞞をお前に与えようとしていたんだ。それしか俺は持っていなかったんだな。説教がうまく行かなかったからと傷つく俺も浅い大人だったか。いや、大人ですらないのか。『幽霊みたいだね』と言っていたよな。今でもそう思うのか。お前自身が幽霊になっても、何度生まれ変わっても、お前は……」
探しながら、ずっと話し続けていた。口が動くままに叫んでいた。
殺風景な部屋をいくら引っ掻き回しても、アレはいない。わかっている。天井を見上げる。蛍光灯の白い光が目を貫く。
「俺は子供にも大人にもなれなかったんだ」
天井の染みは顔には見えない。
私は、わかっている。
子供たちの絶叫は、私の中で生まれている。
◇
チャイムが鳴った。
覗き窓に目を近づけると一人の男が立っている。
「大丈夫ですか」
ドアチェーンをしたまま開く。部屋の惨状は見せられない。
いつの間にか夕方になっていた。会社を欠勤したのは初めてだ。電話では急病と伝えたが、ある意味で間違ってはいない。私は私の狂気を自覚している。
来訪者は涼やかな表情をした若い男だった。最近来た入居者。
チェーンを外す前に、その手が恐ろしい速度でこちらへ伸びた。
頸部を掴まれ、爪ではない鋭いものが刺さる。激痛に耐えきれず膝が落ちたが、男の腕は私を支えたまま離れない。声帯をつぶされて声が出ない。手を剥がそうとしたが力が入らなかった。私の首を無理やり傾かせ、チェーンの下をくぐってもう片方の手を差し入れると何かを耳に詰めてくる。その手がゴム手袋をはめていることに気が付く。身を沈めていき、私を静かに跪かせる。首を掴んでいた手が離れ、袖から垂れ下がるものが見えた。注射針が付いた細い管。これが動脈に刺さったのか。
次第に首の激痛が消えていく。視界が定まらなくなり、男の顔が二重に見えた。
「残り時間は十三分に調整してあります。六分を二周流します。それまでに意識を集中して、すべて聞き終えてください」
彼は胸ポケットからそれを取り出す。両耳に詰め込まれたのは、小さな音楽プレイヤーにつながるイヤホンだった。
男は再生スイッチを入れる。
「おつかれさまでした」
◆ 塔野単:会社勤め。50。男。誘拐殺人により多くの子供を殺している。
◇5.孫想う祖母(201)
二十五年前の夏に、たった一人の孫娘は消えました。
会社の寮。玄関前から姿がなくなって、非常階段の麓にはわずかな血の跡があったと聞きました。
どうして夜中に、あの子が家の外にいたのか疑問に思いましたが、息子も嫁もただ口を噤むだけでした。
孫の遺体は見つかっておりません。
どこかで生きていれば働き盛りになっていることでしょう。結婚相手も見つけたかもしれません。
けれども、決してそんなことはないとわかっています。
あの子は二十五年前のあの日、殺されたのです。
息子夫婦は実家に戻って、元気をなくした私の面倒を見てくれました。でもそれも申し訳なくなり、彼らが働きながら来れるよう、二十年前に今居るこのハイツへ移り住みました。
毎日様子を見に来てくれていましたが、私は「独りでいる方が気が楽」だと伝えました。そのためかはわかりませんが、週に一度、月に一度、年に一度と、二人が訪れる回数は減っていきました。
入居から八年経ったある日、警察から電話がありました。
息子夫婦が事故に遭って亡くなった、と。
高速道路のトンネル内で突然急ブレーキを踏み、バスと壁の間に挟まって車ごとつぶされた。どうしてブレーキを踏んだのかは解らない、奇妙だ。と警察は言いました。夫婦そろっての旅行の道中だったそうです。
私は彼らが旅行へ往くことも、知りませんでした。
私の心身は、それほど長く悲しみに浸り続けることはありませんでした。
時が経つにつれ趣味も再開して、ハイツのご近所さんたちとも打ち解けて話すようになりました。下の階のご夫婦に子供が産まれた時は、孫が産まれた時のようにお祝いしました。優しい彼らがかつての息子たちに見えて、涙が抑えられない日もありました。
随分と調子のいいことだとわかっていながら、私はあの子のことを少しだけ、忘れておりました。
そんなある日、あの音が聞こえたのです。
早朝に隣の部屋から小さな足音が聞こえて来ました。
私は実家にいた頃の、孫娘が遊びに来た大みそかの日の夢を見ていました。まだ目が覚めていないのかと思いましたが、確かにその音は、隣の部屋から聞こえていました。
横になったまま、気付けばぽろぽろと、涙を流していました。
それが今から十年前のことでした。
隣の誰も居ない202号室から、時折、足音がするのです。
私はいつしかそれが孫娘の足音だと信じるようになりました。
どうして私の前に現れてくれないのか、それはわかりません。もしかしたら、助けられなかった私を恨んでいるのかも知れません。
そうであっても、私は彼女の足音がする度に、うれしくて耳を傾けていました。
2011年。今から五年前。
あの男が入居してきたのはその年でした。塔野と名乗った彼は息子がいた会社に勤めていて、そのことからよく話をするようになりました。
「息子さんは悪い人間ではなかった」
彼はそう言って慰めてくれました。
気が合って仲良くなり、部屋に招いてお茶をしていたある日、私は仕舞っていたアルバムを見せたのです。
「これね、私の宝物。大事にしすぎて埃被っちゃってるけどね」
孫娘の写真を見た時、一瞬だけ、彼の笑顔がこわばるのに気づいてしまいました。
「良い写真ですね」
彼は白々しく取り直しましたが、その内側に渦巻くものが、私には透けて感じられました。
あの子の足音が、頻繁に鳴るようになったのはそれからです。
私は直感していました。あの子を直接殺した相手が、あの男だと。あの子が、呼んだのだと。
けれども、何もできなかった。
殺してやりたいほど憎んでいるけれど、なんの力もない私にはできない。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
薄情なお祖母ちゃんでごめんね。
何度も何度も、心の中で彼女に謝り続けました。
私にできるのは、ただ眠っている時、この背中にあの男がいるということを、強く意識するだけでした。
◇
あの男が亡くなりました。
心臓麻痺を起こしたようです。彼の身体は、玄関で蹲っていました。ハイツでとうとう初めての事故物件ができたと、管理人さんは彼の死よりもそのことを嘆いていました。
私は重たい荷が下りたように、すっと胸が楽になりました。
そして安心している自分に気が付きました。
ああ、手を汚さずに済んだと。
私は、そんなことを考える自分の薄汚さに心の底から恐怖しました。
私が愛していたのは、本当にあの子だったのでしょうか。
愛しているのなら、守る家族も失った老い先短いこの人生など捨てて、彼を殺す『鬼』になれたのではないのでしょうか。
ただあの子が居るという、家族が居るという、誰もが得られるわけではない幸せを、あの頃の私は享受していただけなのではないかと、今では考えています。
夫に先立たれた時も私は涙を流せず、ただただ日常を守るための生活に逃避し、忙殺していました。その背中を見ていた息子たちが、私という困難を忘れようとしたのは責められません。癇癪を起したあの子を目にしたくないために、外へ出したことすらも。
すべては私の行動につながっていたのです。
あの子を殺したのは、ただ一人の殺人鬼ではありません。
状況すべてであり、その状況を招いた私自身でもあった。
私はその事実すらも目に入れないようにして、復讐の重荷すらも拒絶して、私は生きていました。
薄情でひどいのは、私自身でしょう。
◇
誰にも理解しえない罪を背負って、私は醜く生きていましょう。それだけがあの子の供養になると信じて。
今もあの足音は隣から聞こえ続けています。慰めなどではなく、決して私を逃がさないように。
私の孤独な復讐は、こうして幕を閉じました。
◆ 畉田碑コウ:79。女。
◇6.おわりに
仕事を終えた私は車を走らせていた。
退去日を決め、一週間後にはこの地を離れる手筈になっている。その間に足の着く痕跡を全て消し去るように言われている。
あの201号室の老婆も彼の被害者家族だったようだが、依頼主とは違う。我々の存在も知らず、また依頼するような財産も勇気も持たないごくごく普通の存在だった。
そのほうがいいのかも知れないと、たまに思う。
我が孫を殺されたという道理を得て、依頼主は私たちに依頼した。復讐のためだと彼は涙を流しながら訴えていた。
だが武器を手にした者は全てにその武器を行使しようとする。一度己の思うままにできるとわかれば、たとえそれが理にあわないとしても使ってみたくなって仕方がなくなる。原始的な欲求はたとえ理性に隠しても抑えきれるものではない。私自身も同じだ。己の嗜虐性をコントロールできなければこのような仕事は長く続けられない。
あの依頼主もまたリピーターとなるのだろうか。次はくだらない自己本位の欲求を携えて。
掃除屋など気持ちのいいものではない。
信号が赤に変わり、私はブレーキを踏む。交差点の角から、建て替え工事中のビルがその影を落としている。
あの男は殺した子供の幻覚に苛まれていた。証拠として飯津から入手した音声ファイルを本社へ送っている。復讐心を満足させるのも依頼の一部だった。
202号室の足音の話については、報告するべきか迷っている。
老婆はあれを自分の孫だと思っていたようだが、祟る相手が死んだとわかれば成仏していくのだろうか。あるいは死者の霊ではなく、あの老婆の情念が生んだ現象かもしれない。生き霊。呪いの一種。可能性を考えてみるがあと一週間で実証のしようもなく、協力者の飯津には悪いが答えなど出ないのかもしれない。ただあの裏野ハイツの怪奇現象が収まり、生きているうちに彼が退居できることを祈ろう。
幽霊の祟りが本当に存在するのか。それは私たちには関係のないことだ。
私のやっていることも、社会正義や仕事と言って死の感触を誤魔化しているだけに過ぎない。その詭弁の麻酔が切れ、殺した者たちに纏わりつかれる日がいずれ来るのだろうか。
それが何十年後か明日かはわからないが、今はやれることをやるだけだった。
たたたた。
あの音が聞こえている。耳に残る記憶が再生されて。
同時に脳裏に男の顔が思い出される。絶望に満ちた表情。頬はこけたが、昔の面影は残っていた。あの男は……
空が光る。
黒いワイヤーが踊っている。クレーンの吊り下げに使うものか。
理解した頃には手遅れだった。
衝撃が来た。車体を破り私の頭部に突き刺さったのは巨大なガラス板だった。
体が動かない。熱い血が口の中に滲み、自らの体が分断されていることを私はやっと自覚した。
サイドミラーに見えたのは、車の天井から突き出た小さな子供の上半身だった。
黒い顔は異常な笑顔に歪み、意識が遠のき始めた私を見つめている。
終