01
魔女の〝はじまり〟は、如何なる書物にも記されていない。
いまは昔、いにしえの時代。わたしたちが五感で味わえるそのどれもが、彼女たちの生誕を祝わなかった。ゆえに伝承はない。それがかたちあるものであったのか、それすらも。
けれど、世界のことわりが小さかった頃の時代には、既に魔女はひとのかたちを成していた。断罪の炎に抗えないのが魔女――そこには世の不条理は魔女のせいだという理不尽がある。作物が枯れるのも、流行り病も、惨めで醜悪なものはすべて魔女の呪い。だからひとは、憑かれたように殺した。彼女らは犠牲の子羊だった。
やがてそんな時代も過ぎ、国は美しくなった。その移ろいとともに世のことわりも膨らむ。魔女は罪の象徴となった。『悪いことは魔女が連れてくる』『魔女は厄災の写し身』『穢れとはすなわち、魔女の果実』――そうやって、ひとは魔女を自分たちの生から棄てた。昔はひともともすれば魔女と呼ばれたのに。そこには明確で不可視の線が引かれてしまった。いまの時代のひとが殺したがるのは、魔女という偶像だ。魔女狩りの筆頭とも目される竜神の従僕、つまるところこのわたしを、魔女と畏れるひともいる。滑稽だが、それも事実。
偶像はそこらかしこにある。
けれど込められる意は同じ。犠牲の子羊となりたくないがゆえの抵抗だ。
畢竟、『わたしは罪を犯していない』と吠えたいだけ。魔女と呼んでいるものを指差して、あれと自分は違う、と。そういうこと。
ほんとうに、馬鹿らしい話だ。
わたしたちは魔女を狩るにあたって、彼女らを決して違えない。
偶像破壊を目的としている人間との差異は、そこにある。彼らは真偽の区別がつかない。
白亜の城は天に向かって聳え立つ。
城を取り囲む外壁は、穢れなき冷ややかさで来訪者を拒んでいた。いくつも前の王の代に造られたため、趣は古い。けれど、この美しき国らしく、玲瓏たる外観は健在だ。ただ、王都の象徴たる建築物のわりに、城下との彩は大きく異なっていた。鋭く、愛想の欠片もない見目だけではない。街に溢れる喧騒が嘘のように、人工的な静謐が門扉より奥の空間を満たしているのだ。緻密な細工が施された噴水の水音がすぐ傍に聞こえるくらいに、不自然な無音。
シグの馬が城門の前で止まる。
門の両脇に控えた門番が、それが礼節であるかのように手にした槍を交差させた。戦でもないのに、甲冑に兜と重苦しい姿だ。襲撃の際には防御力を期待できるが、ちょっとした諍いではむしろ足枷となるだろう。肩にかかったマントは、外壁の白よりも淀んでいた。
「赤の剣姫、フィヨルニル殿をお連れした。通行許可を」
馬上でシグが声を張る。門番が確認のためこちらへ駆け寄るのを妨げるように、続ける。
「ヒルドールヴ隊長に到着の伝達を。それから、彼女はベネディクト=アールクヴィスト宮廷術士殿との面会を望んでおられる。至急手配を。……お前たち何をしている、急げ!」
「はっ!」
門番たちは声を揃えて忽ち散った。予想よりも素早い動きだ。しかし、己の職務はどうするつもりだろう。
そのさまを見、にやりとシグが笑う。ひと目がない場なら、生来の気質を表出することに躊躇いはいらしい。
「ほらな。門の管理なんかあり得ねえくらい杜撰だろ」
「うん」
「ま、だから内側がこうなんだけど」
しんと静まった空間に侵入する。外と内を執拗に遮断する術式の性質上、音を生む存在は自分だけである錯覚に陥る。これがひとには恐怖を与えるらしい。門を突破できてもその不気味さに困惑、混乱するのだ。
幾重にも張り巡らされた糸の如き術式が、微かに震える。……わたしという、異物の来訪を知らせたか。これが音のないもうひとつの理由。単純に、その方が対象を捉えやすいゆえ。闖入者をいち早く察知するための術が展開しているため、門番を使いっ走りにすることもなかったのだが、退けてもらうためのやむをえない措置だった。魔女の件に関わってもいないのに顔を晒すわけにはいかない。いまフードを取れば、この首筋の禍々しき徒花が露呈してしまう。
クラエスの故郷を夕刻に立ってから、二夜明けた。
馬の足ならば一日弱で到着するとのことであったが、シグの傷のこともあって休息を普段の倍とったこと、また馬一頭にふたり、つまりわたしという荷があったことも影響し、およそ一日半の刻を要したのである。森を突っ切るルートを通ったため、野宿である。シグは宿を探すことを提案してくれたものの、遠回りになるため断った。天幕があるだけでもいつも行っているものより格段によい環境だったのだが、それを聞いたシグは渋い顔をした。最低限のものは携帯するよう言われたが、あいにくわたしの最低限に寝床は入っていない。何処でも問題なく眠れる質である、木の上も寝台も大差ない。眠いと感じたときに寝られればそれでいいのである。ほかのひとはそうもいかないのだろうけれど。
「それにしても」
「何だ?」
聞き返され、呟いていたことに気づく。この距離だと独り言にならないようだ。さして意味のない雑談には違いないが、せっかくなので問うておく。
「慣れているのだと思って」
「は? 何の話」
「野宿」
ああ、と合点し、頷くシグ。わたしの言わんとすることがわかったのだろう、つまらなさそうに目を巡らせた。
「うちは確かに裕福な、いわゆる上流階級だが、それと同時に代々騎士の家系だ。嫡男である俺が騎士を志すのは当然、野営くらいはできなきゃ話になんねえよ」
「ふうん」
「何だよ、聞いておいて気のない返事だな」
「そういうつもりはないけれど。気に障ったのなら謝る、ごめん」
「いや、いいけど。謝られるようなことじゃねえよ。実際、家名だけで騎士の称号を冠しているのもいるしな。俺がそういうのだと思われるのには、慣れてる。ま、俺だと不安だっつーなら、隊長に頼んで他の奴をつけてもらうか?」
「別にいいよ。シグは頼りになる」
魔女と相対する際、呪いへの抵抗力の有無は大きい。その点シグは、純粋なる武力を持ちながら術式と相性がいい。いわゆる万能型だ。自分のひどい偏りは自覚しているので、シグのようなタイプだと組みやすい。城からの案件ゆえひとりで動けない以上、こちらの欠陥を補ってくれる相手を求めるのもまた当然だ。クラエスはシグとはまた違ったタイプだが、言わずともこちらの補助を的確に行ってくれていたので、あれはあれでやりやすかった。今回は組みはしないだろうけれど。
と、こちらを向いた碧眼がちからいっぱい見開かれたので、すこし驚く。
おかしなことを言ったかと思ったが、よくわからない。あとに続く言葉を探す。
「クラエスより弱くて、ヒルドールヴの足元にも及ばないけれど」
「おまッ、人が感動してる最中に落とすなよ! しかも取ってつけたように!」
怒られた。なにに感動していたのかも解せない。難しいひとである。
シグは馬の手綱を引き、その場に止まる。見ると、磨き上げられた回廊があった。やけに造形に拘った飾りが等間隔で配置されている。ここよりさきは馬を繋いで行かなければならない。獣や身分の低い民は踏み込むことを許可されていないのだそうだ。王の御殿に汚らわしき紛いものはお呼びでない、とだれか言っていたが、果たしてどれだけがそうでないのか疑わしいものである。
ひとにも紛いものはいる。
見目がひとではないということでなく、その魂が。
真偽を解さない彼らは、隣にけだものが立とうがわからない。外見など、所詮はただの器だ。
シグはこちらに呆れの一瞥を寄越す。
「ほんとうにお前が、あの赤の剣姫かよ」
「そうは言われても」
「何だよ」
「その『赤の剣姫』って、そもそもなに?」
「は?」
「わたし、それを語ったことはないよ」
知らぬ間に通った称号だ、それになにを期待されているのかなどわからない。
シグ曰く、赤の剣姫とは。細腕に似合わぬ長剣を自在に操る、炎の女剣士。攻めの太刀筋と高い俊敏性、瞬発力が相俟って、その剣技は美しい舞いのよう。けれど、殺戮の剣舞はひとをも食らう。その冷酷なる魂には情けも容赦もない。透徹なる、炎踏であるがゆえ。贄になりたくなければ近づくな。魔女狩り筆頭たる彼女が刈り取れなかった魔女は、ない。まさに、化け物。
それが、わたし。
「……うん。そんなに間違ってはないと思うけれど」
「は!? 全然イメージと違うっつーの。人形じみた痩躯の美人で、完璧主義の冷たい女だろうと思ってたら、これだもんな」
「これって」
「小さい、ずれてる、世間知らずな上流階級のお嬢さんみたいな見目。でも剣の腕は本物で苛烈。流血を伴うことを差し引いても、炎の術式はとんでもねえよ。普段は隊長みてえな獣らしさや血腥さを見せねえくせに、はっとするくらいに、お前は――」
シグが不自然に言葉を切る。己が吐き出そうとしたそれが、まるで悪であるかのようにさっと顔色を変えた。押し黙る。さきは興奮ぎみに『赤の剣姫』について言い募ったのに、いざ自身の言葉にするとなると赦し難いなにかがあるらしい。
「――化け物だ、と」
「あ、いや」
「いいよ。そう言われるのは、嫌いじゃない」
主さまをそう呼ぶひとは呆れるほどに多い。敬愛対象と同じ呼称は、わたしにとって悪ではなかった。
しかしシグは、忽ち瞳の奥で怒りを露にした。ハーヴィも、その言葉を嫌う。彼らの琴線に触れるらしいそれは、わたしにとって怒りを誘いはしない。いまこのとき、そして、たぶんこれからも。わたしの感情のない眼差しに戸惑ったように、シグはゆっくりと瞬いた。ひとり相撲だと知ったのか、悪かった、とだけ呟く。別にいいのに。けれどそれは彼を追い詰める言の葉であるだろうから、飲み込んでおく。
シグは、颯爽と馬から降りた。とはいえ、燻る感情があるのだろう。まだすこし不機嫌そうだが、当たり前のように手をこちらに差し伸べる。
素のシグと接していると忘れがちだが、さきの通り、彼は上流階級の出である。淑女の扱いが染みついているのだろう、それをわたしに適応するのもどうかと思うが。まあいい。素直に手を借りることにし、シグのそれに重ねる。
その瞬間。
首が――絶叫した。
否、厳密にはそうではない。黒薔薇の刻印から、なにかが迸ったのだ。
けれど、そうか。わたしの喉を使い、音を生むか。
だが、わたしは主さまのもの。ほかのだれかに使われるなど、断じて認めない。
喉に、そこに蔓延る黒き刻印に、爪を立てる。このまま皮膚ごと抉り取っても構わない。さらに押し込む。
甲高い嘶き。
わたしの突然の奇行に馬が暴れた。驚愕に目を見開いたシグ。触れていた手が咄嗟にわたしを引き寄せる。落ちゆくところを抱き留められたが、その顔が苦痛に歪む。傷に当たったか。そのまま押し倒す格好になった。痛いだろうに、わたしなんか庇わなくとも。下敷きにしたシグから低い呻き声が漏れる。
あ、と思ったときには黒薔薇は沈黙していた。
皮膚下に潜り込ませていた指を引き抜く。あまり深くはない。頸動脈を裂いたわけではないので、飛び散ったりしない。ただ、溢れた血が喉を伝い、服へと染みた。
「シグ。だいじょうぶ?」
「バカ! 何やってんだ!」
血塗れの手を取られ、逆の手が首を覆う。
止血しようとしているのかちからがこもり、微かに息苦しい。
ハーヴィに比べて随分熱い手のひら。すこし瞠目する。そうか、ひとの体温はこんなものか。
「お前正気か? つーか、何でそんな当たり前みてえに皮膚に指が刺さんだよっ、おかしいだろっ」
「だって」
「あーもう、塞ぐから喋んな!」
性急に陣が組み立てられる。苛立たしげに歯を食い縛るさまに、苦痛が垣間見えた。はっとしてシグの傷に目を落とす。二者の治療を両立できるだけの技量は、あいにくとないようだ。
「治癒の術式を解いたの?」
「うっせえ」
「わたしはいい。だから」
「黙ってろ!」
手のひらよりさらに熱いそれが、わたしの皮膚を繋ごうと動く。強行に近い修復は、無理矢理に血を堰き止めた。
「血は……止まったか」シグが言う。「どうだ?」
真っ赤になった手が離れる。息苦しさから解放され、ほ、と呼吸が漏れた。頑是ない幼児の如く頷けば、シグの顔が安堵に染まる。だが、すぐに眉が吊り上がった。
「ほんっと、何すんのかわっかんねー奴だな! 自傷癖でもあんのか!?」
「そういうつもりはないけれど」
「じゃあどんなつもりだよっ、驚かせやがって……、う」
「シグ?」
「くっそ、いってえ」
怒りと痛みで目元が赤い。再び自身に治癒の術式を施そうとしているのだろうが、動揺が強過ぎて上手くいかない。
すこし、申し訳なくなってくる。さきといい、いまといい、この男は――無用なことを、気にする。
自分の指を見た。己の皮膚下に潜ったくせに、微かな震えもない。ごめん、と。彼にかける声も平坦な常のそれだった。
シグの潤んだ碧眼とかち合う。すこし考え、嫌いではないな、と思う。近距離で見たそれは、蒼々と美しく瞬いた。
この魂は、何処へゆくのか。……堕ちてしまわないと、いい。そう思うと、ふ、と笑みが漏れた。シグの濡れた青の目に、くつくつと笑うわたしが映っている。ぽかんと唇が半開きになった、そのさまに。
「ありがとう」
わたしがわたしになったときの、はじまりの言の葉を落とした。