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05

 

 ひとのいいやつほど、脆い。

 これはだれが言ったのだったか。ハーヴィではない。フロプトか、ヴァーヴズか。しかし、どちらでもなかったような気がする。ああ、ヒルドールヴだ。あの男が、愉快そうに目を細め、喉の奥で転がした台詞だ。あのときは、荒野の獣がなにを、と思ったが、なるほど。強ち間違ってもいないのだろう。あれはときおり、野獣に似合わないことを言う。胸を衝くようななにかを。

 冷たい水に滲みゆく赤が、目が離せないほどにきれいだった。

 いまも、わたしのなかでは。


「何をしているんですか! それでは止まるものも止まらないでしょう!」


 さぶり。強引に水桶から腕を引き抜かれる。水滴を帯びた己の腕は陶器のようで、ひどく作りものめいていた。赤い線の如き切り口から、じんわりと血が溢れてくる。そのまま処置道具の散らばる寝台へと連れて行かれる。清潔な布で拭われ、間髪入れずに包帯を巻かれた。なにかの手本の如くきれいに。ハーヴィのような手際のよさだ。礼を言うと、苦い顔をされた。思い出したので、問うておく。


「わたしのより、自分の傷はどうなの? シグ、抉れてたよ」

「はは、痛いに決まっているじゃないですか。失神しそうです」

「わたしの世話を焼く余裕があるの、すごいね」

「あるわけねーだろ! 止血もせずにぼーっとしてるから我慢できなかったんだろうが!」


 怒鳴り、腹の傷に悶絶する。涙目になりながら、失礼しました、と畏まる。


「別に、それはいいよ。敬語は尊敬する相手に使うんでしょう? わたし相手に使ってて疲れない?」

「身も蓋もないことを……まあ、いらんっつーなら使わねえけど。あー、わり、寝てい?」

「うん」


 シグの身体が仰向けに寝台に落ちる。寝台自体は豪奢な造りだが、至るところが血で染まっている。シグの血だ。

 あの茨の蔓を焼き払い、満身創痍のシグを伴ってホフステン卿別邸に三度目の来訪を行ったところ、騒動を窓から覗いていたらしい領主が飛び出てきた。それはもう、泡を吹かん勢いで動転していたが、処置道具一式と寝室を借りることに成功したのが、ついさきほど。一階来客用寝室寝台上に、処置を終えたわたしとシグが並ぶ。

 シグの脇腹では、淡く輝く緻密な陣がその修復を開始していた。自己細胞を活性化させ治癒力を限界まで早めるという術式で、損傷が多い前衛型は階級を問わず一度は学ばさせられるらしい。残念ながら術を繰る才能がないひとが一般的には大半を占めるため、実際は術士でもないのに使えるのは少数派。シグは、そうであろうとは思っていたが、術式とやけに相性がいい。その事実は、いまそれと同時に、痛みを鈍化させる術式も発動させていることからも窺える。

 ただ、さすがに中身が剥き出しのまま治癒を待つのは視覚的にあれだったので、腹部は包帯で固く覆われている。既に表面上は塞がっているのか、包帯を染める血は増してはいない。ほっとする。


「あんた――あー、何、ヨルでいいわけ?」

「うん。フィヨルニルだと呼び難いみたい」

「はは、それ思ってた。舌噛みそう。……つーかさあ、それが素?」

「なにが?」

「口調変わってね? 雰囲気もだけど。いまはさっきまでの刃物みてえな感じじゃねえし」

「外では、固い口調をしようかな、とは思っているけれど。刃物、は、よくわからない」

「あー、オンオフってことか。まあそうじゃねえかとは思ってた。俺も戦闘とかになるとスイッチ入るし。その、外で固い口調ってのは何で?」

「かっこいいから」

「ぶはっ」

「そうしなよって言われた。……聞いてる?」

「バッカ、わら、笑わせんじゃねー、腹、響くってッ」


 笑いながら腹部の痛みに震えるシグは、すこしヒルドールヴに似ていた。

 自分に似てるか、真反対かしか下に置こうとしないのは昔からだ。その方がおもしろいから、らしいけれど。あの男がわたしをどちらに据えているのかは、いまだに謎だ。

 シグの笑いがひとしきり出切ってから、口を開ける。


「シグは、わかる?」

「何がだよ」

「クラエスの気持ち」

「……ま、わかんねーな。自身を兄と慕う弟分が魔女と通じてて、止めることもできず焼かれちまったわけだろ。わかってますっつー方が酷だろ。何だよ、やった当人が焼かなきゃよかったって?」

「まさか。そんなことは思わない、死んでも」

「あっそ。何つーか、お前その見目のわりに苛烈だな。そりゃあの親父も気に入るわ」


 シグの不穏な台詞は置いておくとして。

 見目のわりに、か。包帯の巻かれた腕を見る。フィヨルニルがわたしでなかったならば、どうだろう。白い腕も少女の体躯も持たない、別のなにかであったなら。

 くつ、と喉奥から笑いが込み上げた。もしもは、ない。わたしが主さまのものであることを望み、折れない剣である限り。意味のないことばかり夢想していても、無駄だ。だったら、有意義と思えるよう動こう。座って姦計を巡らすのは、わたしの役割ではない。跳ねるように寝台から降りると、シグが呻いた。振動が痛みを誘ったらしい。ごめん、と謝っておく。


「どっか行くのか」

「うん。クラエスのところ」

「ぶっ。おま、何、マゾ? 焼いた当人が行って、殴られても知らねーぞ」

「無理だよ、クラエスは」

「まあ、女子供に手ぇ挙げれる人じゃねえか。じゃ、何しに行くんだよ。傷口抉るつもりか」

「そうかもしれないけれど、どうだろう」

「こわッ。いまの流れで平然とす言っちまうお前こえーよ。あの人に何するつもりだよ」


 考える。特に案はない。にっこり、笑っておく。シグは蒼白になって、いってらっしゃい、と言った。


 兄さんなら、きっと僕を――と少年は言った。

 それに続いた言葉はなんだろう。守ってくれる? 助けてくれる? それとも、赦してくれる、とでも?

 馬鹿らしい問答だ。あまりにも。彼はその背になにを見たのだろう。それは希望と為り得たのか。

 焼け焦げた地面と小さく積もった灰。それが、すべて。さきまであった存在の残骸と、そう思って、そこに閉じこもっている。シグを運び込んでから一刻近くは経過しているはずだが、彼はここを去る前と変わらず佇んでいた。わたしを認めたベアトリスが威嚇の体勢に入るのを、だいじょうぶ、と留める。声にはしていない。本日二回目のやり取りに、ベアトリスは逡巡を見せはしたものの頷いた。そっと離れてゆく。クラエスは気づかない、わたしにも、彼女にも。

 眼は、虚ろを見ている。

 幻のさきには、なにもありはしないのに。

 ほとんど反射的に、その無防備な背に蹴りを叩き込んだ。

 がっ、といい音を立てて、煤塗れの地面に突っ伏する身体。隙だらけだ。いまなら子供であっても、クラエスを殺せそうなくらい。ひとの羨む称号を手にした、この男を。


「生きたまま焼かれると、ひとはとても苦しいそうだけれど、知っていた?」


 答えはない。長躯は伏したままだ。


「ずっと昔、まだ世界のことわりが小さかった頃。魔女は銀の刃さえ通さない、堅牢なる生き物だと考えられていた。不浄を纏う彼女たちに有効なのは、ひと匙の火だけだと。紅蓮に連なる赤だけが、悪い魔女を殺す絶対の矛。だから、焼かれて死んでしまうのは、魔女だった。見目も、気配も、悪意も――あるいは蜂蜜色の肌を持つ黒い異邦のお嬢さんでなかったとしても――なにを持とうが持たまいが、炎に抱かれれば、その瞬間彼女たちは魔女となる。焼いてみれば、ひとなんてみな燃えるのにね。〝彼〟みたいに、きれいに」


 ぶるぶると、肩が震えていた。微かに上半身が持ち上がる、けれど、爪が割れるくらいに地面を握り込むだけだ。なにも言わない。言えない。


「わたしが、憎い?」


 簡素な問いに、低い呻きがクラエスの喉から迸る。

 けれど、頷きはしない。わかっていた。この男はわたしを憎めない。だからこそクラエスは、いまその身に燃え滾るような葛藤を抱いている。隙だらけで、殺してしまえそうでも、その精神は何処までも崇高な魂を手離せない。それが例え、穢れを、禍を、――死すら招いたとしても。

 愚かしくて、焦がれるほどに美しい。

 わたしは、たぶん、この魂を魔女にくれてやるのが惜しいのだ。


「……いいよ。赦す。わたしを憎め、クラエス=ブラント」


 はっと、息を飲んだ気配。信じられないものを見るような瞳が、こちらに向けられていた。

 わたしは、その眼差しに応えるように笑ってやる。口端を吊り上げただけのそれは、ひどく皮肉げなものだっただろう。

 クラエス=ブラントは、天涯孤独の青年である。養父はいたが、血の繋がった家族はこの世にいない。学もない。あったのはその身と、一流へ到達するであろう剣のセンスのみ。彼は兵という職を手にすると、率先して危険な任務を志願した。何度も何度も死にかけて、それこそ死に続けるように剣を振るって、ようやく騎士まで這い上がった。上流階級のお坊ちゃんとは違う、純粋な剣のちからで。珍しくはあれど、そういうひとは無論クラエスだけではない。けれど、そのとき、ヒルドールヴの好む気質を有していたのはクラエスだけだった。その魂のせいで不運を纏い、その魂のおかげで悪運は強い。いつでも、散りゆくのはクラエス以外の命だ。死の淵に立っているのは自分なのに、みながそれを軽々と追い越して消える。とうとう故郷の弟分までもが、目の前で。

 どんな気分だろう。

 クラエス=ブラントの生は、いったいどんな。

 フィヨルニルたるわたしには解せないことではあるけれど、ただ。


「いとおしいものを奪われた理不尽に立ち尽くすくらいなら、その押し殺さんとしている憤怒の炎でわたしを焼いてみせればいい」


 世界は見た目ほど美しくなんか、ない。


「夕刻には立つ。それまでに、使いものになるようになっておいて」


 外套を翻す。ベアトリスと目が合う。

 後方で嗚咽が零れた。聞こえないふりをして、進む。

 彼女はそうしたいだろうに、わたしを咎めはしなかった。すれ違いざま、包帯で覆われた方の左腕に鼻を擦りつけ、小さく鳴いただけ。そこに込められた意味を図るよりさきに、ベアトリスは歩みを再開した。クラエスに寄り添うために。そうであるならば、わたしも前進する。ホフステン邸の門を抜け、シグが根城としていた小屋へ足を向ける。己の耳が微かなざわめきを拾った。目を凝らす。

 住民たちが開けた場に会している。

 クラエスが彼らになんと説明して回ったかは知らないが、あれから優に一刻は過ぎた。騒ぎの元について邪推したくなる頃合いだろう。仕方ない、か。ひとの集まりへと向かう。目深に被るフードの位置を調整しつつ、住民たちの輪に割って入った。外套の竜の文様に目を留めた住民から、感嘆にも似た声が上がる。


「ああ神官さま! あの、わたくしたちお伺いしたいことが」

「いったい何があったのでしょう」

「悲鳴と、爆音、でしょうか……我が家まで聞こえて参りまして、気が気でなく」

「そうなのです。うちの子も脅えてしまって」

「神官さま、我々に理解できるようご説明願います」


 わたしは、乞われるままに口を開いた。淡々とさきほどあった事実を述べる。言葉を紡ぐごとに、場が凍りついてゆく。仔細を省き、簡素に纏めた最後の音を吐き出すのと同時、婦人がわっと泣き崩れた。呆然としている住民たち。老いた男は虚ろなさまで唇を戦慄かせ、震える女の肩を抱く。「あの子はそんな」ひく、と痙攣したように喉を震わせて、しわがれた声で続ける。「そんな罰を受けねばならぬほどの罪を犯したというのでしょうか」

 そうだ、と賛同する声が上がった。それは波のように広がり、住民たちを奮い立たせる。

 そのさまを見ながら、わかっているくせに、と思う。魔女にどんな甘言を吐かれたか知らないが、この国では彼女に加担することは大罪。加えて主人の財の流用だ。斬り殺されようが焼かれようが、文句は言えないだけのことを為している。――ひとが作ったルールに則れば。

 ぐるりと住民たちの顔を見回した。忽ち黙る彼ら。わたしの一挙一動を畏れるように、息を詰める。


「罰を与えたわけではない。そうすべきと思ったから、焼いた。異論は?」


 老いた男はなにも答えない。否、答えられないのだろう。もう何処かで諦めている。そこに憎しみが伴なおうが、絵空事のように響かない。だから中身のない正義は嫌いだ。


「ほかになにかあるならば、聞こう」


 なにかを言いかけ、やめてゆく。ルールのなかで生きてきた彼らは、紡ぐ言葉を持たない。神官に噛みつく気概がない。その腸がどれほど煮え返っていたとしても、突きつけることができない。彼らは人間以外には成れないがゆえに。ある一定の水準まで知恵の実を食んでしまったなら、決して踏み込めないだろう。いま持ち得るものすべてを捨てる覚悟がない限りは。 

 わたしは息を吐いた。踏み出す。

 頼みもしていないのにひとの群れがふたつに割れ、道を作る。

 これは何処へ続いてゆくのだろう。強烈な視線を背に、ひとの間を抜けながら考える。ルールがなければもはや動けない雁字搦めのひとの世は、何処へゆき着くのかと。

 そう思いはしたけれど、なんのことはない。ひとまず行き着いたのは、当初の目的通り、小屋であった。蹴破ったせいで戸は立てかけただけという無様なさまだが、やったのは自分自身なので文句も言えまい。隙間から室内に滑り込む。硬い寝台に飛び込んだ。剣を鞘ごと胸に抱く。手足を折り畳んで小さくなる。

 ちから尽きたように瞼が落ちた。時間は夕刻までしかないが、眠らないよりましだ。

 ――主さま。ハ-ヴィ。ふたつの脈動が混ざって落ちてゆくのが、心地よい。すぐに優しい闇が訪れた。


 同日、夕刻。

 宣言通りの刻限に目が覚めたとき、クラエスは既に出立したあとだった。

 いち早く今回の件を報告するためである。想定外のことが多々あったのだから、伝達は急ぐべきだ。ならば、怪我を治療中のシグと足を持たないわたしを連れるより、駿馬を駆ってひとり向かう方が確実に速い。そう判断したらしい。事後報告に異論なく頷いたわたしに、シグはなんとも形容し難い表情を向ける。その腹の傷はとりあえず塞がっていた。本調子にはほど遠いが、そこそこの速さでなら馬に乗れるようだ。歩くときに微かに頬を引き攣らせているのを見るに、それも無理をして、という前提の上に成り立っているのだろうけれど。

 何処に繋いでいたのか、立派な葦毛の合成馬(ミックス)を引きながら、シグが声を潜めた。


「ほんと何やったんだよ。すげー顔してたぞ副隊長」

「そう」

「そうって、お前なー」

「苦しいのは長くない方がいいと、ハーヴィが言っていたから」

「は? 意味がわからん」

「うん」

「……お前と喋ってると、神官のイメージが全力で崩れていくんだけど」


 呆れ顔のシグは、傷口を庇いつつ馬に跨る。ほら、と馬上からわたしを引き上げた。

 夕焼け空は、頭上でとろりと血のように滲む。濃密な香りすら覚えそうな、赤い紅い空だった。

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