04
嘘が嫌いなのは、たぶん、わたしが嘘の産物だからだろうと思う。
数多の嘘によって生を受けてしまったゆえのこの感情は、自己嫌悪というやつなのかもしれない。とはいえ、それはもう遠い過去のこと。いまのわたしは、敬愛する主さまの従僕。己の出生など、どうでもいい事象に成り下がっている。きっと、いまは単に、嘘によって発生する齟齬が我慢ならないのだ。一片の疑念も抱かせぬ偽りであるならば、わたしはそれでも構わない。そういうものを与えてくれるひとは、むしろ好ましいとさえ思う。
もしも呼吸のように嘘を吐き、わたしにすこしも悟らせない生き物であったなら。さきとは違う感想を抱けるのだろうが、しかし。そういう目を見張るような、おもしろい展開が待ち構えていることはなかった。
領主ホフステンの別邸、客間にて。
本日二度目のふかふかソファーの上、隣に座したシグを見る。碧眼とかち合った。あちらも呆れの色を宿していた。さて、どうするか。再び向かいに視線をやると、興奮で顔を真っ赤にし、なにか言語として捉え難いものを怒鳴り続けている男がいた。ホフステン卿、そのひとである。
「私が魔女なんぞ穢らわしきものを崇めるか! 馬鹿にするな!」――といったような内容を延々と喚いているのだが、わたしもシグも、もはや彼自身に対する興味を欠いていた。≪黒薔薇の教祖≫に流れた資金のルートの裏にホフステン家が浮上したことを突きつけたシグであったが、その返答がこれである。その資金の流動も、いまのいままで上手く立ち回ってきていただけに、この程度の頭脳では豪胆な横流しなどできまい。シグは、面倒そうに目を細める。立ち居振る舞いにおいては模範的な美しさを見せるが、ときおり顔に出る感情は粗野なものばかりだ。たぶん、彼自身は意識していないことなのだろうけれど。ぼんやりそんなことを思っていると、苛立ちを押し殺した声で問うてくる。
「どういたしますか、フィヨルニル殿」
「うん。どうしよう」
言って、小首を傾げる。微動だにせず座っているだけであったわたしの動きに、ホフステン卿のうるさい口が一瞬閉じた。躊躇いを振り切り、こちらを睨んでくる。
「そうだ、神官殿といえど、私に濡れ衣をきせるような真似をなさるのでしたらこちらもそれ相応の態度をお取りしますぞ! お解りか!? 貴女を民らの前で裁くと言っているのです! いつまでもその地位にふんぞり返っていられると思わないで頂きたい!」
どっちが。シグが突きつけた資料を摘み上げる。うるさいのは相手をしないに限る。
「シグ。これには無理だ。ほかに候補はいないの?」
「金の流れを追いましたが、そこに記されている通り、王都外で最後に残っている候補がここなんですよ。ホフステン卿の財産の一部が≪黒薔薇の教祖≫のものになっている、と」
「だから、そんなわけがないと――」
「ふうん。財産の一部って、なに?」
「ですから、記載している通りですが」
「読めない」
「え……そう、ですか。ええと、高級家財や宝石類ですね。別邸のものが流れていると思われます」
「金ではないの? 宝石はそうでもないけれど、わざわざ家財道具を運ぶなんて手間でしょう。わたし、賄賂を渡されそうになったけれど、それは金だったよ」
「賄賂!? 早く言ってください、フィヨルニル殿。とりあえず、その件で引っ張りましょう」
ざっと青ざめる顔に、喜々としてシグが笑みを向ける。きれいなかたちの笑みなのに、そこはかとなく邪悪な笑いだ。
「でも、あげちゃった」
「誰にですか」
「従者」
「突っ返すだけにしておいてくださいよ……。では、その従者のところに参りましょう。彼からその金を回収できれば、動かぬ証拠も手に入りますし。まあ、なくてもフィヨルニル殿の証言さえあればホフステン卿の人生の破綻は確実ですが」
どこか楽しげに言うシグに、哀れな男が縋りついた。「そんな、そんなことで!」シグはその手を払う。「そんなことで、ですよ。ホフステン卿。神官殿のお立場は我が国では別格、個人的な交渉は禁じられています。それを犯したのです、我らが竜神はお怒りでしょう」主さまは怒りはしないだろうけれど、まあいいか。
震える男を残し、客間をあとにする。ほんとうに従者を確保するつもりらしい。シグの機嫌は目に見えてよくなっていた。クラエスほどではないけれど、彼もまた、ヒルドールヴが選んだ駒だ。さすがに有能である。気配の察知に関して問えば、あるいはクラエスよりも。
わたしがそれを気にしはじめた頃、訝しげにシグは首筋を撫でた。周囲を窺い、躊躇いがちに口を切る。
「あの、何かおかしくありませんか? こう、空気が、悪いというか重いというか。すみません、上手く言えないのですが」
「うん。あれだと思う」
「あれ?」
「これがうっすらとでもわかるなら、すこしくらい感じたでしょう? ずっとなにかに見られている気配。目が動いてる」
シグは眉間に皺を寄せた。それの動きまでは感じないようだ。ひとであれば、高位の術士でなければ解せないか。説明はできない。これは、口頭で伝えられるような感覚ではない。すん、と鼻を鳴らす。微かな薔薇の匂い。これは、ひとを操る術式――貴方はあくまでわたしのものという意を含む――黒薔薇の薫り。もう見られてはいない、けれど〝眼を動かしていたひとの気配〟は、ある。わたしは駆け出す。腰の長剣を抜き払い、外への玄関扉を蹴破る。ひやりとした空気を纏って、主さまともハーヴィたちとも違う脈動が弾けた。
剣を盾に防ぐ。威力は低い。
「術式!?」シグの驚愕が追ってきて、そのまま前方に出た。
背のそれを抜く。先端の方に斧部と鉤部、頂端に槍部を備えた長柄武器、槍斧だ。シグは威嚇するように下段に構えた。
その影は――ローブ姿でもなければ、聖人の微笑を浮かべてもいない。ただ、眼だけが、不気味なくらいまっすぐこちらを映している。けれど、生きた目は、もうない。
「ホフステン卿がああも上手くやれるものかと思っていましたが、なるほど。ここでの任務にあたって、住民のことは調査しました。若いながら大変優秀な働きぶりだと感心していたのですが、それだけ能力があれば資金も上手く流せたことでしょう。貴方は≪黒薔薇の教祖≫と繋がっていますね?」
「はい。貴方さまの仰る通りです」
か細い声で応じて、クラエスをにいちゃんと呼んだあの子とよく似た顔は、歪な表情を作る。
ホフステン家の従者は、笑っていた。
クラエスは、まだこない。
あのときの、一度目にこの邸を去るときの違和感は、やはり気のせいではなかった。武器を持つ二人相手に丸腰で佇む従者は、シグを通り越してわたしを見、唇を細やかに震わせた。いまにも倒れそうな、蒼白の顔。
「神官さまを見たときから、わかっていました。すぐに露見すると。僕が魔女さまと――ササルゥナさまと繋がっているということが」
泣きそうな、声。けれど目はそのまま。生きてすらないそれが死んでゆく、瞬きすらなく。それはもう、取り返しのつかないくらいに。けれど、黙っているのも違うと思った。
「やめた方がいい。それは」
「きちんと、わかっています。わかっていて、やっています。貴女にはわからないでしょう、僕がどんな気持ちであの男に使えていたか。貴女が要らぬと言ったあの金を、僕がどれほど渇望していたか。こんな閉鎖空間で這いつくばってでも生きようとしている者の気持ちなんて、絶対にわからない!」
激情に空気が脈打つ。シグが槍斧で不可視の衝撃波を払った。どうやら低位術式は敵ではないようだ。頼もしいが、問題なのはそれではない。
あの、眼だ。こちらを覗いていた眼の、根本。いつかのわたしの友人を思い出す。彼は己の双眸を愛した魔女に捧げた。あの美しい天青石と用途は同じだ。――魔女のちからを強化するための媒介。遠見を成立させるために魔女が仕込んだ術式を、あれだけで補おうとしていたのか。だが、術を少し齧ったくらいの実力で、そんな荒業が上手くいくはずがない。現にもう、従者はぼろぼろだ。すこし均衡を崩せば、そこから勝手に自滅してくれるだろう。
「ちっ、めんどくせえ」
シグが荒々しく吐き捨て、地を蹴った。従者が意識を移した。だが動かない。
斬り込むのではなく、シグは器用に鉤爪を足に引っかけた。ちから強く振り上げられた槍斧に足を取られ、従者は盛大にうしろへ転ぶ。すかさずシグが組み敷いた。振り払おうとした従者の喉元を持ち手の部分で押さえつける。
「おっと、術は使うな。この距離だ、お前にも被弾するぜ?」
完璧に地が出たシグが、どすの利いた声で脅す。わたしは、ゆっくりとそこに歩み寄った。
どうしようか、と考えていた。目は諦めるしかないだろう。手がかりは丸ごと残しておきたかったけれど、仕方がない。「シグ、そのまま」彼に動くなと命じ、二人の頭上に立つ。宝石の如き瞬きを有する目でもないのに酷使されたそれは、どろりとした歪みを生じさせている。これを断って終わらせよう。ああ、ほんとうに。「こんなことをして、なんになるというの」純粋なる疑問から零した言葉に、従者の顔がかっと赤く染まる。
「僕は、僕は間違ってなんかない!」
「ほんとうに?」
「だっ、だって、こうするしか――みんなを守るために僕は――僕には僕を売るしかなくて、兄さんなら、きっと僕を――僕を? あれ?」
意味深に言葉を切った従者の身体が、びくんと派手に痙攣する。それを起点にガクガクと震えはじめた。あまりの激しさにシグが押さえつけている手を緩める。身体と身体の間に距離が空く。彼が被弾しないだけの空間が。これならさきの術を放つだけの余裕が――いや、違う。脈動の〝質が変わって〟いる?
全身を貫く、悪寒。
「シグ、緩めるなっ」
眼下で弾ける――醜悪な意図。
咄嗟に二人の間に剣を差し出すが、防げない。
解放された脈動、その術式のレベルはさきの比ではなかった。眼どころではない、もっと深いところから汲み上げたそれが、術式に則って突き立つ。従者の、腹を割って。
「ぎゃああああああああああああ!」迸る絶叫を上げたのは、従者の――まだ若い少年の喉。
その腹から生えた茨の蔓が、己を組み敷くシグを弾き飛ばす。わたしも差し入れた剣ごと投げ飛ばされた。背から邸の石垣に突き刺さり、豪快な音を上げて止まった。痛い。咥内に溜まった血を吐き捨てる。ハーヴィが織った外套のおかげか、蔓に貫かれはしなかったようだ。同じく石垣に刺さる己の剣を引き抜き、跳ねるように立ち上がる。身体に不備はない。
だが、シグは重症だった。左脇腹は深々と抉られ、地面に赤い染みを作ってゆく。「がっ、はっ」吐血するシグは、手から離れた槍斧を手繰り寄せ、真っ赤な目で従者を睨む。自身の得物を杖に立った。すぐに崩れ落ちかけたその身体を駆け寄って支えてやる。
「ち、くしょ。やりやが……た」
「シグ。立つな」
「るせ……黙って、られる、か。これ、は、何だ?」
「わからない」
ほんとうに、解せなかった。もはや彼の気配ですら、ない。
喉からは壊れたように絶音が漏れ続ける。死んだ両眼からはとめどなく血の涙が零れているようだ。腹を食い破った茨の蔓は、こちらに焦点を当て隙を窺っている。花を咲かす蔓の、艶やかな真緑がこうも毒々しいとは。
剣を握る手に、ちからが入る。美しき赤錆色の刀身が光を撥ね退け、柘榴石に瞬いた。これの相手は、わたしが適任だろう。闘争心を燃やすシグを足払いで転がし、口汚い文句を背に受けながら跳躍した。あんな状態でうろうろされた方がやり難い。当然茨の蔓がゆく手を塞ぐが、斬り捨てる。抵抗感はない。ただの植物となんら変わらない感触だ、その太さと可動性を省けば。
まずは手首を返す動きでひとつ。膝を畳み、頭上を素通りしたそれを断ったのでもうひとつ。右から突っ込んできたのを避け、真上から切断したそれでまたひとつ。
斬っても斬っても、蔓は減らない。気色の悪い音を立てて、従者の腹から次々に生えてくる。彼の種は既に芽吹いた。動力源を落とさなければ、茨の蔓は絶てないか。本体の沈黙を待っている間にシグが失血死しないとも限らない。そもそもこの術式の構成が解せないのだ、動力源をやれば終わりであるかもわからない。せっかくの手がかりであるのに――消すしか、ない、か。
躊躇はしない。
腕を上げる。
剣を添わせる。
だれがどんな目的で植えつけたか知らないが、お前の企みごと、腹のなかの種まで焼き落とそう。仕込んだそれごと、灰燼に帰してしまえ。
血の滴りが剣を伝い、わたしのうちの焔を喚起する。さあ、焼け――
「やめろ!」
蔓の先端が弾け飛ぶ。竜の焔を纏い宙を待った切れ端は、瞬きの間に燃え落ちた。わたしの攻撃から本体を守ったその刃は、深々と地面に突き立つ。使い手を写したようにまっすぐな、一振りの長剣。過度な装飾のない地味な見目だが、最高級の硬度を誇る業物だ。
馬の蹄の音が近づき、傍で止まった。裂いた腕を押さえるが、指の隙間から雫が零れた。焔はそのゆき場をなくし、燻る。飛来した剣の主を見上げる。
「クラエス」
「これは、どういうことなんだ?」
クラエスは馬上から降り、青ざめたその顔で従者を見る。
口のなかで従者の名を転がしたようだったが、わたしには届かない。
「どうもこうもない。あれが間者だ。魔女の眼であり、そして、苗床。ああなったら、消すしかない」
「な、んだそれ。嘘だろ……」
「嘘? わたしは、嘘が嫌いだ」
クラエスが瞳を揺らす。直視したくないのに見つめるから、迷子の子供みたいな顔をするはめになるというのに。地に刺さるクラエスの愛剣を抜き、突き返す。その際シグのさまを一瞥すれば、すっ転ばせておいたのに立ち上がってわたしを恨めしそうに睨んでいる。元気なやつだ。
「お前も下がれ。邪魔だ」
「ま、待ってくれ。あいつは俺の」
「莫迦じゃないなら、わかるだろう。お前のそれは、罷り通らない言葉だ」
「そっ、れは、でも……まだあいつは子供で、これから、大人になって」
「言ったろう、クラエス」
聞き分けのない男の襟首を掴み寄せる。団服が血で汚れるが、知ったことか。
惑うクラエスの褐色の眸に、わたしの冷めた眼差しが映っていた。眼前の喉が痙攣したように動く。
この状況で仲間の負傷の度合いも測れない、そんな能無しは、いるだけ邪魔だ。これならまだ、死にかけのシグの方が役に立つ。
「子供であるということは免罪符にならない。私情だけでものを言うな、莫迦が」
突き放す。よろめいたクラエスが考えなしにこちらへ伸ばした腕を、わたしの赤が遮った。この竜のちからに触れては、無事ではいられまい。なんといっても、如何なる魔女をも屠る紅蓮の焔だ。それを知るクラエスは、気圧されたように一歩下がった。彷徨った目が、深手を負ったシグのさまを捉え見開かれる。動揺し切っていたそこに理性の色が戻るのを見てから、わたしは茨の蔓とその発生源に向き合った。
さあ、どうしてくれよう。
血の味がする唇に、笑みが走るのがわかる。
脅えたように、蔓たちが引いてゆく。うぞうぞ、うぞうぞ。芋虫みたいに。
滑稽な踊りだ。
わたしは、剣を翻した。