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04

 

 あの瞬間(とき)から。

 わたしが彼にとっての残酷のかたち。そう紡いだ。どこかで壊れてしまわないように。

 だが、いくら美しいものはそのままにと欠けたこころで思えども、脆くて儚い均衡などすこしのきっかけで傾く。憎らしいくらいに。

 魔女の甘言は、砂糖菓子よりも甘い。

 けれど毒に等しい。そういうものだ。


「見ていたわ、全部」


 ほら見ろ。


「あたしと同じねクラエス=ブラント。魂も近しいのかしら?」


 吐き気がして、唇を噛む。

 クラエスがその瞳を驚愕に染めるさまは、魔女にとって愉快なものであったようだ。

 くすり、と可愛らしいと表現すべき笑みを零し、その手のひらを馬上の男に差し出す。こちらにおいで、と。竜神の従僕たるわたしを呼び寄せた意図とは異なる、蠱惑的な(いざな)い。わたしが破壊によって繋ぎとめたそれを、鮮血とともに再び抉じ開けんとして。

 まったくもって、不愉快だ。

 銀の輝きを薄汚れた血液の向こうに潜めてしまった短剣を、ノーモーションから投擲する。

 反応できたのは彼女の使役する棘のみ。主を守らんと差し出した蔓をいくつも裂いて、魔女の右頬と耳を掠めた。無防備な眉間を狙ったのだが、蔓のせいで軌道が逸れたようだ。まあ、この程度で倒せるはずもないが。遅れて、あら、と魔女。


「おまえの相手はわたしだ」

「あんなに苦労して力の源を取り上げたっていうのに、その身体でまだ動くの? 血塗れのくせに、あんたって無茶苦茶ね。大人しくしていてくれればそれでいいのに」


 傷口を親指で拭って、疼痛に眉を寄せる。痛覚があるならばやりやすい。それは相手を屈服させるひとつの手段だ。年若い魔女ならなおさら――、否。ここまでちからを持つのであれば、或いは無為なことであろうか。

 見下ろしたまま、歩を進める。足底に伝わる石畳の温度と同化してゆく身体。わかっていたことだが、あの男のものを食らっただけではこの身の崩壊は免れない。ちょっとばかり猶予が増えただけ。主さまの炎がわたしを生かす、それはわたしがわたしであるための、無二の祝詞。だから、だれにもやらない。

 蹴る。階段を飛び降り、着地。

 踏みつけた死にぞこないの怪物が悲鳴を上げた。

 心情的には構っていられないが、そうもいくまい。襟首を掴み、引き摺る。主さまのちから添えがなければ、骨と皮の体躯がこうも重いとは。限界が近い。ふらつきながら運んだそれを、シグとヨハンネスが捕まっている棘の檻に放り投げた。ぎゃん、と野良犬のような鳴き声。さきの傲慢な態度が嘘のように震えていた。ヨハンネスを拘束した棘に抱き着き呪詛めいた呟きを漏らしているが、既に脅威はないので放って置くことにする。術式を警戒してか、口まで塞がれた憐れなヨハンネスに鬼の形相で睨まれたが黙殺。踵を返そうとしたところで、しかし、シグの取り乱した呼びかけに止められる。


「ヨル、お前その身体でッ! お前が行かなくても俺が!」

怪物(それ)はあげるけど、魔女(あれ)はだめ。だいじょうぶ、すこし待っていて。ちゃんと責任は取るから」

「ちが、違うだろッ。そうじゃない」

責任を取った(その)あとのことは――任せるよ」


 にっこり笑って、締め出した。

 刻まれた『徒花(リンネバーリ)の呪』を、ひとつ撫でる。

 術に縛られ血のちからを行使できないのならば、剣だ。

「クラエス」いまだ呆けたままの長身に向かって手を出す。「わたしの剣を」「ダメよ」

 クラエスが我に返るよりも魔女のひと声が速かった。棘の蔦によってクラエスの腰に吊るされていた二本の業物――わたしが彼に預けた主さまの剣と、クラエス自身の愛剣が弧を描いて跳ね上がる。咄嗟にクラエスが伸ばした腕すら絡め取って、蔓が高くその身ごと持ち上げた。だが、クラエスは騎士だ。すぐさま切り替え、左手から宙吊りにされた体勢で長い脚を振り抜く。弾き飛ばせたのは彼の愛剣。片腕にかかる負荷に表情を歪めながらも、クラエスが叫んだ。「ヨル! 使え!」

 回転しながら飛来するそれを受け止め、鞘から引き出す。

 常の長剣(ロングソード)よりも、やや長く、厚い。硬度に特化した造りだけに重いそれは、握り手もわたしには太過ぎて、両手で掴まなければ取り零すだろう。上段に振り上げるついでに、背後から飛びかかってきた蔓を斬り捨てる。重い抵抗感があるが、扱えないわけではない。身を低くし、下段に構える。獣の呼吸を思い出せ。いまの身体では考えて動くのが億劫だ。

 かり、と先端が床石を引っ掻いた。

 吐く息とともに前傾姿勢で跳ぶ。


「――棘たち!」


 短い魔女の命により、こちらに向けて鋭い蔓の群れが押し寄せる。

 拘束、そして死なない程度にいたぶれ、と。つまらない差配だ。唇に冷笑が広がる。円を描くように剣を振るう。追撃は速いが、皮膚を撫でる程度のものはどうだっていい。裂傷とともに訪れる痛みが、この意識を繋ぎとめているのも事実である。剣で捌き切れなかった蔓に右の脚を叩き落とす。剥き出しの足裏に食い込む棘のおかげで、血でぬるつく状態でも難なく踏み抜けた。そのまま足場にして跳躍。宙にいるわたしを狙うそれを再び蹴って、クラエスを吊った太い蔓を斬りつけた。だが、浅い。救出には満たないひと振りだ。己の身体が体勢を崩したまま落下する。

 足からの着地は諦め、剣に抱きつくように身を捻る。下方から伸びてきた蔓の中心を斬り開きながら、冷たい床石に突き立った。衝撃に痺れる手のひらに収まっている剣の両脇に、半分に割られた蔓が重々しい音を立てて横たわる。束の間の静寂。弾かれたように魔女の忠実なる切っさきが、こちらに斬り込んでくる。きりがない。迫る真緑の毒々しさが目の奥で瞬いた。うるさいくらいに。

 息を吸い込む。

 ただただ、吠えた。

 旋律はない。あるのは、脳みそを直接引っ掻くような不快音。我が同胞、ヴァーヴズ仕込みの超高音域により、ヨハンネスの首輪のうちに仕込まれた術式を高速展開させる。

 読み取れたのは、奇しくもわたしの下僕。ヨハンネス=クルームだけであろう。

 怒りに燃えていた魚眼石(アポフィライト)が、無理矢理己の深層への経路を開かれる過程で色濃くなる。打ち出されるのは、彼が得手とする炎の術式ではない。天駆ける(いかずち)の矢。纏うのは静かなる熱の奔流。迸る電撃が辺り一面を薙ぎ払う。

 ――轟!

 炎にも似た熱風が駆け、発動させたわたしですら投げ飛ばされた。

 棘の(しもべ)たちを一掃された魔女は、己の防御に使ったそれらが煤けて痙攣するさまを、立ち尽くしてぽかんと眺める。シグとヨハンネスは言うまでもなく、蔓の拘束から引き千切られて壁際で転がっている。足元には怪物の抜け殻。クラエスも然り。ただ、彼だけは打ちつけられた床から這って、行儀よく座したわたしの剣を掴んでいた。わたしに渡すという己の使命を全うするために。抜け目のない行動であるが、しかし。

 次の瞬間、その褐色の眼が衝撃に染まるのを見た。

 流れたのは、透明な雫だ。

 見慣れた血の滴りでは、なく。

 泣いていたのは、魔女だった。


「やだ。こんなの、やだあ……!」


 まるで駄々をこねる、幼子だ。

 蹲って、わんわん泣いていた。さきほどまで〝それらしく〟装っていた面影すらない。魔女は砂糖菓子のお嬢さんの成れの果て。そう、うら若きお嬢さんだったのだ。そう遠くない過去で、もしかしたらこころだけはいまでも。


「がんばるから、あたし、がんばるから! ひとりにしないでよう、ねえ……ねえってばあ」


 彼女を守って灰と化した棘たちに触れた。ぼろりと欠けたそれを抱えて、やだやだと首を振る。錯乱した魔女。眼前の現実を、なにかと取り違えているであろうそのさまは異様だ。いまなら楽に彼女を討てるだろうに、ほとんど使い切ってしまった身体が上手く動かないことが口惜しい。込み上げる嘔吐感をやり過ごし、剣を支えにどうにか立ち上がる。

 彼女を見る。隣にあるクラエスも。

 ああ、莫迦め。魔女は甘言を吐く。脳髄をシロップ漬けにするような、とびっきりの毒を。無論、それがおまえに向けられたものでも、ましてや言葉ですらないこともあると――わかっているだろうに。ねえ。

 美しい魂を道連れにしようなど、そんな不遜。

 わたしが赦すと思っているのならば、魔女というものはどこまでも、愚かだ。

 警鐘が鳴り止まない。よもや、ここが引き際である。捨て置くものを選ばねば。ゆえに、腹から絞り出したありったけの声で叫んだ。


「いにしえよりきたる雷のちからを借りて、ヨハンネス=クルームに命ず! 『シグリット=フォーゲルクロウ、並びに己自身を必ず逃がせ。命令の完遂に伴い、フィヨルニルの支配権を破棄する』――行けッ!」


 首輪に埋め込まれた、ふたつめの(まじな)い。

 あのヒルドールヴが喜々として渡してきた理由のひとつ。あの首輪は先走りがちなヨハンネスのちからを制限するためのものではない。わたしの下僕が嵌めたそのときから、彼は真実、わたしの支配下にあった。手続きを踏んで命ずれば、たとえヨハンネスの意に反していようがおかまいなく、我が傀儡に成り下がる。そういう呪術が仕込まれてある。不測の事態を見越して。

「この餓鬼……、覚えてろッ」すべてを察したであろうヨハンネスの目が、強制的に仄光る。

 惜しみないちからの渦。火蜥蜴の術式が描かれる。さきは『魔女の果実』に手も足も出なかったヨハンネスだが、出力を制御しない強制的な解放ならば、足元くらいには届くだろう。以前のものよりひと回り大きなそれは、暴風とともに雄々しい巨躯をくねらせ、泣き喚く魔女へと頭から突っ込んだ。床石を割って、立ち上がる棘たち。魔女が造り上げた防壁は彼女の命なくして動く。

 けれど、それだけ。

 火蜥蜴は破壊のためだけの、炎の化身だ。魔女の意思なき壁など障害と成り得ない。次々と突出する棘を越す勢いで食い破り肉薄したそれに、ようやっと魔女が涙に濡れた面を上げた。

 漆黒の瞳に、溢れんばかりの憎悪と絶望。そして、ひと筋の希望じみた狂気。その細腕が、蜜に吸い寄せられるように傍まできていたクラエスへ向かう。そして、勢いよく抱き着いた。振り払うという思考は――たぶん、ない。

 まさに魔女を討たんとしていたヨハンネスの動揺は、ダイレクトに火蜥蜴へ。

 生まれた隙を魔女が見過ごしてくれるとは思えない。いま一度、声を振り絞る。足りればいいが。


「『逃げろ』!」


 術式の再行。これ以上ないくらいの倦怠感が、さらに増す。

 命令を描き換えられた火蜥蜴は、転じて時間稼ぎの砦へ。二重の行使による強制力には逆らえまい。ヨハンネスはシグを引っ立て、外へと向かった。魔女は追うことをせず、ただただ、微動だにしないクラエスに縋りつく。その美しい魂を逃がすまいと。黒薔薇(ブラックバカラ)が強く香った。なにより烈しく。わたしまで、息ができなくなるくらいに。


「クラエス。おまえ、それでいいの」


 わたしの意識はまだここにあって、言葉になっているのだろうか。


「だって、まだ、燃えているでしょう……?」


 わからないまま、辺りは再び火の海と化していた。火蜥蜴の炎がすべてを焼く尽くそうとしている。いつの間にか崩れ落ち、指のさきひとつ動かなくなったこの身体には、浄化の熱さえも届きはしないが。

 ああ。

 最後に思い至った事実に、嘆息する。


「ハーヴィに怒られるなあ……」


 約束を破ってしまった。

 そんなつもり、なかったのに。

 ――ヨル。僕ら以外のものは、お前のなかに入れてはいけない。これを、他から調達してはいけないよ。わかるね?

 そう言ったハーヴィの、美しい曹柱石(マリアライト)が冷たい怒りと、それからひと欠けらの悲しみに彩られることを想像し、つきりと胸が痛む。この苦しみすら幻痛なのか。そうであれば、いちばん愚かなのはわたしだ。ぱちん。音を立てて、すべての感覚が離れてゆく。

 目覚めたとき、わたしはフィヨルニルでいられるのか。

 最も大切な疑念が、脳内で麻薬の如く広がって。

 そうしてわたしの細く拙く繋がっていた意識は、とうとうこの身体を手放した。

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