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03

 

 ほんとうは、わたしでなくともよかったのだ。

 知っている。知っていた。けれど、わたしが望んだのだ。はじめて、こころの底から。このひとの傍に、と。役に立ちたくて。ただただ、必要と、されてみたくて。

 ああ、けれど。上手くいかない。わたしではあまりに足りないことが多すぎて。

 いつになったら、誉れ高き主さまの剣になれるのだろうか。ほんとうの、ただひと振りの(つるぎ)に。

 目のずっと奥で、ぱきん、と嫌な音が鳴った。――わたしを嘲笑うが如く。


「絶望で声も出ぬようだな。存外脆いものよ」


 厭らしい、怪物の嘲笑。

 腕から、足から伝い落ちる赤の雫は、なにも生まずに身体の温もりを奪う。

 いまやどこにも、燃え盛る熱がない。いや、唯一それを孕んでいるのは、黒薔薇の呪詛たる『徒花(リンネバーリ)の呪』だ。内側から、沸々と不愉快な蔓を伸ばしてくる。やつはこれを入口(ポータル)に、わたしの炎を黙らせたのだ。いまさら喉を掻き、抉り、忌まわしい文様をこの身から消したとて、発動した術式は大元の発生源を討たぬ限り――或いは自発的な解除があるまで――は断てまい。理解は、した。

 指先から冷たく凍えてゆく。皮膚という皮膚が鱗になり、ひとつずつ崩れ落ちるような圧倒的な喪失感。固く握り込んでいた銀の短剣が、剥き出しになった肌と同化するように。ただ硬く、鋭くなってゆく。主さまにかたち作って貰ったこの身を削がれて残るのは――

 からっぽの、わたし。

 歪に産み落とされた、忌まわしき生きモノだけ。


「このまま竜神の炎ごと我がモノとしても良いが、それでは些か趣に欠けるというもの。わざわざ舞台を整えて待ってやっていたからには、それなりのものを見せて貰わねば……。

 さあ、我に乞うてみせろ『赤の剣姫』よ。憐れに、その傲慢な(こうべ)を垂れてみろ。――殺さないで、とでもな! く、くくくっ、はははははははははははは!」

「……ッ、おい! あんた、黙ってないで何とかしろよ!」


 ヨハンネスが想定外の事態に吠えている。

 けれど、外界の声が、わたしの外側で滑ってゆく。

 たったひとつないだけで、こんな。ああ、でも。

 そうであるならば――、尖れ。触れるすべてを貫き、無残に壊してしまうくらいに。

 されど、耳朶を叩く幻聴は鮮明なる記憶の熱さでもってわたしを焦がす。とても、苦い。


「ヨル!」


 思考に侵され黙して立つわたしを見兼ねてか、シグが踏み出した。

 すぐにその腕に捕まるが、振り払った。ぴりりと剥げた皮膚が戦慄いた。身体を巡るいっとう強いおぞましさに視界が眩む。吐き気がした。「え……」シグの気配が強張るが感慨は沸かない、向けない。いまのわたしはきっと、説明のしようがないくらいにひどい眼をしているだろう。

 だから、笑う。

 否、くつくつと喉奥から声が漏れていた。

 意思とは裏腹に、唇が描く弧が作りものじみて吊り上がってゆく。

 もういい。脆いのなら、わたしのすべて砕けてしまえ。

 左足を引き摺って、前へ。止まらない出血のためか、全身がやけに重い。面倒になって、もはや足枷となっている靴から足を抜いた。呼吸が儘ならぬ閉塞感に傾いだが、とはいえ、主さまの加護を受けた身だ。靄がかかったような世界で、おかしくなってゆく器官で、こうして意識自体は保てている。辛うじて、ではあれど。

 身体が発する警鐘を無視し、ふらりと一歩、踏み出す。


「亡者の笑みを浮かべおって、狂ったか」

「……くるう? おかしなことを言う」


 怪物を斬れ。

 剣であろうというのなら。


「わたしははじめから、〝こう〟だった」


 跳躍したさきに、怪物の枯れ枝の身体があった。

 術士たちは『触れられる』ということに重きを置かない。術式を繰ることのできない人間は、彼らの懐に入ることもできぬまま死んでゆくがゆえ。拮抗する術士の攻防は、術式の応戦に尽きる。彼らがこぞって外套に組み込むのは、あらゆる術式に対する抗体のみだ。ひと振りの銀の刃など、端から届かぬものと決め込んでいる。だから、これがいちばん効く。

 右腕を振り下ろす。肉に触れ、食い込み、裂いてゆくのを感じる。わたしの一閃は、バターナイフの如く簡単にそれを薄く割り広げた。逃げられぬよう、逆の手で首を掴む。足払いで体勢を崩し、膝で傷を抉るように床に押しつけた。遅れて、驚愕と絶叫。なにが起こっているのか理解できぬと痙攣しながら、激痛に喘ぐ。白い階段を伝う濁った赤。体格が近いのも手伝って、痩躯を組み伏せるのは容易かった。間髪入れずご自慢の指揮棒を掠め取り、シグたちの方へ投げ捨てる。これで術式の構成速度は格段に落ちた。手のなかで短剣を回し、逆手に。払う動作で表情を隠すフードを斬り捨てた。煤けた長い髪が零れる。

 腐臭と魔女の気配に対する、嫌悪感が込み上げた。

 顔に根を張る黒薔薇(ブラックバカラ)の棘、その下地となる肌は黒ずみ深い皺が蔓延る。目は落ち窪み、引き吊った頬の感触はかさついていて、生温い。年老いたこの見目であるのに、骨格の作り自体は子供の幼さを残しているさまがとりわけ異常だ。くすんだ皮膚の上で煌々と瞬くのは、欲に濁った宝石。古銅輝石(ブロンザイト)の瞳。クラエスの褐色の目と同系統の色彩だが、似ても似つかぬ風合いだ。それがいまや、わたしに対して明朗なる恐怖を覚えている。

 宝玉の眼が、ふたつ。

 てらてらと光って、欲を煽る。

 ひどく、喉が渇いていた。


「ま、まさか、そのようなわけが……」


 震える声で、眼下の怪物がなにか言った。

 唇の動きで言わんとすることは把握したが、もうほとんど、わたしの耳は聞こえていない。耳鳴りと幻聴がうるさくて。次いで身体の支配を奪われるよりさきに、と短剣を振り上げる。

「ぎぃ――、ぎゃああああああああああ!」微かに捉えた、高らかな悲鳴。

 奪い取るのは簡単だった。片方の古銅輝石(ブロンザイト)に差し込んだ刃が経由口だ。そこから、汲み上げる。抉じ開けた窓からの一方的な搾取ならば、不器用なわたしとて造作ない。渇いて、飢えて仕方がない身体が欲するまま、嚥下する。

 どろり。わたしの内側へ流れ落ちる熱。

 どうしようもなくまずい。だが、質など関係なく器の欲は凪いだ。

 短剣をすこしだけ動かすと、ぐち、と血と分泌物が粘着質な音を立てる。如何に宝玉の眼であろうが、柔いものは柔い。術士に必要不可欠なそれを正しく沈黙させるため、宛がったままゆっくり、沈めてゆく。怪物の――もはやそう呼ぶべきかもわからないが――枯れ枝の身体が再三の痛みに激しく跳ねた。俎上の魚の如く。消えゆく灯の最後の息吹のように。

 それに宿るちからの道が途絶えたことを知覚し、引き抜く。ひい、と情けないひと鳴き。


「ゆ、許さぬ、ぞ! 傀儡の、分際で! 我の、目を……栄えある古銅輝石(ブロンザイト)をッ」

「喚くな俗物が。もうひとつも失いたくなければ、わたしの炎を返せ」


 しゃがれた甲高い声に眉をしかめる。ひとまずわたしの身が、血と涙に塗れた悪態が聞き取れる程度には回復したということだけれど、しかし。雁字搦めの拘束は薄れたが、まだ、なにも戻ってはいない。

 みっともなく喉奥で喘ぎながらも、わたしの下から這い出ようとする男の前髪を掴む。ちからの加減ができず再び悲鳴が上がったが、そもそもこれのせいであるゆえ黙殺。血濡れた銀の刀身を頬に当てる。だらしなく垂れたよく回る舌を落としてやってもいいが、なによりも有効なのは目を抉るこの行為だ。

 対術士戦においてのみ有効の、極論。

 宝玉に例えられる両の瞳を潰してしまえば、彼ら術士は思い通りのちからを繰れない。だから彼らは特別な目の持ち主を評価し、欲している。なによりも術式を高める媒介に適しているのがそれであるがゆえ。特に高位の術士であればあるほど、欠損による落差は激しい。

 こんな風に抵抗もできず震えるしか、ない。


「おまえ如きに、主さまの炎を御することはできない」

「い、嫌だ。これは、我が、悲願の、ための……」

「わたしはおまえに返せと言っている。これは、最後通告だ」


 あまり強情を貫くのなら、拷問紛いの殺し方をしてやってもよいのだが。

 うっそり笑ったわたしの狂気に、男の喉がまた鳴る。赦しを乞うことも忘れ、ゆるりと醜く顔を歪めた。憧憬にも映るその仕草に、わたしの内側で『それ』が蠢く。

 ああ――、ぱきぱきと、右の目がうるさい。

 ちいさな音を立てて美しき霰石(アラゴナイト)の欠片が落ちる。ひとつ、ふたつ。瞬き毎に、冷ややかに。血と一緒に輝きが床を滑るのを追って、眼前の褐色の眸が緩慢に動いた。それから、衝撃にうち震える。この男がなにを言いたいのかはわかる、腐っても王の傍に控えていた身だ。わたしの瞳の不自然さに気づいても、なんら不思議はない。とりわけ術士というものは、紐解けもしない神秘に挑む日々を重ねる生きものだ。ときには時間、或いは姿かたちを歪めても、彼らにとって果てしない神々の領域への侵食が生きる意味であるのだから。

 わたしはそんなこと、どうだっていいのだれど。

 ゆえに目は逸らさない。せいぜい、疑心にかられていればいい。死してさえも。


「時間切れだ。……いただきます」

「まっ、待て。何故だ、それは、ルアシヴィルの秘宝――」


 銀のひと撫では、言葉よりも鋭利だ。

 軽く滑らせただけだが、絶音とともに脈動が弾けた。もう飲み下す必要はないから、潰してやるだけでいい。すぐさま刃を引き抜く。己のちからを過信するような俗物は、自身の瞳以外の媒介を有さない。ゆえに、アレクサンデル=ボーストレームにとって、いまこのときが終焉だった。

 死だ。術士として、もはや生きてはいない。

 身体に染みついた『魔女の果実』の匂いが、急速に萎む腐臭に比例して膨らむ。返せと繰り返したわたしの言葉は、しかしそれに阻まれていた。この身体に潜む女の魔手が、わたしの大事な炎を掴んで離さない。腹立たしい限りである。堪らず舌を打った。

 どこだ。『魔女の果実』はどこに潜んでいる?

 獣の如き咆哮を上げる身体を押さえ、枯草色の外套を剥ぎ取る。手のひらの舌には骨と皮のみすぼらしい体躯。釦が飛んだシャツの隙間から、黒い棘の文様が這っているさまが視認できた。そうか、そういうことか。顔のみならず全身に、それこそ爪のさきまで張り巡らせた黒き魔女の(まじな)いが、この男に『魔女の果実』を貸し与えているのだ。己がうちの『魔女の果実』を使う権利を分け与えてやったというだけならば、これは畏怖すべき生きものでもなんでもない。魔女が気まぐれをやめれば、ただの人間に戻るだろう。瞳を失ったいま、術式を繰ることはできまいが。

 はりぼての怪物など、笑い話にもならない。

 この男ではなく魔女を討たねば、永遠にわたしは迷子のままだ。


「ああもう、結局のところ役立たずなんだから――嫌んなっちゃう」


 と、意識の外側から唐突に。

 それは場違いに軽やかな、呪いの言霊。

 アレクサンデル=ボーストレームの痩躯が突如として生に漲る。抑え込んでいたわたしを容易く振り払い、操り人形の如く跳ね起きる。こちらへ飛びかからんと構えたやつを、咄嗟の判断で蹴り飛ばした。骨が軋む音。肋骨を折られた身体は階段をいっそ愉快なくらいに転がり落ちて。両の目から流れる血が、鮮やかに白い床板を彩ってゆく。舞台の主役は既に変わっていた。

 シグたちの後方。

 陽炎のように立つシルエット。細い女。

 感覚が鈍っているせいもあって、いつからいたのかすらわからない。けれど、わたしの獲物があちらからやってくるとは――僥倖。

 わたしはおぞましい右目で、眼下を睨めつける。

 視線のさき、ただ美しく、血のように紅い唇がほころんだ。


「それでも、きちんと術は発動したようだから及第点はあげましょうか」


 さて、と。

 令嬢の如く、一礼。


「初めまして、『赤の剣姫』フィヨルニル。あたしが魔女。あんたたちが『ササルゥナ』と呼んだ、激昂の魔女よ」


 激昂の魔女。

 特徴的な蜂蜜色の肌、そして漆黒の髪と瞳を併せ持つ、砂糖菓子になれなかった女の子。

 華奢な体躯に赤みがかった黒の衣装。レースを幾重にもあしらったそのかたちはドレスに近いが、広がったスカートの裾が右の腰から斜めにばっさりと切り上げられている。大胆に覗く甘やかな色味の脚に、いくつも咲いた大輪の花。この喉で開花を待つ黒薔薇(ブラックバカラ)だ。嫌悪を覚えつつも、思わず『魔女の果実』の気配に吸い寄せられそうなほどに色濃いちからを纏っていた。

 この娘こそ、わたしたちがいまや魔女と呼ぶ、唯一の存在。

 彼女は、あてられて声も出ないシグに毒々しい微笑をくれてやる。そして、攻撃に転じようとしたヨハンネスごと、瞬きのうちに黒薔薇で絡め取った。足元から覆われ、四肢を固定されるふたりと一匹。文字通り、棘の拘束である。

 すかさずヨハンネスの炎の術式が展開したが、魔女にとっては無意味。

 嘲笑の乗った唇から紡がれた短い言の葉が、瞬く間に無効にしてみせた。


「くそッ!」

「もう、大人しくしていてくれる? あたしはあの子に用があるの」


 機嫌を損ねた町娘のような口振りで、魔女はヨハンネスの拘束をさらに強めた。苦悶の声など聞く気もないらしい。軽く指をひと振りし、蔦で口枷をする徹底ぶりだ。

 そう、これが彼女たちの財産。『魔女の果実』と呼ばれるものの真髄。正しく行使されたそれは、術式など意にも解さない。水と油が混ざらないのと同じ。境界を明確に引く異なるちからならば、単純に強い方が勝る。自然の摂理だ。ヨハンネスの術式を以てしても魔女には不足だと、もはやだれの目にもわかる。できれば大人しくしていてほしいけれど、どうだろう。わたしの下僕は血の気が多い。いまも爛々と瞳が怒りを溜め込んでいる。無駄に怪我を重ねなければいいが。

 鈍い頭がようやっとそこまで思考を巡らせたとき、新たな気配が飛び込んできた。

 毛並みのいい栗毛の合成馬(ミックス)の手綱を引く、背の高い男。褐色の双眸が、現状を把握できず数度瞬く。馬上ですら息が整わないのは、なにか不測の事態を片づけてきたがゆえか。

 クラエス=ブラント。

 闖入者は、わたしがこっぴどく突き放した美しき魂だった。

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