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02

 

 まったくもって、血が足りない。

 それは熟考するまでもない事実だったので、手早い解決策へと振り返る。シグは騎士の矜持とやらを守るため、逃げも隠れもしていなかった。たとえ、目の当たりにした術士たちの小競り合いに青ざめていたとて。呆れる。そういうところが、気侭過ぎる性質を有するヒルドールヴのお気に入りである所以なのだろうけれど。

「シグ」怪物への警戒はそのままに近寄る。「剣を貸して」

 彼が背に追った得物ではあまりに身の丈と合わず、使い勝手が悪い。腰元に携えた短剣を借り受けようとしたのだが、ひどく動揺したように目を滑らせる。わたしの赤く染まった傷口に、それから血塗れのヨハンネスに。再びこちらを捉えた瞳には、ああもうまったく、と嘆きたくなるような、固い意志が込められていて。

 シグは黙って、背中の槍斧(ハルバード)を抜く。

 隣の合成馬(ミックス)は、寄り添うでもなく一歩退いた。それが正しいことの如く。二者間の信頼関係ゆえか。この子も逃げ出しはしないのかと、逃げればいいのにと、頭の片隅で思う。


「シグ。やめた方がいい」

「それでも盾くらいにはなるだろ?」


 盾って。無駄死にもいいところだ。

 わたしはわたしの代わりに、だれかを死なせたいとは思っていない。もちろん、逆も然り。生も死も、わたしのすべては主さまのもの。主さまがこの身に終末を与えてくれるまでは、たとえ四肢を千切られようとも足掻くだろう。

 けれど、脆いものはそうもいくまい。

 死が甘露なのは、死にたがりに対してだけである。

 こちらの制止も聞かずわたしの前へと出ようとするシグに、仕方がないので外套を放る。ハーヴィの術式が織り込まれたひと羽織に、とんでもない宝物(ほうもつ)を投げつけられたと目を見開いた。主さまに跪くわたしたち従僕のみが所有する、正しく『盾』たる装飾だ。術式への耐性はハーヴィ仕込みの一級品。露出した部位に気をつければ、術式の雨降る死線でさえ生き残れる。死にやすい身体にはこのくらいの重装備が必要だろう。着ろ、と身振りで示したところで、憎悪に歯軋りしていたヨハンネスの術式が駆け抜ける。

 よりにもよって怪物に劣等種と詰られたことがよほど気に障ったのか、重厚な炎が轟と雄叫びを上げた。

 燃え盛る渦は礫を掻き集め、螺旋を描いて巨手へと噛みつく。握り潰した端から再び勢力を取り戻すゆえ、相手をさせられている宙の手の皮膚は焼け爛れ、見た目にひどい有り様だ。ヨハンネスが編む術式の追撃の速さに、些か怪物も驚愕を覚えたらしい。

 懐から枝の如き腕と同様、細い棒を取り出した。光沢と相反する石炭のくすんだ色合いに、鋭角を削り落とした滑らかな形状。聖歌隊を管轄するフロプトが指揮棒と呼び振るう、それと同じ形状である。術式を構成するにあたって道具を用いる系譜もあるとは聞き及んでいるので、その類だろう。

 指揮棒の先端が、特有の淡い燐光を放つ。

 宙へと綴られていく記号化された高度な編成式。あいにくと文字に弱いわたしでは、内容は窺い知れないけれど。学はないが、術式に関する知識のみそこそこ有しているヨハンネスが盛大に舌打ちしたところを見るに、展開は暗い。いやな臭気が充満しはじめている。もはや了承を取ることを諦め、攻防戦に気を取られたままのシグから武器を掠め取った。

 短剣は、銀の乙女の輝き。

 わたし如きの皮膚を裂くには十分過ぎるほどだ。

 軽くひと撫で。左手首から我先にと零れゆく血潮たちがすぐに燃え上がり、そのちからをかたち作る。瞬間、膨らみ続けていた怪物の腐臭が弾けた。突出している巨手の筋肉が目に見えて盛り上がる。皮膚が厚さを増し、爪が黒く鋭く、攻撃的な造形へと。変態を遂げた対の腕はひとのものというよりは、魔物のそれ。

 狙うのは、わたしの下僕だ。

 獰猛なひと振りはヨハンネスの術式を真っ二つに引き裂き、術者をも同じく断とうとする。防護術が瞬く間に組み上げられるが、ヨハンネスが特化しているのは攻めの術式。守りに関しては指南書の域を出ないことは把握ずみ。これではちからを増幅した腕の一閃が勝るだろう。

 だから、わたしが片づけねば。

 勇み出た炎が豪快に食らいつく。ちからの拮抗。式が歪む。轟音。


「――ぐっ!」


 ヨハンネスが爆風に煽られ、こちらの足元まで転がってくる。

 その身体が懲りずに奴に向かっていこうとするので、背を強く踏みつけた。呻き声。上手い具合に入ったのか、か細い罵倒を発しながら身悶える。わたしを睨むより、浅はかな己を顧みるのがさきだろうに。

「ヨハンネス」その後頭部を冷ややかに見下ろす。「おまえは莫迦なの?」

 途端。

 怪物が笑った。

 ひどく無邪気な子供の如く。

 槍斧(ハルバード)を型通り構えたシグを視線で制し、炎たちがステップを踏むに任せた。繊細な技巧など知りもしないが、舞踏としては及第点であろう。爆発により指が弾け飛び使いものにならなくなった片腕を越え、もう片方を躱し、階段を駆け上がる。ここはもう、炎の海だ。けれど、轟々と燃えゆくそれを間近にしても笑い声は絶えなかった。彼が纏う朽木色のはためきも、熱さを知らないかの如く。

 シグたちの手前、火力を抑えているゆえであれど、気に入らない。

 だが、炎たちに待ったをかける。ああも悠長に構えているのだ、急いてはことを仕損じよう。


「シグ。盾はいいから、矛を任せた」

「は? 矛って、まさか」

「魔将を討つのは騎士だ。お伽噺の相場はそう決まっている。だからがんばれ」

「いや待て、ヨル。冷静になれ。頼むから」

「下拵えはわたしが……、いや。わたしとヨハンネスでする。わたしじゃ解けないから。ヨハンネスの速さなら、読んだあとでも間に合うでしょう?」


 詠唱ならばともかく、わたしでは文字式の読解は無理だ。気配と匂いでは、構成と座標軸を断定できないゆえ。互いの持ち得るちからの押し合いに持ち込めるのならばそれでもいいが、このふたりがいてはそれも無理だ。巻き添えにしないとも限らない。ならば、裏返す。ハーヴィの得手だ。見誤らない洞察力と勘、それから術式構成の速さが必要不可欠の一発勝負。

 即席にしてはよい作戦だと思ったのだけれど、わたしの足元で当のヨハンネスが苦々しげに舌打った。不可能だ、と表情が語る。だから、不思議に思い首を傾げた。


「あんたの方がバカじゃん。俺が怪物の下で足掻いたところで、どうなると思ってんの。元宮廷術士に運任せのカウンターなんか決まるかよ」

「短気で短慮なくせに、意気地もないの?」

「はあ⁉」

「劣等の種なんかありはしない。獣の血がひとのそれより濁っているなんて、純潔至上主義の掲げた世迷言だ。ヒルドールヴは獣で、わたしも似たようなものだけれど、だからといってひとに負けているとは思わない。宮廷術士の称号を得ていたからといって、それがどうした。奴を潰して、名実ともに(フュー)の冠をおまえのものにすればいい。わたしは、脆いのはどちらかわからせてやれと言っているだけ。単純なことでしょう?」

「……むかつく女」


 背に乗せた靴を退ける。犬のように伏していた身体が弾かれるようにして起き、炎の瞳でわたしを射る。燃えてはいるが、負の感情でないそれを向けられたのははじめてだった。

 悪くない。そう思う。

「やってやろうじゃん」魚眼石(アポフィライト)が煌めく。好戦的に。「あんたに指図されんのは癪だけど」

 己の唇が冷たい笑みを、ゆうるりと描いてゆくのを自覚する。

 身体とこころが、獣の気持ちを思い出したように。

 ふと瞳を上げれば、けたたましく笑っていたはずの怪物がこちらを注視していた。うるさい目だ。睥睨を返すと、指揮棒が優雅に滑る。新たな式、そこから膨らむ腐臭が、ぐずぐずに崩れた巨手を元通りに直してゆく。踊る炎たちの隙間で骨が生成、覆うように筋や脂肪が纏いつく。あの規模の再生が易いとは、厄介な術式である。


「密談は済んだかね? まあ、野犬風情と只人と、竜神の傀儡(かいらい)。その程度で思考できる範囲は遥かに狭いがね」

「アレクサンデル=ボーストレーム。おまえは討つ、ここで。ひとつ残さず」

「貴女の囀りが口だけにならぬと良いがな」


 囀ずるのは鳥だ。獣に説く台詞ではない。

 どこまでもこちらを見下す姿勢に、笑みが深くなる。その仮面、すぐに剥ぎ取ってやろう。

 あちらの先行。修復の文字式に描き加えられる攻撃の言の葉。計十本の指が開き、わたしを握り潰さんと迫った。銀の刃で深く手首を裂き、血潮に流れる主さまのちからを喚起する。赤き海を駆け抜ける無数の炎の弾丸。ふたつの手のひらを無差別に撃ち抜き、蜂の巣の如き穴を開ける。ごぽり。零れ出す体液と腐臭。やまない幾重もの猛攻に、造られた肉片が四方に飛散した。しかしそうあってもなお、怯まない。

 だからといって背面にシグたちが控えているいま、わたしに後退はない。

 相手にとってわたしが的だというのなら、それでいい。矢面がわたしの役割だ。

 筋と肉を晒した拳が唸る。その動きは存外速い。頑丈なわたしとて、まともに食らえば終わりだ。炎を巻き上げ、辛うじて軌道を逸らす。隣に突き立った右拳が床の石を割り、堪らず体勢が崩れた。この機会を逃さまいと肉薄するふたつめ。衝撃で埋まった片足をちからずくで瓦礫から抜き、前転の要領で前へ出る。血の軌跡が白い床に散るが、痛む足で無理矢理踏ん張った。

 打ち下ろすはずだった座標のずれによる軌道の修正、発生した僅かな遅延。

 それこそ、わたしの好機。

 音もなく背後の炎たちが盛り上がり、追撃の腕を丸ごと呑み込んだ。

 捕まえた。さあ、焼き尽くせ。

 腐臭すら包み、瞬く間に灰へと。如何に綿密に仕込んでいた術式かは知らないが、突き詰めればひとが作った肉の塊だ。正面切ったちから比べでこちらが劣るわけがない。ここまで近ければ、ふたりを巻き込むこともなかろう。

 その腐ったちからごと。術式の痕すらなく、消してくれる。


「式すら掻き消す炎とは」


 怪物の驚愕。恍惚として続いた言に、喉の黒薔薇が熱く燃えた。


「ああ、欲しい……!」


 たれが、おまえなどに触れさせるものか。

 冷たく織り込まれる術式。悪寒が走る。感覚だけを頼りに、手を伸ばした。

 生きている右の巨手が迫る。間に合うか。周囲でわたしの炎が跳ねる。そこへ差し込むのは異なる彩のちから。ヨハンネスのものだと知覚した瞬間。左側から腹部へ重い衝撃、己の身体が紙のように吹っ飛ぶ。巻き上げたわたしの炎が怪物の術式と拮抗し、爆ぜた。

 耳をつんざく轟音。

 直撃ならば、胴と足とが離れていたかもしれない。

 腹部の鈍痛とともに宙を舞ったこの身を抱き止めたのは、得物を投げ捨てたシグだった。勢いが殺し切れずともに倒れ込んだが、わたしが床と接触しないよう抱き込むところはシグらしい。その気遣いは無用なことではあれど、礼は言っておく。

 しかし、痛い。やけに左半身が。

「直撃からは助けてやったじゃん、感謝しろよ」とヨハンネス。

 そうだが、あの強襲はわたしでなければ穴が開いていたと思う。

 裂いた左腕、加えて無理に引き抜いた同側の足からの血が流れ溜まって靴すら重い。煩わしいものは嫌いだ。できるなら、軽く。飛んでしまえるくらいに。

 わたしが身を起こすよりさきに、再三の追撃を捌くためヨハンネスの拘束の式が飛んだ。火の鎖で締め上げられ、地面に引き落とされた巨手は、芋虫の如くのたうち回る。されど、相手は元宮廷術士。指揮棒のひと振りで、ヨハンネスの鎖が制御を失う。盗られた。構成が速くとも、繋ぎ直せなければ次の手に転ずることはできない。新たな術式を描く前に、制御を奪われた炎の鎖がこちらに牙を剥いた。辛くも躱したヨハンネスが再び転がり込んできた。まるで(こうべ)を上げた蛇、その鎖の追撃をわたしの炎で防ぐ。

 自身で構成したものではないからか、動きが単調で固い。これなら労せずして呑みこめそうだ。

「下がれ、ヨハンネス」言いながら、厄介な巨手の動きを目で追う。「おまえは、見ていろ」

 一対一の攻防になれば、ヨハンネスでは足りない。そもそもわたしが期待しているのは、ちから比べではないのだ。はっとして、ヨハンネスが唇を噛んだ。

 そうだ、それでいい。

 わたしを守ろうとしたままのシグの腕を、やんわり外す。

 触れた際に団服に赤い手形がついてしまったが、大目に見てもらおう。もの言いたげな瞳にも、いまは応えない。


「踊れ、もっと強く」


 立ち上がったわたしの声に呼応し、赤の海が荒れる狂う。

 腐臭の根元を呑まんと、大津波の如く押し寄せて行った。待っていたといわんばかりの勢いに乗って、ともに踏み出した。跳躍しようとした鎖より高く、強く。炎がひと撫で。波に食われ、瞬く間に掻き消えた。次いで、魔腕が行く手を阻まんと躍り出た。しかし、いくら巨大であろうが腕一本が炎の波に勝るものか。さぶん。底なしの赤き海が呑み込む。もがいたのは一瞬、すべては灰燼に帰す。

 あとは、怪物ひとり。

 けれど。


「……愚劣めが」


 壇上で、不揃いの歯が覗いた。

 途端に充満したおぞましい気配に、身体が強張る。

 あまりにも腐臭が大きく膨らんだ。否、腐臭だけでは――ない。

 怪物の正面で巨大な陣が煌めいていた。

 目の眩む燐光、そしてふたつのものが混じり合った膨大なちから。いままで感じていた腐臭など比較ならないほどの、不快なそれは。

 わたしたちがいちばん知っている『彼女たち』の、反撃の脈動――だった。


「だから、貴女は傀儡だと言ったのだ。考えるということを知らぬ。何故我が『怪物』と呼ばれるに至ったか、このときまで思い返しもしなかったのだろう? だが、しかし。浅薄な娘に答えを与えてやるのもまた、高みに上った者の務めなれば。

 解は明確。『魔女の果実』を服従させたがゆえ。――これが、その解のかたちだ」


 わたしの炎は、赤の海原は、沈黙した。ひとつ残らず。

 展開された術式は対炎に特化した、紐解きの陣。巨手と同じく、恐ろしく緻密で強固なそれは、はじめから『赤の剣姫』対策として仕込まれたもの。織り込まれた『魔女の果実』により、さらに範囲が冷たく絞られている。竜神の従僕フィヨルニルの繰る炎のみを狙った、まさしく魔女の所業。

 すべて――結びついた。

 あの目は、わたしをうるさく追いかけてきたあれは、このために。竜神の炎を解体する材料を探していたのだ。黒薔薇の呪いを植えることでわたしを見失わないように。憐れなクラエスの弟分を使って契機を得、そしてこの『解』を導き出した。無効化という、このちからに対する最大の盾を。だれでもいい、ハーヴィでもヒルドールヴでも。わたしでない従僕であればどうとでもできたろうが、わたしでは絶対的に抗えない。そういう構造になっている。

 よくわかった。

 どうしようもないくらい。

 わたしの炎は、届かない。

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