01
ちいさな燭が産声を上げた。
球状の灯りが、冷たく横たわる夜の帳を淡い橙色に染めてゆく。道標の如く暗く茂る木々の奥へと続いて、ただじっと己の腹へと誘うように。浮かぶ灯りは儚げで幻想的な光景であれど、そこには澱みがあった。醜悪な意思が発する独特の生ぬるい気配が、わたしの神経を逆撫でする。
――食べられにおいで、と。
そうやってわたしを手招いたことを、腹の底から後悔させてやろう。
アレクサンデル=ボーストレーム。元七の宮廷術士。魔女へと伸ばすこの腕の障害となるのならば、排除するまでだ。
わたしという剣は、斬るために存在するのだから。
ぎぎ、と低い音を立て、馬車の車輪が止まる。些か車体を傾かせたまま、辛うじて舗装された街道の切れ目で沈黙した。ここまで早朝から深夜までの時間を要する距離であったが、まだ森へ入って半刻も経っていない。豊かな土壌を持つがゆえか、王都をすこし下ればまったく手入れされていない土地が無数にある。ここもそうだ。毛並みのよい引き手に比べ粗末な作りのそれから身を翻そうとしたところで、手綱を引いていたシグがさきに降りた。濃灰の隊服が溶けるように広がり、保たれていた木々の静寂が打ち破られる。こちらの到着に、厭らしく嗤う声がどこからか聞こえてくるようだ。森は他を排斥するかの如く、静謐を纏うもの。それを穢れたひとの手で掻き混ぜるとは、まったくもって、下品な。舌打ちしたいのを堪え、当たり前のようにこちらへと差し出すシグの手を握った。手袋越しのそれは冷えていて、彼の緊張がじわりと滲み出ている。その対象が、魔女か怪物か、はたまた別のなにかかは、わたしには解せないけれど。
靴底が地を踏む。ひたりと触れる土肌はとうに汚染されたかの如き形相だ。長居はしない方がいいだろう、この臭気に侵されたくないのならば。眉をしかめたわたしに、シグが不安げにこちらを注視する。軽く手を握り返し、だいじょうぶだと応じる。振り返れば、この悪趣味な舞台を拒むように、息を殺す生きものがひとつ。
「ほら、ヨハンネス。降りて」
「うるせー、呼ぶな」
渋面を携え、ひとが馬車から顔を覗かせる。ヨハンネス=クルーム。わたしの下僕が減らず口をききながら、それでも行動だけは素直に闇へと身を降ろす。
裾の長い漆黒の外套に、刀身がやや短く湾曲したひと振りの剣。痩せぎみで薄い身体だが、術式の才に留まらず、粗野な生まれで培った生々しい暴力の使い方も心得ている。なかなかに使い勝手のよい下僕であるわけだが、しかし。精神面がまだまだ年相応の子供ゆえ、命を切り売りする場に連れて歩きたくはない。あのまま城へ置いておきたかったのが本音だが、首輪までつけたのだ、ヒルドールヴがそんな勝手を許すわけもなく。
好きに使えと渡されたのは、シグと下僕のふたりきりだ。そうなれば、ないよりはあった方がよかろう。そういうわけで、この面子だ。
誘いの森へ、ついと視線をやる。
このさきへと伸びるいくつかの馬の足跡。
先駆けとして行ったクラエスと、数名の部下のものだ。あの雁字搦めの魂を思うが、いま名目だけでもわたしの護衛をさせるのは酷だろう。ヒルドールヴならばおもしろがってやりかねないが、さすがに自重したらしい。
不機嫌な下僕に首輪がきちんと嵌まっていることを横目で視認し、さて、と首筋を撫でる。
「今夜のうちに終わればいいけれど」
この呪いの薔薇は、もはや開花を待つばかり。
リンネ=バーリ。呪いの名となった彼の遺体からは、結局のところおかしな痕跡を発見することはできなかった。その身に残るのは、肉を痛ませないための術式のみ。死因は、腕の動脈を切られたことによる出血死。呪いによる死でもなければ、そこに『意味がある』わけでもない。ただ、人間の脆さの証明だった。大量の血液を失えば、ひとは生きていられない。だから死んだ。腐敗を知らないこの遺骸は、単純に魔女の殺意をかたち作っているだけ。最愛の人間を殺し、自害する呪詛。自分を苦しめた世界を同じ目にあわせてやろう、そういう意思が込められたに過ぎない。
リンネ=バーリの死の発端と終わりをその眼で見ていただろう彼女は、それゆえに呪いを芽吹かせたと推測される。ならば彼は、国に殺されたのかもしれない。魔女はこのルアシヴィルという国に向け、復讐の魔手を伸ばしているのだから。
そして、ほんとうに手間なことではあるが、その魔女を狩り取るためには怪物を沈黙させなければならない。あちらがわたしをご指名というのだから、無視もできまい。無論『方法は問わない』と議定会からのお墨付きだ。とはいえ、あちらも間抜けではない。赤の剣姫と呼ばれるわたしが、剣を持って見えることは決して許さなかった。神の加護を纏うひと振りの刃は、怪物となった男にすら脅威と認識させたのだ。主さまのお力を思えば至極当たり前だが、こちらとしては得物がないのは不便である。ただ、それさえなければ、と思われるのも腹立たしい。剣たるこのわたし自身を度外視したことについては、その身をもって責任を取らせてやるつもりではあるけれど。
シグとヨハンネスが後退るようにして馬車から離れた。既に合成馬の手綱はシグの手のなか。わたしは左手の親指の腹を、僅かに噛み千切る。
一滴のあか。
それは撫ぜるように、ぼろぼろの馬車を柔く抱き寄せる。
ちいさな炎がやがて火柱に。木造のためか軽快に燃えゆくそれに、ヨハンネスが舌打ちする。帰路は断たれた――厳密にいえば、三人揃って移動する術は、だが。これもまた、件の怪物の指示である。『赤の剣姫の炎で馬車を焼け』と。こちらをじっと覗いている怪物と思わしき気配からして、なんらかの意図を含むのだろうけれど、まあいい。なにがあったとて、すべて振り払うだけだ。
「ヨル。ここからは……」
「わたしが。次にヨハンネス、シグはこの子を連れて最後にきて」
脅える合成馬の鼻の頭を引っ掻くように触れると、すこし目の強張りが薄まる。人間よりも敏感な彼らは、不浄なものへの嫌悪を強く持つ。無理に穢れを踏ませたのだ、この子は元の場所まで連れて帰ってやらねば。
まあ、それはシグとヨハンネスにも言えること。
ただ、こちらばかり窺っている鬱陶しい視線から察するに、どうせ『赤の剣姫』――そのちからにしか興味はあるまいが。外套を翻し、歩を進める。同時に、なんらかの術式が動く気配。ヨハンネスが反応するが、退くよりさきに手首を掴んで引き寄せた。振り払われる前に、放り込むように前方へ押し込む。次いで踏み込む。躊躇いは見えたが、黙してシグも続いた。
と、景色が歪み、魔楼が突出する。
否、隠されていたものがようやっと露になったと捉えるべきか。
浮かぶ橙の灯りに映える、不気味な面立ちの建物。かたちは数ある神殿を模した風だが、明らかに構えが禍々しい。そしてぼろぼろだ。風化した煉瓦造りの壁一面を多い尽くす蔦は暗い緑色で、無数の鋭い棘を備えていた。そう、いまや王都の噂の種――黒薔薇の砦である。漆黒の花はもとより、蕾すら見られないけれど。
廃墟と呼んでも過言ではない見てくれのそれから、怪物のちからの気配だろうか、いっそ甘ったるいくらいの腐臭が漂う。咄嗟に鼻を覆うわたしを余所に、暫定的な宮廷術士であるヨハンネスは臭気は感じないらしい。広がるいやらしい気配だけを掴み、苛立った瞳でこちらを射る。
「馬鹿じゃねえの? 何でわざわざ敵の術中に嵌まりに行くんだよ、ああくそ! 煩わしい!」
ヨハンネスが腕を薙ぐ。術式による変換。周囲の空気が揺れ、纏わりつくものが正常に。自らが起こした結果に、ふん、と鼻を鳴らしたヨハンネスは、開き直ったのか、どかどかと足音を立ててさきへゆく。わたしのあとを、と言ったのに。仕方がないので、なにか言いたげなシグの横へ並んだ。
「ヨル」シグが声を潜める。「あいつ、先に行かせて大丈夫なのか」
どうだろう。保証はでき兼ねるが。
そう答える前にヨハンネスが怪物の巣の戸を蹴破った。なんのことはない、純粋なる脚力のみで。
無駄に術式を多用しないためか、なんなのか。しかし瞬きの隙に、その痩躯が向こう側へと引き摺り込まれた。擬音を当てるなら、ずるん、と。外套の黒いはためきだけを残して、戸が寸分違わぬかたちに修復される。これはまた。眼の気配は消えていないゆえ、こちらを見ているくせに。いちばんにわたしを狙わないあたり、怪物もいやな男だ。
「ク、クルーム殿ッ」
「シグ。追うよ」
地を蹴る。あいにく抜く剣がないため、手の甲に歯を埋める。深々と。切り傷を広げるように牙を滑らせれば、ぬるりと腕の方へ熱いものが伝う。血が火へ。火が炎へ。炎が球体へと変わり、駆け抜けた。わたしの意思に則り、再出した扉を焼き尽くしに。
木製の戸は爆ぜ、破片が降る。
炎が産んだ砂塵の向こう、目視できるかできないかの速度でなにかが唸る。それがわたしを捕らえんと触れる距離まで寄った瞬間、わたしの炎に阻まれた。燃え落ちたのは、棘でなく肉。触手の如き、肉の塊。近距離で焼ける異臭に眉間のしわが寄った。低く声を絞る。「無粋な挨拶だ、怪物――アレクサンデル=ボーストレーム」
応じたのは、男の乾いた嗤い声。
招くような響きに、手っ取り早く答えてやることにする。
息を吸う。吐くと同時に膝のバネを使って跳躍。またもや仕掛けてきたそれを半身を捻って躱し、焼き落とす。次の手も構えていたが、内外の境界を越えてしまえば追撃はなくなった。念のため、焼けて再生しなくなった扉の向こう側にいるシグとあの子に飛び火しないよう身体をずらす。もう閉じておく意味もないということか。乱れた襟元を正しつつ、目だけ巡らせる。
いた。
血塗れだ。
「だから、わたしからと言ったのに」
「……うるせー、黙れ」
瓦礫のなかから返答。答えになってはいないが、生きてはいるようだ。
引き込まれた際に叩きつけられたのだろう。壁が崩れるくらいの勢いだ、ひとの身体では骨のひとつやふたつ、駄目になっていてもおかしくない。しかしヨハンネスは己の治癒をすることもなく、立ち上がったその額から流れる血を億劫そうに拭い、ぼそりとなにごとか呟いた。
沸々と、術式が編まれる。やはり速い。が、短気なのもそのままだ。組み立った術式はヨハンネスの怒気をかたち作った火柱となって、建物を壊しにかかる。とばっちりがくる前に止めるべきかと考えたが、やめた。怪物の根城だけはある、と褒めるべきか。元々組んであった術式により、壊れた端から自動的に修復が開始する。そういえば、外観の沈鬱さはどこにも存在せず、整えられた白い石の壁と床で構成されている。神殿らしい造りでもなく、なかは支柱となる太い筒と、無駄に幅広な途切れた階段のみ。だだっ広い空間のなか、ぽつんとそれだけが。
ならば自ずと、怪物の立ち位置もわかろう。
階段の頂点とでも呼ぼうか。途中でばっさりとなくなっているそれの、まさにいちばん上。
全身を朽木色の外套で包んだ、小柄な人影があった。枯れかけの花の如く、折れそうな腕と足がそこから除く。表情を隠すためか、フードは目深だ。一見弱々しい印象さえ与えかねない。
しかし、姿かたちがなんだというのだろう。纏う腐臭が、それを『怪物』だと示している。わたしはついにヨハンネスの手が掲げられ、術式が怪物へと向かうのを黙して待った。こちらを散々不躾に窺っていたのだ、怪物の片鱗を垣間見せるくらいはしてほしい。
ヨハンネスの火柱がぱかりと割れて口を開け、いつかの火蜥蜴の如くひとひとりを呑まんとしたとき、
「愚かな劣等種よ」
歪にしわがれた声が、冷徹を紡ぐ。
男の背後から圧倒的な質量を持って出現した、さきも見た肉の鞭が――否、身の丈をふた回り以上越すひとの手を模した巨大な二対のそれが紙でも丸めるような気軽さで、ヨハンネスのひと振りを両の手のひらで握り潰したのである。
宙から生えたひとの腕。
召喚ではなく、無からの現出。
火や水が腕のかたちを作るのでなく、皮と肉と筋と血で構成された規格外の人間のそれ。
わたしやヨハンネスの炎の術式とは違う、むしろ治癒術的、または呪術的要素を孕むその術式に、ふたりが息を呑んだ。わたしとて同様だ。こんなもの、どうやってもわたしに描けはしまい。恐ろしく緻密で周到な陣によって成り立っているであろうそれに、妙な執着を感じ喉が鳴る。やはり元宮廷術士だけあって、そもそもの基礎値がずば抜けている。
ここはふたりとも退かせるべきか?
逡巡するわたしを置いて、ヨハンネスが怒りに吠えた。
「誰が劣等種だと……⁉」
「魚眼石の少年、お前のことだ。これは野犬の匂いかね? 混ざりものの分際で我の後釜など、笑い話にもならぬ」
酷薄な笑みを言葉に孕ませたアレクサンデル=ボーストレームがついと顎を上げ、わたしを見た。
幾度も感じていたあの目が、わたしを。そして、理解する。その光ない眸の奥で、黒薔薇の魔女が覗いてもいることを。にい、と歯並びの悪い口元が露わになる。
「待っていたぞ、『赤の剣姫』。魔女狩り筆頭、紅蓮の化け物よ。お前は面白い気配だ、興味深い」
「そう。でも、わたしはあなたに興味なんてない」
むしろ、呼びつけられて迷惑を蒙っているくらいだ。わたしは怪物でなく、魔女に用がある。そもそも、この首に植えられた不愉快な呪いのせいで悠長にしている暇もないというのに。
まあ、それはいい。いまは。
にっこり、笑う。わたしの炎がちいさく踊りはじめる。
「わたしを殺したいのなら、はじめよう。もちろん、死んであげるつもりはないけれど」