06
徒花の呪。それはわたしがこの身に受けた呪いの真の名。
名は、そのすべてを物語るもの。主さまのための意を持ったわたしの〝フィヨルニル〟然り。世界をかたち作ることわりは歪に揺らめいているくせに、その実ひどく単純だ。
だから、あまり驚きはない。そこになにか重要な意味が込められていることなど、術式に携わる者ならばだれでも予測できる。禍々しい文様が淡くさざめく細い階段を降りた、冷気の漏れる重厚な扉のさき。シュティーナ=ダヴィッドソンがわたしたちを導いたのは、闇に凍えた地下室だった。ハーヴィの術式で編まれた外套を羽織るわたしはいいが、シグは唐突に身を襲った寒さに身震いしている。女はひとりさっと歩みを進めると、迷いのない手つきで洋灯に火を灯した。溶けゆくような暗闇がほんのりと色づく。橙色の薄明かりは、残酷にも〝それ〟が既に意味を為していないことを明らかにしていた。
後方のシグはまだ気づいていまい。この冷気の理由など、なにも。
「あたくしの世界は、父と母によって造られ、彼らの望み通り実を結ぶはずでしたわ。この顔も、身体も、心でさえも、上流階級で我がダヴィッドソン家の地位を守るためだけに使われるはずでしたの。ふふ、シグリットさま。あなたも、そうあれと教えを受けていらっしゃるでしょう? あたくしたちは、家名という柵からは逃れられない定めですもの。決して」
シグは困惑のなか、沈黙を守る。頷いてしまえばいいのに、と女の瞳に責め立てられてもなお、固く唇を引き結んでいた。強情なやつだ。けれど、彼女はそんなこと歯牙にもかけない。いま舞台に立っている役者は、白薔薇の君たるシュティーナ=ダヴィッドソンただひとり。
ある日、と女が歌う。紡ぐのは、はじまりの詩。
「その青年は、薄汚れたみすぼらしい女を拾いましたわ。小柄な体躯に余る暴行を受け、手負いの獣のように警戒心を剥き出しにした女を。黒を纏い、蜂蜜色の肌をした彼女を見、聡明な青年は気づきました。これこそ国への献上を義務づけられている異邦の娘だ、と。そして、彼女は既に魔女に堕ちてしまっているとも。けれど青年は心根が優しすぎるがゆえ、非情になれなかった……傷つき横たわるその姿を不憫に思い、女へ治療を施したのです。あとからわかったことですけれど、彼女はこの地へ降りたそのとき、その存在の意味を知らない無知な男たちに凌辱され、慰みものにと地下室に鎖で繋がれていたそうです。どうにか逃げ出して死にかけていたとき、青年と出会った。彼女にしてみれば最後の僥倖だったのでしょう。青年の優しさはぐちゃぐちゃに傷ついた悲惨な女の心を癒し、青年もまた、物語で語られる魔女とは異なる憐れな女を知ってしまいましたの。そうであれば、もう、彼に彼女を差し出せるわけがありません。ふたりの間には、稚拙で無防備な、けれどそうわかっていても振り払えない泥のように重苦しいもの――、そう、恋情と呼ぶべきものが生まれてしまったのです。お互い、それが悲劇を呼ぶおぞましい感情だとも知らずに。
青年の名は、リンネ。リンネ=バーリ。魔女が繰る呪いの名となった、愚かな子。彼が願うのは魔女の娘の幸福だったというのに、ただそれだけだったというのに、世界はそのちからをもってして拒絶を示したのです。
ねえ、赤の剣姫さま。教えてくださいまし。……何故ですの?」
白薔薇の君がわたしを舞台に引っ張り上げんと顎を上げた。けれど、わたしは首を横に振る。女の顔色が途端に冷たさを増した。
ことわりが変わってゆくことがあったとしても、覆ることはない。それが世界を回しているがゆえに。その絶対のルールを、どんな言の葉を用いたとて、きっとこの女は受け入れられない。壊れたものを乞うてもなにも戻らないのだということを。
それは、確かにひとであったのだろう。
土気色の肌はひび割れ、その暗い線が蔦のように表面を這っている。瞳は辛うじて閉じられ、微かに開いた隙間から虚ろで濁った藻の如き緑が覗く。細い髪は老婆のそれを模したように白く染まり、洋灯の橙を映さないまでに潤いがない。肉は限界まで削られ、筋は萎み、なかに入る骨と臓器がなければ既にぺたんこになっているだろう。身体を構成する物質すべて、カラカラに干上がってしまっていた。いまはもう、それは通常のひとのかたちを保てていない。この空間を満たす術式によって構成された冷気を用い辛うじて腐敗を回避している、ただの肉の器だ。
これが、リンネ=バーリの成れの果て。
魔女に恋した男の終わり。どうしようもない、確固たる事実。
「不条理ですわ。ほんとうに、赦し難いほどの」
平坦だった声が、あからさまな怒気を孕む。リンネ=バーリに傾けたこころのまま、女は無表情に俯いた。
けれど。リンネ=バーリが彼女にとってどういった存在であったのか、そんなことはどうだっていい。この女が魔女と繋がっているか否か。重要なのはそれだけ。だが、シグはそうは思わなかったらしい。ようやっと横たわるそれの存在に気づき、瞠目する。「な、んで……こんな」呼吸を乱したシグに気をよくしたのか、女は冷たく微笑した。彼女の抱く闇底に招かんと、妖艶に面を上げる。
しかし、その作りものめいた唇が、誘いの音を紡ぎ出すことはなかった。
目を見開き、胸元を押さえ蹲る。彼女に憑りつくかの如く、白靄の冷気が覆い被さった。あ、と息苦しげに喘ぐ声。シグが躊躇ったのは一瞬で、すぐさまわたしを越えて飛び出す。シュティーナ=ダヴィッドソンの腕を掴み、顔を上げさせる。白の魔手はシグを避けるように蠢き、女の元へと集結する。シグが引き離そうと腕を薙いだが、それは実体を持たないもの。ふっと掻き消えたかと思うと再び姿を現す。展開された治癒の術式にも応じない。シグの舌打ちが飛んだ。
女は、元々青白い顔を蒼白に歪め、それでもなおなにか言いたげに唇を戦慄かせる。
白薔薇の君から香る、黒き花弁の痕跡――シュティーナ=ダヴィッドソンは魔女の協力者ではないのか?
おかしい、当たりだと思ったのだけれど。脂汗まで流し苦痛に悶えるさまは演技にも見えない。感情の仔細を読み解こうと目を凝らしていると、シグがこちらを振り返った。その乞うような眼差しに、ふう、と息をつく。
下がって、と告げ、女に歩み寄る。
剣を抜こうかと思ったが、無意味かとやめる。どうせ斬ることはできまい。
すこし逡巡し、女の方へ伸ばした腕を、死人の如き顔色からは想像できないちからで掴まれる。長く整えられた爪が食い込み、血が滲んだ。限度を知らない彼女の指が血の雫を生むくらいに突き立っている。「ヨルっ」「だいじょうぶ」
シグが寄ろうとするのを留め、反対の手で引き剥がす。獣の牙に穿たれたにしては浅い穴が並んではいるものの、そこに術式の痕跡はない。やはりこの女に術式の才はないようだ。胸元を押さえる手にわたしのそれを重ねるように握り込み、これ以上傷を負わされるリスクを潰す。女は虚ろな目でわたしを見、それから青紫に変色した唇に辛うじて音を乗せた。
あの女さえいなければ、と。
それはつまり、〈黒薔薇の教祖〉への憎悪だった。
昏睡したシュティーナ=ダヴィッドソンは、リンネ=バーリの亡骸とともに城へと保護された。既に命のないそれ自体は回収といったかたちではあったけれど。
わかったことはふたつ。
まず、呪いの名となったリンネ=バーリという青年が存在し、かつ死亡していたこと。そして、どうやらシュティーナ=ダヴィッドソンも魔女に呪いを植えつけられたひとりだったということである。
彼女の心臓には黒薔薇の呪い――いま巷で蔓延るそれは異なったものだ――が芽吹き、じわじわと命を削り続けている。シュティーナ=ダヴィッドソンはあの亡骸と引き換えに、禍々しい呪いの紋様を受け入れたのだそうだ。実際、その呪いによって遺体を保つ冷気が機能していた。つまり、術式の才を持たぬ彼女に受け入れないという選択肢はなかったということ。彼女の実父、オロフ=ダヴィッドソンが孕ませた女中が産んだ異母弟――リンネ=バーリを魔女の元から取り返すためには。件の魔女はシュティーナ=ダヴィッドソンから腹違いの弟を奪い、両親をも呪いのちからで葬った。その憎しみを腹に抱え、じっと暗闇で待っていたのだという。
このわたしを。
魔女を狩る、赤き竜神の牙を。
揺らぐ意識のなか、女は言った。魔女を赦さないで、と。それは等身大の殺意であり、彼女が〈黒薔薇の教祖〉へと返したひとつの呪詛だったのだ。
はじめに予定していたオロフ=ダヴィッドソンの自害の背景についてはなにも判明しなかったが、しかし。これはこれで意義のある情報だ。これで魔女の呪いの発端が見えるかもしれない。そういった分析は、宮廷術士の役目であるけれど。いや、だからこそか。呪いの名となった青年の遺体を前にして、魚眼石は相も変わらず不機嫌に歪められている。あのちいさな藍柱石は隣にいない。代わりに傍にあったふたつの尖晶石はピンクの燐光を纏い、既に遺体の検分に入っていることが見て取れた。粗野で短気、加えて自信過剰な新入りと、どうしようもなく情けない引きこもり。
わたしでさえ、並べるにはあまりにもどうかと思う取り合わせだった。
再びなにごとか問題が起きないかと、騎士らしく澄ました顔の下でシグがはらはらしている様子に内心笑った。横たわる遺体の傍から離れ、ベネディクトへと寄る。
女と遺体が搬入されてから一夜明けた。とっくに起き出して活動する気配に溢れた城内だが、この一帯は極端にひとがすくない。医療隊が所有する医務室のひとつ、術式を用いて隔離された真四角の部屋。寝台とそこに横たえられたリンネ=バーリの遺体のみが置かれるこの空間は、治療ではなく解体のためにあった。亡骸に残る魔女のちからの検分、そのために。扱われるものの特異性から、召使い等は入室することを許されていない。それゆえの静寂。
「ベネディクト、どう?」
「くふふ、これは確かに『魔女の果実』の香り。それに、なかなか可愛らしい術式だねえ。ただ、上手く痕跡を消してもいるようだよ。根城から重い腰を上げただけのことはあるものだといいけれど、ねえ」
能力だけはある引きこもりの興味が亡骸へと移ったのを見届け、隣をすり抜ける。戸口にいた魚眼石が射殺さんばかりにこちらを睨んでくるので、一度歩を止める。ついと目線をやれば、鬼でも見たかのようにぎょっと目を見開いた。わたしから視線が返ってくるとは露にも思っていなかったといった反応だ。だが、忽ち睥睨へと変わる。こちらへ向けるその感情はいっそ清々しいまでに直線的だ。
ヨハンネス=クルーム。この新参者は、いまやわたしの下僕である。
語弊のないように言っておきたいことであるが、それはわたしが望んだことではない。六の宮廷術士、オスキャル=ベルツ。あの男の仕業である。わたしを使って新人教育なるものを行ったオスキャルは、あろうことかヨハンネス=クルームに命じた。赤の剣姫の手足になりなさい、と。無論快諾するわけもない新入りを黙らせたのは、宮廷術士になるにあたっての誓約書――いわゆる公的な文書だ。血判書に指を押しつけた以上、彼ら宮廷術士は守るべき多くのルールに縛られる。だが、そもそもまだ戴冠式を行っていない彼らの肩書など、オスキャルという確固たる地位を持つ権威の前では容易に吹き飛ぶ。オスキャルがノーと言えば、この場でふたりの未来は閉ざされる。冠位を賜るまでは宮廷術士を名乗れない――誓約書にも明記されているはじめの決まりごと。ならば、首を縦に振るしかない。
ゆえに、いまに至る。
わたしとしては、どう考えても厄介者を押しつけられたとしか思えないが。加えて、扱いやすそうな藍柱石だけ連れて行ったところが憎らしい。シグが頭を抱えていたが、ほんとうに同感だ。わたしは見上げたヨハンネス=クルームに向かって顎を上げる。細い眉がこれでもかと跳ね上がったが、無視した。
懐から、昨夜ヒルドールヴに渡された革の首輪を取り出す。
瞬時に察したか、眼前の顔に憤怒の炎が宿る。が、躊躇などない。差し出す。
「ヨハンネス=クルーム。件の魔女、並びに元宮廷術士アレクサンデル=ボーストレームの案件が解決するまで、あなたはわたしの下に就く。理由は、目下の教育係たるオスキャル=ベルツがその任をわたしに一任したため。今回の解決におけるあなたの忠誠と労働がのちの処遇に関わるとのことだけれど、手はじめに」
「ふ、ふざけんじゃ……」
「首輪はあなたの手綱を握るための措置として、宮廷術士から支給されたもの。ならば、嵌めないという選択肢はあなたにはないでしょう?」
「ッ、この餓鬼!」
「クルーム殿。フィヨルニル殿は此度の任において、貴方の上官にあたることをお忘れなく。宮廷術士の冠を無事に得たければ、無闇に矛は振り翳さない方がよろしいかと」
鋭いシグの叱責に、ヨハンネス=クルームが怯んだ。歯軋りの音と、盛大な舌打ち。自尊心をどうにかねじ伏せ黙ったものの、首輪を自ら嵌めるという屈辱には膝を折れないらしい。術式を仕込むためとはいえ、このかたちにする必要はまったくなかったはずだが。ヒルドールヴの趣味には心底呆れる。仕方がない。「わかった、あなたはじっとしているといい」「は――、うわっ⁉」
声を上げたのはヨハンネス=クルームだ。
仕掛けた足払いで浮いた身体を転がし、馬乗りになる。
両膝で脇腹を、右手で肩を固定。都合のよいことに首元がかなり開けた衣装である。金具を口と手で外し、動かないよう全身で押さえながら首に回した。凝った意匠ではないのでさほど時間はかからない。きちんと留め終ってヨハンネス=クルームの上から退くと、横から腕を強く引かれる。近距離でシグの怒声が飛んだ。
「ヨル、このバカ! お前はどうしてそう、思いもしないことをいきなりするんだ!」
「この場合、言ってから転がせても意味がないと思うのだけれど。なにを怒っているの、シグ」
「何ってお前、羞恥心は……ああ、ないんだった。いっそないならないでこの際構わねえから、せめてそういう突拍子もないことは止めてくれ。俺の心臓に悪いだろうが!」
「よくわからないけれど、わかった」
「ああもう、返事だけは本当に素直だから余計質が悪いっ」
そんなに困らせるような行動だったろうか。振り返ってみるが、まったく解せない。
ヨハンネス=クルームの方は、呆然としたままこちらを見上げている。もう起き上がってくれて構わないのだけれど。こういった場合、手を貸すべきなのだろうか。
と、ベネディクトが振り返る。うっそりと垂れた前髪で表情が影っているが、仄光る眼から呆れの色が覗いていた。ひとつ嘆息。「君たちねえ、騒ぐのなら部屋を出てからにして……、まあいいよ。それより、剣殿」
くふ、と常の含み笑い。愉快気に、耳に嵌めた艶やかな紫水晶の輪を撫でた。
「君の受け渡しは三日後だそうだよ。――魔女狩りの開催は、存外早かったのではないかい?」
それは、わたしにとって待ちに待った朗報だった。