お願い聞いてほしいの
霧が深くなっていた。前を行く尻端折りを懸命に追いながら、男は懐に抱いた奉書を確かめた。粗末な衣の下で、粗末な紙ががさがさと鳴る。そうする隙にもはぐれぬよう、男は懸命に笠を被った頭を上げた。
ここで置いていかれてはたまらぬ。
オニの山は昼なお暗く、分け入る者を拒むように鬱蒼と道を閉ざしている。獣道のような狭い痕跡をようよう鉈で払いながら、大の男が二人、震える脚を鼓舞して歩き続けていた。もうどれだけ登ったか。
「なあ、おい、道は確かか。かれこれ何里も歩いてやしないか。狐狸に化かされると、山の中をぐるぐると一晩中歩かされるというが、そんなことはありゃしねえか。」
うるせえ。気の立った声が短く答えた。前を行く男も、好きで先頭を取るわけではない。一昨々年に願い事を持参した時、後ろについていたというだけで、この度こうして歩いているだけだ。早く戻って駄賃の酒を一杯引っ掛け、カカアを抱いて寝ちまいたい。むっちりした尻を掴んで揺すってよぅ…
「なあ、なあ。オニというのは、空を飛ぶというのはほんとかい?真っ赤な顔に四、五寸もある鼻を突き出して、尖った角に尖った牙、赤子をばりばりと骨まで喰らうというのはほんとかい?」
言いながら、奉書を抱いた男はへっぴり腰になっていた。子どものような問いに呆れたのか、連れからの返事はない。一寸先も見えぬほど濃くなってきた霧の中、ばさばさと音を立てて薮をくぐる二人連れに、はるか高みで声高に話す声は届いていなかった。
「大体なんでもかんでも、オレらに頼りすぎなんだよ。人間は。いいも悪いも、超常現象に会うと、ピーっと思考停止しちまうんだね。それでアラ不思議、オニが出たわと、こうなる」
「なに改めて呆れてんの。オレらがどんだけオニやってると思ってんの」
山で一番高い杉の梢、そのてっぺんに、見目麗しい若衆が重力に逆らうように立っていた。厚い胸板、固く締まった二の腕は軽量には見えないが、しなやかな杉の小枝はそよとも撓らず、腕組みをして雲の下を透かして見ている。雲の下には霧が立ちこめ、さらにそのずっと下を、男が二人、這うように進んでいた。
「あのさ、そりゃ俺たち雑食だけど、人間も同じようなもんでしょ?人身御供を捧げなきゃなんて、誰が決めた?喰うわけないし」
「喰う、の意味が違うのさ」
先ほどから答える側に回っているのは、腕組みをしたほう、赤い胴衣に漆黒の翼の若者だ。よく見れば翼には緋色がぼやぼやと混じり、それが名となっていた。
「猩々丸。意味って」
「そりゃお前」
猩々と呼ばれたオニは、連れに流し目を送った。
ほんとにわかんないのかよ。
もう一人、丸っこい少年は斑の入った髪を長く垂らし、翼はない。一段下の枝で胡座を組んで若者を見上げている。猩々丸に抱えられてここまで登ったのだ。その斑の見かけから、竃馬、もっぱら渾名で呼ばれていた。
「人身御供といえば、若いきれいな女だろ?」
「うん」
「だいたい、無垢の乙女と相場が決まってるだろ?」
「…」
「全部、俺らのご先祖の所為だよ。」
「なんで?」
猩々はため息をついて、無邪気な丸い顔を見つめた。
「ご先祖はだな。多分、最初にオニと呼ばれた男はだな。そりゃあ迷惑な男だったってのは知ってるだろ?」
こくんと頷く少年の顔の遥か下で、小さく人間が進むのを猩々は目で追っていた。
「あれだっけ、その、自分の力が自慢でたまんなかったご先祖は、飛んでみせたり、消えてみせたり」
「そう。もうハチャメチャ。で、人間に祭り上げられた。初代、オニだな」
「俺ら、みんなそうじゃん。村の男はみんな何かできる。みんな違うけど。」
「ああ。ご先祖の自己顕示欲のせいで、おれらはオニとしてずっと働いてるってわけだ。」
じこけんじ…。竃馬が口の中で繰り返すのを無視して、猩々は愚痴を連ねた。
「どうせ言う事を聞いてやるなら、若い女でももらおうと、初代が欲をかいたんだよ。恥ずかしいねえ。それで人身御供はピチピチの処女、しかもルックスがよくなきゃねと、こうなった。おかげさまで、見てみろ。うちの村の女衆の別嬪ぞろいなこと。そのうち手に余る女は、神隠しから戻ったとかでよその村に返すようになった。…手をつけた後でな。…オニが人を喰うってのは、そっちの話」
本当にわかったのか、少年はからからと笑い声を上げた。
「だからオニの面で、鼻がでかいやつがあるのか」
「それは天狗だ。人間からすりゃ別物かもしれんが、どうせ俺らのことだよ。」
「あの鼻…精力絶倫のシンボルか」
青年は呆れたように目をぐるりと回してみせた。
「ああ。そういうことだ」
ぞんざいに油紙のコヨリで縛り上げた髪はきちんと前髪を作らず、無造作に顔にかかって、秀でた額を半分も隠している。ぱらぱらと顔を隠す髪の間から、切れ上がったふたえの眦がのぞいていた。まっすぐに通った鼻梁が端正な横顔は、雲間を覗き下ろして微笑んだ。
「鳥居に着いた」
予告もなく竃馬の丸い胴を後ろから抱えると、背面から跳んで、ふたりは真っ逆さまに落ちた。
「しょ、しょーじょー!こーういうことすんなぁ!!!!」
甲高い声は、笑いとともに、雲と霧とに紛れて散った。
古びた鳥居の向こうには、茶箪笥ほどの社がちんまりと据えられていた。足下はぴたぴたと湿った沼で、草蛙履きの足をじっとりと水気が這い上がる。蛭でもいやしまいかと、男たちはおっかなびっくりの足取りで鳥居をくぐった。野良仕事で荒れた太い指先が小さな取っ手を摘む。震えながら観音開きに開くと、汗だか霧だかに湿ってしんなり折れた奉書を捧げ持ち、そっと社に置いた。
「おねげえします。オニさまにおねげえいたしやす。川が溢れませんように、どうか新田の先で、それから鎮守の森の先でもういっぺん、川を曲げてくだせえ。何度堤をこしらえても、かならずあすこで破れちまいます。なにとぞ、どうか、オニさま。おねげえいたしやす。次の朔日の晩、村一番の器量よしを差し上げやすから。なにとぞ」
なむなむと唸り、男たちはパンパンと柏手を打った。社のすぐ上で、神木の桂に座っていた猩々は、肩をすくめて首を捻った。
「柏手はやりすぎじゃね?おれらは八百万とは違うってのに」
「たしかに。八百万は手をくださない主義だもんな」
急降下でまだふらつく頭を回しながら、竃馬が唸る。男たちが背を向けて二三歩出たのをきっかけに、猩々は朗々とした声を作った。
「きっとな」
一言だけだった。雷に打たれたように振り向いた男たちは、次に股間を押さえて一目散に走りだした。あっという間に消えた逃げ足の速さに呆れるやら感心するやら、猩々は音もなく枝から滑り降りると、奉書を取り上げて社を閉めた。
「今度は川だあ?おいおい、こりゃあ要相談だな、おい。水神が絡むのか…おれはシングルタスク向きなんだよ…」
ざざざと不格好な音がして、竃馬が枝を滑り降りた。手の中の奉書を覗き込む。
「なんだって?今度のお願いなんだって?」
少年のふざけた口調に、猩々も諦めたように苦笑した。
「帰るぞ。寄合だ。全員、集合」
警戒するような少年の隙をついて胴を抱え、あざ笑うように跳んだ。くるりと宙で一回転すると、ざあっと風が巻き起こる。小さな社は軽く浮き、風に乗って一面に悲鳴が谺した。
あーれー…
…浮いた社がごとんと音を立てて戻り、木々のざわめきがようやく収まった。ヤケクソな歌声だけがかすかに残っていた。
たとえばわたしが恋を 恋をするなら
四つのお願い聞いて 聞いて欲しいの
一つ やさしく愛して
二つ わがまま言わせて
三つ さみしくさせないで
四つ 誰にも 秘密にしてねェ…