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魂の契約(プロローグ)

「あなたは死を恐れますか?」


僕たちが人間である以上、死の瞬間に恐怖を覚えるもの。

たとえそれが自らの死であったとしても。

だが、もし死を恐れずに逝くことができるのだとすれば、そこには何か理由が存在するはずだ。

その死に目的があるのなら……。

いや、それでも恐怖だけは避けられない。

ならば、そこにはきっと、心を強く揺さぶる何かが存在する。

それは五感で捉えられなくとも、感じ取る必要がある。


 実のところ、僕の目の前にはすでに死が迫っている。

今の状況を一言で言えば「見るも無残な姿」だ。

左肩は重く、痛みも感じない。

湯煎したチョコレートのような液体が背中に気持ち悪い温もりを伝う。

喉元にこみ上げた鉄臭い液体は唾液と混じり、口腔を満たして鼻と口から溢れた。

鼻の奥は、鉄のように重く冷たい雨の日の匂いが支配していた。


 僕は知っている、この匂いを。

それは奥底に沈めた記憶をじわじわと浮かび上がらせる。

そう、あの日、あの日の匂いと何ら変わりがない。

もう5年も前の話だけど、鮮明に覚えている。

先の見えない時間に取り残され、血がゆっくりと肌を流れ落ちる。

その一滴ごと、人生の断片が鮮やかに、あるいは残酷に脳裏を巡る。



 桜が散る入学式シーズン、まだ小学1年生になったばかりだった。

一つ木の下で野良猫を観察し始めたのも、ちょうどその頃。

しかし、最後の記憶のフィルムは、血まみれでぐちゃぐちゃであった。


 その猫は、最初は警戒心しか見せず、鋭い爪を立て、黒板を引っ掻くような鳴き声を突き刺してきた。

今も、その時に負った傷跡がズキズキと痛む。

それでも毎回、声を枯らして威嚇され、傷深くひっかかれても、僕は懲りずにその木に通い続けた。

猫も情けをかけてくれたのか、その金庫のような扉を少しずつ開けてくれるようになった。

やがてその扉は完全に取り除かれ、膝に乗って撫でさせてくれるまでになった。

撫でているとき、あの鋭い鳴き声は静かな音色になっていて心地が良かったのをよく覚えている。


 毎日、猫には様々なものを与えていた。

そこで一つ分かったことがある。

猫は普通魚が好きだと言われるが、この猫だけは全くダメだった。

生でも焼いてあっても、見せたとたんに「こんなもん渡してくんな」とばかりに、不機嫌そうに尻尾を振って背を向ける。

もちろん、好きなものもちゃんとあった。

凍るように寒い朝、温かい牛乳、ホットミルクをコップに入れて持ってきたことがある。

見せるとすぐに興味を示し、皿に入れて目の前に運んだとたん、顔をぎりぎりまで近づけた。

そうして、猫舌であることを忘れてその熱いミルクを飲み干す。

その姿は愛らしく、可愛らしくもあった。


 そんな日々を1年間も続けていれば、誰かに気づかれてしまうこともあった。

いつものように猫を観察していると、その姿をとある少女に見られた。


「ねえ、なんであなたは猫を観察しているの。」

それは背後から聞こえてくる、唐突なものだった。

「いや、特に理由はないけど。」

振り返って驚きつつも、冷静に答えた。

「じゃあ、いつから観察しているの。」

確か、桜の時期に見始めて、今もまた桜の時期。

つまり、1年は経っている。

「去年の春ぐらいから、大体1年だ。」

「へー、そんなに長く。だからか。」

「だからかってなんだよ。」

「だってあなたには友達がいないでしょ。

私のこと知っているかは知らないけど、あなたと同じ小学校の同級生、何なら同じクラスの生徒なのよ。」

少々ひどい言い草だがが、言われた通り僕には友達がいない。

あいにく、彼女のことはまったく覚えていない。

「そんなあなたに、今、興味を持っているところ。もちろん猫にも少し興味があるわ。」

かなりおかしい奴だ。

普通だったら、ここで猫に興味を持つところを、僕に興味を持ち出している。

本当におかしい奴だ。


 そんな話をしばらく続けて解散し、次の日、そのまた次の日も同じようなやり取りを交わした。

気づけば、毎日一緒に観察するようになっていた。

彼女には、基本的に僕のこと、時折猫のことを聞かれた。

猫の話には得意げに答えていたが、僕の話になると苦い顔をして、あからさまに話をそらそうとした。

しかし、まだそれは平和の範疇だったらしい。


 その日は、薄暗く濃い雲が空を覆い、地面とその間の景色に白い雪が散っていた。

その雪は、始まりの温かい桜の花びらと対照的に、終わりを告げる冷たいものだった。


 道端に倒れている一匹の猫。

僕は遠くから見ても、すぐにあの猫だと分かった。

その瞬間、何を思い、何を感じ、何を考えていたのだろう。

記憶が今でも混乱している。

それほど、衝撃的な出来事だったのだ。


 ゆっくりと、固くなる足を一歩ずつ進め、猫の前までたどり着く。

近くで見ると、その悲惨さが何百倍、何千倍にも膨れ上がる。

見るからに、車、いや、つぶれ方からして、大型トラックにでも轢かれたのだろう。

人間でも十分にあり得ることだが、それよりもはるかに小さい猫となれば、なおさらだ。

体から流れ出る血液が、どんどん排水溝に吸い込まれていく。

鼻の奥は、鉄のように重く冷たい雨の日の匂いが支配していた。


 涙腺は乾ききっていて、視界は澄み、涙一つ零れ落ちてこない。

だが、瞳孔は瞳の中をさまよい、焦点が定まらない。

気づけば、竦むようにしゃがみ込み、赤く染まった猫を右手で撫でていた。

あんなに気持ちよかった触り心地は、ぐちゃぐちゃしていて気持ち悪い。

それでも、僕は撫でるのをやめなかった。

後から彼女もやって来たが、僕と猫の姿を見て、無言を貫き通してくれていた。



 その手は次第に大きくなり、スマホの画面をスワイプし始める。

あれから5年の月日が流れた今日、僕に運命が訪れる。



 「昨夜未明、大阪市四天王寺区内で、女子中学生が電線にぶら下がっていると、消防に通報がありました。その後すぐに病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。死因は感電死です。警察は現在詳しい経緯を調べています。」

 「本日2月21日午後9時半ごろから、関西の広い範囲で雪が降り、都心部では異例の30㎝の積雪が予想されています。現在、大阪・京都・奈良では大雪警報が発令されており、交通機関への影響が懸念されています。不要不急の外出は控え、最新情報をご確認ください。」


 ボーっとニュースを眺める顔が照らされる。

目の前の塾からは解放されたように人がぞろぞろと出てきて、みんな誰かと一緒に話している。

笑い声が、やけに響く。

塾が終わって、帰る時間。

さすがにその後ろについて帰るなんてできないから、一つ角を曲がった。


 そこは頼りない街灯が夜道を照らし、何か不穏な空気を漂わせていた。

後ろから襲われても気付きようがないが、毎回通っている道、怖がるはずもない。

すぐ近くの用水路のせせらぎが耳に流される。

いつもと変わらないことを繰り返す循環。


 この世は「循環」によって成り立っている。

例えば生命は、芽吹き、鮮やかに育まれ、時には争い、やがて朽ちて土に還る。

その規模や長さは、個体ごとにそれぞれ異なる。

そうして、この世には「無限」が存在しない。

この広い宇宙でさえ、始まりと終わりを待って循環している。

無限とは、流れる時間の中で生まれた、生命の意識が幻想する概念。

元をたどれば、無限は生命が求めた「永遠」の副産物。

それは虚無であり、同時に意識そのものである。


 そう、哲学的な思考に浸っていたら、空からはゆっくりと白い雪が舞い始める。

肌に触れるとすぐに溶け、体温を奪う。

いつもとは違うが、気にすることではない。

ただ、それ以外にも何かがおかしい。

そう思っていても、五感で感じることができないから、強くは思えない。

足は、右、左と前に出し続け、目の前の深淵に進んでいく。


 やはり、違和感が募る。

だんだんと、その思いは強くなっていくが、それでもごく微量。

視界が少し霞んでいる感じがするが、それは寒さからくるものだろう。

足は、膝を曲げて伸ばす、それを繰り返し、電柱を通り過ぎる。


 視界が、少しずつぼやけてくる。

はっきりとおかしさが伝わってきた。

けど、勉強で疲れているだけだろう。

雪も強くなってきたし、早く帰って休みたい。

足は、ちょっとずつ速度を上げて、目的地を目指す。


 その時、街灯がちかちかと点滅し、やがてプツンと光を失った。

視界を支配するような暗闇に、やっと足を止めた。

「おかしい」と強く思えたと同時、凍えるような冷気が背中を這い上がり、全身に鳥肌が立つ。

視界の端で、意を決して、後ろを振り返る。


「誰かがいる。」


そう認識するよりも早く、体が反射的に走り出した。

背後からは「タタッ、タタッ」と重い足音が追いかけてくる。


 ぎこちない動きで必死に逃げる。

目の前はよく見えず、月明りだけが頼り。

何とか振り切ろうと、まるで迷路に迷い込んだかのように、角を曲がり、また角を曲がる。

しかし、見慣れない景色が増えいくのに、聞こえてくる足音は寸分も違わない。

恐怖と疲れから呼吸はだんだん荒くなり、鉛のように重くなった足を、それでも無理やり前に踏み出す。


 やがて、大通りに出た。

そこには車も人影もなく、あらゆる音が消え去った静寂に包まれていた。

だが、そんなことは頭になく、ただ逃げる一心で道路を横切ろうとした。

その瞬間!!!

「ピーポーピーポ」

耳をつんざくようなサイレンの音が闇を破り、現実世界に引き戻される。

そうして、けたたましくランプを光らせる救急車が、真横に現れた。


 「あっ」


まともに声が出ない。

というよりも、声を出す余裕すらない。

救急車の巨体が、瞬く間に近づいて、振り下ろした指先にあたる。

つまり、このままだと轢かれる。

そう理解する間もなく、僕はボールのように数十メートル吹っ飛ばされた。


 朦朧とした意識の中、目を開くと、左目と右目で異なる景色が投影される。

左目には点々と光る、明るい現実の世界が。

人々が集まり、スマホから無数の光が、まるで獲物を捉えるかのように向けられる。

顔を隠そうにも、左手には力が入らない。

だから迷いなく左目をつむった。


 一方、右目には、まるで夢の中のような世界が。

そこには、足音の主であろう女性が、じっとこちらを見つめている。

見た目は全く違うが、どこか、あの少女に似ている雰囲気を感じた。

深紫に輝く透き通った瞳は、凍えるような寒さの中で、唯一温かい光を放っている。

さらには、優しく、綺麗な手を差し伸べてくれてもいる。


 そっとその手に、血で赤く染まった右手を預けた。

彼女に手を引かれ、宙に浮かぶ。

自然と、恐怖は感じなかった。

そうして僕は、舞い散る雪とは対照的に、一つの羽のように、音もなく、静かに天へと旅立った。


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