29.果て(1)
すべてが静止したような空気の中、一陣の風が頬を撫でた。
曲剣を振りきった体勢のまま、ギルダスは目を閉じる。確かな手応えを感じていた。
斬った――
手加減もためらいもない、命を奪う一撃。何度も味わい、そのたびに命の灯を消してきた。
「詫びは入れねえ」
ぽつりと呟く。
仕方なくやった、などとは口が裂けても言えない。言うつもりもない。
「――ああ、それでいい」
すぐそばから声がした。それほど間もないのに、久々に聞いたような錯覚を覚える。
驚いて目を開くと、穏やかな目をしたジドが笑みを浮かべていた。肩から脇に、深々と裂傷を負いながら。
「おま――」
腕に刺さったままの赤い魂精装具が粒子と化し、乱舞しながら虚空へと消えていく。
その様子に気をとられたほんの一瞬、その一瞬の間に、ジドはギルダスに背を向けて疾走していた。
「オォオオッ!!」
槍を前に携え、雄叫びをあげながら騎士に突撃する。
「なに!?」
驚きに声をあげつつも、騎士は背中の大剣を抜き放ち頭上に構えた。
――ボヒュッ!
そのすぐそばで、炎が炸裂する。騎士の意識がジドからそれた。その視線の先には、短剣を投げ放った体勢のままのギルダスがいる。
ジドの槍が、神速の速さでもって突き出された。瀕死の重傷を負っていることなど微塵も感じさせない。それは、ジドの錬磨と研鑽の生涯をただの一撃に詰め込んだがごとき突きだった。
音が、重なる。肉を穿つ音と、断ち切る音。
目を見開いたギルダスの視界に、斬りとばされ、宙を回転するものが映る。
「――見事」
騎士が一言呟いた直後、ジドの体はつんのめって前に倒れた。
ギルダスが歯を軋ませる。断たれたジドの右腕が、すぐ近くに落ちて転がった。
騎士が、腹に刺さった槍を引き抜く。穂先を半ばまで埋めたところで、ジドの槍は止まっていた。浅くはないが、致命傷でもない。
それが、ジドが右腕と引き替えに与えた傷だった。
「おいっ!」
ギルダスは急いでジドの近くへ駆け寄る。
目も、肌の色も、すでに元へと戻っていた。皮肉なことに、そのせいでジドの傷の深さがはっきりと理解できる。一目で長くないとわかるほどの傷だった。
「……すまん……嫌な役回りを、させた」
うつ伏せになったまま、ジドがかすれた声を出した。
「おまえ、全部憶えて……」
「ああ……」
抑えきれない後悔が、声の端からにじみ出た。
「……ったく、まったくだ」
「ルキアを……呼んでくれないか……?」
「すぐそばにいる。待ってろ」
「――その必要はないよ」
ギルダスが体を硬直させる。
「出番を終えた“役者”には退場してもらおう。いつまでも舞台に居残っていられても迷惑なのでね」
「テメ――」
振り返ったギルダスの視界が、黒一色に染められる。曲剣で斬りつけると、それは布に近い感触を残して消え失せた。
「チィッ!」
すでにそこには道化師の姿がない。
「ギル! 後ろです!」
リゼッタの声を頼りに振り向く。息を呑んだ。ジドの体に覆い被さるように、道化師が空中から舞い降りてくるところだった。
とっさに放った斬撃は、柳の葉のような手応えをのこして道化師の体をすり抜ける。
クク、と含み笑いをこぼしながら、道化師が落ちてくる。どうやってかはわからないが、何をする気かは明白だった。
「ジドッ!」
ギルダスの叫びと、
フォン――
風を切る音が重なった。
道化師の体が、二つに別れる。
「な……?」
ギルダスは信じられない思いでそれを見た。前に会った時には触れることすらできず、あれほど得体の知れなかった道化師が、目の前で真っ二つに断たれていた。
「ぐああぁああっ!!」
断末魔の悲鳴をあげながら、道化師の上半身が地面に落ちる。しばらくばたばたと手を打ち振ったあと、動きを止めた。
――死んだ。
あれほど得体の知れなかった相手が、今、目の前で。
「……何のつもりだ、てめェ」
ギルダスの目が、大剣を再び鞘に納めた騎士を見る。戦いを終えた後に襲いかかってくることは考えていたが、これは予想外だった。
ギルダスの問いには答えず、騎士が口を開く。
「下らぬ真似は止めろ、道化師。すぐにこの場から去れ。もはや貴様の出る幕ではない」
「なにを――」
言いかけ、ギルダスの目が驚愕に見開かれた。
クク――
驚いて振り向く。上下に別れた道化師が、空中に漂っていた。断面からは血が流れている様子もない。
「なっ……」
「なるほど、失敬。君にはこんな猿芝居は通用しないようだ。だが、何故――と理由だけ聞いておこうかな?」
「その男が最後に見せた、意地ゆえだ」
騎士の言葉に、道化師はやれやれとばかりに肩をすくめた。体を分断されても、その振る舞いはまるで変わっていない。死んだように見えたのは、演技だったらしい。
比喩ではない、文字通り化け物のような存在に、ギルダスは目を奪われる。その眼差しすら楽しむように、道化師は体を漂わせた。
「ふむ、仕方ない。今回は騎士殿の顔を立てて、この場から退こうとするかね。今回の舞台は大して楽しめなかったが――とはいえ、そういうこともたまにはあるのでね。だからこそ遊びがいがあるというものだ。では……次に会う時を心待ちにしているよ」
ギルダスに顔を向けて言うなり、道化師の体を中心に黒い渦が生まれた。その渦に飲み込まれるように、道化師の姿は消えていった。
「な……なんだありゃ……?」
唖然とそれを見ていたギルダスは、はっとして騎士を振り向く。
視線に気づいた騎士は大きく距離をとると、木の幹を背にして腕を組んだ。
「……」
どうやら、邪魔をする気はないらしい。
それを察したらしく、すぐにルキアとリゼッタが近寄ってきた。
「ジド」
「ルキア……か」
ジドが呻く。見かねたリゼッタがしゃがみ込んで、ジドを仰向けに寝かせた。その間にも、土に染みる血の量は増えていく。
「よく……止めてくれた」
「礼など……!」
睨みつけ、唇を噛む。
「あたしは……ジド、おまえが嫌いだ」
「知っている……」
「力を持っとるくせに、みんなやシサラの――姉さんの仇を討とうとしなかった!」
「言い訳する気……は、ない」
「戦士の誇りをなくしたおまえが憎かった!」
「……」
「だけど、それ以上に……あんなふうに戦うおまえを見ていたくなかった!!」
ルキアが顔を伏せる。顔を伝った滴が、ぽたぽたとしたたれ落ちた。
「泣くな……ルキア……」
「っ!……誰も泣いてなぞおらん!」
ふっと、ジドが息を吐き出す。幼子のわがままを聞かされた時の、困り顔に近い微笑を浮かべていた。
「ルキア……頼みが――」
光を失いつつある目が、ルキアに向けられた。こふっ、と血を吐く。
「っ! ジド!」
ルキアがしゃがみこんだ。
ジドは息を荒げている。もう喋ることすら難しいだろう。胴体と腕の断面からは、おびただしい量の血が流れている。
「復讐に駆られるのは……かまわない。俺には……止める権利……ない。……だが――」
震える指先が、ルキアの頬に触れる。
死に至る寸前の言葉を、ルキアはどう受け取っていいのかわからないといった顔で聞いていた。
「復讐のために……何かを捨てるのだけは……それだけは……」
ジドの声が、途切れ途切れになる。ルキアが少しずつ下げっていくジドの手に、自らの手を重ねた。
「頼む……おま、えは……おまえ、の、まま、で……」
声が途切れる。開いたままの目から、光が失われていく。
「あ――」
吐息に近い声が、ルキアの口からこぼれた。
ジドの体が、壊れていく。末端から砂のように崩れ、形を失っていく。
拾い集める暇もない。
ジドだったものの塊が、風に流されどこかへ散っていく。最後に残った一部も、ルキアの手のからすり抜け、地面に落ちる前に風にさらわれた。
後に残ったのは、ジドが流した血の痕跡だけだった。
ザッ――
足音に振り返ると、騎士が距離をおいて立っていた。
ギルダスは、騎士とルキアを視界に入れるように動く。もしルキアが激情に身を任せて動けば、すべてが台無しになる。元々勝ち目がないのに、今は体中に傷を負っている。少しでも気を抜けば、今にも倒れそうだった。
ギルダスの警戒をよそに、ルキアはうつろな瞳で血の跡を見つめている。
その姿にどうしようもないやるせなさが沸きあがる。
黙って相手の対応を待っておられず、ギルダスは問いかけた。
「……なんでわざわざ待ってた?」
「さっき言ったとおりだ」
おざなりな受け答えが、ギルダスの頭に血をのぼらせる。
「はっ……義理堅いこったな。今さら善人面しようってか?」
「くだらぬ」
「あ?」
「善も、悪も、所詮は力の外側を飾るものでしかない。くだらぬことだ」
「……てめェのご高説なんぞに興味はねェよ。だがな、元はといえばてめェが――!」
「それがどうした」
ぶつけようとしたギルダスの怒りは、たったの一言で遮られた。
騎士の体から放たれる威圧感が、物理的な圧力となってギルダスの言葉を奪う。
「気に入らなければ、この体に貴様の刃を穿てばよかろう。道化師と違い、己は斬られれば死ぬぞ」
ギルダスは悔しげに唇をゆがませた。
それができていれば、最初からそうしている。不可能だと思ったからこそ、ジドと戦ったのだ。
「憶えておけ。己は弱き者の言葉など、一片の価値も認めん」
一際強い視線をあてたかと思うと、騎士は踵を返した。無防備な背中を前にしても、ギルダスは動けない。
「今の貴様に期待はせん。命が惜しくば、次に会う時までに腕を磨いておけ。さもなくば――」
背中の大剣に、その手が触れる。
「我が黒剣が貴様を喰らう」
かすかな闇の気配が、鞘からこぼれ出た。
「己の名はクゾート。この名を忘れるな」
名乗った騎士――クゾートの姿が見えなくなるまで、ギルダスはその背中を睨みつけていた。敗北感と屈辱に、その身を焦がしながら。