25.黒剣(3)
道化師が笑っていた。
起伏のない白い仮面の奥にある表情は、当然のことながらうかがえない。
それでも、仮面の奥から漏れ聞こえる含み笑いは、不気味な印象を伴ってギルダスの耳に届く。
「なんのつもりだ、てめえ……!」
危うく窮地を救われたギルダスは、表情を険しくして命の恩人である道化師を問いつめた。
本人の言うとおり、道化師がここにいるのが偶然のはずはない。
助けがなければ、死んでいた――そのことがわかるだけに、道化師の意図がつかめなかった。
「何、こんなふうにあっさり死なれてもつまらないと思っただけだよ」
あっさりとぼけるのを止めて、道化師は肩をすくめる。
「いやはや――」
首を左右に振り、わざとらしくため息をついた。動作の一つ一つが芝居じみていて、それがまた癇に障る。
「今回はただの傍観者で終わるつもりだったんだがね」
ギルダスに背中を向けたその姿は、一見隙だらけに見える。
(いや――)
今、斬りかかってもかわされる――そんな漠然とした、それでいて確信めいた予感をギルダスは覚えた。なにしろ、前に会ったときも、毛筋ほどの傷もつけられなかったのだ。
「それより――これはどういうことかな、“騎士”殿? 確か彼には手出し無用と言っておいたはずだが?」
道化師はおどけた様子で、怒気を露わにする男に仮面を向けた。
「貴様と約定を交わした憶えなどない」
あっさりと切り捨てると、男の殺気がさらに膨れ上がった。
「それよりも道化師……貴様、“偽った”な?」
「さて? なんのことやら」
「とぼけるな。この程度の相手に、貴様が傷つけられるはずもあるまい」
「ふむ……これのことかな?」
道化師は黒衣を翻し、以前に騎士に見せた血の汚れを露わにする。
――風が、道化師の黒衣を宙に舞わせる。
ふわりとゆらめいた黒衣が元に戻った時には、さっきまで染み着いていたはずの汚れはなくなっていた。
あったはずの血の汚れが消えた現象を目の当たりにして、ギルダスは眉を持ち上げる。
「我が黒衣は全てを偽る――さて、この程度のことは予想がつくものと思っていたがね」
「貴様……!」
男の怒声を耳にして、ギルダスは無意識のうちに後ずさっていた。
「これは……」
聞き慣れた声に振り返ると、リリーネを背にしたリゼッタが立っていた。リリーネに合わせて来たため、ようやく到着したらしい。
「っ……!」
リリーネが、道化師を見て息を呑んだ。
リゼッタはこの場の光景に、困惑したように眉をひそめている。
「……一体何があったんです? ギル」
「知るか。俺にも何がなんだかわからねェんだ」
道化師と、それと向かい合う得体の知れない男。変貌したジドと、力なくす座り込んでいるルキア。それらを順に眺め、ギルダスは吐き捨てる。
「俺がここに着いた時には、ジドがルキアを殺そうとしてた。なんでそんなことになったのか……俺にもさっぱりだけどな」
ギルダス自身にも状況が理解できていないだけに、説明も歯切れ悪い。
「僭越ながら――」
男と向き合いつつも、話は聞いていたらしい。
道化師が無造作に振り返ると、ジドを手の平で示した。
「彼の身に何が起こったのか、私の口から説明しようか」
「余計なことを言うな、道化」
「いいではないかね? 事情を知らなければ、彼らとてやりにくいだろう」
親切めいた言葉だが、ギルダスは顔をしかめた。
単なる親切心などではないだろう。むしろ、事情を話すことによって、ギルダスたちが動揺するのを楽しむようなそんな響きが、道化師の声にはあった。
道化師は、この場でただ一人正体の知れない男に顔を向ける。
「この男――私は“騎士殿”と呼んでいるがね。彼にはある奇矯な趣味があってね」
「趣味……?」
「そう。彼は出向いた先で力のある者を見つけては、その者を自らの強敵手に育て上げるのだよ。いずれ自分と、生死の境を綱渡りするような戦いをさせるためにね」
「なんでそんなことを……」
場違いなほど間の抜けた声が、リゼッタの口からこぼれ出る。
「……そういう奴か」
対照的にギルダスは納得したように呟いた。
わざわざ好き好んで死地に足を踏み入れたがる類の人間が、ごく稀にだがこの世にはいる。理由は様々だが、おそらく“騎士”と呼ばれている男もそういう人種なのだろう。
「とはいえ、もちろん彼が自身で戦いの手ほどきをするわけではない。少々迂遠な方法で見込んだ者に力をつけさせようとする。しかし、その相手が再び自分に挑みかかってこなければ意味はない。何をもってそうさせるかは――わかるかね?」
それを聞いて、別れる直前にジドと交わした言葉がギルダスの脳裏に浮かぶ。
「っ……復讐、か?」
「その通り!」
手を打ち鳴らし、道化師は声高に言った。話している内容とは裏腹に、その声音は嬉々としてよどみない。
人をくったような言動で振る舞い、そうしておいて相手が困惑し、苛立つのすら楽しんでいるのだろう。自然とギルダスの目尻が吊り上がっていく。
「大切な者を、かけがえのない存在を、世の中に二人といない愛する誰かを――目の前で殺され、永遠に失う。そんなものを見せつけられて、絶望を感じないものがいようか? 復讐を誓わない者がいようか? いないだろう? あるいはいたとしても、それは私のように壊れた存在だけだよ」
肩を揺らし、愉快そうに言葉を紡ぎ続ける道化師の仮面が、ジドの方向を向く。仮面の奥に隠された顔がどんな表情を浮かべているのか――知りたいとも思わない。
「はてさて――彼はいったい、誰を失ったのだろうね? もっとも、こうなってしまってはそんなことももはや関係ないが」
「……そいつにいったい何をした?」
「騎士殿の実力はわかっただろう? 才能ある者でも並大抵の修練では彼には追いつけない、どころか足下にも届かないだろう。ゆえに――騎士殿に見込まれた相手は、とある“呪い”を受け、修羅の道を歩むこととなる。それが、あれだ」
肌の色を黒く染めたジドが、その瞬間ぴくりと反応した。それに気づいて道化師が意外そうな声をあげる。
「へぇ? もしかしたら本人の意志が残っているのかな? あの状態になったら、そんなものなど吹き飛んでしまうと思っていたが」
「だから……何の話だってんだ!」
抑えつけていた怒りが、怒号となって口から飛び出した。
それを意に介した様子もなく、道化師は頭を左右に揺らしている。
「ふむ、失礼。彼の状態も興味深いが、今は話の途中だったね」
言いながら、ゆるゆると右手を黒衣から出した。黒の衣とは真逆の、一度も日の光を浴びたことがないような白い指を一本立てる。
「もし仮に、彼が一人の人間を殺したとしよう。理由などは関係ないよ。ともかく彼自身の意志で、誰かを亡き者にした場合――彼の心は、殺意に染まる」
ジドの体が、またぴくりと震えた。
「肌や目の色が変わっているだろう? 形こそ変わっていないが、中身はまるで別だよ。あの姿になった者は、目の前にある全てを傷つけねば気が済まなくなる。誰もいなければ、近くにいる人間の気配を感じ取り、そこに向かう。刃を振るうために、ね。修羅の道を歩むことになる――そう言った理由がわかったかね?」
ギルダスは困惑して眉を寄せる。そんなことができるなど、今まで聞いたこともない。
尻目にリゼッタを見ると、彼女は険しい顔で、ジドの手にある黒く染まった魂精装具を見ていた。
「この“呪い”の恐ろしいところは、対象者が理性を失わないということだ。自らの持つ戦いの技術はそのままに、冷静なる殺戮者と化す。もっとも今は、騎士殿の支配下にあるようだが」
「そういうことかよ……」
“呪い”とやらの理屈はわからない。
しかしギルダスには、ジドがあれほど人殺しを厭う理由が、ようやくわかった気がした。
誰かを殺せば、無作為に周囲の者も巻き込む。普通の感覚の持ち主なら、ためらって当然だろう。
「なかなかいい趣味だろう? そういうところは私とも通じると思うのだが」
「ふざけるな、道化。貴様などと一緒にされても不快なだけだ」
騎士が憤りを声に出す。道化師はとぼけた調子で、笑ってみせた。
「と、つれない態度でね。なぜかはわからないが、私は彼に嫌われているらしい」
その声に不快感を覚えたのはギルダスたちだけではなかったらしい。
「っ……!」
騎士の全身から、殺意が噴き出る。その余波に当てられて、ギルダスの肌が粟立った。
「貴様……それ以上その無駄にさえずる口を開くと、舌を斬り落とすぞ」
「おやおや、怖い怖い」
おどける道化師の態度に、騎士から放たれる殺意がさらに濃厚になっていく。争いごとに縁なく過ごしてきた者なら、それだけで気絶しそうなほどの殺意である。
お互い知ってはいるが、それだけの関係らしい。それどころか、今にも殺し合いを始めてもおかしくなさそうな雰囲気だった。
ギルダスは、そっと背後を覗き見た。
リゼッタは強張った顔をしているが、殺気に呑まれている様子はない。
リリーネは顔面蒼白になって、呼吸をすることすら難しそうだ。
ルキアは――
ギルダスがこの場に現れてから、ずっと座りこんだままだった。集落での態度が嘘のように、今では場の空気に呑まれ、怯えた顔をしている
「おい……」
ギルダスはリゼッタに近寄り、気づかれないように囁きかけた。
「逃げるぞ。リリーネは任せる」
リゼッタが目に険しさを宿す。
納得できないと、その表情が語っていた。それを言葉に出す前に、ギルダスは言いきった。
「戦っても勝ち目はねえ」
「ギル……?」
「あの仮面野郎も不気味だが、もう一人は化けモンだ。逆立ちしたって勝てる気がしねえ。……だから、俺が抑えてる間に逃げろ。長くは保たねえが、足止めする」
「なら、私も残ります」
抗うように言ったリゼッタに、ギルダスは苛立ちを剥き出しにする。
「バカか、おまえまで残ったらリリーネが逃げられねェだろうが。いいから行け。逃げるだけだったら俺一人のほうが都合がいい」
実際には――自分ひとりだけでも、逃げることは難しいだろう。その予測を無視して、ギルダスはリゼッタに逃げるように促した。
それでも、命を懸けてというほど殊勝な思いは、ギルダスにはない。難しいと不可能とは、全く意味が異なる。さっきは危うく死にかけたが、手を知っていれば対処のしようもある。
渋々と頷いたリゼッタは、
「……彼女は、どうするつもりです?」
座り込んだルキアを同情的な眼差しを送った。ギルダスはルキアを一瞥すると。
「焚きつける」
簡潔に言いきった。
呆然としているルキアに近づき、しゃがみこむ。
ルキアの顔は青ざめていて、精神的にはおろか、肉体的にも不調であることがうかがえる。
そんなことなど知ったことかとばかりに、ギルダスはルキアの耳元で囁くように叱咤した。
「おい、いつまでへたりこんでやがる」
ルキアがびくっと体を震わせて反応した。戦うことすらも忘れた、怯えきった顔でギルダスを見上げる。
そんな表情をしたルキアを見るのは、ギルダスにとって愉快なことではなかった。舌打ちしながら、その首を掴んで引きずり起こす。
「っ……」
苦痛に身をすくませたルキアに顔を近づけ、ギルダスは苛立ちを叩きつけた。
「殺すんだろうが、俺を。てめえが先にくたばってどうする!?」
「…………言われなくても――!」
ギルダスの声に反応して、ルキアが目に憎しみが宿らせた。
突き放されて尻をついたが、今度はふらつきながらも自力で立ち上がる。
「ふん……」
ギルダスはリリーネの肩に手をおいたリゼッタを見やり、浅く頷く。リゼッタも頷き返し――その表情が凍りついた。
「――おや、どこへ行こうというのかな?」
すぐ近くからした声に、ギルダスは反射的に飛び退いた。振り返ると、道化師がゆらりと体を揺らせてそこに立っていた。
――まったく、気づかなかった。
冷や汗が背中を伝う。
「ちっ……」
警戒して曲剣の魂精装具を構えるギルダスに、道化師は含み笑いで応じた。
「てめェ……!」
「ああ、待ってほしい。先に言っておくが、私に君の仲間を害する気はないよ。正直なところ、彼女らにはあまり興味がない。そうするのは君という玩具が壊れた後だね。もちろんこれはこの場限りの話だがね」
リゼッタたちを視界にも入れず、道化師は言った。
道化師にとって、ギルダス以外は大した関心を抱かない存在らしい。
「とはいえ――あちらの御仁は、また違う意見のようだが」
道化師の意識が、その背後に向けられる。
その途端に、密度を増して、もはや物理的な圧力すら感じられるほどの殺気が叩きつけられた。
「――どけ、道化」
“騎士”が、黒の大剣を構えていた。
「そやつの首は己がはねる。そのような弱き者を生かしておく理由などない」
その威圧的な姿など目に入らないかのように、道化師は頭を横に振る。
「いやいや、それは困る。彼に最初に目をつけたのは私なのだがね」
「貴様の思惑など知ったことか」
「……さて、これは困った。もし仮に私と君が戦っても、単なる時間の無駄で終わるよ? そのことはよく知っているだろうに。君の黒剣は私に通じないし、私の黒衣もまたしかり。それを承知で戦ってみるかね? それともどちらかが引くまでここでにらみ合う? どちらにしてもそれはあまりに退屈。なので、勘弁願いたいのだが」
さてどうしたものかと、道化師は頭をカクンと横に倒した。
こんな状況でなお平然と無駄口を叩く道化師の正気を疑いつつも、ギルダスは緊張で乾いた唇を舌で濡らした。
今は言葉の応酬だけで済んでいるが、いざ逃げようとしたらどうなるかわからない。
もしこの二人が本気で向かってくれば、抵抗することも許されずに死を迎えることになるだろう。
こんなついでのように殺される――それは、ギルダスにとって認めがたい話だった。
打開策を求めて、周囲を見渡す。周囲は木々に囲まれており、この窮地を脱するようなものなど何も見あたらない。
ふと、中空をさまよわせていたギルダスの視線がある一点で止まった。
その目が迷いに揺れる。しかしそれは一瞬で、すぐに追いつめられた者特有の強張った口元が、歪んだ笑みの形へと変わった。
「――なら、こんなのはどうだ?」
「……?」
「何かな?」
二人のやりとりを見ていただけのギルダスの言葉に、騎士は怪訝そうに顔を向ける。
道化師が、愉快そうに問い返した。
どこか壊れたようにも見える笑みを浮かべたギルダスは、二人の視線が自分に向けられるのを待って、ゆっくりと手を持ち上げてみせた。
「俺が今からそいつと戦う」
伸ばした指は、人形のように立ち尽くしているジドを指していた。
その瞬間、騎士の殺気が霧散したように薄まった。かすかに首を傾げ、問いを発する。
「……聞き間違いでないのなら、問おう。それに何の意味がある?」
「俺がもし勝てば、俺はあんたの言う弱者じゃねェってことだ。それならあんたも俺をここで殺す理由がなくなる。違うか?」
その場にいた皆の意表のつくことを、ギルダスは堂々と言い放った。