24.黒剣(2)
その場には、四人の人間がいた。
一人は身の丈に合わない湾曲した剣を構え、一人は無造作に鋸のような歯の連なる大剣を携えている。
一人は心を闇に染められ本来の人格を失っており、もう一人はその闇にあてられ心が折れかけていた。
にらみ合い、向き合い、悠然としながら、怯えて立つことすらできない――
異なる思いが交錯するその中で、比較的冷静を保っているギルダスは、曲剣を構えつつも眉をひそめて視線を巡らせた。
「くそっ……どうなってんだ、いったい」
ルキアを襲っていた、ジドらしき人物を睨みつける。
その顔立ちはジドのものに間違いない。ただし、その肌の色は見慣れたものより深い黒に染まっており、雰囲気はギルダスの知るものとはかけ離れていた。
無気力、無感情――
抜け殻のように立っているにも関わらず、油断はできない。
なぜかはわからないが、今のジドは本来の彼ではない。ついさっきも、ギルダスが割って入らなければ、確実にルキアを殺していた。
ただ、それをする理由が見当もつかない。
思いつく理由としては、この場でただ一人、ギルダスが見たことのない得体の知れない男ぐらいだった。
たまたま迷い込んだだけの一般人でないことは、ひと目でそう知れた。
ギルダスは男の力を推し量るように、目を細めた。その目に、すぐに驚愕の色が浮かぶ。
(なんだ、こいつぁ……)
相手の力を見定める――それは、命のやりとりをする者にとって、もっとも重要な能力である。その目に関しては、ギルダスも自信があった。
その目が、ギルダスにありえない現実を訴えかけてくる。
どれほど腕が立つ傭兵や兵士だろうと、ギルダスは勝てないと思ったことはない。
真正面から挑んで勝てない相手でも、隙をついたり、苦手な条件で戦えば――ようするに手段を選ばなければ、勝算もあった。
だが、目の前の存在は違う。
根本的に違うのだ。同じ人間という気すらしない。
どんな手段を使おうが、絶対に勝てない――そんなふうに思った相手は初めてだった。
奇しくも、ギルダスは少し前のルキアと同じ思いを抱いていた。
(いや……錯覚だ――)
どれほど異質に思えても、男の姿は人間のそれでしかない。だとすれば斬って斬れないことはないはず――そう思い直す。
とりあえず意識を男から逸らし、ギルダスはジドを見据えた。
「おいあんた、何を血迷ってやがる……!」
ジドの返事はない。
正気を失っているのは、見た時点で予想がついていただけに、意外さはない。代わりに声を発したのは、得体の知れない男のほうだった。
「ほう――」
その声を聞いただけで、ぞわりとギルダスの肌が粟立つ。
「年こそ若いが、そこの女よりは腕が立つようだな」
ジドを視界の端に入れながら、ギルダスは男に意識を向けた。
「ちっ……、リゼッタがあのふざけた仮面野郎の気配だって言うから来てみたら別口かよ。いったいどうなってんだ……?」
ギルダスのぼやきに近い呟きに、髪に隠れた男の目が光ったように輝く。
「――貴様が道化師の言う“玩具”か」
「ッ! ……てめェ、……あのクソ野郎の知り合いか?」
答えはない。男の体が、ゆらりと揺れる。
「よかろう、己が相手をしてやる」
「あァ? 何を偉そうに――」
言葉は途中で凍りつく。気がついたら、男は間合いの中で剣を振りかぶっていた。
風が、唸りをあげる。
「な――があっ!」
気づいたときには、反射的に掲げた曲剣ごと、ギルダスは弾き飛ばされていた。
浮き上がった足が、地面に触れる――その直後、今度は反対側から衝撃に襲われる。
半ば腰を落として受けたギルダスの体が、斜めに傾いだ。下から噴きあがるような斬撃に、今度は両手が万歳したように持ち上げられる。
繰り出された刺突は、その余波だけでギルダスの肌を斬り裂き、剣を引き戻しながらの片手斬りが肩を浅く抉った。
繰り返される連撃に、ギルダスはいいように翻弄される。勘頼りの防御は、今にも破られそうだった。
(速い! それに――重い!?)
切っ先が目に止まらないほど速く、その一撃は辛うじて受けても体勢を大きく崩される。一撃ごとに足が浮き、とてもではないが反撃する余裕などない。
身を丸めて攻撃をしのいでいたギルダスを、大振りの斬撃が襲う。横薙ぎの斬撃――止めきれないと判断したギルダスは、とっさに木陰へと転がり込んだ。盾にした樹の幹は、大人二人が両腕を広げたほどの太さがある。
これなら――と息をついたギルダスは、次の瞬間、目を疑った。
――フォン。
軽い、まるで素振りをしたような音とともに、盾になるはずだった幹の、刃が触れた部分が消失した。
剣で斬り裂いたわけではない。まるで、初めからそこには何もなかったかのように、大剣の軌道上にある分厚い木の固まりが消えていった。
防御が間に合ったのは奇跡だった。
まるで威力を減じていない斬撃を受けた瞬間、衝撃が全身を貫いた。溜めていた息が肺から絞り出され、ギルダスの足を地面から引きはがす。
「つぅっ!」
着地も出来ず、ギルダスは地面を何度も転がった。自分の身に起こった出来事を理解して、ギルダスは全身をバネに跳ね起きる。
その間にいくらでもとどめを刺せたはずだが、不思議なことに追撃はなかった。
幹の半ばで両断された樹が、枝のへし折れる音を立てて地面に横たわる。
ふらつく体を叱咤して立ち上がったギルダスは、怪訝そうに顔を上げた。
「……?」
――男はなぜか、剣を下ろしていた。
困惑しながらも、ギルダスは息を整えて体の調子を確かめる。
斬撃を受け続けた腕が、痺れている。特に最後の一撃を受けた時に、刃の峰に添えた右腕にくっきりと痕がついていた。そのせいか、右腕の感覚がうっすらとしか感じられない。あと何度か攻撃が続いていたら、剣を握る握力すらなくなっていたはずだ。
剣を交える前に感じた見立てが、錯覚ではないと思い知らされ、ギルダスの表情に焦燥が浮かんだ。
「――つまらんな。この程度か」
男が、落胆の呟きを漏らした。
見下された物言いに、反感を覚える余裕すらない。両手に構えた大剣を、男が頭上に掲げた。
「貴様ごとき、己が本気で相手にする価値もない」
ギルダスが目を剥いた。
(加減してたってのか!?)
驚いている暇もなく、男の全身から殺意が噴きあがった。
歯を噛みしめ、次に来る“とどめ”の一撃を待ちかまえるギルダスに、男は冷酷に告げる。
「逝ね。弱き者よ」
その一言を境に、男の持つ黒剣が異様な気配を放ち始める。
男自身のまがまがしい気配が、収束するように黒い剣へと流れ込んでいった。
元から黒いはずの刀身の色が、不思議なことにさらに黒くなったように感じられる。
溢れだした闇が、陽炎のように刀身から立ち昇った。
ドクン――
黒剣が、一度大きく脈打った。
「“我が黒剣は――”」
男が無慈悲に言葉を紡ぎながら、掲げ持った剣を、
「“――すべてを喰らう”」
降り下ろした。
大剣とはいえ、届く距離ではないはずだった。それがわかっていてギルダスが飛び退いたのは、ただの勘に過ぎない。
しかしその一撃は、ギルダスの傭兵としての勘をも上回るものだった。
「……っ!」
目の前で起こる現象に、ギルダスは目を奪われた。
消えていく。ギルダスと男を結ぶ直線上にあるものが、消えていく。文字通り、草も、土も、獣の牙で喰いちぎられたような醜い痕を残して、無くなっていった。
それでいて、一切、音はしない。
自分に迫るその“斬撃”を、ギルダスは呆然としながら見つめていた。死が近づいているためか、斬撃はやけにゆっくりと迫ってくる。
とはいえ避ける暇はないし、受けれるものかどうかもわからない。
それでも着々と近づいてくる斬撃は、はっきりとギルダスの目に映った。
それが通過する瞬間、その一帯は光すらも無くなる。迫りくる闇が、斬撃の正体だった。
物も音も、光すらも、軌道上にあるものすべてを喰らう斬撃を前に、常人に出来ることはない。
腕利きの傭兵とはいえ、常人の枠内に収まるギルダスには、ただじっと訪れる死を待つことしかできない。
それでも――
最後の足掻きとして、ギルダスは曲剣を“闇”に向かって突き出していた。何かを考えてのことではない。無意識のうちに体が動いていた。
「――!」
それはあまりにも唐突のことだった。
ギルダスの突き出した曲剣の切っ先に、黒い渦のようなものが突如として出現した。
渦は一瞬で大きさを増し、人一人がくぐり抜けるほどになった。
その中心から、聞き覚えのある声がした。
「“我が黒衣は、すべてを偽る”」
その瞬間――
ギルダスに向かっていた“闇”が、方向を変えた。反転し、まるで最初からそちらに向かっていたように、“闇”を放った男に迫る。
「ぬうっ!」
男が初めて、切迫した声をあげた。
返された“闇”と大剣がぶつかり合い、闇の斬撃はわずかな停滞の後、その刃にひゅっと吸い込まれる。
「……貴様か。“道化師”」
腹の底から絞り出すような忌々しげな声を、男は渦の中から現れた人物にかけた。
「さて」
とぼけたように、それは首を傾げる。
「これはこれは。奇遇だね、“騎士”殿。このようなところで顔を合わせるとは。それに――」
全身を覆う黒衣を翻して、振り返った。覗き穴も何もない白い仮面が、その顔を覆い隠していた。
そのあまりに特徴的な外見を目にして、ギルダスはぎりっ、と歯を軋ませる。
「なんでてめェが、ここに……!」
ギルダスの言葉に、かつて“遊び”と称して一つの街を混沌の渦に叩き込んだ張本人――“道化師”は愉快そうに肩を揺らした。