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23.黒剣(1)

 信じられなかった。

「ルキ……ア……」

 ルキアは愕然がくぜんと、目の前に広がる光景に意識を奪われていた。

 さび臭い匂いが、風に運ばれて鼻の奥をつんと刺激する。だが、今の彼女はそのことすら気づく余裕もなかった。

「ル……キ……っ、ぐぅ……」

 彼女の知る限り、最も強かった男が――ジドが、地面に倒れ伏していたから。

 うつ伏せになった体の下には、赤い水たまりができていた。それが血溜まりというものであると、ルキアの半ば麻痺した思考が訴えていた。

「……げ……ろ、ルキ、ア……逃げろ……!」

 ごぽりと、血が口からあふれ出る。共に吐き出された言葉は、ルキアの耳には入らない。彼女の目は、目の前の光景を作り出した一人の男に向けられていた。

「――フン」

 めた眼差しを、男はジドに注いでいる。

「久方ぶりに楽しめた……と言いたいところだが、刃をびつかせておったか。手ずから“力”を与えてやったものを無駄にしおって」

 ジドと一戦交えた痕跡は、男の体にほとんど残っていない。幾筋かの、かすり傷のような浅い傷があるだけだった。

 ジドと男の戦いを、ルキアはほとんど見ていない。視界には入っていたが、目で追えなかったのだ。それほどに速い攻防だった。

 数合か、数十合か――それすらわからないほど槍と剣を交えたあと、先に倒れたのはジドのほうだった。

 ジドが敗北を喫した一撃は、彼の肩から脇腹までを斜めに斬り裂いていた。傷の深さまではわからなかったが、それでもあれだけの血の量である。浅くはないということぐらいは想像がつく。

 男が、手に下げた大剣を振って血を払う。戦いの最中にはまともに見ることもできなかったそれは、異様な形状をしていた。

 肉厚で全体が緩やかに湾曲している片刃の剣だが、その刃の部分には鍔の根本から切っ先まで、くしのような突端が何本も生えている。

 肉食獣の牙のようなその形は、ソード・ブレイカーー―ルキアが話にだけ聞いたことがある短剣の形を連想させた。

 そして、その色は闇に紛れるような黒――柄から刃から、すべてが黒で統一されていた。

“――騎士殿”。

 かつてある闇に包まれた一室で、男がそう呼ばれていたことは、ルキアには知るよしもない。

 ただ、見せつけられた現実――ジドが敗れたという事実が、ルキアに衝撃を与えていた。

「そんな……バカな……」

 呆然と呟くルキアに、男はやっと気づいたというように意識を向ける。

 無造作に伸ばした前髪に顔を隠したまま、男はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「相手にする価値もない小者だが、熱を冷ますにはちょうどよいか」

 ルキアに向き直ると、食事の献立こんだてでも尋ねるかのように男は問いかけた。

「女、殺されるのとおかされるのでは、どちらがよい?」

「……な、に?」

「好きなほうを選ばせてやる。おれはどちらでもかまわんからな」

「……な――」

 本気で言っている――そうとわかった瞬間、ルキアの感情が爆発した。

「っ……ふざっ、けるなああっ!!」

 魂精装具ソレスタを具現化し、矢を二本、立て続けに撃ち放つ。男の両脇を抜けた琥珀色の矢は、空中で方向を変えて男の背中に迫った。同時に、三本目の矢が正面から男に襲いかかる。

 ――ルキアの魂精装具ソレスタが持つ異能は、あらかじめ決めておいた軌道を、矢になぞらせるというものだった。射る前に矢の軌道を設定しておく必要はあるが、遮蔽物に隠れていたり、動かない相手には効果の高い能力である。

 三方向からほぼ同時に矢を射かけられたに等しいその攻撃も、ルキアにとっては非のつけどころのないものだった。

 タイミングも狙った箇所かしょも少しずつずらし、二本の矢は避けても一本は命中するようにしている。だというのに――


 フォン――


「くだらぬ児戯じぎよ」

 男は吐き捨て、大剣を一閃させた。たったそれだけのことで、空中を滑るように飛んでいた矢がかき消えた。それも、三本とも。

「え……?」

 魂精装具ソレスタの矢を失ったことで、ルキアは脱力感に襲われる。唖然として膝をついた。

 必中のはずだった。それなのに、男は矢傷どころか、かすり傷ひとつ負わずに、ルキアを見下ろしている。

「弱き者の分際で牙をむくか。とはいえあまりに脆弱ぜいじゃく、話にもならんな」

 路傍ろぼうの石でも見るような眼差しを向けた後、男はルキアから目をそらした。

きょうが冷めた。おれが手にかける価値もないわ」

 言い捨て、倒れたままのジドに歩み寄る。

「貴様には期待を裏切った償いをしてもらう」

「くっ、な……にを……?」

 男は大剣を逆さに持ち、ゆっくりとジドの背中に近づけていく。すぐに切っ先が皮膚を突き破って、肉に埋まり始めた。

「ぐぅ……!」

 ずぶずぶと体の中に潜り込む刃に、ジドは苦悶の声を漏らした。

「っ……俺を……殺す、か……?」

「無論。だが、その前に――」

 男が動きを止めた。先端だけ刃が突き刺さった傷口から、血がこぼれる。

「貴様には、あの女を殺してもらう。……貴様自身の手でだ」

「なっ……!」

 その言葉を聞いたジドが、痛みを忘れたかのように目を見開いた。その背中に、足が乗せられる。

 大剣が、ちり、と震えたように鳴った。

「がぁ……! っ、何を――」

「その身にかけられた呪縛を憶えていよう」

 言い終えるや否や――闇の色をした刃が、生き物のように脈動した。どくん、と震え、表面が水面のように波打つ。

 同時に一片の混じり気もなかった刃の黒が、薄まっていく。色の変化は鍔元から始まり、少しずつ、まるで色が溶け落ちていくように刃の切っ先へと進んでいった。

「がぁああ! ぐっ、はがっ!」

 剣が脈動するたびに、ジドが悲鳴をあげる。外側からの痛みではなく、体内から襲ってくる痛みに、声を抑えることもままならない。

 逃れようにも、背中に乗せられた男の足がジドの動きを封じていた。

「おまえ……! ジドに何をして……」

 我に返ったルキアが、力が入らない足にむち打って立ち上がった。

 男はちらりとルキアを一瞥してから、弱者と交わす言葉などないとばかりに顔を背ける。

「くっ……!」

 止めさせようとしても、男に意識を向けられただけでルキアの体は凍てついたように動かなくなる。

「ぐぅっ!が、はっ! ぐ、あ……」

 やがて――ジドの声は収まり、男はゆっくりと足をどかした。引き抜いた剣の色は、不思議なことにまったく変わっていない。

「ジ、ジド……?」

 ルキアが恐る恐る、声をかける。

 ジドはぴくりとも動かない。

(まさか、死――?)

 不吉な予想が頭をよぎる。

「ジド――!」

 男の存在も忘れて近づこうとしたルキアは、すぐに顔をほころばせた。

 何事もなかったように、ジドが動き出したからである。地面に手をつき、膝を立ててゆっくりと立ち上がる。

「……っ!」

 ルキアは息を呑んだ。

 ジドの様子が一変していた。姿形は見知った相手で間違いないのに、幽鬼ゆうきのように虚ろで無気力な気配を発している。

 あれだけの血を流していた傷口は、なにか得体の知れない黒いもので塞がれていた。

「貴様の相手は後でしてやる。今はあの女は――殺せ」

 男の声に反応して、ゆらりと体を揺らした後、ジドは俯かせた顔を上げた。

「……っ!」

 その瞬間――

 ルキアは目を見開き、口をわななかせた。

 ジドの理知的だった瞳が、黒く染まっていた。

 染まっているのは目だけではない。顔も手も、肌の見える部分は全て元の褐色から、漆黒へと変わっていた。おそらく、目に見えない部分も同じだろう。

「ジド……?」

 あまりに様変わりしたジドを凝視しながら、ルキアは異様な状況に本能的に後ずさろうとした。

「あ――」

 膝から力が抜け、かくんと体が傾く。


 ――ドンッ!


 ルキアの髪が一房、吹き飛んだ。

「……なっ」

 何が起こったかわからないまま、ルキアはひりつく頬を手で押さえる。

 視界にあったジドの姿が消えていたことに気づき、驚いて振り返った。

 周囲を舞う土と千切れた草に囲まれ、背中を向けたジドはそこに立っていた。

 移動したのだ。目に見えないほどの速さで――それも、ルキアに奇襲をしかけて。

(まさか、本気であたしを狙った……?)

 ジドが振り返る。その動きに不自然なところはない。昔、何度か稽古をつけてもらった時に見た、いつものジドの動きだ。

 安堵しかけたのも一瞬、その顔を見て、ルキアは目の前は暗くなった気がした。

 ――何もない。

 殺意も、躊躇いも、罪悪感も。今のジドからは、人間が持つ感情がまるで感じられなかった。ジドの姿をした別の何かが、そこにはいた。

 それ・・が再び槍を構える。今度は確実に仕留めるためか、じわじわとにじり寄るようにして距離を詰めてくる。

「ジド、あたしがわからないのか……!」

 悲痛に叫んでも、ジドはまるで反応を見せなかった。

「くっ――!」

 ルキアは力を振り絞って、ジドに向かって矢を放つ。

 最後の力を込めた矢はあっさりと弾かれ、二つに折れて地面に落ちる前に消失した。

 ルキアの体から力が抜けていく。元々、普通の矢のように乱発できるものではない。

(なんで――)

 呆然と、ルキアは近づいてくるジドを見上げた。

 怒りも、恐怖も沸いてこない。ただ、理由もわからないまま自分が殺されることに、どうしようもないやるせなさを感じていた。

 今度こそ膝をついて動けないルキアに、それでもジドは一歩一歩踏みしめるように近づいていく。油断のかけらもない、生来のジドの慎重さだった。

 逆にルキアにとってはそれが、死に至る瞬間を引き延ばされているような苦痛を与える。

 何も、わからない。ルキアの心が、闇に包まれていく。目に映るものすべてが、遠い世界の出来事のように感じられた。

 それでも耐えきれず、ルキアは目を伏せた。

 もう、何も見たくない。何も――感じたくない。

 絶望が、ルキアの意識を黒く染め上げていく。

 姉を殺され――

 自分の手で仇も討てず――

 今は、かつて父や兄のように慕っていた男に殺されようとしている。

 ルキアの身の回りに立て続けに起こった悲劇は、彼女の希望を根こそぎ奪っていた。

 意識が闇に閉ざされる瞬間、ルキアが感じたのは、地面に着いた膝から伝わるかすかな振動で――

「――?」

 億劫おっくうそうに顔を上げたルキアの視界に、小柄な人影が飛び込んできた。

 人影が疾走し、跳躍する。

 空中で身を捻りつつ、全身の力を余すところなく使って、ルキアの目前に迫ったジドに斬りかかった。

「――オラァッ!」

 繰り出された刃は、ジドが両手に構えた槍に受けとめられた。それでも勢いは殺しきれず、ジドが大きくよろめいた。

 人影は着地すると、距離をとりながらルキアとジドの間に割り込んだ。怒声が、ルキアに浴びせられる。

「てめえ……何ふぬけてやがる!」

 その小さな背中が、口汚い声が、ルキアの意識を闇から引きずり上げる。

 今のルキアが憎んでやまない少年――

「――おまえ……! なんで、ここに……」

「んなこたどうでもいいだろが! さっさと逃げろ!」

 ギルダスという名のその傭兵は、呆然と座り込んだルキアに苛立たしげに声を張り上げた。

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