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21.狂乱、慟哭、憎悪(2)

 熱い何かが、頬を濡らした。

 そう感じた時には、もうすべてが終わっていた。

 仰向けで見上げた先には、憎んでも憎み足りない男がいた。

 その胸から何か・・が生えているのを見て、麻痺していたルキアの心に疑問が浮かぶ。

(……あれは――?)


 ――ズッ。


 その何か・・が引っ込んだ途端に、そこから赤い液体が噴き出した。

(赤い――あれは、そう。血だ)

 熱い飛沫ひまつを全身に浴びながら、それでもルキアはまだ夢の中にいるような心地だった。

 ドーランが胸にある傷口を手で押さえた。その程度で出血が止まるはずもなく、胸と背中から溢れた血が、服を赤く染めあげていく。ふらりとよろめいたその口から、ごぷっ、と血がこぼれた。

「きざまぁ……」

 振り向くその姿を見て、ルキアは疑問に思う。

(なぜ――)

 あれだけ出血すれば、もうたないだろう。今はまだ立っていられても、そのうち倒れてすぐに死ぬ。

 それなのに、なぜ――

「ぎぃざぁまああぁっ――!」

(なぜ――その顔はあたしに向けられていない?

 なぜ――その目はあたしを映していない?

 あれ・・をするのは、あたしだったはずなのに。

 ――なら、誰が……それをした?)

 霞がかったような頭で疑問を重ねるルキアの耳に、舌打ちが聞こえた。

 直後――背後を見ていたドーランの首に赤い線が走った。

「あ……」

 首が、飛んだ――そう思った時には、すでにその断面から血が噴き出ていた。

 まだこれほど残っていたのかと思うほどの血をまき散らし、ドーランの体がゆっくりと仰向けに倒れていく。

 目に血が入り、赤く染まった視界の中でルキアはあるものを見つめていた。

 空中を舞うドーランの頭――それがゆっくりを回転しながら、地面に落ちた。

 ころころと土の上を転がって止まったそれは、偶然にもルキアの方向を向いていた。

 死してなお憎悪を宿した目、憤怒にみにくく歪んだ形相を見て、

「――あ」

 その瞬間、ルキアの世界は崩壊した。

「ああ、あぁああああああっ!」

「――っ!」

 押さえていたリゼッタを引き剥がし、跳ね起きる。

 自分が何をしているのかもわからず、衝動のままルキアは飛びかかった。

 その相手は、仇を横取りにしたあの――

 伸ばした手が、その首に触れるかに見えた瞬間、ルキアの足裏から土の感触が消えた。

 浮遊感の後――全身が衝撃に襲われる。

「ガァ……ハッ――」

 息が詰まる。体が麻痺したかのように痺れ、痛みに悶えて転げ回ることもできない。

「よう。残念だったな」

 声が聞こえた。

「――!」

 あれほどひどかった痛みが、その瞬間だけ治まったように消えた。渦巻いていた視界が元に戻り、焦点を結ぶ。と同時に、

「ぐっ――」

 妙な圧迫感を感じた。首を傾けて覗いてみれば、腹に足が乗せられている。ただ乗せているだけでなく、浅くめり込んでいた。

「だから言ったろうが。踏みにじられるのは弱ぇからだってな」

 ギルダスが、嘲笑わらっていた。

「おまえが殺したがっていた仇はおれが殺した。おまえが地面に這いつくばっている間にな」

 粘りつくような声が耳朶じだを打った。

「これでおまえが自分の手で仇を討つなんてこたァ出来なくなったわけだ。俺にあっさり横取りされたからなあ」

 くくく――

 継ぎ足したような笑い声は、これ以上愉快なことはないというようなものだった。


 ぎり――


 食いしばった歯がきしむ。壊れかけていた心に、憎しみが戻りつつある。

 その憎しみの向かう先は――

「で――おまえはどうする?」

「殺す……」

「あァ? 聞こえねぇなあ」

 ギルダスがとぼけたように耳に手を当てた。目は笑っている。

 髪を振り乱し、ルキアは叫ぶ。

「おまえを――おまえを殺してやる! 絶対に、絶対にだ!!」

 仇がどうとかは関係ない。今はただ、この赤い髪の少年が憎かった。

 今やルキアのドーランに抱いていた憎しみは、完全にギルダスへと向けられていた。

 ギルダスの笑みが、ふっとかき消えたのも一瞬――一すぐに元の、口端を吊り上げた嘲笑いへと戻る。

「――そうかい」

 常人なら背筋が凍りつくほどの憎悪に、ギルダスは肩をすくめて応じるだけだった。

「そりゃ結構なこった。だがおまえにゃ無理だ、そんなざまじゃあな」

 ギルダスの足に、さらに力がこもる。かふっ、と戻りかけていた呼吸が乱された。

 それでも――ルキアが怯えに竦むことはない。

「今は無理でも、いつか……いつか絶対におまえを殺してやる!」

「――ク、クククク」

 すいっと持ち上げられた口端から、薄笑いがこぼれた。赤く濡れた曲剣を一度振って血を払い、掲げるように持ち上げる。

「――せいぜい、がんばるんだな」

 降りおろされた柄が、自分の首を打つその瞬間まで――ルキアの琥珀色の瞳は、ギルダスを睨みつけていた。


 ◆


 ――ギルダスの手に、鈍い感触が伝わる。

 くたり、とルキアの体から力が抜けていく。がくりと垂れた頭が、地面に落ちた。

 リゼッタが駆け寄り、ルキアを抱き抱える。その手が乱れた髪を左右に流すのを見て、ギルダスは顔をそらした。

 気を失っていても、その表情から憎しみが消えることはない。眉根にしわを寄せ、口元は苦しげに歪んでいることはわかっていた。

「ちっ……」

 舌打ちをしたギルダスの表情は、ルキアを相手にしていた時と一変していた。

 喜悦きえつにまみれ、見る者の不快感を駆り立てるあの表情はもうない。今はつまらなそうな顔で明後日の方向を見ている。それは、駆けつけてきた大勢の足音が、周囲を取り囲んでも変わらなかった。

 ギルダスたちをとり囲んだのは、ドーラン配下の兵士たち――彼らは主の変わり果てた姿を見て、ある者は呆然とし、ある者は怒りをたぎらせた。


 ――ズラァ。


 誰かの剣を抜く音が、合図になった。兵士たちは声もなく、にじり寄るようにして包囲を狭めていく。

 領主という人質が殺された今、彼らが止まる理由はない。

「よお」

 それなのに、ギルダスの口から発せられたのは平坦な声だった。

 声をかけたわりには、兵士たちを見てもいない。侮られていると思った一人の兵士が大きく踏み出した。

 刹那せつな――

 その兵士は、怒りの表情を浮かべたまま硬直する。

 彼だけはなく、周囲の兵士たちも動きを止めて落ち着かなそうに同僚と視線を交わしていた。

 争いを生業とする兵士たちが、ギルダスの内から発せられた何かに怖じ気を感じたように足踏みしていた。

 それが、殺意と呼ばれるものであることは――実際に殺し合いを経験した何人かは気づいていた。

「加減はしねえ。それでもいいってんなら――来いよ」

 こんな状況でなくても、鈍い者ならその言葉が疑いようもない本気であることを悟ったはずだ。それほどの意志が込められた言葉だった。

 怯えて立ちすくむ者――

 怒りに身を震えさせる者――

 反応は様々だが、勇気が恐怖に勝った兵士たちが、少しずつ包囲を狭めていく。

「止めなさい!」

 それを止めたのはリゼッタの高い声であり――

「止めい!」

 老人のしわがれた声だった。

 リゼッタの純白の法衣は血で赤く染まり、一種異様な迫力を醸し出している。

 それを見てたじろいだ者もいれば、振り返って驚きの表情を浮かべた者もいた。

 彼らをかき分け、前に出たのはドーランの側仕えをしていた老人である。

 ただの従者ではなく、主不在の時は領地を託されるほどの信頼厚い忠臣だった。

 ドーラン亡き今、兵士たちが指示を仰ぐ相手がいるとすれば、この老人をおいて他にいない。

「なぜですか!? こいつらは領主様を――お待ちください!」

 兵士の制止を無視して、老人はギルダスに近づき――その横を素通りした。

 彼が足を止めたのは、ドーランの死体の前だった。血で汚れるのもかまわずに膝を地面につける。

「不毛だ……! これ以上の争いは……」

 戸惑いの表情で兵士たちが見つめる中、老人は掠れた声で呟いた。

「いや……元々か」

 疲れたようにふっと息を吐く。元々かなりの高齢である老人が、その瞬間さらに年をとったように見えた。

 リゼッタが声をかける。

「そちらがほこを収めてくれるというのなら、私たちにも争う意志はありません」

「……なら、よかろう。すぐにこの場から立ち去れ。おまえたちを前にしていて、いつまでも抑えていられる自信はない」

 淡々とした物言いが、返って老人の心境を表していた。

 何かを企んでいるのではないかと思い、ギルダスが目を細める。

「……納得できねえな。そいつはあんたの主だろうに。仇を討とうって気はねェのかよ?」

 あからさまな疑いを向けられても、老人は怒る様子もなかった。ただ、やるせなさを言葉にして吐き出す。

「小僧、一つ教えておいてやる」

「あ?」

「おまえの殺した男は……私のおいだ」

 ギルダスが眉を跳ね上げる。

 本陣で斬りあった腕利きの兵士――斬った時の感触が、一瞬よみがえった。

「主を殺され、甥をも殺された私が貴様を憎んでないはずがなかろうが。できることなら、すぐにでも仇を討ってやりたいわ……! その思いに歯止めをかけているのは、それが我が主の――旦那様の遺志だからだ」

「……意味がわからねェな。最初に集落を襲撃したのは、そっちのほうだろうが」

「旦那様は――いや……」

 老人は首を横に振って、口を閉ざした。

 何かを言おうとして、思いとどまったかのような反応である。

 それが死者を悪しざまに言うことに抵抗を感じてなのか、主と仰いだ相手を批判することに後ろめたさを覚えてなのかはわからない。

 ただ、老人の表情には、言ってはならないことを言おうとした罪人のような陰があった。

 これ以上踏み込まれるのを拒むような頑なな態度で、

「領地と領民を愛した旦那様の遺志を、私は尊重する。もう、これ以上争っても……意味はない」

 そう言葉を絞り出した老人は、顔を上げた。ドーランだけを見ていた目で、きっとギルダスたちを睨みつける。

け! ……今すぐにだ。これ以上、おまえたちを見ておれば……っ」

 抑えきれない何かが、その瞬間だけ溢れだしたように――老人の声が悲痛に上擦った。

 リゼッタがギルダスに頷きかけて、ルキアを背負う。

 最後に老人を一瞥し、ギルダスが一歩踏み出した。その先で兵士たちは左右に分かれて道を空ける。

「旦那様……!」

 背後で、老人の掠れたようなうめき声があがった。

 振り返ると、地面に額をこすりつけた老人が号泣していた。

「……終わったらしいな」

 木陰から、ジドが姿を現した。体にいくつかの傷を負っているが、どれも軽傷だった。

 ジドはすべてを悟ったような目で、気を失ったルキアと、ドーランの死体を見た。

「ああ……」

 ギルダスが浅く頷く。それ以上、声を出すのも面倒だった。

 目的を果たした達成感など欠片もなく、四人は集落への道筋をたどる。

 離れても聞こえてくる老人の声は、高く、遠く――慟哭どうこくとなって耳に響いた。

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