20.狂乱、慟哭、憎悪(1)
ギリィ――
張りつめた空気の中、その音は当然のように高く響いた。
ルキアの魂精装具である琥珀色をした弓――その弦には、すでに矢がつがえられている。
「その男から離れろ」
状況にそぐわない冷徹な声は、驚くことにそのルキアの口から発せられた。
「……リゼッタはどうした?」
ギルダスの問いかけに、ルキアはぴくりとも反応を示さない。
そのことが、ルキアがリゼッタに何かをしたことを語っていた。
(まさか、殺してまではいねェだろうが……)
確かなのは、それはここで確かめる余裕はないということだ。
「念のために訊いとくが……離れたらどうする気だ?」
――ギリ。
弓の弦が、さらに引き絞られる。その行為が明確な答えとなっていた。
「……ならできねェな」
ギルダスの答えは、否である。
「今こいつを殺されたら、俺たちが周りの奴らに殺される。生憎、死にたいとはまだ思っちゃいねェんでな」
息を呑んでいた周囲の兵士たちがざわめき始める。
自分たちの主を人質にした少年と、その少年が招いて姿を現わした女――その二人の間に漂う空気は、予想外に緊迫したものだった。
彼らには状況が掴めていないだろうが、主が生死の境に立っていることは理解しているのだろう。固唾を飲んで立ち尽くしている。
ギルダスに断られても、ルキアの表情に変化はない。ここに来た時から無表情で、何を考えているかさえわからない。
(……ま、そんな奴の相手をするのは慣れてるけどな)
そんなことを考える自分に苦笑しつつ、
「だから提案だ」
ギルダスは指を一本立てた。
「今からこいつを連れて、ここから離れる。おまえもついてきていい。だからその間は手を出すな。おまえだってこいつと心中する気はねェんだろ?」
周囲を兵士たちに囲まれているこの状況では、仮にドーランという人質を失ったら逃げられない――そう思っての提案だった。
「貴様……!」
従者の老人がいきり立つ。主を自分たちの目の届かないところで殺されるとでも思ったのだろう。
「安心しな。こいつを殺したがってるのはあの女だけだ。俺までやる気はねェよ」
「き、貴様……」
苦しげな声だった。
ギルダスに首を鷲掴みにされているドーランが、口をわななかせながら問う。
「な……何者だ……?」
「聖封教会――」
びくりと、ドーランの身体が揺れた。老人の顔から険しさが消え、すぐに別種の緊張がそこに浮かぶ。
「ってことだ。殺しゃしねェよ……下手なことしなけりゃな」
「ぐっ……」
「おら、道を空けろ」
首を掴み、ギルダスはドーランを引き立てるようにして、左右に分かれた兵士たちの間を通り抜ける。
剣を首に添えたままなので、兵士たちは手出しできない。
理解できない状況に疑問符を浮かべながらも、主を乱暴に扱われて悔しそうに顔を歪めている。
ルキアは少し距離を置いてついてきていた。
何人かの兵士はルキアを見て、機会をうかがっているような素振りを見せたが、
「言っとくが、その女にも手を出すなよ。そうなったらこいつの命は保証しねェぞ」
ギルダスにそう言われ、今のところ強行手段に出る様子はない。
ルキアは矢はつがえたままなので、ギルダスにしても気は抜けない。視界には必ずルキアを入れるようにして移動しながら、ギルダスは目を細めた。
(にしても、こいつ……本当にあのルキアか?)
集落でルキアにつきまとわれたギルダスにしてみれば、今の彼女はまるで別人である。
その瞳からは、感情は読みとれない。初めて矢を向けられた時と同じだ。
それでも、多少の余裕はある。
警戒しているのか、ルキアはギルダスから距離をとっている。一足飛びで飛びかかれる距離でない代わりに、そこから矢が放たれても防ぐ自信があった。
「こんなもんか……」
本陣を出て、木々の密集している場所に入ったところでギルダスは足を止めた。
まだ兵士たちの目の届く範囲である。
見えないところまで離れることもできるが、そうすれば向こうの動きも見えない。
とりあえずは、いざという時に、すぐに囲まれる場所から離れればそれでいい――そう思いながらギルダスはさりげなくリゼッタの潜んでいた場所を確認した。
ふっと息を吐く。茂みが見えるだけで、地面に赤い血溜まりが広がっているということもない。
「――それで、どうする?」
意識を切り替え、ギルダスはルキアに問いかけた。
「ここまで来たはいいが、俺はおまえにこいつを殺させる気はねェぞ」
ルキアは答えない。
「だからって諦める気は……なさそうだな」
ギルダスは深々と息を吐きたい衝動を堪えた。
どの道、話しただけですごすごと引き下がるような相手だとは思っていない。
周囲を兵士たちに囲まれていたあの時、ルキアは明確な殺意を放っていた。それは自分が直後に死ぬとわかっていても、ルキアはドーランに矢を放つのではないかと、ギルダスが疑問に思ったほどの殺意である。
そして、その殺意を否定する気はギルダス個人にはない。理由を知っているからなおさらそう思う。
もし依頼でなければ、さっさとドーランを引き渡してこの場から離れていただろう。
(仕方ねえか……)
気は乗らない。乗らないが、だからといって投げ出すわけにもいかない。
一度だけ息を吸い、ギルダスは腹を据えた。
そして次の言葉を口にするその時には、ギルダスの雰囲気はがらりと変わっていた。
「――ま、そうだろうな。……なんたって身内を殺した相手だからなあ?」
嘲るような笑みを浮かべ、
「殺されたのは姉貴なんだって?」
嫌らしい口調で喋る。
ルキアの肩が、ぴくりと揺れた。
「おまえとは違って、おしとやかな女だったってな」
「っ……」
唇がわななく。
「勿体ねえなあ。いい女だったんだろ? 死んじまえば関係ねェが」
「……れ」
「殺される前に散々なぶられたんだろうなあ? 死体は見たんだろ? なあ、どうだったよ?」
「黙れ……」
仮面のような表情がひび割れていく。
「ああ、そんなこともわからねェようなひでェ有様だったか」
「黙れ……!」
「可哀想になあ。死ぬ寸前にどんなことを思ってたんだろうな? もしかしたら、おまえに助けてって――」
「黙れええええええぇっ!!」
ルキアの絶叫が、森の静寂を打ち破った。
ひときわ強く、琥珀色の魂精装具が光を放つ。
魂精装具の持つ特殊な能力――それが発現する前兆に、ギルダスは身構える。
直後――ルキアの指から、矢が解き放たれた。
(――横!?)
矢はギルダスとドーランを逸れ、すぐ横を通り抜ける。
怒りで、狙いがぶれたか? ――ギルダスの疑問は、すぐに驚愕へととって変わった。
――キュンッ!
矢の行く先を追っていた目を、限界まで見開く。
琥珀色の光の残滓をまき散らしながら、ルキアの放った矢は空中で軌道を変えた。
反転し、ギルダスを背後から強襲する。
ほぼ同時に――
ルキアが二本目の矢を放った。
それらはほとんど同時に、ギルダスへと迫る。
挟み込むように迫る矢の狙いは、ギルダスの腹――かわしにくく、しかも致命傷になりやすい部位だった。
「くぅッ!」
ドーランを地面に引き倒す――
背中の短剣を抜く――
曲剣を横薙ぎにする――
短剣を矢の軌道上に置く――
過密する時間の中で、ギルダスはそれらをほぼ同時にこなした。
――ガギギンッ!!
矢は二本とも刃に弾かれる。その瞬間、ギルダスの意識からルキアの存在が消えていた。
「死ねええぇええっ!!」
気づいたときには、ルキアはすぐそばにいた。
憎悪をたぎらせた瞳は、ドーランではなくギルダスに向けられており、その手には矢が握られている。すでに降り下ろしていた。
(ああ――こいつァ、死んだか?)
死の寸前、ギルダスは自分の暢気な思考に呆れつつも、そんなことを思い――
横から飛び込んできた人影が、ルキアに体当たりをした時もすぐには反応できなかった。
「っ……!」
倒れるまではしなかったが、ルキアの体が大きくよろめく。
その手首を取り、脇から飛び込んできたその人物は小さく身を屈めた。
その瞬間――ルキアの女にしては大柄な体躯が、空中に舞った。
――ズンッ!
「――カハッ!」
仰向けに打ちつけられたルキアの口から、胸に溜まった息が吐き出される。苦痛の色に染まったその顔を、すぐに白い法衣が覆い隠した。
その正体を見極めたギルダスは、自分でも知らないうちに安堵で表情をゆるめていた。
「で……」
次にギルダスの口から出たのは、不機嫌ながらも、どこか笑いを含んだ声だった。
「おまえは今までどこで、何やってた?」
「……油断しました」
割り込んできた法衣姿の女――リゼッタは顔をしかめて、首に手を当てる。その部分が赤く腫れていた。
思わずギルダスは、含み笑いをこぼす。
「不意打ち喰らって気絶してたってか? おまえにしちゃ間抜けだな……っと」
話の途中からリゼッタの眉根に皺が寄っていくのを見て、ギルダスは慌ててフォローした。
「ま、まあぎりぎりのところで目を覚ましたのはよかったかもな。下手すりゃ起きた頃には、ここらへんにぐちゃぐちゃの死体が転がってたかもしれねえ」
苦しいフォローだったが、その場しのぎにはなったらしい。リゼッタは怒りを吐き出すように息を吐いてから、
「気を失っていた時の事情は後で聞かせてもらいます。……ですが、今は――」
と、ドーランに視線を移した。
「うまくいったようですね」
「いろいろと予想外のこともあったけどな」
逃げられる機会だったはずだが、幸いにもドーランはこの場から離れていなかった。呆然とした顔で、地面に尻をついている。
あるいは、ルキアの殺気にでもあてられたのかもしれない。何かをぶつぶつと呟く様子を、ギルダスは気味悪そうに眺めた。とはいえそのまま放置しておくわけにもいかず、念のためその背中に切っ先を押し当てる。動くな、という意思表示である。
物騒なやりとりを耳にしたからだろう。本陣のほうから、兵士たちのざわめきが大きく伝わってくる。こちらはそれほど待たなくても、向こうからやってくるだろう。
少しおかしなことにはなったが、あとは予定されていた通りの手順を踏めばいい。ギルダスがそう安堵しかけた時、
「うっ……く……」
いきなり足下から聞こえた嗚咽の声に、ぎょっとした。 そこには関節を決められ、地面に押さえつけられたルキアがいる。
「くっ……ぐぅ……!」
わずかに動く指先で、ルキアは地面に爪を立てていた。土が爪先に詰まり、地面に五筋の跡をつけていく。
「なんで……なんでだ!」
空を見上げるルキアの瞳から流れる涙が、頬を伝って地面を浅く濡らした。
――あのルキアが、はっきりと涙を浮かべて泣いていた。
その事実に、ギルダスは自分でも気づかないうちに後ずさる。
ルキアを組み伏せていたリゼッタが、困惑したように腰を浮かした。
「あの……すいません。どこか痛みますか?」
思い切り地面にブン投げておいてその質問はないだろ、とギルダスが呆れていると、ふと思いついたようにルキアが顔を上げた。
「ところで……なぜドーランではなくあなたが命を狙われたんですか?」
う、と言葉に詰まる。
言い過ぎた、という自覚はギルダスにもあった。
あったが、ルキアが仕掛けてくるタイミングを計ることと、感情を表に出させること、狙いをドーランから自分に移させることで、あの場をなんとかしのげたのも事実だ――最後はリゼッタに助けられたが。
「あー……その、なんだ」
受け入れられるはずもない謝罪を口にしようとし――だがルキアの次の言葉に、ギルダスは急激に頭の中が醒めていくのを実感した。
「なんであたしは、シサラの仇を討つことすらできない!?」
悲痛な叫びが響き渡った。
シサラというのが殺されたルキアの姉だとわかった後、ギルダスの反応は――さも下らないとばかりの舌打ちだった。
そんなもの、答えは決まっている。
「弱ェからだろうが」
口にしたその答えに、ルキアが目を見開く。
「弱ェから大切な奴も守れねえ。その仇を討つこともできやしねえ。弱ェから踏みにじられて、侮られて、そんな無様をさらすことになる」
「ギル……!」
容赦ない物言いに、リゼッタが非難の目を向けてくる。ギルダスはそれを無視して、ルキアを見下した。
苛立っていた。それは、殺されかけたことだけから来るものではない。
ルキアがやったことといえば、目的も果たせず、せいぜい場をひっかき回しただけ。
さんざんひっかき回されたギルダスにしてみれば、これぐらい言ってもいいだろ、という気持ちもあった。
(いや……違うな)
そんな思いは、後付けの言い訳に過ぎない。
結局は感情のままに言葉を叩きつけただけだ。
ルキアの今の苦悶する様子は、ギルダスの過去を掘り起こすものだった。
壁にぶつかった時や後悔をする度に、同じようなことを何度も自問しては、その度に同じ答えを見つけだす。
――ルキアの今の姿が、そうした思い出したくもない自らの過去の自分に重なって見えていた。
愚かで、何者にもなれると信じていたかつての自分を思いだし、ギルダスは自身の感情を抑えきれなかった。
息を荒げるルキアに、忌々しげな眼差しを投げかける。次の言葉は、意識する前に口から滑り出た。
「我を通す強さのねェ奴は黙ってろ」
「っ……!」
言いたいことを言いきった晴れやかさとは縁遠い表情をして、ギルダスは気まずそうに顔をそらした。
「あ――」
ルキアが声にならない吐息を漏らし――その顔から、ふっと表情がかき消える。強烈な意志を宿していた瞳から、光が失われていく。
心が、枯れ果てていく。そうとしか思えないような変化は、表情だけにとどまならない。
ルキアの魂精装具である弓が、使い手が粒子化するのと比べるとはるかに遅く、形を失っていく。
その様子に、ギルダスは思わず目を奪われていた。
「――グアアァアアアァッ!!」
「なっ!?」
「ギルッ!!」
そのせいもあり――ほんの少しだけ、反応が遅れた。
ルキアに気を取られていたギルダスは、ドーランがルキアの放った矢が消えていく様子に目を奪われていたことも、それを見ながら何かをぶつぶつと呟いていたことも、知っていながら大して気にしていなかった。
有り体に言って、油断していた。
だからドーランが獣じみた咆哮をあげながら立ち上がり、剣を抜いた時も、ギルダスの突きつけていた剣の切っ先は彼の背中に浅く傷をつけただけに終わった。
「ガアッ!」
ドーランが抜きはなった剣を逆手に握り、頭上に高々と掲げた。そのまま、勢いよく振りおろす。邪教の儀式で生け贄でも貫くかのようなその刃の狙いは、地面に組み伏せられて身動きがとれないルキアだった。
「チィッ!」
考えている時間などなかった。
ギルダスはドーランの剣を突き下ろす背を見ていて、リゼッタはルキアを組み伏せるために地面に膝をついている。ルキアに至っては、ぼうっと空を見上げたまま、動く様子もない。
ギルダスは――手にした曲剣を、迷いなく突き出した。
「ガアァ――あ?」
ドチュ、と水袋を床に叩きつけたような音とともに、曲剣はドーランの胸を貫いた。
突き出た切っ先から飛び跳ねた血が、ルキアの顔を赤く染めた。