序
望みを失い、絶望に蝕まれた人の心――
月もなく、星明かりすらも雲に隠れた夜――
それらに対して人々は、“闇”という呼称でもって表してきた。
闇は辛く、恐ろしい。闇に直面すれば、道を見失い、動く気力を振り絞ることもままならなくなる。
それでも、それはあくまでほんの一時のことにすぎない。
絶望に明け暮れていても、新しい希望を見つけ、あるいは流れる時が絶望を薄れさせ――
明けない夜はなく、どんなに厚い雲も星々の瞬きを完全に遮ることはできない。
陳腐な物言いだが、人はそうやって生きているし、世の中はそうして回ってきた。
夜の闇も、心の闇も――闇はいつでもすぐそばにある。だからこそ、うまく折り合いをつけて付き合わなければならない。
目をそらし続けていれば、ほんのすぐそばにまで闇は近づいてくる。いたずらに闇を否定すれば、逆に闇に呑まれかねない。
自らの抱えた闇を理解せず、心の闇に囚われたまま抜け出せなくなる者もいる。
闇に囚われ、引きずられたまま、自らを傷つけ、あるいはその衝動を他人にぶつけ――
結果的に彼らは、闇を抱えたまま滅びの道を歩むことになる。
多くの人々は闇の存在に耐えられない。すぐそばにあることは受け入れられても、常に自らの内に従えることなどできはしない。
だがこの世には、まれに根本的に“違う”存在がいる。
闇に引きずられるのではなく――
闇を受け入れるのでもなく――
闇をねじ伏せ、我がものとする。
衝動ではなく理性によって闇を行使する。
――夜の闇よりも深い闇が、そこにはあった。
◆
――全てが闇に閉ざされた空間だった。
風がなく、また日の光も月明かりもないことから屋内であることに間違いはない。
だが、天井も壁も、床すらも闇に阻まれて見えない。一片の光も射し込まない、常人なら一時間も保たずに発狂するだろうその“部屋”に、今は三つの人影があった。
混じりけのない漆黒に、青白い燐光が灯される。
光源は、円卓の中央――その中空に浮かび上がり、部屋を淡く照らしだした。
なにも置かれていない円卓の周りには椅子が六脚並び、今ではそのうちの半分が埋まっている。
「これ以上待っていても無駄でしょう」
聞く者を和ませる、穏やかな声。それでいてどこか寒気を感じさせるその声の持ち主は、椅子の一つに座りながら口元に微笑を浮かべた。
「ふむ――」
それに応じるように、仮面をかけた一人が首を傾げる。奇妙な仮面だった。装飾はなく、普通ならあるはずの眼の部分の覗き穴もない。ただ白く、顔を覆うだけの仮面である。
「いやはや、久々の招集だというのに。集まりの悪いことだ」
道化師――彼らのなかでそう呼ばれているその存在は、おどけたように肩をすくめてみせる。
それに反応して、もう一人の大きな体躯をした男が道化師を眼光鋭く睨みつけた。
「貴様が言うか、道化師。他の者が招集をかけて貴様が来たことなど、数えるほどもなかろうに」
「さて、そうだったかな?」
とぼけた物言いに、男は眉間にさらにしわを寄せる。節くれ立った手が、傍らに立てかけてある剣をつかんだ。
「おお、怖い怖い」
道化師はわざとらしく体を抱きすくめる。男の眉が跳ね上がり、全身から鬼気のような殺意が溢れ出す。
その殺意を、涼しげな声が抑えこんだ。
「“騎士”殿、我々は争うために集まったわけではありませんよ。道化師殿もそのぐらいで。雑談は後でも出来ます。本題に入っていただけますか?」
「これは失礼、“舞踏家”殿」
道化師は操り人形のように首をカクンと前に倒して頷いた。“騎士”と呼ばれた男も、苦々しい顔をしながらも剣から手を離す。
「なに、大したことではないのだよ。先日のことだが――新しい“玩具”を見つけてね。そこでだ、その玩具のことは私に任せてほしい」
騎士が鼻を鳴らした。
「また貴様お得意のお遊びか。回りくどい言い方をするな。要するに独り占めしたいから余計な手出しをするなという意味であろうが」
「おや、これは異なことを。騎士殿は遊戯に興を解さないとみえる」
「己に貴様の戯れを理解しろと? 出来ぬ相談だな」
くだらぬとばかりに吐き捨てた騎士に、道化師は気落ちするでもなく声を弾ませた。
「残念至極――なら、これはどうかな?」
道化師は立ち上がり、全身を覆う黒い衣を翻す。今まで闇と同化していたその衣は、広がるなり横に斬りさかれた痕をあらわにした。その周囲には黒い汚れが染みついている。
――血痕。
“舞踏家”と呼ばれた穏やかな声の持ち主が、元から細い眼をさらに細める。
「それは……あなたの言うその“玩具”がつけたものですか?」
「いかにも。どうかな騎士殿? 興味を抱いたのでは?」
問われるまでもなく、先ほどまで道化師への不快感を宿していた瞳が、今は熱を帯びて道化師の衣を注視していた。
「……強き者というわけか。だがそれを為した者の素性は、押さえてあるのか?」
「さて――」
首を横に倒しつつ、道化師は肩をすくめる。
「聖封教会に関わりがあるということはわかっているが、その一味というわけでもない。言動から察するに、外部の雇われ者のようだが――いささか理解できない部分があってね」
「と、言うと?」
「見た目は少年のようだが、あれは本来の体ではなかろうね。見た目とは裏腹の、猛々しい魂の持ち主だったよ」
「『魂の転移』の秘術ですか……! しかしあれが行えるものとなると教会でも限られてくるのでは?」
「そのとおり。生にしがみつく老人たちの、延命の手段となっているあの秘術がなぜ外部の人間に施されているのか――そうした疑問もあるけれど、私はむしろ、“彼”が新たな体に完全に馴染んでいるその現象の方が興味深い」
「なるほど――」
思案するように時間を置き、舞踏家は頷く。
「ただの戯れではない、と。たしかに珍しい存在ですね」
「承知してくれるかな?」
舞踏家は苦笑して、頭を振った。
「それはあなたの“遊び方”によりますね。あなたはその存在とどのように関わっていくつもりですか?」
「以前に“種”を仕込んでおいた舞台がある。そろそろ収穫の時期だが、都合のいいことに彼らがそこに向かっていてくれているらしくてね」
「直接出向くつもりですか?」
「まさかまさか」
手を振り、道化師はくくく、と薄く笑った。
「前回は表だって動きすぎた。そのせいで実験はうまく進んだし、あれはあれで楽しめたが、また同じようにするというのも芸がない。今回は観客として、舞台を見守ることにするよ」
「そうしていただければ助かります。我々は、あまり表に出ていい存在でもありませんから」
「それで、今度の“舞台”とやらはどこにある?」
騎士の発した問いに、道化師は体を揺さぶりながら舞台の名を口にする。
途端に騎士は不快気に呻いた。
「強き者どもの土地が、貴様の遊びの場とされるわけか」
「彼らには以前から興味があったのでね」
そううそぶくと道化師は顔を伏せ、体の揺れを大きくした。
仮面に隠れてその表情はうかがえない。それでも、全身から放たれる喜悦の気配は隠しようがなかった。
荒々しい音を立てて騎士が、優雅な動作で腰を浮かせた舞踏家がそれぞれにその空間から姿を消す。一人になった道化師は、それでもまだ体を揺らしていた。
その揺れが、不意に止まる。カクン、と顔を上げ、光も届かず闇に閉ざされた上方を見上げながら、道化師は歌うように言葉を紡いだ。
「さてはて――彼らは今度の舞台ではどのように踊ってくれるのかな? 憎悪が人を駆り立て、絶望が心を殺し――負の想い渦巻くその中において、彼らはどうあがくのだろう? いかなる形で幕が下りるにせよ、つまらない結末であってほしくないものだが――いやいや、都合の良い展開だけを望むのは、観客に徹すると決めた立場では過ぎた行いというもの――」
口を閉ざし、準備が整った舞台で起こる思いつく限りの結末とその過程を夢想する。
脳裏に浮かぶ他人の嘆き(なげ)も、怒りも、しょせんは娯楽の一部に過ぎない。それどころか、自分のそれすらもまた――
燐光が消える。果てしなく闇に閉ざされた空間の中で、道化師の愉悦の時間はまだ始まったばかりだった。