16.切迫
「兵たちの準備は整いました」
老境に入ってもう数年経つドーラン辺境領の忠臣が、椅子に腰掛けた主に駆け寄って声をかけた。
彼らがいるのは、住居である領主の館ではない。夜明けとともに設営されたばかりの、陣の中だった。
陣の内と外には、完全武装の兵士たちが行き来している。どの顔も緊張で張りつめていた。
比べて緊張を感じさせない表情のドーランは軽く頷き、口を開いた。その目は街道とは反対側、森の奥に向けられたままである。
「何人だ?」
「は? ……およそ五百人ですが」
自領が抱えている兵士の数を、主が知らないわけがない。訝しく思いながらも、老人は忠実に答えた。
「そうではない」
「……と言いますと?」
「躊躇いを持たずに戦えるのは、五百のうちどのくらいいる?」
十年以上、戦のなかった辺境領である。
他国が攻め入ったわけでもなく、はっきりとした目的を告げられたわけでもない。ほとんどが戦の経験のない兵たちの間では、困惑するような雰囲気が広がっていた。
「は……百五十人ほどかと」
百五十のうちのほとんどは、前回の“奇襲”に参加した兵たちである。
「そうか」
そう答えたドーランの声には、何の感慨もない。そんなものだろう、と納得したようにも思えた。
「ではこう伝えよ。クリアス大森林に、他領で暴虐を働いた賊どもが潜伏している。我らが討つのは、この非道な賊どもである――そのようにな」
嘘をついてでも、兵たちに戦意をもってもらうのが大事と考えたらしい。かしこまりました、老人は恭しく頭を下げる。
「しかしよろしいのですか?」
「何がだ?」
「この策のことです」
伐採されたばかりの木の爆ぜる音が、すぐ近くで聞こえる。
頭上を見上げれば、大量の煙が木々の上まで立ち上っていた。
フェルカの民と決着をつけるにあたって、彼らには大きな問題があった。
集落の場所はわからないのだ。それがわからないようでは、攻め入ることなどできない。
攻め入ることが不可能の中、煙で燻し出すというのはドーランの発案だった。
とはいえ、広大な森の中、その隅で煙を出しても集落にまで届くはずもない。フェルカの民の敵意と危機感をあおるのが目的だった。森を焼かれるのではないか――そうした思いを利用して誘い出そうというのだ。
この時のために、老人は森に詳しい猟師や木こりを招き寄せている。
とはいえ――
「これだけ大量の煙、風向きが少しでも変われば私たちも巻き込まれます。街道にまで及ぶかもしれません。それに、下手をすれば本当に火が――」
「よいではないか」
「は?」
「このような森、なくなったからとて困る者はおるまい。いっそそちらのほうが助かるのではないか」
「……本気で仰っているのですか」
先代の頃より仕えている忠臣の老人は、思わず主の正気を疑った。
クリアス大森林は、ただの森ではない。隣国との戦を抑えるための緩衝地帯として長年役立ってきたし、木材や獣肉など、森林から生活の糧を得る民もいる。
辺境領には欠かせない存在なのだ。それをあっさり切り捨てるような言葉を、目の前の主が口にするのは信じられなかった。
主の口元がつり上がる。浮かべたのは、どこかいびつな笑みだった。
返事を聞かずとも、それが答えとなった。
「……かしこまりました」
老人は姿勢を正すと、主と同じように森の奥へと視線を向けた。
たとえ主が間違っていたとしても、覚悟を決めなければならない。どのみち、事態はすでに収まりのつかないところまで進んでいるのだから。
◆
はるか遠方で立ち上る黒煙――それを枝葉の隙間から目にしながら、ギルダスは走り続けていた。
一人ではない。すぐ横を、ジドが併走している。
「クソがっ……」
あの煙が何を意味しているのか――漠然とだが、ギルダスにはその答えが読めた。
焦燥感のままに吐き出した罵り声に、ジドがちらりと視線をよこす。
やがて木々の合間に隠れるように建つ家の割合が増えていき、彼らは集落の中心部にたどり着いた。初めて集落を訪れた時、ギルダスたちが連れてこられた場所である。
すでにその場は、喧騒に包まれていた。
多くの住人たちが集まり、落ち着かなそうにしている。
「ちっ……やべェな」
舌打ちをすると、ギルダスは首を巡らせた。
すべてが褐色の肌の住民たちの中、一人だけ白い肌の持ち主はすぐに見つかった。
「落ち着いてください! 火が放たれたわけではありません!」
喧騒の中でも聞こえるようにだろう。リゼッタは珍しく声を張り上げていた。
すぐ傍まで駆け寄り、声をかける。
「リゼッタ」
「ギル……」
「こいつが狙いか」
「おそらくは」
リゼッタは苦い声で答えた。
予感が正しかったことを知り、ギルダスは唸り声をあげて、周りにいるフェルカの民を見渡した。どの目も不安に揺れ、余裕がない。
「あの煙はいったい、なんのつもりじゃ!」
「炭焼きにしては煙の量が多すぎる! 何かの合図ではなかろうな!?」
「まさか、森を焼くつもりじゃ……」
「馬鹿な! そんなことをして誰が得をする!」
一人の男の発言に、住人たちが気色ばむ。不安そうに黒煙を見上げる者、目つきを鋭くさせる者。誰もが平静を失っていた。
「あいつだ……」
「なに?」
「あいつが、あの男が、森ごと俺たちを根絶やしにしようと……」
「そんな……」
その場がしんと静まり返る。
彼らの顔は、一様に沈痛な色に染まっていた。
ほんの少し前に、同胞がどういった目にあったか――それを彼らは嫌というほど知っている。
そして、それをしたのが、誰かということも。
「ふざけるな……!」
沈痛な表情が、憎悪のそれへと変わっていく。
「領主は我々からこの森まで奪うつもりか!」
「待ってください」
怒りが再燃しかけたその直前――冷徹な声が、彼らの激情に冷水を浴びせた。
険しい視線が、リゼッタに集まる。
「森は焼かれてはいません」
「なんだと……?」
「あれは一ヶ所で火を焚いているだけです。その証拠に煙が広がっていません」
にわかにざわめきが広がった。
確かに……いや、だが……――そんな戸惑いの声が、周囲から漏れ聞こえる。
「なんでそんな……それに何の意味がある?」
「それは――」
リゼッタが話そうとしたその時、周囲が静まり返った。視線が一斉にある方向を向く。
姿を現したのは、皺深い顔をした老人だった。
「長……」
集落の長老であるその老人は眼光鋭く視線を巡らし、
「間に合わなかったようだな」
リゼッタに冷めた眼差しを向けた。聖封教会の手回しよりも、領主が痺れを切らすのが早かった――そう言いたいらしい。
リゼッタは首を横に振り、確信を込めた声で言った。
「あれは“誘い”です」
「誘いだと?」
「あれをしている者たちは、ここまで来れる方法がありません。場所がわかりませんから。だからああして煙を出し、集落の住民たちをおびき寄せようとしているのです」
ギルダスも同意を示すように頷く。
『血霧の猟兵』とは異なり、領主たちはこの地に住まう者だ。いくらなんでも、森に火を放つなどという乱暴な手段をとるとは思えなかった。下手をすれば、全焼しかねないのだ。
長は思案するように眉を寄せると、やがて深々と頷いた。
「そうかもしれんな」
「誘いに乗らず、彼らが諦めるのを待つのが最善です」
「……確かにおまえの言うとおりかもしれん。だが、今はそうでも、本当に火を放たないという確証もあるまい」
「それは……」
リゼッタは言葉を詰まらせる。リゼッタもギルダスも、領主がどんな人物を知らない。だから策が失敗した場合、どんな手を打ってくるのかまでは予測できなかった。
「むしろ儂は、今が最後の猶予と考える」
長はリゼッタに背を向けた。もう話すことはない――その態度がそう語っていた。
「事ここに至って、もはや悠長なことは言っておられまい」
「待ってくだ――」
「長、それでは……!」
「うむ」
勢い込んだ一人の男に、長は頷いてみせる。
「この地は我らにとって最後の拠り辺。失われることはなんとしても避けなければならん――戦士たちよ!」
長は胸を張り、周囲にいるフェルカの民に高々と宣告した。
「今こそ我らの遺恨を晴らす時ぞ! 今度の騒乱の首謀者の首、おのが刃をもつて刈りとれい!」
『オオッ!!』
怒りと戦意の篭められた喚声がそれに応じる。
さっきまでの不安は影を潜め、今は誰の目にも戦いにいく覚悟が宿っていた。
もう、止められそうにない。
リゼッタが唇を噛んだ。ギルダスは忌々しそうに舌打ちをする。戦端が開かれれば、今までやってきたことがすべて無駄に終わる。無力感と苛立ちが、二人の表情を険しくさせていた。
その二人にかけられた声は、場にそぐわない落ち着いたものだった。
「――待つ以外に、方法はあるか?」
ギルダスが振り返ると、ジドがすぐそばに立っていた。ただ一人冷静さを失っていないらしく、その物腰はいつにも増して静かだ。
リゼッタが少し考えてから、力なく首を振った。
「ここまできたら、刃を交えずにことを終わらせるのは不可能でしょう」
「……そうか」
落胆したようにジドが目を伏せる。
「ですが、戦禍を最小限にすることは可能です」
「どういうことだ?」
「あれをしているのは、間違いなくドーランの手の者でしょう。もしあの煙がここの住人たちをおびき寄せるためのものなら、すぐ近くで兵たちが待ちかまえているはずです」
ジドは黙って話に耳を傾けている。ギルダスは嫌な予感を覚えて身じろぎした。
「もしかしたら、ドーランがそこにいるかもしれません。いなくとも、指揮をとっている者はいるはずです。その人物を捕らえ、人質にすればあるいは――」
「森の外に追い払うこともできるかもしれない、そういうことか」
リゼッタが頷く。
ジドは難しい顔になって腕を組んだ。
仮定の上に仮定を積み重ねた話だ。割がいいとは、とてもではないが言えない。
「それは……おまえたち以外にはできんだろうな」
「だろうな」
すでに話の行く先が読めていたギルダスが、うんざりしたように答えた。
フェルカの民は、皆殺気立っている。殺さずに捕らえるなどと悠長なことができるとは思えない。
「……やるしかないのだろうな」
沈黙の後、ジドが呟く。次に顔を上げたときには、そこにはある種の決意が宿っていた。
「ここは私が抑えよう」
「あん?」
間の抜けた声をあげるギルダスとリゼッタに、ジドは背を向けた。
戦意をたぎらせた同胞を見て、どこか満足そうな顔をしている長に話しかける。
「長よ」
途端にその表情が歪んだ。
「ジドか。なんの用だ」
その声には嘲るような響きがあった。それを気にしたふうもなく、ジドは長を見据えた。
「俺は反対する」
「……今なんと言った?」
「避けれるかもしれない争いだ。それで同胞が死ぬのは、俺には承知できない」
「貴様……」
長が殺意すらこもった目で、ジドを睨みつける。
長だけではない。話を聞いていた誰もが、怒りの視線をジドに向けていた。
刺々しい視線を浴びても、ジドは動じなかった。その態度に、逆に殺気を向けていた方が萎縮していく。
「森を焼かれてもいいと言うのか」
「そうは言わん。だが、少しでいい。待ってほしい」
「待ってどうする? 奴らが諦めるのをただ待つつもりか?」
「いや、そうではない。彼らに――」
言いながらギルダスたちを指し示す。
「策がある。その成否がはっきりしてからでも、動くのは遅くないと思う」
長がぐわっと目を見開いた。その唇がわなわなと震え、今にも怒声を吐き出すように見えた瞬間、
「俺も動く」
ジドがそう告げた。
長の表情が、唖然としたものに変わる。
やがて忌々しそうにジドとギルダスたちを交互に見ると、怒りを吐き出すように重々しい声で告げた。
「太陽が天頂に昇るまでを刻限とする」
「では――」
「火が放たれたらもう待たぬぞ」
「無論だ。礼を言う」
「いらん。それより、為すべき事を為せ」
ジドがはっきりと頷く。
振り向き、ギルダスたちに向き直った。
その目が、信じると語っていた。