15.戦士の追憶
大地はぬかるみ、泥のようになっていた。
降りしきる雨が血と戦塵を洗い流し、地面に黒と紅の斑模様を描いている。
その上に、おびただしい数の死体があった。それらはほんの少し前まで酒を飲み交わしていた、戦場で信頼を築いた戦友たちだった。
腕の中には愛した女の肢体があった。
雨に打たれ、その体は少しずつ冷たく、硬くなっていく。だらりと垂れた腕はもう二度と動かず、閉じられた瞼もこれから先開くことはない。
それが何を意味するのか――わかってはいても、認めたくはない。認めた瞬間、きっと心が千々に砕け散ってしまう。そんな予感がした。
すべてが幻のようだった。
体を濡らす雨も、それが地面に跳ね返って生じる音も、本来ならば指一本動かすこともできないような苦痛も――すべてがどこか遠い世界の出来事のように曖昧としていた。
その日――
彼はかけがえのないものを失った。
◆
「ここにいたか」
雲一つない晴天が広がっていた。
とはいえ、奥深い森の中では、陽光の恵みを得られる場所は限られる。必然、ジドがその少年と再会したのは以前にも顔を合わせた場所だった。
「……あんたか」
燃えるように赤い髪は、陽光の下ではことさらによく目立つ。ギルダスと名乗った少年はゆっくりと首を巡らせた。
「すまんな。寝ていたか?」
「横になってただけだ。……で、何か用か」
たいして気にしたふうもなく体を起こし、立てた膝に腕を乗せる。
緊張など欠片も感じられない態度である。だが、その目はジドを観察するように細められていた。
警戒されているのを察して、ジドは少し離れた位置で立ち止まった。
「連れの少女の具合はどうだ? かなり回復したと聞いたが……」
「ああ、自力で起きあがれるようにはなった。まだ自分で歩くのはキツそうだけどな」
「そうか。それはよかった」
本心からの言葉に、ギルダスは怪訝そうに眉を寄せた。わざわざそんなことを言いにきたのか――そう言いたげな態度である。もちろん、それだけを言いにきたわけではない。
「礼を言いにきた」
唐突な言葉に面食らったように、ギルダスは眉を持ち上げた。
「先日――良からぬ輩から集落を守ってくれたそうだな」
「……なんであんたがそれを知ってる?」
「ルキアから聞いた」
ジドがあっさりと答えると、ギルダスは警戒を和らげ、首を傾げた。
「あの女はあんたを嫌ってるって思ってたけどな」
「そうだな。私はルキアに嫌われている」
頷くと、ますます怪訝そうな面もちになる。ならなぜ話すのかと、困惑しているようだった。
「おそらく――私を焚き付けようとしたのだろうな」
半端な答えで口を濁しながら、ジドはそのことを伝えにきたルキアのことを思い出した。怒りの中に、かすかに懇願するような表情をしたルキアに、
――そうか。
ジドはそれだけ言って応じた。
落胆したように肩を落としたのも一瞬、次の瞬間、ルキアは罵声を浴びせて踵を返していた。
昔からルキアを知るジドにしてみれば、彼女らしい感情をむき出しにした態度といえる。
「ともかく、感謝したい。おまえたちがいなければただではすまなかっただろう」
「感謝されるいわれはねえ。あんたらの為にやったわけじゃねェからな」
うっとおしそうな口調に、ジドは思わず苦笑する。照れ隠しなどでなく、本音を口にしているとわかるからかえっておかしかった。つくづく、少年らしくない少年だと思う。
「ところで、前から気になってたんだけどよ」
「なんだ?」
憮然としていたギルダスが、ふと思いついたような顔で疑問を口にした。
「なんであんたは集落の奴らに嫌われてるんだ?」
それは悪意のない、何気ない疑問だった。
ジドの表情から笑みが消える。
「……なぜそんなことを?」
「別に理由はねェさ。ただ気になっただけだ。あんたらは強ければ偉いんだろ。なのに他の奴らのあんたへの扱いが粗末なのは話が合わねェんじゃねえか?」
ジドは目を伏せ、誰にともなく呟いた。
「強き者は、弱き者を守り導かなければならない……」
「あん?」
「強き者は敬われ厚遇されるが、代わりに責務も生じるという、フェルカの民の慣わしだ。……いや、誇りある人間なら当たり前のことなのだろうな。私が嫌われているのは、その責務を放棄したからだ」
「あんたがか? 無責任な奴にゃ見えねェがな」
「私は無責任な人間だよ。でなければ嫌われてまで責務を投げ出そうとはしないだろう? それに、人を導くには向いていない。……私には“覚悟”がない。何かを守るために、何かに手をかけるという覚悟が」
「覚悟、ねえ」
「たとえば、集落の仲間が何者かに襲われたとしても……私はその者を返り討ちにすることはできないだろうな」
「あんただったら殺さなくても、適当にあしらうことだってできそうだがな」
「相手の腕が立ったり、複数いたりした場合はその限りではない。それに禍根を残さないためにも、相手を殺してしまった方がいいことだってある。私にはそうしたことをする覚悟がない。そんな者が皆を導く大役を果たせるわけがない。導く者には冷酷な果断さも必要だろうし、それができないものはいつか敵を殺すのに躊躇ったあげく、守るべき者を死なせるだけだ」
“臆病者”――ルキアの罵声を思いだし、ジドは自嘲した。敵を殺すのを躊躇い、味方を失う可能性に怯え、すべてを投げ出している自分に反論する余地はない。
「信じられねェな」
いつの間にか立ち上がったギルダスが、腕を組んでまじまじとジドを見ていた。
「あんたの戦い方は実戦を知らねェ奴のものとは思えねえ。実戦を知ってる奴が人を殺してねェとも思えねえ。あんただって最初から腕が立ったわけじゃねェんだろ?」
「確かに、昔は戦場に出たこともある」
森の奥で隠れるように生活しているフェルカの民とはいえ、全員が森の中で一生を終えるわけではない。素性を隠し、森の外に出る者も稀にだがいた。
「私の場合は腕試しと、経験を積むためだった。傭兵の真似事をして戦場を渡り歩いたよ。その時には、人を殺すのにためらいは覚えなかった。そんなことを考えていればこちらが殺されてしまうから――」
元より好んで人を殺すような残虐性は持ち合わせていない。だが狂気と殺意が充満する戦場では、そんなことは関係なかった。
最初の戦場ではあらゆる感情が麻痺し、理性を失った。理性が戻ったときには血塗れで立っている自分に気づき、生き残ったことにまず安堵した。
「それで良心が痛んだってか?」
さも馬鹿らしいと言いたげなギルダスに、ジドは苦笑で答えた。
「それもあるが、それだけではない。色々とあったのだよ。人を殺すのに抵抗を覚えるようになり、気づけば魂精装具も本来の色を失っていた。元はただの深緑だったのだがな」
言いながら具現化した魂精装具は、黒く染めあげられている。光に当てたときだけ、名残を示すようにかすかな緑色が浮きあがった。
緑がかった黒色をした両穂の槍を、ギルダスは注視していた。眉をしかめている。
「そんな話は聞いたことがねぇな」
ぽつりと呟かれた声は、ジドの耳には届かなかった。
魂精装具をかき消したジドは、ギルダスに会いに来たもう一つの用件を切り出した。
「ところで、頼みたいことがある」
「なんだ? またあんたの前で剣筋でも見せろってか?」
「そうではない」
ジドは首を横に振ると、一息置いて話し始めた。
「これからおまえがどのくらいここに留まるかは知らない。だがその間だけ、ほんの少しでいい。ルキアのことを気にかけてやってくれないか」
「……あ?」
呆気にとられた様子で、ギルダスは間の抜けた声をあげた。
冗談や気まぐれで口にしたわけではないことを訴えるように、ジドはギルダスを真摯な瞳で見つめた。
「なんだそりゃ」
眉をひそめ、ギルダスが頭を掻く。
「俺はあいつに嫌われてるんだがな」
「嫌われていた、だろう?」
ギルダスの手がぴたりと止まる。
やる気のなさそうに開かれた瞳が、ジドの意図を探るように細められた。
「なぜあの娘があそこまで領主に憎悪を抱いているか、知っているか?」
「……さあな」
「もう一つあった集落が奇襲を受けたの時、ルキアは血を分けた姉を失っている」
ギルダスの眉が一瞬跳ね上がった。
「あの娘の姉は戦士としての道を選ばなかった。心根の優しい娘だったのでな。とても戦いに向いているような性格ではなかった」
「あいつとは正反対ってわけか」
「そうだな」
つい笑みをこぼしたジドの表情は、すぐに曇った。
「姉が殺されてから、ルキアの心は常に憎しみにとらわれている」
「身内を殺されたんなら、大抵の奴はそうなるだろうよ」
「そうだな。だがルキアの場合は……憎しみが先走りすぎる。元々激しいところはあるが、いきなり何の因縁もない相手に矢を向けるような娘ではない」
初めて会ったときのことを思い出したのか、ギルダスは途端に嫌な顔をした。ジドもルキアの心情を考えて、沈痛な表情になる。
「強すぎる憎しみは時に身を滅ぼす。それをいさめようにも、集落の者たちもほとんどが近しい者を殺されている。彼女の憎しみに同調はしても、いさめようとまではしないだろうな」
「それを俺にやれってか?」
「そこまでは言わん。ただ、もしルキアが暴走しそうになったときにそばにいたら、あの娘を止めてやってほしい」
元々フェルカの民は同族意識が強い。その中でも、ジドは特にルキアを気にかけていた。
腕の立つジドを、幼いルキアが慕ってくれていたこともある。だがそれ以上に、ルキアには過去の自分と重なるところがあるのだ。だからこそ、若くして死んでほしくないと思う。
ギルダスの返事は、
「関係ねえな」
素っ気ないと言えるほどあっさりしたものだった。
「俺はあんたらの仲間じゃねェんだ。あの女が誰を憎んでようが、それで死のうが知ったことじゃねえ。そういうことはあんたらがやれ。それが筋だろうが」
「私にその資格は――」
「あんたの事情なんざ知らねェよ」
目つきを尖らせながら、ギルダスは鼻をならした。
二人の視線が交錯する。苛立ちがこめられたギルダスの瞳を、ジドはその真意を探るように見つめた。
「……そうだな」
息が詰まるような沈黙の後、ジドは怒りもせずに深々と息を吐いた。投げかけられた言葉の一つ一つが、胸の深いところに刺さっている。
責務を放棄したとは言え、仲間を見捨てるような真似まではしたくない。
そう思ってはいたが、いくら他人に委ねようとその時点でそれは見捨てたも同然なのだ。自覚していたことを改めて突きつけられた気がして、ジドは自分の卑怯さを思い知らされた。
「その通りだ」
自然に笑みがこぼれる。自嘲ではなく、抑えきれない苦笑だった。
罵声に近い言葉を浴びせられたというのに、なぜか晴れ晴れしい気分になっている。
「そんな当たり前のことを教えられるとはな」
「だいたいあんたらは俺を買いすぎだ。会ったばかりの奴に親切にするほど俺ァ親切な人間じゃねえぜ」
ギルダスの言いように、ジドは意外そうに目をしばたたかせた。
「……なんだ?」
「いや――なんでもない」
(そうでもないだろう)
内心では違うことを思いながら、ジドは赤髪の少年を見下ろした。
本当にどうでもいいことなら、断って終わりのはずである。その後の部分は余計だ。
芯の部分で人がいいのか、それとも言うまでもなくルキアのことを気にしてくれていたのか――いずれにしても、この少年は自分で言うような人間ではないように思う。
――ふと、ギルダスが脇を向いた。眉根をよせて、空を見上げる。
「なんだ……?」
「どうかしたか?」
「いや……何だか焦げ臭くねえか?」