14.狂気の脈動
夜――明かりも灯されていない部屋の中、一人の男が椅子に腰掛けていた。
何をするでもなく、男は肘掛けに両手を置いて中空を見据えている。
眉間には深い皺が刻まれていた。加齢以外にも、ここ数年におきた様々な変化が彼にその皺を刻ませていた。
すでに中年の域を越えようとしているその男には、世界のすべてが色あせて見えた。
ドーラン・クリサウス――この地を治める領主の名であり、また同時に男の名でもあった。
静かなばかりだった部屋に、扉を叩く音が響く。
「……入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、ドーランよりもさらに年を経た老人だった。ドーランにとっては見慣れた顔である。
「旦那様。お加減はいかがですか」
返事はない。代わりに顔を向けたドーランが、億劫そうに口を開いた。
「どうであった? 例の傭兵どもは」
老人が表情を曇らせる。
「それが……クリアス大森林から出てきたところまではわかっているのですが、そこから先の足取りは掴めていません」
「そうか」
ドーランはあっさりと頷いた。
ある目的で雇った傭兵が行方をくらませた――その話を聞いてから、すでに三日が過ぎている。
森を出てきてから消息を絶ったということは、彼らの身に何かあったとは考えられず、おのずと答えは一つに絞られた。
おそらくは――裏切り。依頼料をだまし取った上での逃走である。
それを知ってもドーランの感情に波が立つことはない。傭兵団に対する怒りも、依頼料を全額前払いしたことへの後悔もない。
もともと大して期待していなかったということもある。だがそれ以前に――彼の心は、滅多なことでは反応しなくなっていた。
「申し訳ありません。すぐにでも見つけだし、事情を問いただして――」
「よい」
「は?」
「もうきゃつらは領外に出ているだろう。時間の無駄だ。やはり、決着は私の手でつけなければなるまい」
「ですが……」
老人は口をつぐんだ。抗弁は無礼にあたる――そう信じているのだ。その愚直なまでの実直さを、ドーランは評価していた。
傭兵を雇うことを進言したのもこの老人である。本人はそのことに責任を感じているらしいが、責める気にはなれなかった。
すべては主であるドーランの立場を心配してのことだ。その気遣いには感謝していたが、今さら立場や身分に執着はなかった。
跡継ぎもなく、自分が死ねば領土も財産も国に召し上げられるか、遠戚の手に渡るだけだ。
「時間がない。すでに王家には聖封教会の手が伸びているのだろう?」
「は……」
無念さを滲ませた声が、老人の口からこぼれでる。
「なら王家より命が下るより早く、ことを起こし、すべてを終わらせる」
「旦那様……」
「準備は任せる。行け」
「……は」
苦渋に顔を歪め退室しようとした老人に、ドーランは声をかけた。
「すまんな。おまえには苦労をかける」
「いえ、そのような勿体なき……」
振り返った老人の瞳は、やや潤んでいるように見えた。
再び一人になったドーランは、緩慢な動作で椅子から腰を浮かせた。
窓に近づき、眼下の街を見下ろす。
夜遅いこともあってほとんどの家は寝静まっているが、酒場などが集まる一画は、まだ明かりが灯っていた。
少し前までは、その光景を見るたびに誇らしさを覚えたものだが、今はもう何も感じない。
――いつからこうなったのか。
代々この地を統治する領主の家系に生まれ、生まれついての恵まれてはいるが、自由のきかない身分として育てられてきた。
疎ましいと思ったことはある。だが、それでも投げ出そうとはしなかった。
果たすべき責任があり、統べるべき領地があり、守るべき領民たちがいる。
それらを自覚すれば、重圧を感じる以上に張り合いが体をつき動かした。
元々が国境沿いにある“辺境領”だ。ドーランの代にこそ戦はなかったが、領地の運営は決して安穏なばかりではなかった。
それでもドーランは私欲を押し殺し、領主としての責務を忠実に果たそうとした。
妻を早くに亡くした後、後添えもとらずに治世に没頭し、幼くして母親を失った息子にも厳格な教育を施した。
妻の忘れ形見であり、ただ一人の息子をドーランは深く愛していた。だからといって露骨に愛情は示さず、むしろ厳しく接した。そうしたほうが息子の将来につながると信じていたから。
――そう、信じていた。信じていたのだ。
ほんの数年前までは、繰り返される日々が変わりなく続き、やがては領主の地位を息子に譲って静かな余生を過ごし、果てには息子や彼が築いた家族に見送られてこの世を静かに去ると。
なぜこんなことになったのか――
「オルセル……」
街を見下ろしながらドーランは呟いた。その目に夜景を映しながらも、彼の意識は数年前に亡くなった息子の死について占められていた。
何の予兆もなかった。
鹿狩りの最中に襲撃を受けたという息子の死体は、背に矢を受け、胸には大きな切り傷があった。
その無惨な死体を見た時――嘆こうとする心を押し殺し、傍目から見れば冷酷ともとれる態度を貫いたのは、領主として染み込んだ心構えからだった。
いっこうに見つからない犯人探しを諦めたのも、同じ理由である。
ただでさえ息子につけていた兵たちもことごとく皆殺しにされていた。いつまでも残った兵たちを、手がかりも見つからないような事件の人手に割くわけにはいかない。
自分には領主としてやるべきことがあり、彼らにも領土の治安を守るという役目がある。
それから数年――ドーランは領主をしての責務を全うしてきた。
望むべき未来がもう失われているにもかかわらず、以前となんら変わらない日々を過ごしてきた。
心をすり減らせ、感情が鈍化させながら。
やりがいもなく、ただやっている――そうした日々が続く中、まれにある夢を見るときだけ感情がよみがえる。
それらは、息子の最後を思い出させるような悪夢であり、よみがえる感情は絶望と呼べるものだった。
悪夢を見るたびに、ドーランの眉間のしわは深くなっていった。
それを初めて見たのも、悪夢を見たある日の夜のことである。
悪夢の続きか現実かは今でもわからない。
いつものようにドーランが悪夢にうなされて目覚めを迎えたある日――死んだはずの息子が部屋の隅に立っていた。
驚いたが、すぐに夢だと思った。
うつむかせた顔、血に汚れた体、生気の失せたその存在を前に、ドーランは思わず問いかけた。
「なぜ……なぜおまえは死んだのだ。オルセル」
問いかけに応じず、その日の悪夢は終わった。気がつけば朝で、差し込む光が瞼の上からでも眩しく感じられた。目を開き、やはり夢かとドーランはため息をついた。
しかしそれは翌日も続いた。
同じように現れた息子を前に、ドーランは不審気に問いかけた。
「オルセル……本当におまえなのか? 顔を見せてくれ」
部屋の隅にいたそれが、顔を上げた。
ドーランは息を呑んだ。濁った瞳。青白い顔。それでも間違いなくそれはドーランの愛した息子だった。
その日の悪夢はそれで終わった。
さらに翌日。
さすがに三度目となるともう驚かない。その日、オルセルは最初から顔を上げていた。
「オルセル……なぜおまえは……」
現れる理由を問おうとして、ドーランはくわっと目を見開いた。
「まさか……何か伝えたいことがあるのか」
オルセルがかすかに頷いた気がした。ドーランは身を乗り出そうしたが、すぐに動けないことに気づいた。もどかしげに口を開く。
「何だ? 何が――」
問いかけ、ドーランは気づいた。何者かに殺された息子が言いたいことなど、決まっているではないか。
誰に殺されたのか――
そのことにドーランが思い至った瞬間、オルセルの口元がかすかに歪んだ。
目を伏せていたドーランはそれには気づかない。彼が顔を上げたときには、すでにオルセルの表情は死者のそれへと戻っていた。
「おまえは誰に……誰に殺されたのだ?」
ドーランの意を決しての問いかけに、オルセルの半開きの唇が動いた。
その隙間からこぼれでた声にドーランは耳を疑った。問いただす暇もなく、その日の夢はそれで終わった。
翌朝――朝食を食べず、ドーランは一人考え込んだ。
息子の言葉が、耳について離れない。
『フェルカの民――』
確かに最後、彼はそう言っていた。
思い当たる節はある。
息子はクリアス大森林のそばで殺された。
あの森に住まう者など、誰もいない――そうなってはいるが、そうでないことをドーランは知っている。
(なぜ……その可能性を疑わなかった)
一度芽生えた疑心は、すぐに大きくなっていった。
息子を失う前のドーランなら、証拠もなく、ただの夢や幻で犯人を断定することなどありえなかった。だがそのことを自覚させる者は、不幸にも今のドーランのそばにはいなかった。
それ夜以来、オルセルが姿を現したことはないが、息子の最後を思い出す悪夢はなおも続いた。
不思議なことに、悪夢の中の時間は少しずつさかのぼっていった。
死体になって館に運びこまれたオルセル。
発見された、野ざらしの死体。
地面に伏せ、誰にも看取られず息を引き取る息子。
最後の瞬間――絶望をその目に宿して、斬撃を身に受けるオルセル。
その瞳に、それをした者の姿が映っていた。剣を振りおろしたのは、特徴的な褐色の肌の――
夢から跳ね起きたドーランの心は混乱し、やがては憎しみがすべてを塗りつぶしていった。
領主としての自覚も、忠臣への感謝の思いも。もう二度と目を開かない息子を見たときのあの感情に上書きされていく。
フェルカの民とは、先祖代々の盟約を結んでいた。領主の地位を受け継いだ際に聞かされた話だ。
彼らと協力し領地の安寧に努めてきたことも、彼らの活躍で危うく窮地を脱したことも聞いている。
知った上で思う。
――知ったことか……!
もう話すことのない息子の姿がドーランの脳裏には深く刻まれていた。
それと比べれば、過去の功績などなんだというのか。それらがあるからオルセルを殺した罪を帳消しにしろというのか。
許せるものか――
プツリ、と口の中に血の味が広がっていく。噛みきられた唇から、一筋の血が顎を伝った。
「ク、クク……」
血の味に自分がこれから起こす惨劇を連想して、自然と笑みがこみ上げてくる。
壮絶な笑みを浮かべたドーランの表情は、理知的な為政者として一つの街を発展させてきた男のそれとはかけ離れたものになっていた。
――彼は知らない。
彼が見た幻も、悪夢も、すべてが見せられたものであるということを。
自身の絶望も憎しみも、すべては仕組まれたものであるということも。
彼は知っている。
自分が――少しずつ、狂い始めていることを。知りつつも、ドーラン・クリサウスは甘美な狂気の衝動に身を浸していった。