9.転機(2)
かすかな木漏れ日が、風に煽られて波打つ金色の髪に反射して光を放つ。
木々に囲まれ、物憂げに立つ一人の女性――絵の題材にでもなりそうな風景だった。
ここ数日は洗う余裕もなかったはずだが、リゼッタの髪は本来の光沢を失っていない。だが内心では、くすぶる気持ちを持て余すような日々が続いていた。
ギルダスと別れ、一人になったリゼッタはただじっと眼を伏せていた。
やるべきこと、やらなければならないことは山ほどあるが、今の段階でできることは知れている。
「――無力ですね」
改めて声に出して思う。
問題の渦中にいるだけで、外部からの介入を待つしかない自分の力の無さが今は疎ましかった。
それを選んだのは自分自身とはいえ、時おりそれをたまらなく苦痛に思う。
リゼッタの巡礼司祭として各地を巡る役目は、押しつけられたものではなかった。
聖封教会でもっと上の地位へと昇る選択肢もあったが、それを拒んだのも彼女自身である。
昇り詰めればできることも多くなる。しかし引き替えに、今ほど自由はきかなくなる。自由でなくなるのが嫌だったわけではない。
より多くを助けるため、目の前で苦しんでいる者を見捨てることなどできそうにない――そう考えた上での決断だった。
今さらその選択を後悔するような真似などしたくはない。
ふっと息を吐き、空を見上げる。
頭の上を覆う枝葉の隙間から、つがいらしき鳥たちが飛んでいる様子が見えた。
あの鳥たちのように、なんの縛りもなく生きていけたら――幼い頃にそう思ったこともある。
だが人の身でそれをするには、世のしがらみに縛られながら生きることよりもはるかに難しい。縛りがないとはいえ、人と関わらない世捨て人のような生き方をしたいとは思わなかった。
リゼッタにとって、聖封教会の教義はさほど重要なものではない。ただ理不尽に人が殺されたり、傷つけられたりするのだけは我慢できなかった。
それが自分の身近で起こっていれば、できる範囲で止めたいと思う。個人でできることは限られるが、傍観者を気取って何もやらないよりはいい。そう思っていた。
ふと――先ほど交わした会話が脳裏をよぎる。
「……」
リゼッタの、見る者が見れば張り詰めていたとわかるその表情がかすかに緩む。
本来の肉体を失い、今は少年の体にその魂を宿し、自分とは異なる考え方をする傭兵のことを思い出していた。
その意見に同意する気はないが、今のリゼッタにとってギルダスははもっとも身近な存在といえる。それだけに情もあるし、頼りにもしている。野卑な口調を隠しもしないところは苦手だったが、そうした部分も根っからのものではないと思っていた。
なにより、ギルダスは傭兵としての筋を通すことにこだわりを見せている。自分を粗野な人間に見せるのも、そのこだわりからではないかとリゼッタは疑っていた。
そうしたこだわりを持つという一点だけでもリゼッタは好感を抱いている。
(――それでも)
リゼッタの表情が再び物憂げなものへと変わった。
二人の関係は、依頼者と傭兵のそれである。――それだけだったら良かったかもしれない。
だが、実際は違う。ギルダスはリゼッタの持つ異能が必要だし、リゼッタはギルダスを監視する立場にある。
望むと望まざると、その関係は変わるものではない。ギルダス自身はそれほど深刻にとらえているわけでもないが、だからといってこちらまで気楽に考えていいわけでもないと思う。
「――」
リゼッタは力なく頭を振った。
ここ数日の行き詰まった日々の影響か、思考はすぐに否定的な方へ流れてしまう。
今の段階でやれることは少ないし、ギルダスとのことは考えて答えが出る問題でもない。
そう割り切り、リゼッタは歩きだした。
今日はまだリリーネを見舞っていない。だいぶ良くなってはきたが、それでもようやく飲み物以外のものが口にできるようになった程度だ。
少しだけ様子を見て、起きているようなら軽く話でもしよう――そう決めて小屋へと向かう。
その矢先のことだった。
「あなたは……」
見覚えのある男が、リゼッタの前に姿を現したのは。
◆
同じ頃、ギルダス・ソルードは小屋の外壁にもたれて、額の傷跡をなぞっていた。
対面にはむすっと黙り込んだルキアがいる。
ルキアから事の真相を聞き出した直後から、二人はずっとその様子だった。
(どうしたもんだかな……)
頭を抱えたくなる衝動を抑えつつ、ギルダスはルキアを盗み見た。
問答無用に疑ったことに引け目は覚えつつも、ひねくれた気性が素直に謝ることに抵抗を感じさせている。
また、引け目を感じているのはルキアも同じようだった。
もっともその対象はギルダスでなく、危うく同胞の歯牙にかけられそうになったリリーネである。
それを察しつつも、ギルダスは内心で面倒な奴だとも思う。何も他人のしたことにまで責任を感じることはないだろうに、というのが本音だった。
そのリリーネはといえば、ギルダスに寝台に運ばれた後は死んだように眠っていた。無理に起きあがったせいだろう。あの様子なら、しばらくは目を覚ましそうにない。
起きていればルキアも何か言うことができるが、さすがに寝ている相手に話しかけても仕方がない。しかしこのまま立ち去るのも抵抗がある。そうした葛藤が、話を終えた後もルキアが去ろうとしない理由となっているのだろう。
気まずい沈黙の後、結局先に折れたのはギルダスだった。
「なあ」
ギロ、と射殺すような眼差しが向けられる。若干怯みつつも、ギルダスは言葉を継いだ。
「あー、その、なんだ……悪かったな」
ルキアが驚いたような顔をする。だがそれも一瞬、すぐに口元を引き結び、元の険しい顔つきへと戻る。
「謝罪などいらん。元はあたしの仲間が馬鹿をやったからだ」
「そりゃそうかもしれねえが」
ギロ、と再び睨まれ、ギルダスはたまりかねたように両手を上げた。
「っと、いちいち睨むなよ」
「睨んでなどおらん」
「睨んでるだろうが」
「これは地顔だ」
「……あそ」
明らかな嘘に、肩の力が抜ける。ルキアはつまらなそうに鼻を鳴らした。ギルダスの口調も自然と投げやりなものになっていく。
「まあどうでもいいけどな。礼ぐらいは受けとっとけ。俺が礼を言うなんて滅多にないことだからよ」
「そんなこと知らん」
「……そりゃそうだ」
話すのも嫌だというような対応である。リゼッタに輪をかけた無愛想さに、ギルダスは諦めて口を閉ざした。
そうしてルキアがいなくなるのをじっと待つ。だが彼女は微動だにせず、険しい顔でギルダスを見つめていた。
「……なんか用か?」
根負けしたギルダスが仕方なく訊くと、ルキアは予想もしなかった言葉を投げかけてきた。
「あの娘はおまえの女か?」
「あ?」
いきなり突拍子もないことを言われ、ギルダスの目が点になる。
たっぷりと時間をかけて言葉の意味を理解したギルダスは、首をひねりつつ頭を掻いた。
「なんでそんな結論に達したかわからんが、とりあえず違うとだけ言っておく」
「回りくどい言い方だ」
あからさまな疑いの目を向けられたギルダスは困窮して身を仰け反らせた。
確かに見た目でいえば、ギルダスとリリーネの年齢は近い。だが、ギルダスの実年齢はもっと上である。
その彼にしてみれば、自分の半分も生きていないリリーネをそういった目で見ようなどと思ったことすらなかった。
「なんでそんなこと訊くよ? そういうことに興味があるってわけでもねえだろうに」
ルキアの猛々(たけだけ)しい言動からして、ことさら色恋沙汰に興味があるとも思えない。
ギルダスの率直な疑問に、ルキアは顔を背けた。
「別に。ただ意外だっただけだ。おまえみたいな奴が他人のことで怒るなんて」
「は? ……おいおい、俺はどんなふうに見られてんだ?」
ギルダスは思わず苦笑する。本音を隠そうともしないその言葉が、妙におかしかった。
「だがま、その見立ては間違ってないかもな」
怪訝そうに振り向いたルキアに、ギルダスは唇を皮肉気に歪ませた。
「別に俺はリリーネのために怒ったわけじゃねえぜ。あいつになにかあれば、後で怖い依頼主に怒られそうなんでな」
「依頼主とは、もう一人の女のことか」
「ああ、俺は傭兵だからな。依頼主の機嫌はできる限りとっとかなきゃならねえ。そうしないと稼ぐこともできねえからな」
その軽い口調に、ルキアの瞳が険しく吊り上がっていく。
「……本心から言っているのか?」
ギルダスは迷うことなく頷こうとし――なぜか躊躇いを覚えた。
一瞬の間が空く。傍目から見れば、それはギルダスが迷っているように見える間である。すぐにそのことに気づき、ギルダスは憮然と吐き捨てた。
「嘘を言う理由もねぇだろ」
さっきの反応と併せて、その態度は強がっている者のそれにしか見えない。
案の定、ルキアも険のとれた顔でギルダスをまじまじと見つめていた。
苛立ちを覚えつつも、ギルダスは平静を装う。なぜか、ここで怒りだしたら負けのような気がした。
束の間、お互いが見つめあう時間が続く。
ギルダスにとって気まずい時間――それを破ったのは、近づいてくる足音だった。
ルキアが身を翻し、音の近づく方向を睨みつける。少し遅れてギルダスも反応したが、その瞳に険しさはなかった。
「噂をすれば……ってか」
どこかほっとした様子で呟く。
足音の主はすぐに姿を現わした。
「ギル! 探し……ました……よ」
ギルダスを見つけて立ち止まったリゼッタは、息も切れ切れに声をかけてきた。肩を上下させながら、汗で額に張り付いた金髪をうっとしいそうにかき上げる。
いつもとは違ったその様子に、ギルダスは首を傾げた。彼女が全力で走ることなど滅多にない。
「なにかあったのか?」
リゼッタは最後に深呼吸すると、緊迫感を滲ませた声で言った。
「領主が、傭兵を雇いました。すでにここに向かっているそうです」