第二章
「えっと、つまりアナタは幽霊だと」
「まぁ、そんなものかしら。貴方が生まれるずっと前から、私、この家に居るんですよ」
「あー、そうなんですか」
人生は何があるか分からない。そうは言うけれど、まさか幽霊(自称)とお昼を一緒にする日が来るなんて、俺は一度も夢の中でだって想像したことはない。
和室の低いテーブルに置かれた白い皿。その上に鎮座ましますのは、赤いケチャップで彩られた黄金色の楕円形。お昼ご飯の鉄板、オムライスだ。俺のために幽霊が作ってくれたらしい。見た目は普通のオムライス。でも知らない人、否、幽霊が作ったとなると、食べるのに勇気が異様に必要だ。
スプーンを握りしめたまま、視線を上げる。テーブルの向かい側には幽霊。身を乗り出して、何かを期待しているかのように、じっとこちらを見つめている。大きな瞳に長い睫の影が落ちる。とてつもなく居心地が悪い。
「あのー」
俺の声に幽霊が首を傾げた。さらさらと前髪が揺れて、本当に美人だ。と、見とれている場合じゃなくて。
「何か問題でも? オムライス、好きですよね?」
あぁ、うん、好きだよ。どうして知ってるんだろう。
「紗英さんがまだ学生で今ほど忙しくなかった頃には、よくお二人一緒に食べてらっしゃいましたもんね」
「え!? アンタ、姉ちゃんのことも知ってんの?」
紗英ってのは俺の姉貴のことだ。三年前に社会人になってから、父親と同じくらい忙しくて家に居ない俺の家族だ。そして今では唯一の肉親、か。
「当たり前じゃないですか。私はこの家の霊、貴方たち姉弟が生まれる前からここに居ます」
にこにこ笑いながら、その白い指が柱を指した。そこにはいくつかの傷。
「紗英さんと大樹さんで毎年こどもの日に身長を柱に刻んでおられましたね。家に傷を付けるのは個人的にどうかと思いますけど、それでもあの光景は微笑ましくて好きでした」
確かにそんなことをしていた。姉にチビだと馬鹿にされ、いつか絶対に姉ちゃんより大きくなってやるんだと、泣きながら言い返したガキの頃を思い出す。その小さな決意は果たされたんだろうか。姉の今の身長なんて知らない。
「でも、ここ五年以上もされてないですよね。ちょっと寂しいです」
当たり前だ。もう俺も姉も子供じゃない。でもこんな細かいことを知ってるってことは、コイツは本当にこの家に憑いた幽霊なのだろうか。この手の霊を地縛霊って言うんだっけか。夏の胡散臭い心霊特集に良く出てくる、胡散臭い白い着物のおどろおどろしい姿が浮かぶ。あれ、でも、地縛霊って死んだ場所から動けなくなった霊のことじゃなかったっけ。え、この幽霊、この家で死んだの? それはちょっと怖いぞ。
嫌な想像を胸に秘めて、改めて幽霊を見る。肌は白く輝いて、頬は健康的な薔薇色。ぱっちりとした大きな瞳に小さめの慎ましやかな鼻、柔らかそうな唇。お化けに必須な白い三角形の謎の布も頭に巻いていないし、向こう側が透けて見えてもいない。ちゃんと足もある。不吉な雰囲気はカケラもない。幽霊なんかじゃなく、普通の人間に見える。幽霊ね、ぇ……。
「さっきからどうしたんです? 何か私に言いたいことがあるなら、どうぞおっしゃってくださいな」
健康的な自称幽霊が、オムライスの向こうでのほほんと微笑んだ。やっぱりコイツ、幽霊なんかじゃないんじゃないの。
「じゃあ、訊くけどさ、アンタ本当に幽霊なの?」
「えぇ、まぁ。そう言いましたよね」
「言ったことが事実だとは限らねーだろ。『俺は大統領だ!』って言ったら、俺は大統領になれんのかよ」
「日本には大統領いませんよ」
「そういう意味じゃなくて!」
ならどういう意味でしょう?と言わんばかりに不思議そうな顔をする幽霊。あぁ、この無害そうな表情。天然なの? 演技なの? 人生まだ十六年とちょっとしか生きてない上に、生涯一彼女もナシな俺には判断つきかねる。
「訊きたいことはただ一つ!」
「はいはい、どうぞどうぞ」
握りしめたスプーンでびしっと幽霊を指して、俺の本気度をアピールする。客観的に見ると、もの凄くかっこ悪い気がしなくもないが、そんなのは気のせいってことにする。
「さっきも訊いたけどさ……アンタ、本当に本当の本当に幽霊なの?」
「ファイナルアンサー?」と語尾に付けるのは我慢した。これはこの少女への最後通告だ。嘘を撤回するなら今が最後のチャンスだぞ、と少女の澄んだ栗色の瞳を睨みつけて無言で示す。
ここで「違う」と一言本当のことを言ってくれれば、俺も少女も幸せになれる。自称幽霊の美少女より、自称人間の美少女の方が良いに決まっている。それが何で俺の家に居て、何でオムライス作ってるのか謎すぎるけれど。
「えぇ、そうですよ」
俺の熱い決意よ、サヨウナラ。自称幽霊はにっこりと、「一足す一は二」ごときの当たり前のことを当たり前に告げるように、非常にアッサリかつサッパリと言った。
握りしめていたスプーンがぐんにゃりと下がる。い、いや、まだだ。まだ諦めないぞ。自称幽霊の、その実は人間ってオチだってありえる。
「証拠は? 『私は幽霊です』なーんて言い分をまんま飲めるほど、イイヒトじゃないんで、俺」
「証拠、ですか。うーん……」
「幽霊ならさ、物を触らずに動かせたり、変な音を鳴らしたり、ほらほら、色々できるんじゃないの?」
おし、来い、俺の希望。
「私、無害な幽霊なんで、そういうのできないんですよねぇ」
無害、自分で言ったよ、コイツ。
「あ、でも、私、ずっとこの家に居たんで、大樹さんや紗英さんのお小さい頃の、家族しか知らないような身内の話を知ってますよ。さっきも柱の話をしたでしょう?」
「あんなもん、この家に姉弟が居て、柱に傷があると分かれば簡単に想像できる範囲だろ」
「もっと細かくて、一般的じゃない話をすれば信じてくれますか?」
「内容による」
「じゃあ、とっておきの話しますね」
頬を紅潮させて笑う栗色の少女。和室に差し込む柔らかな太陽の光と相まって、それはまるで一幅の絵画のようだ。これでコイツが普通の人間なら、文句ないのになぁ。
「大樹さんが紗英さんとリナちゃん人形で遊んでらした時、そう、大樹さんが幼稚園に入る前かしら」
風がカーテンを揺らす。ぬるい空気が部屋の中を走り抜ける。
「リナちゃん人形用のお家にあるトイレ、それを大樹さんったら本物のトイレと勘違いして、そこにオシッコしちゃいましたよね。そのせいでリナちゃんハウスは大洪水。畳にまでしみこんじゃって、紗英さん、目を白黒させてらっしゃいました」
カーテンと一緒に幽霊の栗色の髪も揺れる。ゆるくウェーブしたそれは、とても手触りが良さそうだ。にっこりと俺の顔をのぞき込みながら笑いかけてくる幽霊の顔は整って、リナちゃん人形を彷彿とさせた。あぁ、無邪気な笑顔が俺の忘れたい過去を連れて来る。
「そうそう、ちょうどあそこの畳の上だったかしら? もう、しばらく畳にアンモニアの臭いがついて大変でしたよねー」
そうだ、姉は人形遊びが大好きだった。そんな姉に父がマンションタイプの人形ハウスを買ってやったのだ。それは広げると二畳ほどのサイズになるもので、台所のシンクや風呂の浴槽なんかの水回り品だけやたらとリアルだった。もちろん同じ水回り品であるトイレもしかり。あまりにも良く出来ていたから、まだ小さかった俺は、俺は。
クソッ、この出来事は自分の記憶からも抹消していたのに!
「合格でしょうか?」
穏やかな風に髪を揺らす美少女が俺には悪魔に見えた。ずっと握りしめたままだったスプーンをオムライスに突き刺す。口に投げ込んだ黄色と赤の塊は、冷凍食品と違って懐かしい味がした。
「大樹、なんか疲れてんなぁー」
昼休み、もしゃもしゃとロールパンを囓りながら一輝がこちらに寄って来た。椅子に座ったまま移動するという荒技を駆使しているせいで、ギーギーと床が嫌な音を立てている。
「疲れてるってか憑かれてんだよ、俺」
「はぁ?」
食べ終わったパンの袋を俺の机に勝手に投げつけると、新たなロールパンに齧り付く。茶色いパンの隙間から飛び出しているのはレタスとキュウリとブロッコリー。我が校の購買部が誇る不動の不人気メニュー、野菜たっぷりロール、通称草ロールだ。
「お前、またその草ロール喰ってんの? そんなの買ってるのお前だけだって」
「草とは失礼だな。これは野菜、立派な食べ物だってーの。そこらに生えてる草とは違うんだよ」
怒って鼻を膨らませる一輝の顔は、どこかバッタを思わせる。目が小さくて離れているからだろうか。それとも鼻と顔が長いからだろうか。はたまた単に緑の野菜が大好きだから、連想しているだけなのだろうか。とそこまで考えて、その理由なんてどうでも良いや……、と俺は投げやりな気持ちになりため息をついた。
「なんだよ、お前テンション低いなぁ。ほら見ろよ」、そう良いながら一輝の短い指がビシッとベランダの向こう、空を指す。「空は高いぞ、テンションも上げて行こうぜ。じゃないと、ただでさえ怠い二年生の一学期を乗り切れないぞ! ちなみに二学期はもっと怠い予定だ!!」
「むしろ怠い一学期を過ごしたかったよ、俺は」
昨日の家に帰ってからの騒動を思い出して、頭が痛くなる。
えくぼも可愛い小柄な幽霊(自称)。昼ご飯にオムライスと俺の封印していた過去をプレゼントしてくれた後、彼女は俺が愛して止まない冷凍食品にケチを付けたのだ。曰く「こんなの食べ物じゃないです」だそうだ。
そして許せないことに、あの幽霊は俺の備蓄していたカップ麺を見て、「これ、食べれるんですか?」とのたまったのだ! 許せない、アイツはカップ焼きそばのおいしさを知らないのか。熱さに耐えて手早く湯切りをすることのできる者にしか得られない、あの美味さ。それをまとめて「こんなの」だの「これ」だの、失礼な呼び方しやがって。
俺が怒ると、幽霊は「もっと栄養バランスの良い物食べた方が良いですよ」と反論して来たが、俺は俺の好きな物を食べたいのだ。そこを幽霊ごときに否定される覚えはない。晩ご飯に何か作ります、と言う幽霊を無視して俺はいつもと同じ冷凍食品とカップ麺の晩飯を食べた。幽霊は何か言いたそうにしていたが、放っておいたら知らぬ間にどこかに消えていた。
その間、一度も玄関を開ける音がしなかったのが不気味だった。あの玄関戸は古い上に重たくて、開閉すれば必ず音がする。その音なしにアイツがいなくなったってことは、つまり玄関を通らずにどこかへ消えたと言うことだ。扉をすり抜けるなんて、本当に幽霊の所行じゃないかと少し怖くなった。
同時に、このまま二度と出てこなければ良いのにと、心底願った。幽霊なんて非日常的な存在は俺の生活に必要ない。しかし、俺の儚い願いは叶わず、朝起きれば昨日と変わらぬ姿の幽霊がにっこり笑っていて、俺に昼ご飯だと言って手作り弁当を押しつけてきたのである。アイツはこれからずっと俺の生活に干渉する気なのだろうか。考えるのも嫌だ。
顔を上げると、一輝が空を指さした姿勢のままで固まっていた。指は上を向いているが、その視線は下に向けられている。無意識に辿った一輝の目線の先には、校庭を闊歩する栗色先輩もとい三浦先輩と黒髪眼鏡の向井先輩。こちらの視線に気が付いたのか、二人揃ってこちらに顔を向けた。
ぽろり、と何かが俺の視界を落下していく。一輝が囓っていた草ロールの具の一つ、ブロッコリーだ。「おい、落としてんぞ」、そう言おうと口を開きかけた俺の隣で、一輝が素早く動いた。椅子から立ち上がると、勢いよく窓に駆け寄る。
「おはようございます!」
そう外に向かって叫ぶと、ビシッと腰を曲げる。その角度90度。深く腰を曲げすぎて、不格好な礼になっているが、本人に気にする様子はない。そもそも、昼休みに発する挨拶が「おはようございます」で良いのかも不明だ。昼なんだから「こんにちは」じゃないのか。
複数の疑問に苛まれる俺を置いてきぼりにして、先輩二人は一輝に一瞥をくれると、そのまま去っていった。二人の姿が完全に消えるのを待って、一輝が礼を解く。そのまま足を引きずるように椅子に戻ってきた。
「なぁ、訊いても良いか?」
「却下。訊きたい内容は想像できるが、断固拒否する」
それだけ言って、床に落ちたブロッコリーを拾う姿は、さっきまで「テンション低いぞ」と文句を言っていたのと同一人物とは思えない程の萎れっぷりだ。
「なんだ、うん、頑張れよ」
萎れた姿が哀れだったから、何気なく投げかけてやったこの台詞。そのどうってことのない一言が変なスイッチを押してしまったようだ。拾ったばかりのブロッコリーを再度投げ捨てて、一輝が俺の両肩をガッチリと掴んで前後に容赦なく揺さぶる。
「そもそも、昨日の朝、大樹が助けてくれてたなら、こんなことにならなかったんだ。昨日、俺がどんだけネチネチちくちくやられたと思って!」
肩が前に引かれる度に、机に当たって痛い。後ろに押されれば椅子の背もたれがめり込んで辛い。が、この現状から脱却するべく、俺は必死に言葉を探した。
「俺ごときがあの絶体絶命の状態からお前を救えたとは思えないね」
「救ってくれなくとも、一緒に地獄に落ちてくれれば、それだけで俺はだいぶ救われたよ。赤信号、みんなで渡れば怖くないって言うだろ」
「ちょっと待て。その例おかしいぞ」
「とりあえずお前も落ちろよ。何で俺だけなんだよ、理不尽だろ」
前後シャッフルが終わると同時にガシッと、一輝が抱きついて来た。鼻息が頬にかかる。非常に嫌だ。そもそも一人だけで苦しむのが癪だから一緒に苦しめとは、なんという自己中。「友達甲斐がない」なんて俺に言えた義理か。
「あのなー、昨日のは一輝が馬鹿でかい声で『所詮は乳だけ』なんて言うから悪いんだろ」
「お前だって止めなかっただろうが!」
「止める間なんてなかったぞ! それに昨日の帰りの時点ではお前、平気そうだったじゃねーか。なんで今日になって、そんなにビビってんだよ」
「……知ってるか、大樹。本当の恐怖は後からやってくるって」
へにょり、と空気の抜けた風船のように一輝が椅子に座り込んだ。
「俺も、昨日の時点では別にたいしたことないと思ってたんだ。ちょっとネチネチ言われちゃったなーって程度だったんだよ。それが一晩寝てさ、今日の朝にあの先輩二人の顔見た瞬間に、こう、嫌な汗が出てきて、何かしないと恐怖に負けそうなんだ……。俺、どうしちゃったのかなぁ」
「そうか」
分からなくもない。喉もと過ぎれば熱さを忘れる、そんなことわざがあるけれど、今の一輝にはきっとその逆の現象が起こっているのだろう。これくらい平気だろうと飲み込んだ物が予想外に熱くて胃が焼けている、けれど今更吐き出すことも無理。そんな心境なのかもしれない。
とんとんと両肩を叩いてやる。
「今更、お前のその恐怖を取り除いてやることは俺にはできない」
残酷なようだが、これが現実だ。一輝の目が「なら同じ恐怖を味わえ」と言っている気がしたが黙殺する。
「その代わりにお前の好きな草ロールを帰りに奢ってやるからな、元気出せよ」
草ロールは不人気メニューだけあって、放課後ですら余裕で買える。他のパンはだいたい昼休みで完売するのだが、このメニューだけは例外だ。過去に放課後の空腹に負けて、うっかり売れ残りの草ロールを買ってしまったことがあるが、本当にマズイ。
野菜から染み出る水分で、カリッと香ばしく表面がトーストされたパンの中はしっとりを通り越してべっちゃり。具に添えられたマヨネーズとマスタードのソースも野菜の水分と混じってどっろどろ。一口囓れば、パンの表面のカリカリさと中の水分たっぷりのべっちゃべちゃさが同時に味わえて、最悪のハーモニーが口の中で奏でられる。そして最後にはブロッコリーの細かい房が舌の上に残るというオマケ付きだ。
アレを好きだと言う一輝の味覚が理解できない。あんなの食えない。
……あれ、この台詞、最近聞いたような。って、幽霊が俺の冷凍食品やカップ麺に投げつけたのと同じ文句じゃないか。ダメだ、ダメだ。誰かの好みにケチをつけるような無粋なマネは宜しくない。
「大樹、ありがとう」
萎れていた一輝が少し元気を取り戻した。
「でも俺、今、もう一つ切実な問題があるんだ」
「なんだ? 言ってみろ」
一輝は友達だ。先輩二人の攻撃からは救ってやれなくとも、できることならしてやりたい。
「今日の五限目提出の英語の宿題、全くやってないんだ。写させてくれるよな?」
「あ」
駅のホームで昨日言われたことを思い出した。「アイス分くらいは宿題頼むよ」
「あ、ってお前」
幽霊の出現で綺麗さっぱり忘れていた。顔を見合わせて、二人でとりあえず笑う。そして俺達は救いの神を求めて、友人連中を片っ端から拝み倒す仕事に着手した。
玄関戸を引けば、ガラガラと間抜けな音がした。俺はそっと家の中をのぞき込む。何で自分の家なのに、こんなに緊張しながら入らなくちゃいけないんだろう。近所の中学のクラブ活動だろうか、「どんまーい」なんて和やかな声が遠くから聞こえてくる。
ふぅ、と一息吐いた。あの幽霊はいないみたいだ。少しほっとする。
世の中にいるとされる幽霊が、普段どこで何してるのかなんて知らないが、今まで一度も俺の前には出てこなかったのだ。何でこんな歳になってから遭遇しなければならないんだろう。
今まで俺の人生には不思議なことなんて一つも起こらなかったのだ。俺の身長は一貫して低いままだし、運動神経に確変は起こらなかったし、脳みその出来だってずっと悪くもなく良くもなく、どこまでも普通の高校生をやっていると言うのに。
なのになのに、高校二年生の新学期そうそう「私はこの家の霊です」と来た。唐突すぎる。唐突と言えば、親父の死も突然だったっけ。
何にせよ、問題はあの自称幽霊だ。あれが本当に幽霊だと五十歩譲って認めてやったとして、どうして今になって現れたんだろうか。今までどこかにゴキブリよろしく潜んでいたのなら、そのまま家のどこかに引きこもっていれば良かったのに。「いる」って知らなければ、「いない」のと同じだ。見た目は確かに可愛いが、自分のことを幽霊呼ばわりするヤツとは関わりになりたくない。
軽い学生鞄を乱暴に上がり框に置く。腰を下ろして靴紐を解いた。玄関の磨りガラスを通して、春の日差しが柔らかく降ってくる。実に平和だ。また遠くから「どんまい! 次、がんばろー」なんて声が聞こえる。
あー、やっぱり幽霊なんて居ないよなぁ。昨日と今日の朝の出来事は俺の白昼夢だったんだ。うんうん。幽霊と会話なんざしてなくて、全部俺の独り言。……それはそれで俺がかなり可哀想な子になってしまう気が、あ、今日の弁当はどうやって説明しよう?
「大樹さん、おかえりなさい」
俺が今、夢で片付けようとした問題が後ろから声を掛けてきた。ぎしぎしと床を軽く軋ませて、こちらに近づいてくる。幽霊だとか言いながら、ちゃんと体重あるんじゃないか。幽霊を自称するなら空に浮いていろよ。
「『ただいま』の一言くらい、言っても良いんじゃないですか?」
言葉には少し拗ねた色。誰もいない家なのに、なんでいちいちそんなの言わなくちゃいけないんだよ。どうせ聞いてくれる相手もいないんだし。いや、居ないハズだったのに。
「大樹さん?」
観念して後ろを振り返る。その先には誰も居ない、そんな展開を心底期待したのだが、そこには可愛い少女が首を傾げて立っていた。コイツ、幽霊の癖してちゃんと影まであるのな、なんてどうでも良い発見までしてしまった。
「おかえりなさい」
諦めて返事をする。誰もいないハズの家に人がいる。それは奇妙で、少し懐かしい。帰宅の挨拶なんて、最後にしたのは何年前だろう。
「……た、ただいま」
少女は満足そうに微笑んで、それからいきなり前のめりに俺の顔をのぞき込んだ。影がかかって一気に視界が暗くなる。
「あの、あの、お弁当、食べてくれました? 美味しかったですか?」
幽霊の表情は期待半分に緊張半分と言った風情だ。長い睫に彩られた瞳を大きく見開いて、瞬きもせずに俺を見つめている。これはちょっと悪いことをしたかもしれない。
「ゴメン、食べてないんだ」
「えっ、どうしてですか! 私なんかが作ったお弁当は食べられないってことですか?」
髪と同じ栗色の眉毛が下がる。一緒に肩も下がって、酷く悲しそうだ。俺は必死に理由を話す。
「今日の五限目、昼休みの後の授業で提出の宿題が終わって無くてさ、休み時間中ずっと宿題やってたんだよ」
俺の友人連中はどいつもこいつも「大樹に写させてもらうつもりだった」と抜かすばかりで、誰もマトモに宿題をやっていなかったのだ。やっと宿題を終えているヤツを見つけた時には昼休みは残り半分以下。そいつを拝み倒し色々と貢ぐ約束をして、それから必死に宿題を写して何とか間に合った。弁当を食う時間なんざありはしない。
それでも一輝はロールパンと野菜ロールを食えただけマシだ。俺なんて空腹を訴える腹を抱えたまま、午後の英語に体育までこなさなくちゃならなかった。体育で校庭を何周も走らされた後では、空腹は限界を突き抜けて胃は痛みを訴え始めていた。そんな状態で食べ物なんざ摂れる訳がない。そんな訳で俺は朝メシだけで今日と言う日をここまで乗り切って来た。
「だから食べられなくてさ」
「そうですか……」
「別にお前が作ったのが嫌で食べなかった訳じゃないって」
俺の説明に幽霊は顔を上げたが、まだその眉は下がったままだ。さらに一生懸命に俺は言い訳をする。ついさっきまでこんなヤツとは関わり合いになりたくないなんて言っていた癖に、どうして俺はこんなに必死になっているのだろうか。
「昼飯抜きだったから、腹が減って減って。今から弁当食べようかなぁ」
胃がしくしくと泣き始めたが、意志の力でねじ伏せる。そんな俺の懸命さが伝わったのか、幽霊の表情が少し和らいだ。
「最近は暖かいし、お弁当痛んでるかもしれないですから、食べなくて良いですよ。代わりに何か作りますね」
幽霊の手料理。昨日、俺の愛する冷凍食品たちを幽霊が「こんなの」呼ばわりしたのを思い出した。けれど俺も昼に一輝の草ロールをけなしていたのだ。もしかしなくても俺も幽霊と同罪だ。
もはや今更そんなことを責める気にはなれず、それ以前に回復しつつある幽霊の機嫌を損ねたくない。そして何よりも、今すぐに弁当を食べろなんて言われたら、俺の胃が号泣しかねない。だから俺は黙って、台所へと軽い足取りで進む幽霊を見送った。
「そーいやぁ、お前、最近パン食べてないよなぁ」
今日も草ロールを囓りながら一輝がモゴモゴと言う。見ている限りだと、コイツは毎日毎日、同じ草ロールを買っているようだ。商品自体がマズイかウマイかは置いておいて、毎日同じパンを食っていて飽きないのだろうか。購買部のおばちゃんから「草ロール君」ってあだ名を進呈されているのは間違いない。
と、そこまで考えて自分も大差ないな、と思い返す。俺だって毎週水曜日のスーパーの冷凍食品四割引の常連だ。きっと俺のレジでのあだ名は「冷凍学生」だ。一輝の「草ロール君」ってあだ名の方がいくぶん立派な気がする。
「聞いてんのか? おい、大樹」
目の前にいきなり黒ズボンに包まれたケツが登場した。一輝が俺が伏せる机の上、顔の目の前に座ったのだ。
「聞いてるよ。今日は早いな、オマエ。朝練だったのかよ?」
「違ぇーよ。朝練だったらホームルームぎりぎりまで練習してるっての」
確かに今日の一輝は汗臭くない。万年甲子園予選一次負けとは言え、この学校の野球部の連中はみな野球好きらしく、暇さえあれば練習に勤しんでいる。練習もそれなりに厳しいらしく、いつも朝練明けの一輝は汗まみれで臭いまみれだ。気にしてデオドラント商品を色々試しているようだが、どれもこれも汗臭さを征服出来ずに、相まってより一層キツイ臭いになってしまう。それが今日は全くない。
「去年、遅刻で担任を激怒させた一輝にしては珍しい」
「うっせーよ」
ふん、と興奮して鼻を膨らませる様子は、どこか馬に似ている。元々色黒だが、この五月の連休でさらに日に焼けたようだ。合宿でもあったんだろう。このテンポで黒くなっていけば、夏になる頃には影と見まちがえる程の色になっていそうだ。
「俺だってね、反省くらい出来るんです」
「んー、つまり去年の担任に怒られたのが堪えたって訳?」
去年の担当の吉崎先生を思い浮かべる。今年も俺らの英語を担当しているが、熱しやすく冷めやすいと言うか、一度キレると顔を真っ赤にして止まらない人だ。赤くなった肌の上ではそり残しのヒゲが目立って、俺なんかはつい、皮膚から飛び出た小さな黒いヒゲを数えてしまう。
そーいやー、ヒゲ、俺にはまだほとんど生えてこないなぁ。
「だから、反省したんだよ。吉崎の野郎さ、始業式の朝に電話してきてさ、それも俺の携帯にだぜ? どっから番号仕入れたんだよ? そんでさ、これから俺が遅刻しないように毎日モーニングコールしてやる!って。そんなのウザイから断ろうと思ったんだけど、『このまま朝起きれないままじゃ、お前はまともな大人になれない。それは俺の責任だ』だとか何とか言っちゃってさ」
教育熱心な先生だとは思っていたけど、そこまでとは。しっかしなぁ。
「オッサンのモーニングコールかよ。リーディングやライティングの授業で嫌でも会うのに、朝の寝覚めの一発目から声聞くなんて、俺だったらお断りだね」
「全くだよ。でもアイツが心底熱心に言うからさ、俺もあんまり遅刻するのは止めようかと思って」
「へぇ。そーいや、一輝、二年になってから一度も遅刻してないような?」
「ふふん、今更気が付いたか!」
誇らしげに胸を張る姿に、思わず鼻から息が漏れた。遅刻しない、それだけでここまで誇れるコイツは幸せ者だ。
「でも、それも吉崎先生様からのモーニングコールのおかげなんだろ?」
「馬鹿言うなよ。オッサンからの電話なんて気持ち悪いモン朝から受け取ってたまるか」
「え? じゃあ自分で起きてんの?」
「もっちろん!」
一輝はますます誇らしげだ。まぁ良いか、吉崎先生が一番喜んでそうだしな、と思った瞬間に一輝の漏らした小さな言葉を俺の耳はすかさず捉えた。
「それに、ここまで早く来れば怖い先輩二人とも通学路で顔を合わせずにすむし」
……どうやら始業式から始まったあの美人先輩たちとの確執は続いているらしい。「まぁ頑張れよ」、と小さく言えば誇らしげに張られていた胸が、しょんぼりとしぼんでしまった。
きりーつ、れーい。学級委員の単調な声の後に、ガタガタと椅子や机が床と擦れる音が響く。別れの言葉や、放課後どこに遊びに行くかの相談、その他の雑多な会話が始まる中で俺は今日も机の中から筆箱といくつかのノートを鞄に放り投げた。
途端に中の障害物にぶち当たった。弁当箱だ。朝に一輝に言われた台詞が思い出された。「お前、最近パン食べてないよな」。全くだ。毎朝幽霊(自称)がせっせと弁当を持たせてくれるせいで、俺はすっかり購買部とも食堂とも縁がない。
幽霊は料理上手だった。上手と言っても、料理をする気すらなくて冷凍食品やカップ麺に頼り切りな俺が比較対象なのだから、信憑性も何もありはしないが。
毎日、自称幽霊は冷蔵庫の中身をチェックし、俺に欲しいものを要求するようになった。やれウィンナーがない、卵が切れた、牛乳が足りない云々。
その命を受けて、俺は帰りにスーパーで買い物をする。今まで冷凍食品の棚しか用がなかったせいで、他の物がどこに売られているのか分からない。スーパーの中をあっちへこっちへと目的の品物探して制服姿で徘徊するのはかなり恥ずかしい。けれど、いったん家に帰ってから着替えてスーパーに再出撃するのは面倒だ。俺にだってバイトや宿題なんかの都合があるのだし。
やっと特売の卵の棚を見つけて、ほっと息を吐いた。普段の卵の棚と特売の棚が別だなんて酷いトラップだ。それとも特売品は特売品でまとめて一つの場所に置く方が利用者には便利なのだろうか。俺にはよく分からない世界だ。
ともかく目的の品々を手に入れて、レジを通る。冷凍食品とは違って袋に詰めるのも重い物を下に、軽い物や潰れやすい物を上にと少し考えないと駄目だ。正直言ってメンドクサイのだけれども、手を抜くと幽霊に「大樹さん、こんな入れ方するなんて、信じられません!」なんて非難されてしまうのだ。
あぁ、嫌だ嫌だ。口うるさい姑を持ってしまったお嫁さんの気持ちが、今なら心底理解できてしまいそうだ。アイツの年齢的には姑よりも小姑のが相応しいか。どっちの方が嫁的には嫌なんだろう?
涼しいスーパーを一歩出れば、情け容赦のない日差しが襲ってきた。
太陽は日毎に日照時間を延ばし、季節は春から夏へと移り変わりつつあることを盛んに言い立てていた。坂を登る俺を正面から陽がジリジリと焼く。坂道を歩けば背中を汗が流れて、俺のカッターシャツを濡らす。捲り上げた袖に汗が溜まった。あぁ、衣替えが実に待ち遠しい。
隣の白さがまぶしい家を横目で見ながら、昭和の匂いが漂うオンボロな我が家の玄関の鍵を開けた。ガラガラと今日も間抜けな音がして、その向こうから小さな足音と、「おかえりなさい」との華やかな自称幽霊の声が届いた。
コイツに迎えられるのには未だに慣れない。俺がやっと小学生になったばかりの頃に母親は家を出て行ったから、それ以来俺はずっと鍵っ子だったのだ。空っぽの家に戻るのが当たり前だった。父も姉も俺より先に帰ってくることなんて、滅多に無かったから。だから俺は帰宅しても何も言わなくなった。受け取る相手の居ない言葉なんて、無駄にも程がある。
それでも最初は、律儀に「ただいま」と言っていたように思う。母親はある日突然にいなくなったから、同じように突然帰って来てくれるんじゃないかって期待していたのかもしれない。「おかえりなさい」、そう言って迎えられる日がまた来ることを願っていたんだろう、俺は。
今となっては、当時の俺の気持ちを思い出すのは難しい。もう十年近くも前のことだし、母親への思慕なんざ既に色褪せてカケラもない。
過去に母親を失った上に、今度は父親をも喪失した訳だけれど、その衝撃は前回に比べると小さいんじゃないかと思う。前はそのせいで俺の生活に変化があったが、今回は全く変わらないからだ。
父親が死んで悲しいか。その質問には意味がない。俺にとっての問題は、自分の生活が変わるか変わらないかの一点でしかないのだから。だから今回は悲しくなんてない、と思う。悲しい、悲しくない以前に、そもそも実感すら俺は得られていない。
「大樹さんって」
ふぅ、と小さなため息が降ってきて、俺は顔を上げた。
玄関に腰掛けた俺の後ろに、自分を幽霊と言い張る小さな少女がまだ立っていた。毎日顔を合わせていると言うのに、彼女の整った顔にはいつもドキリとさせられる。美人は三日で飽きる、そんな馬鹿なことを言ったのは一体どこのどいつなんだろうか。
「いつからか『ただいま』って言ってくれなくなりましたね」
俺の眉間に皺が寄る。コイツは俺が帰ってくる度に「おかえりなさい」とうるさいから、いつだって返事をしてやっているではないか。何を言い出すのか、コイツは。
「昔は帰ってくればいつも『ただいま』って大きな声に楽しそうに言ってくれてましたのに」
「何の話だよ」
「昔の話、ですよ」
玄関の磨りガラスを通して、あかね色の光が少女の頬を照らしていた。彼女は悲しげに俯いたかと思ったら、一転して大きな笑顔を見せた。
「ほらほら、大樹さん! ぼーっとしてる暇なんてあるんですか? 今日だってバイトなのでしょう?」
「あ、ヤベ」
馬鹿げた感傷を振り払うように、俺は慌てて靴を脱いだ。ばたばたと居間に走る俺の後ろから、「大樹さん、卵買ってきてくれました?」との間の抜けた声が届く。
「買ってきたよ。ここに置いとくから、冷蔵庫に入れといて」
「まぁ、大樹さん! 卵を冷蔵庫に入れることを覚えて下さったんですね」
洗濯しておいたバイト先のユニホームを取り入れに庭に出た。今日の朝に干しておいたから、もう乾いているはずだ。例え乾いていなくとも、着ていればそのうちに乾くだろう。庭から幽霊に向かって叫ぶ。
「オマエさぁ、俺のことを何だと思ってんの? 流石にそれくらい前から知ってたってーの」
「あら、そうでした? 以前に卵を布団で温めていたことがあったように記憶していますが」
幽霊も負けずに俺に向かって言い返してきた。家の中から叫んでいるはずなのに、側で話しているのと変わらず静かな声音に聞こえるのが不思議だ。
「あれは頑張って温めたら卵からヒヨコが生まれるかと思ってたからだよ。てか、それ、何年前の話だよ!? 流石に時効だろ?」
「そういうのに時効なんてあるんですか?」
くすくすと楽しげな自称幽霊の笑い声まで聞こえてきそうで、ムッとする。
物干しに掛かっているユニホームの白いポロシャツに触って、乾き具合を確認した。ちょっと湿っている気もするが、まぁ大丈夫だろう。取り込んで居間に戻る。
「時効はなくとも、そんな昔のことをいつまでも引き摺るのはかっこ悪いって、俺は思うけど?」
「かっこ悪い、ですか」
幽霊は買い物袋の前に膝をついて、袋から俺が買ってきた商品を取り出しているところだった。頼まれていた卵にケチャップ、それと俺が食べたいからコーンフレーク、ついでに牛乳。冷蔵庫の牛乳はもう残り半分を切っていたから、コーンフレークに惜しみなくかけるには足りなくなるかもしれないと思って新たに買っておいた。
今までは冷蔵庫の中身なんて気にしたこともなかった。俺的にはちょっとした進化だ。
「でも」、と幽霊が首を傾げた。夕日のせいで部屋の物は全てが自身の色を失い、部屋ごとあかね色一色に塗り込められていた。その中に佇む幽霊も同じ色に染められている。幽霊だと言う割にはコイツは別段人間と変わったところがない。
「私から『過去』が奪われてしまったら、私には何も残りません。それは貴方も同じなのではありませんか?」
夕暮れの中で瞳まで赤く染められた幽霊が俺を見る。
「それとも、過去がなくとも生きられるのが、貴方たち人間という生き物なのでしょうか?」
突然の物言いに俺は驚いて上手く答えられなかった。見た目には人間と変わりのない幽霊だけれど、俺はコイツが何かを食べるところを見たこともなければ、トイレに行くのを見たこともない。いつも突然いなくなり、そして突然現れるのだ。家に出入りするには通らなくてはならない玄関戸は動かせば必ず音がする。なのに、幽霊が現れたり居なくなったりする前に戸が開閉される音を聞いたことは一度も、ない。
「変なことを言いましたね」
はっと我に返ったように、幽霊は笑った。コイツは毎日、同じ服だ。靴下のワンポイントすら変わらない。着続けたせいで汚れたり傷んだりしている形跡がないのが、逆に不気味だ。
「バイト、遅れますよ」
「あ、あぁ」
急かされるままに、俺はユニフォームを鞄に詰め込んだ。制服のまま、家を出る。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
幽霊はふふっと小さく微笑んだ。何が面白いのかと俺がいぶかしむと同時に、少女は答えをくれた。
「大樹さんは帰ってきた時には何もおっしゃらないのに、出かける時には昔からきちんと『いってきます』っておっしゃるんですよね」
それは俺が出かける時間に、父なり姉なりが家に居ることが多かったからだ。まぁ、もう父親に向かって「いってくる」なんて言う機会は二度と巡ってこないのだけれど。
「帰ってこられた時にも『ただいま』と言ってくだされば良いのに。昔のように」
幽霊の呟きは聞こえないふりをした。
「おぉ」
今日もちゃんと遅刻せずに登校していた一輝に俺は声を掛けた。一輝は団扇代わりにパタパタ扇いでいた下敷きを動かす手を止めて、実に嫌そうに顔をしかめてくれやがった。
「朝一番からテンション低いなぁー。そもそも朝の最初は『おはよう』って言うのが決まりだろ」
「オマエね、アイツみたいなこと言うなよ」
「ほほー?」
一輝は顔を輝かせて、右手に持っていた紙を机に置いた。俺に向かい合う。
「アイツって誰なのかなぁ、大樹クン?」
「誰だっていいだろうが」
「そんな冷たいわぁ。彼女? お前、まさか彼女できたんじゃねーだろーな。そんな幸せを黙ってるなんて、俺、嫉妬しちゃう」
「気持ち悪ぃよ」
「以前から聞きたかったんだけどよ、最近お前が持ってきてる弁当って誰が作ってる訳? まさか大樹じゃないだろ」
その通りだ。二年生の始業式の日に突然俺の前に現れた幽霊は、その日から毎日毎日、飽きずに弁当を作ってくれている。が、そんなことを細かに説明する勇気はない。全否定されるのがオチだ。けれど、と小さな疑問が芽生えた。
「幽霊が弁当を作る」ってのがあり得なさすぎる話だと言うのは俺にも分かるが、幽霊の存在自体はどうなのだろう。俺はあの幽霊(自称)に出会うまでは、そんなもの居るわけないと思っていたが、それは一般的な感覚なのだろうか。人間誰しも、自分の感覚こそが普通だと思いがちだけれど、それは往々にして当人にしか通じない思い込みと偏見の産物だったりするはずだ。たぶん。なので、ここは典型的な高校男子の一人である一輝の意見を伺ってみたいところだ。
まずはコイツの「俺に彼女がいるのではないか」疑惑をとっとと払ってしまおう。
「彼女なんざ今も昔もいねぇよ。お前と同じ、彼女居ない歴イコール年齢だから安心しろ」
「なぁーんだ。じゃあ弁当はお前の姉ちゃん作かよ。それはそれでつまんねぇの」
ぶぅーと、ブーイングをして一輝はまた紙切れに向かい合った。俺はその前の椅子に勝手に座り込んで、一方的に話し始める。
さすがの俺も、全面的に同意して貰えるなんて殆ど思ってはいないが、ここは一つ、俺以外の人間の意見が聞きたい。俺は最近、あの自称幽霊が自称だとは思えなくなって来ている。
それに、そんな自分自身が異常だとも思えない。あの幽霊は前に俺のリナちゃん人形の忘れたい過去を暴露してくれたが、その後もちまちまと俺と家族しか知らないような細かい話をいくつも俺に思い出させてくれやがっている。昨日の卵の話しかり。家族でもないのに、俺にまつわるくだらない過去を細部まで知っている、そのこと自体が彼女の存在に信憑性を与えていた。
彼女は本当に俺の家に憑いている幽霊なんだろう、恐らく。でも世間一般ではそういうのって信じられているんだろうか。
「一輝さ、幽霊って信じる?」
「はぁ?」
ストレートに訊きすぎただろうか。予想していたとは言え、それ以上に素っ頓狂な声が返ってきて、俺は少し凹んだ。やっぱり幽霊なんて信じてるヤツはいないのか。
それでも俺は食い下がる。俺と同じような状況に置かれたら、コイツは一体全体どうするのか訊いてみたい。
「まぁまぁ、聞けよ。もしもの話だけどよ、見た目はすっごく可愛い幽霊がある日突然現れて、毎日食事作ってくれるってのどう思う?」
「どう思うって、そんなのに突然現れて貰ってもなぁ。飯なんざ他人に作って貰わなくても困ってないし」
あぁ、そうか。コイツの家には普通にお袋がいるもんな。
「お前、大丈夫か?」
一輝は心配そうに俺を見た。馬を思わせる縦に間延びした顔が曇っている。さっきまでバタバタとうるさかった下敷きも動きを止めていた。
「親父さんが死んじまって、精神的に来てるんじゃないのか? 俺にはよく分かんねぇけど、そういう疲労って少し経ってから出てくるって聞くし。お前、疲れてるんじゃねーの?」
「心配してくれなくとも、大丈夫だって」
ひらひらと手を振って陽気に笑って見せれば、一輝の眉間の皺が少し和らいだ気がした。
「ならいきなり幽霊がどーしたなんて言うなよ。俺、お前の頭がどうにかなっちまったのかと、ちょっとドキドキしちまったよ」
「失礼なヤツだな。最近ちょっと遅刻しなくなったからって偉そうに!」
ふざけて鼻を摘んでひっぱってやれば、一輝は大げさに痛がった。鼻を押さえて文句を言う。
「止めろよ! 俺の素敵な鼻がもげたらどうするんだよ」
「そんな簡単にもげるかよ。俺が引っ張ってやったおかげで、お前の低い鼻が少しは高くなるかもよ?」
「はっ、そんなありがたい効用があるなら、せめて自分の鼻を高くしてみせろってーの」
一輝の軽口に付き合いながら、俺は動揺していた。幽霊なんて居ない。そう暗に言われたことよりも、あの自称幽霊が存在する余地すら一輝の家には無いという事実が、俺の心を打ちのめしていた。
家には子供と父親と母親が居て、それだけで家はいっぱいなのだ。幽霊なんてお呼びでない存在には居場所なんてない。……考えてみれば当然だ。それが「家」ってものなのだろう。
なら、と俺は思う。あの幽霊がのびのびと家事を行える俺の家って何なのだろう。家だなんてとても呼べないような、そんな物なのだろうか。
「でもどうして突然『幽霊』なんて言い出したわけ?」
「え? あぁ」
自分の声が裏返らないようにするだけで必死だ。一輝の顔にまた心配そうな色が現れかけていて、俺は必死に言葉を紡いだ。
「別に理由なんてないけどさぁ、もうすぐ夏だなーと思って。夏と言えば怪談だろ? 幽霊だろ?」
「あー、なるほど。お前、どっかで可愛い幽霊が突然現れて云々みたいな話を聞いたのかよ」
「まぁ、そんなもんかな。聞いたことは聞いたんだけど、全然内容を覚えていなくてさ。それで一輝なら知ってるかなぁ、って思っただけなんだ」
「ふぅん」
納得したのか、一輝はにやにやといつもと同じだらしない笑い顔になった。手にしていた紙を俺に見せながら、言う。
「夏は怪談ってのも分かるがな、大樹。夏って言えばもっと熱いものがあるだろうが! 甲子園だよ、これぞ夏!!」
一輝が握りしめていたせいでぐっしょり湿ってしまった紙の上には、大きめの文字で「県大会」と書かれていた。しかも年度は去年になっている。俺はもっともな疑問を口にする。
「これのどこが甲子園と関係あるんだ?」
「素人はこれだから」
やれやれとため息を吐きながら、一輝が首を振る。一緒に下敷きも動いた。嫌に気に障る仕草だ。
「これは県大会と書かれてはいるけれど、甲子園の予選を意味しているのさ」
「へぇ。甲子園予選って素直に書けば良いのにな」
「分かってないねぇ」
「どうせ今年も、一回戦敗退する予定なんだろ。なら七月の頭でお前の夏は終了だな」
「失礼な。今年こそは甲子園に出場するに決まってるだろ!」
椅子から立ち上がって憤然と言いつのる一輝を鼻で笑ってやる。
「言うのはタダ、って言葉を知ってるか? まぁ、万が一、甲子園に行けたら応援しに兵庫県まで行ってやるよ。何だったら、お前の大好きな向井先輩と三浦先輩も誘ってやっても良いぞ」
「お前みたいなヤツの応援なんて要るか!」
「にしてもさ、なんでこの予選表、去年のなんだ?」
「あぁ、今年の予選の組み合わせ、まだ決まってないんだよ」
「だから」と言って、一輝は拳を握りしめた。
「去年の屈辱の一回戦負けを思い出し、今から闘志を高めてんだ」
馬鹿だ、ものすごい馬鹿が目の前に立っている。
「そもそも、さ」
俺は萎える心を奮い起こして、言う。
「お前、レギュラーなの?」
甲子園予選一回戦負け常連な我が校の野球部だが、部員数だけはそれなりだったように記憶している。二年生の、そう上手くもないだろう一輝がレギュラーになれるような層の薄さだったっけ。
「夏までにはレギュラーになってみせる!」
「お前の甲子園がすっごく遠いってことだけは良く分かったよ」
想像通りの答えに、もうため息すら出ない。それにさぁ。
「あんまり言いたくねーんだけど」
「何だよ、大樹。そんな言い方されたら聞きたくなるだろうが」
なら言ってやるか。
「お前、もう中間の二週間前だぞ。予選って期末直後だろ? 中間、期末と共に死んだら、その時期は課題提出の嵐になっちまうくねーか。期末の頃は甲子園に燃えて勉強どころじゃないんだろうし、中間くらい頑張った方が良いんじゃないの?」
俺の友達思いにすぎる言葉に一輝が固まった。感動に打ち震えているのだろうか、と思った瞬間にガシッと手を握られた。汗ばんだ手のひらが気持ち悪い。
「大樹! 一生のお願いだ、ノート貸してくれ」
「一コピーで百円な」
「この鬼!」
「おーい、出席とるぞ。座れよー」
始業を告げるチャイムと共にやって来た担任のおかげで、一輝の罵倒は中断された。
「おかえりなさーい」
自称幽霊なんだか、正真正銘の幽霊なんだか、すっかり俺には判断つきかねる存在となった少女、少なくとも見た目だけは、が今日も俺をにっこりと素敵な笑顔で出迎えてくれた。
「……ただいま」
もごもごと小さく言えば、それでも幽霊は満足そうに頷いて、俺の前でくるりと一回転した。栗色の髪が軽やかに跳ね、床がギシリと軋む。
「今日のお弁当、どうでした?」
「う、ん。旨かったよ」
「それは良かった。お弁当箱、洗っておいて下さいね」
「えー、めんどくさい」
「簡単じゃないですか。洗ってくれないなら、そのまま明日のおかずを詰め込みますよ」
「勘弁してくれよ」
俺が心底うんざりして言うと、幽霊はくすくすと声を立てて笑った。狭い廊下をスキップするように先に進み、突然俺に振り返った。
その背後から窓を通して初夏の日差しが降り注いでいる。自分のことを幽霊と称する少女の表情は、強い陽が逆光となって良く見えない。少女の動きとともに、黒い影が揺れ、小さな足音が響く。
目の前の少女はしっかりとした実体を持っているように、俺には思えた。体が透けているわけでもなければ、足がないわけでもない。頭に白い謎の三角形の布なんて巻いてはいないし、ぞろりとした着物を着てもいない。身にまとうのは古風な白い丸襟ブラウスに、黒い膝下のヒダ付きスカート。
夏恒例の「怪奇! 幽霊はいた」的なタイトルで放送される特別番組を想像させるような、恐怖を感じさせる雰囲気はカケラもない。ごくごく普通の可愛い女の子だ。
俺の内心など知らず、少女は朗らかに言う。春の終わりを告げる、まばゆい光の中で。
「今日はシチューですよ。大樹さんが昨日、たくさん牛乳を買ってきて下さったので、それを有効活用しようかと思いまして」
「この暑いのにシチューかよ」
「あら、それもそうですねぇ。私、すっかり忘れてました」
普通、暑さは忘れない。この陽気の中でシチューをぐつぐつ煮たいと思うヤツはいない。……やっぱり人間じゃないんだろうか、コイツは。
陽の光が俺の上にも降ってきた。ジリジリとカッターシャツの上から焼かれて、汗が滴り落ちる。同じ場所にいるのに、汗まみれの俺と違って幽霊は涼しい顔だ。何かに耐えられなくなり、俺は台所に駆け込んで窓を開けた。
「んー、なら肉じゃがにしましょうか。カレーにするのも手ですけど、ルーないですし」
遠くから中学生の「いーち、にー、さーん」なんて平和なかけ声が聞こえた。ぬるい風が俺のシャツを揺らす。胸を開いて風をシャツの下に通す。暑い。全然涼しくない。
後ろからやって来た幽霊は、髪を風にそよがして眼を細めた。
「良い風ですねぇ」
良い風? 俺にはぬるくて気持ち悪い物にしか思えない。俺の隣で幽霊はのんびりと言う。
「結構簡単ですから、一度ご自分で作ってみませんか? 肉じゃが」
コイツは一体何者なのだろうか。この質問は今更すぎる。始業式の日に突然コイツが現れた時にハッキリさせておくべきことだったのだ。どうしてズルズルと今まで一ヶ月以上も保留してしまっていたのだろう。
一輝は言った。「幽霊なんていない」。それが世間一般の判断だ。ならコイツは何だ?
体は透けていない。足もある。服だって流行遅れだとは言え、洋装だ。幽霊とは思えない。けれど、コイツは毎日同じ服で、しかもそれが汚れる気配もない。物も食べない。玄関を通らずに家の中に現れる。しかも自分で「私はこの家の霊だ」と言った。
俺の中の感情が、「ソイツは幽霊だ! 少なくとも人間じゃない」と叫ぶ。同時に理性が「幽霊なんていてたまるか! ソイツは人間だ」とがなり立てる。
「大樹さん?」
俺を悩ます少女が目の前で不思議そうに首を傾げた。二つに結ばれた栗色の髪が肩から流れ落ちる。コイツは本物の幽霊なのだろうか。それともお節介な人間なのだろうか。俺の常識がささやく。「こんな若くて可愛い子がお前なんかのところに来るかよ」
……その通り、だ。普通の人間なら俺なんかの何の取り柄もない高校生にこうも世話を焼いたりしてくれない。そもそも俺の過去なんか知るはずがない。けれども、コイツはこの家の構造も俺の家族構成も歴史も良く知っている。幽霊なんだろう、正真正銘の。
ならば追い出すべきだ。そんな得体の知れないものを置いとくなんて、正気の沙汰じゃない。でも。
「な、ぁ」
「何でしょう?」
「オマエって、何なの?」
俺の擦れた声に、少女の淡い琥珀色の瞳が大きく見開かれた。暫くの沈黙の後で、自称幽霊は微かに笑って言った。
「私はこの家の一部、ですよ。憑いてるんです」
目の前で微笑む幽霊に、俺は結局何も言わなかった。何と罵ってくれても構わない。相手が誰であれ、「おかえりなさい」と迎えて貰えるのがほんの少しだけ、本当に少しだけ嬉しかったのだ。空っぽの家に帰るのが普通だった俺にとって、それは奇妙にこそばゆく懐かしい感覚で、だからあとちょっとだけでも浸っていたかった。
情けない。唇がいびつな笑みを描くのを止められない。そんな俺を、幽霊は驚いた顔をして見ていた。