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第一章

 汚れた桜の花びらが地面に無数に落ちている。それらを踏みつけながら同じデザインの革靴たちが進む。俺は寝不足だってのに、太陽はギラギラと輝いて、ムカツクことに雲の一つとて空には見えない。元気な日の光が瞼を透過して脳みそに刺さる。あー、キツイ。

 そんな俺の低テンションなんかお構いなしに、周りにいるお揃いの紺色ブレザーの連中は元気だ。「クラス替え、楽しみだね」

 そう明るい声で言ったのは、俺の前を歩く一つ上の学年の先輩だ。明らかに校則違反な栗色の髪色を維持している不思議な人なので覚えている。それに巨乳さんだし。

「同じクラスになれると良いね」

 話し相手は栗色先輩の隣の黒髪眼鏡さん。こちらは色は問題ないが、どう見てもパーマ。これまた立派な校則違反です。ううむ、しかし眼鏡というアイテムもあってか、知性を感じさせてこちらも素敵。

「選択科目が一緒なんだから、今年こそ同じクラスになれるよ」

 そう言って微笑みあうグラマーな栗色先輩に、知的美人の黒髪さん。絵になる。非常に絵になる。これは睡眠不足な俺に神様からのプレゼントに違いない。でもなー、もしどっちが好みかと訊かれたら、俺は、うーん、やっぱり……。

「おーい、大樹ぃ! なぁに朝からにやけてんだよ」

 俺の至福の麗しタイムは無粋な馬鹿の一声で終了した。ちくしょー、いつも遅刻常連な癖しやがって、なんで今日は真面目に間に合う時間に来てんだよ。

 俺の心の声なんぞおかまいなしに、馬鹿こと一輝は汚い手で俺の髪の毛をグシグシかき回す。やめろ、俺の渾身のセットが崩れる。万年スポーツ刈りのコイツには分からないんだろうが。

「あぁ、あの二人かー。両方とも二年生、あ、もう三年か、で人気一位二位の美女だもんなー。いやいや、朝から鼻の下伸ばして、大樹クンったら嫌らしぃー」

「誰が鼻の下伸ばしてんだよ! と言うかな、人気一位に二位ってどっちがどっちだよ」

「お、気になりますか? ちなみに大樹クンはどちらの先輩がお好みで?」

 ニヤニヤ笑うコイツは本当に品がない。かく言う俺にも品性なんてものがあるかどうかは不明だが。

「それ以前に、一輝。ちょっと訊きたいんだが、誰が順位を決めたんだ? お前の主観だったら聞かねーぞ。ついでに殴るぞ」

「嫌だな。俺だけの好みで先輩方の順位を付けるだなんて、そんなおこがましいことする訳ないだろ。俺ンとこの先輩が話し合いで決めたんだよ」

 勝手にランキングを作ってる時点でおこがましいと思うがな。まぁ、そこはスルーしてやる。

「お前のところの先輩ってーと、野球部の新三年生か」

「そうそう。で、どっちが一位だと思う?」

 一輝の属する野球部にはコイツ含めて分かりやすい野郎しかいない。打って、走って、点を取る。バントなんかの技術は二の次三の次。犠牲フライとかあり得ない。だから万年、甲子園の地方予選一時敗退なんだと思うが。そこから考えるに、おそらく女に関しても同じスタンスだろう。かわいい、細い、胸デカイが最高。

「……当てたら何か奢ってくれるのか?」

「いいぜ。大樹が正解なら俺がジュースを買ってやる。でも外したらお前が俺に買えよ」

 ちょろい。ジュースは貰ったぜ、一輝。そうだなー、と考え込むフリをすれば、一輝がじっと俺の目を見つめてきた。鼻の穴が膨らんでいる。興奮している証拠だ。こんな小さなことで盛り上がれるなんて、俺は心底お前が羨ましいよ。だが、ジュースは俺のものだ。

「向かって左の栗色髪の先輩だろ?」

 一輝の小さな目が一瞬、さらに小さくなった。鼻の穴がひくつく。確実に貰ったな、これは。そう思った瞬間、突然、一輝の唇が大きく歪んだ。

「残念でしたー。正解は右の向井先輩でした!」

 突然名前を呼ばれた黒髪眼鏡先輩がこちらを振り返る。馬鹿一輝が気付くハズもなく。

「三浦先輩も良いとこ行ってんだけどさ、時代は眼鏡っ子な訳よ」

 同じく栗色先輩も足を止めて、こちらを見る。四つの瞳が大きく見開かれて、そして二人の麗しい眉間に同時に皺が寄った。あぁ、ヤバイ、本格的にヤバイ。

「それに、三浦先輩は所詮乳だけって言うか。その点、向井先輩はスレンダーだし身長も小さめで、こう庇護欲をそそるってーの?」

 一輝の口もろとも本人を葬ってやろうと俺が振りかぶった学生鞄は、黒髪眼鏡もとい向井先輩の細い右腕に止められた。三浦先輩の右手は一輝のカッターシャツの首元をがっちり捕まえている。「所詮乳だけ、ね。その話、詳しく聞かせて貰っても良いかな?」

 新学期一日目から、美人先輩の二人にいきなり嫌われる、という最悪のスタートが切れたことを一輝に感謝してやる!




「大樹、悪かったって、な?」

 詫びのつもりなのか、一輝がやたらとアイスを頬に押しつけてくる。けだるい始業式は終わったが、太陽は朝よりも元気で俺は憂鬱だ。駅のホームに吹く風は、気持ち悪い人肌。足下には薄紅色の淡い桜の花びらたちがまとわりつき、踏む度に薄汚れていく。そんな全てが煩わしい世界の中で、頬に当てられたアイスだけが鋭い冷たさを主張していた。けれど、それも俺の体温とぬるい気温のせいで、少し柔らかくなりつつあった。

「なぁ、元気だせって」

「何がだよ」

 押しつけられていたアイスを渋々受け取って袋から取り出す。スイカを模した表面が少し溶け、実の赤と皮の緑が混ざって不味そうな色に成り下がっていた。

「……親父さんのこと。俺、良く分かんねーけどさ、色々と大変なんだろ?」

 健一、父が死んだのは三月の中旬だった。運転中に対向車線に飛び出して、中央分離帯と正面衝突した挙げ句、アッサリと死んでしまった。即死だそうだ。

 俺は親父と最後に会話したのがいつで、どんな内容だったのか思い出せない。それほどに家にいない父親だった。家にいないと言えば姉もだ。父親の葬儀に走り回る姿を見て、そういえば俺には姉がいたのだったと再認識したほどなのだ。

 父が死んで悲しいか。そう問われると、答えに困る。元々がほとんど顔を合わせることもなかったので、まだ実感が湧かないだけなのかもしれない。白い布を掛けられた動かない父の姿は見たけれど、それでもまだ良く分からない。今、実感できないのならば、この先一生理解できる日など来ないのかもしれない。

 けれど、それがどうだって言うのだろう。父が死んでも、俺の日常には変化がない。俺は昨日も今日も明日も一貫してしがない高校生だ。

「そんなことよりさ、お前、今日は野球部の練習ないわけ?」

 不味そうな溶けかけアイスを囓りながら言った。不細工な固体は口の中で液体になり、甘さと種の代わりの小さなチョコレートだけが残った。

「疑問文を疑問文で返すなんて、現国のテストじゃ赤点だな」

「実際に赤点取ったのは俺じゃなくてお前だろ」

「痛いところを突かれたなー、これは」

 あはは、と大口を開けて笑った一輝の白い歯が昼の太陽を浴びて輝く。日に焼けた肌にがっちりとした体。身長は特別大きい方ではないが、それでも俺よりかはずっと高い。

「ま、心配してくれなくとも、今日の練習は三時からなんだよね。今日は始業式で半日だから、いったん帰って飯喰って、そんでクラブのためにまた学校来んの。大樹みたいな帰宅部は午後全部フリーで羨ましいや」

「何だよ、俺だってバイトで忙しいんだぞ。それに、好きでクラブやってんだろーが」

「まぁね。でもたまにサボりたくもなるんだよ。こんなスポーツ少年の心の機微なんざ、中学から一貫して帰宅部の大樹には分かんねーだろうけど」

 それだけ言うと、食べ終わって棒だけになったアイスを駅のゴミ箱に投げ捨てた。俺も同じように捨てる。

「何はともあれ、今年も同じクラスだ。ヨロシクな、大樹。早速だが、明日提出の春休みの英語の宿題を写させてくれ」

「新学期早々ソレかよ!?」

「何だよ、今、アイス奢ってやっただろーが」

「あれは朝の向井先輩と三浦先輩の騒動の詫びだろ?」

「何言ってんの? 朝のはお前、関係ないじゃん。俺があの美人先輩二人に生徒玄関の裏でネチネチいびられてたのに、お前助けてくれなかったし」

「あの中に飛び込むくらいなら、俺は火の中に飛び込む方を選ぶね」

「ホント、友達甲斐がねーよなぁ、大樹は。だから友達が少ないんだよ」

「うっせーよ!」

 けらけらと心底楽しそうに一輝が笑う。コイツはいつも笑ってばかりだ。

「はいはい、痛いところを突いちゃってゴメンなさいねー。とりあえずアイス分くらいは宿題頼むよ」

 言いたいことだけを言うと、ちょうどやって来た電車に一輝は颯爽と乗り込んだ。俺の乗る電車とは反対方向だ。

「じゃーなー。あんまり落ち込むなよ……ってのは酷だよな。まぁ、何かあったら言えよ。力になるぜ、なんてカッコイイこと言えないけどよ、話を聞くくらいならできるぜ」

 俺が何か言おうと口を開くよりも先に、電車のドアが閉まった。取り残された俺の前で一輝が暢気に手を振る。発車ベルが鳴り響き、一輝の馬鹿面も電車と一緒に遠ざかって行った。




 父が死んで悲しいか。そう質問されると、答えに悩む。悲しいだの、悲しくないだの、そういった次元の問題じゃないんだ、きっと。何にせよ、俺の生活には変化がない。

 駅の改札を抜けて、その近くのスーパーに入る。今日は水曜日、冷凍食品が四割引の日だ。買い込んでおくに限る。スーパーはコンビニよりも安いし、冷凍食品は年単位で日持ちもする。家には殆ど俺しかいない上に、俺には自炊能力なんざ皆無だ。出来る出来ない以前に、俺には自分で飯を作ろうとチャレンジする意欲すらない。そんな俺みたいな怠け者にはスーパーの冷凍食品はありがたい。冷凍食品ばかりを買いあさる制服男子の俺への奥様方の視線は少々痛いのだけれど。

 買い込んだ食料を右手に坂を登る。ここにも淡い色の花びらが大量に落ちている。桜は日本の花だとか言って、やたらと贔屓しているようだが、俺にはその気持ちが一向に分からない。こんな弱い風に吹かれたくらいで散る花の、何が良いのやら。

 鞄から鍵を取り出して、玄関ドアに差し込む。ドアと言うよりも、大きな磨りガラスの窓とでも言った方がしっくりくる代物だ。ドアノブを掴んで開閉するタイプではなくて、アルミサッシに付けられた取っ手の窪みに指を引っかけて左右にスライドさせるのだ。ベランダや庭に出るための窓と大差がない。違いは学校なんかのベランダへの窓が普通のガラスなのに対して、我が家の玄関ドアは磨りガラスということだけだろうか。あと鍵ももう少しマトモか。

 こんな古い家はもう我が家くらいしかない。鍵を玄関に差し込んだまま、首をひねる。隣も同じような作りの家だったのだが、数年前に立て替えられて今は白い壁がまぶしいイギリス風のオシャレな家になっている。その庭に突っ立っている桜の木だけが昔と変わらずにそのままだが、家が洋風なせいか奇妙に浮いている。家よりも先に居たってのに、なかなかに世知辛いことだ。

 差しっぱなしだった鍵を右に回す。錆びてきたのか、最近は開けるのにも閉めるのにも苦労する。もっと綺麗な家に住みたいよなぁ。隣みたいなオシャレすぎる家はちょっと遠慮するとしても。と、そこまで考えて気が付いた。

 住むと言っても、俺と姉しかいないのだ。一軒家なんかじゃなくてマンションで十分なのかも。……そもそも、今でも顔を合わせることすら稀なのだ。これが「一緒に住んでいる」と言える状態なのか、俺には良く分からない。

 鍵に力をかけて、強引に動かす。ガジャリ、と鈍い音がして中の金属が回転した。やっと開いた。これは本当に一度、鍵屋に見て貰った方が良いだろうな。額にうっすらとかいた汗をぬぐいつつ、扉を開ける。

 その瞬間、激しい風が吹いた。ざぁざぁと音を立てて、桜の花びらたちが降り注ぐ。柔らかな花びらたちが襲ってくる。何も見えない。

 堪らずに閉じた目を、恐る恐る開いた。その先に、俺の想像を超えた展開が待っていた。

「大樹さん、おかえりなさい」

 俺と姉しか住んでいないはずの家の中で、見知らぬ美少女が満面の笑みで俺の帰りを迎えていた。




 誰?

 脳内を駆け巡ったその疑問は、発音されずに口の中に留まった。人間、想像もしない出来事に遭遇すると、脳みそはフル稼働……するどころかフリーズしてしまうらしい。足下に置いた冷凍食品入りの袋が倒れながら「しっかりしろ」と音を立て、俺の脳機能に活を入れる。

 とりあえず玄関を力いっぱい閉めた。ビシャン!と大きい音と共に、アルミサッシに入れられた磨りガラスが不満を叫ぶ。昔よく、姉に「ゆっくりドアを閉めなさい!」って怒られたっけ、なんてことはどうでも良くて。

 嫌に走る心臓の鼓動を感じながら、磨りガラスに貼られた表札を確認する。結城。オッケー、俺の家だ。間違ってないぞ。いや、待て、むしろ間違ってないと問題なんじゃないのか。さっきの美少女は誰だ。幻か、俺は幻を見たのか。

 先ほどの少女の姿を思い出す。短時間しか見ていないが、目に焼き付くような美しい少女だった。断言できる。俺の知り合いにはあんな美少女はいない。

 急に変な汗が出てきた。さっきから奇妙な音を立てて疾走している心臓を宥める。ゆっくり深呼吸をして、体に酸素を取り入れる。おし、大丈夫、落ちついた。もう幻なんて見ない。もう一度ひっひっふーとゆっくり息を吐いて、ドアを一気に開ける。

「おかえりなさい。さっきから何をしているの?」

 まだ居た。何度瞬きしても、消えてくれない。消えないなら実在するんだろうか。つまりこの少女は幻ではなくて、普通の人間だと。倒れたスーパーの袋から見える、嫌になるほど見慣れた冷凍焼き飯のパッケージが「これは現実だぞ!」と叫んでいる。

 と言うことは、えぇっと、どういうことなんだろう。何で俺の家の中に知らない人が居るんだ? お客さん? いやいや、鍵を閉めておいたのに、客が勝手に家の中に入ったりはしない。じゃあ、何だ、泥棒か。……家人が帰ってきたのにこんなに堂々としている泥棒なんていないよなぁ。

 見知らぬ少女は腕を後ろに組んで、やや前屈みに俺の顔を框の上から覗き込んでいた。

 睫は長い。瞳は淡い琥珀色。その大きな瞳にかかる前髪は栗色。歳は中学生くらいか。腰までの長い髪を二つにくくり、前に垂らしている。着ているのは白いブラウスに黒のスカート。ただ、ブラウスの襟は丸く、スカートは膝下丈で大きめのプリーツが入っている。ワンポイントが入った白い足首までの靴下と相まって、学校の制服のように見える。ただし、一昔前の。

 その古めかしい服装と浮き世離れした可愛らしさが、俺の現実感を急速に奪っていく。けれど、俺の靴の上に倒れ込んだ冷凍食品の袋の冷たさが、そうはさせじと踏ん張っている。

 あぁあぁ、もう何が何だか分からない。幻なら俺の精神が心配。現実ならこの少女が謎。分からないなら、いっそ訊いてみよう。半ばやけっぱちになりながら、俺は一生懸命に唇を動かす。

「あのー、どなた?」

 情けなく震えた俺の声に、少女はくすくすと楽しそうに笑った。真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。澄んだ瞳が美しい。

「私は、この家の霊。ずっとここに居たんだけど、こうやって会うのは初めてかな?」

 父が死んで悲しいか。そう尋ねられると、答えに迷う。元々が家に殆ど居なかったような父親だ。死んでもあまり変わりがない。肉親の死に対して酷いと言われそうだが、それが事実なのだから仕方がない。何にせよ、俺の生活には変化がない。そのハズだった。

 けれど、今、俺の生活には変化があった。

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