第肆集 湖沼に咲く兄妹愛
登場人物
■龍金山……主人公。拳師(武道家)。流儀は〝十全十美拳〟。数え年十六歳。
■孫靄超……導姑(女性の導士)。火行系の灋術を得意とする。数え年十六歳。
■身材高……以前、金山と靄超が出会った何でも屋。今回は楊澄湖で密漁を防ぐための警備をしている。
■太胖子……材高の弟分。
■朱亭林……江楠省穌州府焜山縣の楊澄邨に住む少年。
■朱逸雲……楊澄邨に住む少女。亭林の妹。
■朱白水……楊澄邨に住む漁師。楊澄湖の大閘蟹漁で生計を立てていた。亭林・逸雲兄妹の父。
■後斗里……楊澄邨に住む漁師。蟹の祟りで死んだ前網本の息子。
■余荷下……楊澄邨に住む漁師。漁が禁じられて経済的に困窮し、村を出て行く決断をする。
■呂黃浦……焜山縣知縣。位階は正七品。
■杜新四……焜山漁業合作社(漁業組合)の網元。
■胡隆謝……焜山漁業合作社が蟹の呪いを祓うために雇った導士。
江楠省穌州府に属する焜山縣は、楊澄湖の畔にある町として知られている。ここは焜山縣に属し、楊澄湖に面した漁村・楊澄邨である。
「急げ、逸雲……!」
「はあはあ……!」
その楊澄湖の湖岸を、魚籠を持った少年と女の子が息急き切って走っている。
「待ちやがれ!」
「待つだど!」
その後ろを長身痩躯の男と肥満体の男という、見た目に対照的な二人が走っていた。長身の男は身材高、太った男は太胖子である。第三者の目線で見たところ、前を走る少年と女の子を二人で追い回している様だ。
「あ、あんちゃん……! おら、もう……!」
逸雲と呼ばれた女の子は息が上がってしまい、みるみる走るペースが落ちて行く。と同時に材高との距離が一気に詰まってしまう。
「おら!」
ガシッ!
追い付いた材高の手が女の子の服の襟首を掴む。
「きゃあ!」
「逸雲!」
妹らしき女の子が捕まり、立ち止まる兄らしき少年。
「おっと。捕まえたぜ」
「あんちゃん! 助けてけろ!」
地面を離れた足をジタバタさせるが、残念ながら逃れる事は出来そうもない。
「くそ! 逸雲さはなすだ!」
農村の訛りのある少年と女の子だった。二人は兄妹らしいが、兄の方は数え年で十歳(満年齢で八~九歳)、妹は七歳(同五~六歳)と言ったところか。
「お前もだぞ、赤老んちょ」
やや遅れて追い付いた(材高に比べれば見た目通り足が遅いので)胖子が少年の方を捕まえる。
「くそっ! はなせ! はなせよ!」
両手を掴まれ胖子に捉まれ、足以外にも体全体で抵抗を試みるが、胖子の巨体はもちろんびくともしない。
「黙れ赤老。俺はてめえみたいなむかつく赤老が大嫌いなんだよ」
「むかつく赤老」に何か恨みでもあるのか、弱い相手には強気なだけなのか、それともその両方なのか、極めて高圧的な態度で少年を一喝する材高。
「大閘蟹の密漁とは、とんでもねえ赤老共だぜ」
大閘蟹とは我々の世界でいわゆる上海ガニと呼ばれる蟹である。古来より食用として珍重され、旬の物は江南地方を代表する美食として知られている。そして、この楊澄湖こそ、数ある大閘蟹の産地の中でも名所中の名所として知られる場所であった。
「兄貴の言う通りだど」
この二人は一言で言えば何でも屋であり、普段は富豪の用心棒などを生業としているが、今回は密漁を防ぐためのいわば警備員をしている様だ。
「また何か悪さしてんのかよ」
「「あん?」」
突然何者かに声を掛けられ、振り向く二人。
振り向いたその先にいるのは、拳師(武道家)の少年・龍金山と、導姑(女性の導士。導敎の尼僧)の少女・孫靄超であった。
「「げ!」」
二人の姿に目ん玉が飛び出るほど驚く材高と胖子。
「じゅ、十全十美拳師……!」
「な、何でお前がこんな所にいるだど……」
まさかの金山たちとの再会に、尋常ではない驚き方をする二人。金山と靄超が初めて会った、江楠省汰倉州紅灣鄕の伍角場での事件の後、伍角場から旅立った金山たちが、街道でこの二人が揉めている現場に出くわしたのである。その時は金山が追い払ったのだが、結局、同じ江楠省にある淞江府の淸浦縣に属する珠家角鎭という町で戦闘となった。ただし彼らとは終始戦わず、それどころか最後の最後で依頼主を見捨てて逃げ出すという鬼畜の所業に及んでいた。金山も靄超も落ち着いて話をした事は一度も無いが、かなり性格に問題のある二人組であった。
「それはこっちの説詞だよ」
「また会ったわね」
「「……」」
押し黙る二人。
「おい。痛がってんだろ。放してやれよ」
金山が、四人のやり取りの間にも暴れ続ける逸雲を下ろす様、材高に言う。
「何言ってやがる。良いか、こいつらは楊澄湖で大閘蟹の密漁をしてやがったんだぞ。立派な犯罪者だ」
しかし材高は応じない。
「このまま役人に突き出してやるんだど」
「ふざけるでねーべよ! 湖はみんなのもんだべ! 組合さ所属している漁師全員に、漁さする権利さあるはずだべ!」
二人の説明に反論する少年。
「そいつはちょい前までの話だろうが」
「んだど。今は制度が変わっただど」
「話の全部が呑み込めた訳じゃねーが――」
サッ。
素早く少年から魚籠を取り上げ、二人に差し出す。
「ほらよ。蟹さえ戻れば役人に突き出すまではしなくて良いだろ」
「あ!」
金山の手に魚籠があるのを見て、初めて魚籠を取られた事に気付く少年。それほど金山の手の動きは速かった。
「そうは行くかよ」
「犯人を捕まえなきゃおで等の顔が立たねえど」
魚籠は受け取ったものの、二人を解放しようとはしない材高と胖子。
「そこを何とかこの場は見逃せよ。今度テメーらが妖怪とかに襲われた時には、助けてやるから」
「ふざけんな!」
「そうそうほいほい妖怪なんかに襲われてたまっかだど!」
金山が妙な交換条件を出したが、どうやら二人は納得しなさそうである。
「だったら――」
ギュッ……!
拳を握り締める金山。
「お、おい!」
「何をする気だど!?」
やはり二人を放しはしなかったが、金山の威嚇(?)にやや距離を置く材高と胖子。
「蟹は取り戻したけど、犯人には逃げられたって伝えとけ」
ブン!
そう言うなり、裏拳を地面に向けて放つ金山。
ドーン!
「何っ!?」
「何だど!?」
突如地面が爆発し、土砂が巻き上がる。今の金山の裏拳は衝撃波を放つためのものだったのだ。高速の裏拳で空気を押し出し、衝撃波を発生させ、それを地面に浴びせて土砂を巻き上げたのだ。
「くそっ! あの混蛋!」
土砂が晴れた時には、既に金山と靄超は姿を消していた。
「あ、兄貴! あの二人もいないだど!」
「ああ!?」
と同時にあの兄妹も一緒に消えていた。妹の方は材高が服の襟首を掴んでいたし、兄の方は胖子が両腕を掴んで捕まえていたのだ。それにも関わらず、一体どうやったのかは皆目見当が付かないが、金山と靄超が連れ去ったらしい。
「ちくしょう! あの混蛋! 覚えてやがれ!」
「今度会ったらただじゃおかないだど!」
大穴の開いた湖畔で威勢良く報復を誓う二人。しかし土砂が巻き上がったほんの数秒の間に、拘束されていた二人を助け出し、一瞬にして姿をくらます様な連中である。今後は金輪際関わり合いにならない事を、同時に誓うのであった。
楊澄湖から一里(約五七六メートル)ほど離れた民家の前で、
「ここまで来りゃとりあえず安心だろ」
材高から助けた女の子を地面に下ろす金山。靄超も胖子から助けた少年の方を下ろす。何の事はなく、金山は土埃に怯んだ材高から女の子を「引っ手繰って」助け、靄超も隙を突いて、器用に少年を掴んでいた胖子の手を放して助けたのだ。種も仕掛けも無いが、超人的な身体能力だけは必要なトリック(?)である。
「大丈夫? 怪我は無い?」
「あ……ああ……」
茫然とする少年。あまりにも色んな事が立て続けに起こり、事態に付いて行けてないらしい。
「あなたは?」
女の子の方にも確認する靄超。
「う、うん。だいじょぶ。たすかっただ」
うなずく女の子。幼さゆえに逆に恐怖心も薄いのか、兄より幾分冷静だった。
「そう。先に名乗っておくわね。私は孫靄超、導姑よ。そっちの彼は龍金山。拳師よ」
端的に説明する靄超。
「あ、ああ……」
「あんちゃん。しっかりしてくんろ」
「ああ……」
呆けていた兄だったが、
「ああ。おらは朱亭林だべ。こっちは妹の逸雲だ」
ようやく落ち着いたらしい。自己紹介が出来るぐらいには持ち直した。
「そう。それで何があったの? 訳を聞かせてもらえる?」
「大閘蟹がどうとか言ってやがったな」
「あ、ああ。それが……」
「おらたちのおっとう、このようちょうそんでりょうしさしとるだ」
二人の話によると、この楊澄邨は大閘蟹の漁で栄えた村だったが、ある日突然、大閘蟹漁が禁止されてしまい、彼の父親も含めて漁が出来ずに困窮する様になってしまったらしい。それで何とか大閘蟹を手に入れようと、湖に忍び込んで蟹を捕まえたが、あえなくあの二人に見付かってしまい、追い掛けられる羽目になってしまった……という事であった。
「何よそれ」
事情を聞き、憤慨する靄超。
「漁村で漁が出来ないってどういうことよ」
「よく分かんねえけど、知縣がどうこうって父ちゃん言ってただ」
子供には難しい話は分からないが、
「政治的な話か何かってことか。大人に聞いた方がはえーかもな」
という結論に落ち着いた。
「そうね。お父さんって家にいるの? ちょうどもう夕方だし、家まで送ってくわ」
二人を家まで送って行くがてら、話を聞きに行く事になった。
亭林・逸雲兄妹の家は、楊澄湖から土手を挟んで一〇〇歩(一歩は約一六〇センチなので、一〇〇歩は約一六〇メートル)ほどの距離にあった。
家の前に小さな畑があり、鶏小屋に数羽の鶏が飼われている。庭先に漁で使う網が干してあり、軒先には魚の干物と干したトウモロコシがぶら下げられていた(トウモロコシは元来仲華大陸には存在しなかったが、眀の時代に伝来済みである)。
兄妹の父、白水は三十歳ほど。漁師を生業としているだけあり、上背はそこまででもないが、筋肉質で日焼けした浅黒い肌の持ち主だった。もちろん辮髪(後頭部を残して髪を剃り、残った髪を長く伸ばして三つ編みにして後ろに垂らす、元来は鏋洲族の髪型)を結っている。
朱白水:楊澄邨の漁師
「おめえたち、何て事さするだ……!」
金山たちから事の経緯を聞き、平手を振り上げる白水。だがしかし――。
ガシッ!
白水の手首を握る金山。
「……!」
「待てよ、おじさん。怒らないでやってくれよ。家計を助けたくて仕方無くやったことなんだ」
振り上げた拳を止められて驚きながらも、白水は言う。
「子供たちさ助けてくれた事には感謝しとる。だけどもそういう訳にはいかねえべさ。取り返しのつかねえ事にもなってたかも知れねえべよ」
「私からもお願いするわ」
靄超からも取り成され、
「分かっただ」
流石に手を下ろす白水。
「ごめんよ、おっとう」
しゅんとなる亭林。
「済んじまった事はすかたねえ。今後はぜっていにやっちゃなんねえど」
「うん。分かっただ」
何とか丸く収まったが、しかし本題はもっと重大な話である。
「それで、さっき二人から聞いたんだけど、何で大閘蟹漁が禁止になっちゃったの?」
早速核心を突いた質問をする靄超。
「ああ、そんだな……。あれはそう、もう二ヶ月前の事だべ。突然湖に巨大なお化け蟹さ現れたのは」
「お化け蟹?」
白水の説明に訊き返す靄超。
「そんだ。そいつは漁で使う仕掛けの網さ切り裂いて、船まで沈めちまう様なとんでもねえ化け物だっただ。組合の人間で調査さ行っただが、当時の網元だった人が蟹さ襲われて、船さ沈められて殺されちまったんだよ」
「何だそりゃ」
「こんな漁村に、結構な武闘派妖怪がいたものね」
驚く金山と靄超。二人が焜山に来る前に関わった事件で戦った、珠家角の郊外の森に棲んでいた大ムカデの妖怪・武功蠱がそうであった様に、人里の近くにも妖怪はいない事もないが、今の様な人間が仲華大陸の大部分を支配する時代にあっては、正面から人間に害を成す妖怪は極めて稀である。一時的には優勢であったとしても、やはり金山・靄超クラスの武芸者・術者が討伐に現れたら、退治されるリスクが高過ぎるためだ。当然、強い力を持つ妖怪ほど狡猾なため、敢えてその様なリスクを冒す者はごくごく少数派である(絶無ではない)。
「そんで縣衙さ頼んで、腕利きの導士さ雇ってもらって、何とかお化け蟹さ退治すてもらったんだべ」
縣衙とは縣の衙門(役所)という意味で、我々の世界で言えば県庁に相当する。ただしこの世界の縣は府よりも下位の行政単位であるため、我々の世界で言えば市や郡ほどの行政単位となる。よって、より正確に我々の世界に当てはめるのであれば、県庁よりも市役所クラスの役所と言った方が適切であろう。
「まあ、当然そうなるわよね」
「で、一件落着って訳だ」
「でもそれじゃ、漁が禁止されてる理由が分からないけど」
「その導士さ言うには、お化け蟹さ現れたのは、大閘蟹さ乱獲すた事による、蟹の祟りだって事らしいんだべ。そんで蟹漁さ禁止する事さなっただよ」
「漁さしてえ人は縣さ大金払って、鑑札さ買わなくちゃいけなくなっちまっただ」
亭林が父の言葉を補完する。
「鑑札を買う?」
苦虫を噛み潰した様な顔で言う二人に、金山が訊き返す。
「鑑札さあれば、漁さ認められるんだべ」
「ちょっと。それじゃ禁止したことになってないじゃないの」
明らかな矛盾点を指摘する靄超。
「禁止っつーより制限じゃねーか」
金山も呆れる。
「そんだ。もちろん組合の人間同士さ話し合いで決めた規則だったら、組合で変更さする事も出来るだ。だども縣の役人さ決めた事だったら、おらたち組合は口出し出来ねえ。今までは組合さ所属さえしていれば、誰でも湖で漁さする権利があっただ。だけんどお化け蟹の騒動さ起きてからっちゅーもの、縣から鑑札さ買ったモンしか漁が出来なくなっちまっただよ」
「今の網元さ杜新四っちゅー人なんだけども、この人が漁さ一手に仕切ってるんだべ」
「で、肝心の漁獲量は減ったのかよ?」
「うんにゃ」
金山の問いに首を振る白水。
「漁の現場さ見てねえから確証はねえけどな、市場さ出回ってる量からすたら、減ってる様には思えねえ」
「だったら意味無いじゃない。蟹の祟りの話はどこ行っちゃったのよ」
今度は靄超が呆れる番だった。
「何でそんな人を後任に選んじゃったの?」
「知縣の奴だべ。前の網本さ後さんっちゅー人なんだけども、後さんには斗里君っちゅー跡取り息子さおって、本当なら斗里君が網本さ継ぐはずだったんだべ。だげど知縣の呂黃浦さ肝煎りで、杜さ任命しちまっただ」
「それじゃ丸っきりじゃねーか」
「そうね。まるで知縣とその杜っていう今の網本が同謀で、蟹漁を独占しようとしてるみたいだわ」
あまりにあからさまな利害関係の成立に、呂と杜の黒い交際を疑わずにはいられない金山と靄超。
ドンドン!
そこで突然家の戸を叩く音がする。
「お~い、朱さん。いるだか?」
続いてやはり訛った男の声が響く。
「その声は余さんか。――今開けるだよ」
戸に向かう白水。
「一体どうしたんだ、余さん。こげんな夜中に」
ガタッ。
言いながら引き戸を開ける白水。そこには中年の男が立っていた。
余荷下:楊澄邨の漁師
「夜になっちまってすまねえだ。荷造りに時間さ掛かったもんでな」
「荷造り?」
「あすたの朝、この村さ出て行こうと思ってな。最後に挨拶さ来ただよ」
「出て行く!?」
余の言葉に驚く白水。
「おらあ漁師だ。漁村で漁さ出来ねーつーんだったら、この村さいても意味ねーべさ。穌州に親戚さいるけ、そっちさ引っ越す事にすただよ」
穌州は焜山縣が属する府で、惷愁の昔より栄えた古都である。古来より「天に極楽があり、地上には穌州と炕州がある」、「生まれるなら穌州、住むなら炕州、食べるなら獷州、死ぬなら鉚州」などと称賛される風光明媚な都市だ。その中心部は焜山から西に三五里(約二〇キロ)ほどである。
「余さん、待っとくれ。もう一度考え直してくれねえか。村のみんなで協力さして、もう一度漁さ出来る様に、縣衙さ掛け合うべよ」
「無理だべ。杜の奴さ、きっと知縣と同謀なんだべ。表と裏で手を組んでちゃ、おらたちには何も出来ねえべよ。――ほいじゃ元気でな。長い事世話になっただな」
「待っとくれ、余さん!」
白水が引き止めようとするが、余はそのまま出て行ってしまう。
「……」
唇を噛み締め、黙り込む白水。
「はあ……。これで二十軒目だ。村の人さ出て行くのは」
深い、本当に深い溜め息をつく白水。
「二十軒? たったの二ヶ月で?」
「そんだ。この村さ大閘蟹の漁で栄えて村だ……。それが禁じられちまったら、他に産業なんてねえだよ……」
弱々しく言う白水。一家には悪いが、家の前にある小さな畑では農業だけでは食べて行くには足りず、飼っているわずかな鶏では養鶏だけでも食べて行くには足りないだろう。やはり漁業、それも蟹漁があって初めて生活が成り立つ村なのだ。
「だけど、うちには頼れる親類さいねえんだ。この村で生きて行くしかねえべさ……」
「仕方ねえだ……」
親子揃って溜め息をつく。
「どう思う?」
靄超が金山に訊く。
「どう思うも何も、どう考えたって何か裏のある話だろ」
「そうよね」
どう考えても不自然な話に、疑念が次から次へと湧いて来る。
「調べてみる必要ありそうね」
「おいおい。また厄介事に首突っ込む気か?」
「放ってもおけないでしょ」
「また出たよ。得意のお節介が」
「でも付き合ってくれるんでしょ、何だかんだ言っても」
また嬉しそうに言う靄超。
「まーな」
短くうなずく金山だった。
翌日。再び楊澄湖の畔にやって来た金山は、警備をしている例の二人組の所に向かった。
「「げげ!」」
「じゅ、十全十美拳師!」
「何しに来ただど!?」
金山の登場に驚く材高と胖子。
「いちいちそんなに驚くなよ」
流石にそこまで驚かれる筋合いは無いと思うのだが、
「そりゃ驚くわい! てめえに関わるとろくな事が起きねえ! 昨日だって密漁した赤老共を逃がしやがって!」
「そうだど! そのせいで雇い主から怒られたんだど!」
この二人からすれば、金山は完全に疫病神扱いだった。
「あの赤老共、どこにやった!」
「匿うとためにならないだど!」
「それ以上追及すると、テメーらのためになんねーだろ」
「「う!」」
威勢が良かった二人だが、金山が睨むなり急にトーンダウンする。相手は絶対に怒らせてはいけない危険人物なのである。
「まあ、あの二人のことは忘れろ。たまたま逃げ足が速かったんだ」
「くそ。腹立つ混蛋だぜ……」
内心ではイラつきを抑えられなかった材高だが、しかし追及してこれ以上金山を刺激したくもなかったので、話題を変える事にする。
「ンな事一々言いに来たのかよ」
「ンな訳ねーだろ。ちょっとばかし訊きたいことがあって来たんだ」
「訊きたい事?」
材高が訊き返す。
「今の網元のことだ」
「何だよ、この前みたいにまた事件に首突っ込もうって気かよ」
「そんな事したって腹の足しにならないだど……」
仲良く肩をすくませる二人。身長差があるので肩の位置は全く違ったが。
「別に損得で動く訳じゃねー。江湖の義気がオレを突き動かすだけだ……いや、ンな話はどーでも良い。それで、テメーらの目から見て、網元の杜新四ってのはどんなヤツなんだ?」
「『奴』呼ばわりしてるって事は、大体想像着いてんだろ?」
「村の連中が言う通りの人間だど思うど、多分。お前のせいで密漁者を逃がしたら、ネチネチと散々嫌味言われたど」
「だったら、焜山の呂黃浦とかゆー知縣と、網元が同謀じゃねーかって話は?」
「さあな」
かぶりを振る材高。
「そこまでは知らねえ。ただ、俺等がてめえの立場だったら、確かに怪しいと思うのは間違いねえわな」
「兄貴の言う通りだど。だけど網元と知縣が癒着してる証拠はねえど」
「政治がどうこうとか難しい事は言わねえけどよ、別に『乱獲を防ぐため』だっていう禁漁の理由だって、そう無茶苦茶不条理って訳じゃあねえだろ。獲り過ぎて蟹自体がいなくなっちまえば、元も子もねえ」
「兄貴の言う通りだど。お上がそう決めたんだど。地痞だの妖怪だのの類だったら、お前が出張って叩き潰せば済む話だど。でも、今回はおで等がどうこう出来る問題じゃねえど」
「いくらてめえが強くたって、まさか役人に盾突く訳にもいかねえだろ?」
「……」
二人にまくし立てられ金山が押し黙る。
「今んところは別に、首くくっておっ死んじまった奴が出てる訳でもねえんだ」
「そうだど。無理にお上に逆らう必要もねえだど」
残念ながらこの二人は、自分たちが報酬さえ貰えれば、他人がどうなったところで知った事ではないらしい。はっきりと、金山とは価値観の異なる人間であった。
「今のところは、な。だが今後どーなるかは分かんねーだろ。現に村を出て行ってる連中も出て来てんだ」
「だから、首突っ込むのは自由だって。だが役人相手に打架売んのか? 売んねえだろ? だったら関わるだけ無駄だって」
「そうだど。調べて行っても、結局お上に行き当たったら、結局どうにも出来ないど」
などと金山たちが議論をしていると、そこへ――。
「お前たち。何をやっているのかに? もう仕事が始まる時刻かに」
導袍に靁巾(導士の帽子)、背中に剣を背負った男がやって来た。年齢は三十歳ほどで、チョビ髭を生やしている。
「誰だ?」
材高に訊く金山。
「例のお化け蟹を退治した導士だよ。名前は確か胡隆謝だったな。網元に気に入られて、そのまま村の用心棒として雇われてるんだとよ」
「フー・ロンシエ? また妙ちくりんな名前だな」
「ほっとくが良いかに」
金山の不躾な言葉に、いささか気分を害する隆謝。
胡隆謝:導士
「つーこった。さっさと帰りな。遅番が始まる」
「分かったよ。邪魔したな」
踵を返す金山。
「何やら嗅ぎ回っていた様だが、何者かに? あの少年は?」
岸辺を歩いて行く金山の背中を見送って、隆謝が聞く。
「十全十美拳師だよ。あんたも聞いた事ぐらいはあんだろ」
「十全十美拳かに――!?」
その名には流石に驚く隆謝。大陸最強と言われる武術の流儀なので、その知名度は抜群であった。
「何でそんな奴がこんな村にいるのかに? お前達とはどういった関係かに?」
「色々あって、説明すんのがめんどくせえ」
金山以上にお金にならない事はしたくない性分なので、金山と知り合った経緯や、彼が聞き込みをしに来た理由も話さなかった。しかし隆謝の方は、金山が何かを調べていた事を確信する。
「ま、奴は弟子でまだ継承はしてねえみてえだが――それでもこないだ知り合ったばっかだが、その時、上級拳師を片付けてるからな。あいつがもしあんたより先にこの村に来てたら、お化け蟹を退治してたのもあいつだったかも知れねえぜ」
上級拳師とは仲華大陸における拳師の資格の一つであり、拳師を志し厳しい修行に明け暮れる数多の者たちであっても、この資格を得られるのは千人に一人と言われるほどの狭き門である。このレベルの拳師であれば、パワーもスピードも完全に常人を超越し、並の妖怪など敵ではない。
「……ふ~ん。そうかに。だがそれは無いかに」
「あん? そりゃどういう意味だ?」
隆謝の何やら思わせ振りな言葉に疑問を投げ掛けるが、
「気にするなかに。それより見回りをしっかりやってくれかに。密漁者が出ない様に念入りに頼むかに」
そう言うと、隆謝は二人に背を向けてその場を離れた。
「……? 何だ」
楊澄湖の畔を歩いていた金山が不意に立ち止まる。
「目……?」
赤い光が二つ、湖面に映っていた。赤いがまだ夕日になるには時間が早過ぎるし、そもそも二つあるので太陽が反射したものではない。条件が揃えば赤い月も無い訳では無いが、今は昼であったし、月も一つしかないので、月が反射したものでもない。この世界には赤信号も存在しないので、金山の言葉通り、一番近いのは目であろう。と、次の瞬間――。
バシャア!
水しぶきを上げ巨大な影が勢い良く飛び出した。
「何っ!?」
驚く金山。
ズン!
重い音を立て、影は湖畔に降り立った。巨大なカニである。
「こいつがお化け蟹かよ!」
外見は淡水に住む藻屑蟹に似ているが、目は赤く光っており、何よりその大きさが半端ではない。甲羅だけでも縦一丈五尺(約四メートル八〇センチ)、横一丈六尺(約五メートル一二センチ)はゆうにある。巨大な両方の鋏を広げれば、横幅は五丈(約一六メートル)を超えるだろう。我々の世界で最大の蟹である、タカアシガニの比ではなかった。
「おいおい。乱獲をやめたってのはぜってー嘘だな。思いっきり化けて出てやがんじゃねーか」
毒づく金山。
「やるってんなら相手になってやるぜ!」
この場で金山の前に姿を現したという事は、敵意を持っているという事とイコールであろう。
ドウッ!
先手を打って煉氣炮を放つ金山。煉氣炮は闘気を収束して放出する技である。闘気を練り上げ放出出来るだけの気のコントロールが出来れば、誰にでも使用可能な基本的な技であり、特定の流儀・門派固有の技ではない。
ドーン!
だがしかし。光の束が炸裂したが、甲羅には傷一つ無かった。
「ちっ。効いてねーか」
舌打ちする金山。蟹や亀の妖怪は防御力が高いと相場が決まっているが、ご多分に漏れず、目の前の巨大蟹もかなりの防御力を持っている様だ。
「なら本気で行くしかねーな。一撃で仕留めてやる」
半端な攻撃を小出しにするより、一撃必殺の大技で一気に倒す事を決めた金山。体内に宿る潜在エネルギーである気の一種、闘気を高めて行く。
コオオオオ!
全身の闘気を右の拳一点に集める。〝十全十美拳〟の絕招(奥義)、猛虎掏心拳の構えである。
「くらえ! 猛虎――」
ダッ!
湖岸から蟹目掛けて跳ぶ金山。だがしかし。
フッ。
「――な、にい!?」
蟹が忽然と姿を消してしまったではないか。
ザバーン!
拳の標的がいなくなった金山はそのまま、水しぶきを上げて湖に着水する。
「消えた!? くそ! どこだ?」
バシャ!
湖面から顔を出し、辺りを見渡す。蟹の姿は無い。だが楊澄湖の水深は非常に浅く、一丈(約三.二メートル)か、深くても一丈五尺(約四.八メートル)あるかというほどである。あの巨体が潜って隠れられるとは思えない。
「おい! 十全十美拳師!」
「何の音だど!」
そこに爆発音を聞いてやって来たのであろう、材高と胖子が現れた。
「蟹だよ。噂のお化け蟹が現れやがった」
湖畔に立つ二人に答える金山。
「蟹だあ? そんなのどこにもいねえじゃんかよ」
「突然襲い掛かって来やがったから、応戦しよーとしたが、すぐに消えやがった――」
言い掛けて、金山が止まる。二人の後ろに巨大蟹が現れたのだ。
「おい! 後ろだ!」
「はあ?」
「何だど?」
後ろを振り向く二人。
「「げ!」」
同時にその存在を確認し、同時に驚く材高と胖子。だがもう遅かった。
ブン! ドカッ!
「ぎゃー!」
ブン! ドカッ!
「どひー!」
キラン!
右の鋏の一撃を受けて材高が、左の鋏の一撃を受けて胖子が、仲良く吹き飛ばされてお星様になった。
「せっかく助けてやろうと思ったのに、助ける間も無くやられたな……」
どうも金山と出会ってから不幸な目にしか遭ってない二人であった。
「だがこいつ、いつの間に後ろに回り込んだんだ……?」
二人の安否は全く気にせず、お化け蟹の行動を怪訝に思う金山だったが、
ザバア!
「何っ!?」
突如として津波が起こる。
ゴオオオオ!
湖岸付近から湖の中央の方へ押し流される金山。
「ぐうう!?」
ギュオオオオッ!
さらに渦潮が起こる。
「こいつ! 水の中に引きずり込む気かよ!」
口を大きく開けてめいっぱい息を吸い込む金山。
『いつの間に……』
湖の底に、すでに巨大蟹が移動していた。
ブン!
『うお!』
鋏を繰り出す巨大蟹。
ガシッ!
かわし切れず腕でガードする金山。
『くそ……。水の抵抗が……』
腕が痺れるほどの衝撃が金山の腕に走った。水の抵抗、そして浮力の影響で思う様に動けなかった。このまま水中で戦うのはかなり不利だが……。
『……!?』
何とか隙を突いて陸に戻るか、思案する金山だったが、しかし巨大蟹はなぜか動きを止めた。
『何だ? なぜ襲って来ない?』
訝しる金山。優位に戦いを進めているので、わざと動きを止めて金山を油断させるつもりとは思えない。今現在の戦況では、そんな事をする必要が無いからだ。と――。
『何っ!?』
フッ。
忽然と巨大蟹が姿を消してしまったではないか。
『……』
十秒ほど、周囲を警戒していた金山だったが、巨大蟹は姿を見せない。
「ふー!」
ザバー!
湖面に顔を出し一息付く金山。
「金山!」
そこに声が掛かる。声の主は湖畔に立つ靄超であった。すぐ近くに亭林と逸雲の姿もあった。
「何してるのよ、湖の中で!」
なぜか湖で泳いでいる(靄超にはそう見えた)金山の姿に、疑問を投げ掛ける靄超。
「は!」
バシャッ!
水の中から勢い良く飛び跳ね、一気に湖岸に降り立つ金山。
「お化け蟹に襲撃されたんだよ」
「「!?」」
金山はさらっと言ったが、亭林と逸雲もその言葉に驚く。
「また出たのけ!?」
「なんでだ!?」
子供らしく疑問に思った事は素直に口にする。
「それはオレにも分からねーが、少なくとも祟りとやらじゃねーことは確かだ」
「何でそげなことまで分かるんだ?」
「恨みつらみで祟って出て来た妖怪や怨霊ってのは普通、憎しみが先走ってもっと感情的に攻めて来るはずだ。だがさっきのヤツは祟って出て来たにしちゃあ、戦い方がこなれ過ぎてた。まるで誰かが操ってるみたいに、な」
「操ってた? それって――」
靄超には金山の言わんとする事に察しが付いた。
「ああ。十中八、九、幻獸の類だな、ありゃ。オレもそんなに幻獸に詳しい訳じゃねーから、何て種類のヤツかは知らねーが」
「幻獸……」
幻獸とは耍獸師と呼ばれる幻獸使いによって一時的に傳喚(いわゆる召喚の意)される禽獣(虫や爬虫類、両生類、魚類なども含む)の総称である。傳喚していない時は「封獸符」と呼ばれる特殊な符籙の中に封印されている。耍獸師の霊力によって具現化されるため、傳喚中は常に霊力を消耗し、霊力を使い果たすと具現化を維持出来なくなる。また耍獸師の集中力が鈍った場合も同様だ。幻獸は一定のダメージを受けると具現化を維持出来なくなるが、封獸符が無事であれば何度でも(耍獸師の霊力が続く限り)再度の傳喚が可能である。逆に言えば、封獸符が欠損した場合は傳喚出来なくなるが。
「こっちは特に手掛かりは無かったけど、これで何か裏があることははっきりしたわね」
「だな」
その翌日。楊澄湖の畔から一里(約五七六メートル)ほどの距離にある唯停鎭にやって来た金山と靄超。水産市場に大閘蟹が出回っているのかどうかを調べにやって来たのだ。
「これで一匹一〇〇文だって? 高過ぎだろ?」
生簀として使われているたらいに入れられた大閘蟹を取り出し、思った感想を述べる金山。大閘蟹の良し悪しは下から二本目の足を触った際、そこに身が詰まっているかどうかで判別可能である。だが金山が触ってみたところ、身が詰まっていないスカスカの状態であった。そして他の蟹も甲羅が小さく色も良くなかった。
「最近は大きくて質の良い蟹は、穌州や楊州、紅甯府の御大尽向けに優先的に出荷されるんだ。うちみたいな地元の菜館にはこういった、言葉は悪いけど廢物蟹しか回って来ないんだよ」
店員の男が無念そうに言う。楊州・紅甯府ともに江楠省の都市の名で、楊州は張江の北岸に位置する都市で、塩の集積地として栄え、多くの文人を輩出した歴史を持つ。一方の紅甯府は江楠省の省都で、眀代には楠京應天府と呼ばれ、眀の副都が置かれた仲國南部の中心都市である。
「でも漁獲量自体は、減ってはいないんでしょ?」
「ああ。単に知縣の方針だ。その方が高値で捌けるって事らしい。だけどうちとしちゃ、地元のお客さんを大事にしたいからね。正直、質の悪い蟹しか回してくれないんじゃ困るんだよ。まして値段は同じかそれ以上だからね……」
靄超の質問にうなずく店員。そこへ――。
「あんちゃんたち!」
逸雲が息を切らして駆けて来る。
「逸雲ちゃんじゃないの。どうしたの? そんなに慌てて」
楊澄湖の畔にある朱家からはそう遠くはないとはいえ、満年齢にして五~六歳の女の子が一人で走って来るには、まあまあの距離がある場所だ。
「おっとうやむらのひとたちが、ちけんさもんくいいにいくってけんがに!」
「はあ?」
「どういうこと?」
逸雲から説明を受ける二人。
「まずいな。反乱扱いされたら逮捕、いや、首謀者は処刑される可能性だってあんぞ」
「止めなくちゃ!」
二人が蟹の調査をしている間に、思った以上に事が大きくなっていた。
「逸雲ちゃん、縣衙の場所って分かる?」
「鈺山鎭だ!」
逸雲が答えるより早く金山が答えると、そのまま駆け出した。
それから遡る事約一時間。楊澄湖の畔で漁師たちが集まり、会合を開いていた。
「もう我慢出来ねーだ! みんなで縣衙さ直談判に行くべ!」
若い漁師の青年が檄を飛ばす。二十歳ほどと漁師たちの中でも若かったが、この会合の主導的な立場にいた。彼が前網元の息子である後斗里である。
後斗里:前網元の息子
「そんだそんだ!」
「漁さ出来なくなったら、おらたちは生きていかんねーべさ!」
「知縣さ出て来ねえっつーんなら、実力行使だべ!」
斗里の言葉にいきり立つ漁師たち。
「武器になりそうな物さ持って、縣衙さ乗り込むだ!」
「そうすっぺ!」
「待っとくれ! みんな!」
会合に参加していた白水が他の漁師たちに向かって話し掛ける。
「何だべ、朱さん?」
漁師たちを代表して斗里が白水に尋ねる。
「武器さ持って縣衙に乗り込んで行ったら、立派な暴動だべ。縣衙への反乱になってしまうだ」
「そったら事、とっくに分かってるだ。だどもおらたちには、他に方法がねえべさ」
「そんだそんだ!」
「知縣がおらたちの話を、まともに聞いてくれた試しがねえべさ!」
「もう我慢の限界だべ!」
しかしいきり立った漁師たちは、白水の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
「斗里君、おめえ様の気持ちはいてえほど分かるだ。悔しいのはおらもおんなじだ。だどもこっちから動いたら、立場さ不利になるだけだべ」
それでも何とか説得しようとする白水だったが、
「朱さん。ちっちぇえ子供さいる、あんたにまで無理に加わってくれとは言わねえだ。だどもおらたちは行くど。このままだったらどの道生きちゃおれねえべさ」
しかし、斗里の決心を突き崩す事は叶わなかった。
「そんだ!」
「せめて戦うだけ戦ってみねえと!」
「おらたちの意地を見せてやるだ!」
他の漁師たちも一様だった。何か武器になる物を取りに、散り散りに自分の家に向かって行く。
「くっ……!」
仲間たちを止める術が無く、無力感に打ちひしがれる白水。
「おっとう……!」
そこで、物陰から会合の様子を窺っていた亭林が白水に話し掛ける。そばに逸雲もいる。
「亭林! 逸雲も!」
「みんなで縣衙さ行くだか?」
「……そんだ」
自分に言い聞かせるかの様に、うなずく白水。彼もまた意を決した様だ。
「おっとうもか?」
「……。村のみんなさ行くのに、おら一人だけ残る訳にはいかねえべ」
「そったらことやめてくんろー!」
懇願する亭林。母親のいない幼い二人にとっては、父親の白水にもしもの事があれば生きてはいけない。頼りになる様な親戚縁者もいないのだ。
「仕方ねえんだ。村のみんなさ、見捨てる事は出来ねえ」
「おっとう! そんだったらおらも一緒に行くべ!」
「あんちゃん!?」
兄の申し出に驚く逸雲。
「おめえは駄目だ。家さ残るんだ」
しかし白水が許可をする訳は無かった。
「何でだ!? おらも一緒さ戦うべ!」
「おめえは家さいて、逸雲さ守るんだ。もしおらに何かあったら、逸雲の事さ頼んだぞ!」
服を掴んで引き止めようとする亭林を振り払い、白水も武器になる物を取りに家に向かって駆け出す。
「待っとくれ、おっとう!」
その背中に声を掛ける亭林だったが、白水は立ち止まらなかった。
「まじい! このままじゃおっとうたち、役人さ捕まっちまうかも知んねえ……! 逸雲、唯停鎭の市場さ、あのあんちゃんたちがいるはずだ。呼んで来てけれ!」
「う、うん! わかっただ!」
鈺山鎭。焜山縣の縣衙がある縣の中心的な町である。
その縣衙の応接室で文官の礼服を来た中年の男が椅子に座りふんぞり返っていた。烏紗帽の頂戴(帽子の頂点部分に付ける宝石)は素金で、補服の補子(刺繍画)は鸂鶒(水鳥の一種)。七品官の文官である(朝珠は五品官以上でなければ身に着けられない)。彼が焜山縣の知縣、呂黃浦である。
呂黃浦:焜山縣知縣
もう一人の男が盆を机の上に置く。こちらも中年の男で、縣衙に出入りをしているものの平服であったが、身形は良く、絹製の長衣に玉の指輪を身に着けていた。
杜新四:焜山漁業合作社(漁業組合)の網元
盆の上に風呂敷があり、その上に銀錠(銀のインゴット。馬蹄銀)が乗せられている。
「呂大爺。今月の上納金、銀一〇〇兩でさあ。どうぞお納め下せえ」
大爺とは知縣に対する敬称である。
「うむ」
差し出された盆から風呂敷で銀錠を包みながら受け取る呂。
「中々儲かっている様だな、杜よ」
「へい。それもこれも全ては呂大爺のお力添えのお蔭でさあ」
「当然だ。儂が焜山の大閘蟹漁を鑑札制にしたのだからな。それゆえお前は半ば独占的に大閘蟹の流通を握れるのだ」
「仰る通りでさあ。楊澄湖の蟹漁は金の成る木ですからねえ」
ニヤニヤと笑う杜。
「大爺!」
バタン!
そこに下級役人が扉を乱暴に開けて入って来る。
「何だ騒々しい! 来客中だぞ!」
下級役人に向かって叫ぶ呂。
「は、申し訳ありません。しかし楊澄邨の漁師どもが、大爺に会わせろと大挙して押し掛けて参りまして……」
「またか」
うんざりしたという表情を見せる呂。漁師たちの抗議行動は一度や二度ではなかった。だが今回ばかりは毛色が違っていた。
「いえ。それが今回は武器を持っている者もおりまして……。会わせないのなら力ずくでもと言って、門の前で座り込みを始めました……」
「ふん、愚民どもが……」
忌々しげに吐き棄てる呂。
「はてさて。困りましたなあ……」
杜がどこか芝居がかった苦笑いをする。
「鎮圧しろ。逆らう者には容赦するな」
「は? よろしいのですか?」
訊き返す下級役人。
「構わん。支配者が民草に一々気を遣えるか」
高圧的に言い放つ呂。
「は!」
かしこまって扉を閉める下級役人。
「……」
杜は黙っていたが、呂が彼の希望通りの裁定を下した事に内心でほくそ笑むのだった。
縣衙の正門前広場。後斗里を中心に、座り込みをする漁師たち。直談判に行くと声を掛けられ、集まった漁師とその関係者は百人に及んだ。それぞれが銛や金槌、鋤や鍬など家にあった物で武装し、中には護身用に購入しておいたのか、刀や剣を持つ者もいる。
「はよう知縣さ出すだ!」
「おらたちと話ささせるだよ!」
殺気立ち声を荒げて要求する漁師たち。
ギイ……。
と、重い音を立てて突如門が開く。
「開いただ!」
ガバッ!
一斉に立ち上がる漁師たち。
「!?」
ザザザッ!
しかし同時に中から六尺(約一九二センチ)はある棍を持ち、布靣甲(防御力よりも機動性と防寒を重視した、布に鋲を組み合わせた軽装鎧)を装着した兵士が二十名ほど出て来たではないか。溱朝にはまだ近代的な独立した警察機構が存在しないため、軍隊が警察業務を兼ねるのだ。
「貴様等を縣衙に対する反乱の容疑で逮捕する!」
話し合うつもりなど毛頭無く、高圧的に言い放つ隊長格の兵士。
「何が逮捕だっぺよ!」
「冗談じゃねーべさ!」
「おらたちは話し合いさ来たっぺよ!」
「知縣さ会わせるだよ!」
「こっただ事さされた日にゃ、おらたち漁師はおまんまの食い上げだべよ!」
隊長のあまりに一方的な宣告に、一斉に抗議する漁師たち。殺気立っているのでまさに一触即発の状況であった。
「黙れ! 大爺のご命令だ。一人残らず逮捕しろ! 抵抗する者には容赦するな!」
「「はっ!」」
ダッ!
隊長の命令で漁師たちに向かって突撃する兵士たち。
「大人しくしろ!」
「誰がするべ!」
一触即発を通り越し、即座に大乱闘が始まってしまう。
「……!」
その隙を突いて、開いた門から縣衙内に入って行く小さな影があった。
小一時間の小競り合いの末、最初は縣衙の兵士を相手に(数の上で優位に立っていたので)善戦していた漁師たちだったが、騒ぎを聞き付けて出動して来た周辺の鎭の増援が三十名加わった事により劣勢に立たされ、あえなく鎮圧されてしまった。
「片付いたのか?」
「は。少々てこずりましたが……」
呂の問い掛けに、報告に来た下級役人がかしこまりながら答える。
「私が出向けば早かったのだがに」
椅子に腰掛け、手にしたハサミで前髪の枝毛を切り揃えながら胡隆謝が口を挟む(導士は辮髪を免除される)。
「そういう訳にも行くまい」
下級役人に目配せし、
「分かった。下がれ」
退室を促す呂。
「はは」
一礼して部屋を出て行く下級役人。
「これで彼奴等も思い知るだろう。これは縣衙に対する立派な反乱だ。首謀者は見せしめの為に、散々にいたぶり尽くしてから処刑してくれるわ」
「その方が後々、事がやり易くなりますからねえ……」
杜が呂の意見に追従する。網元の立場にいる人間とは思えない発言だが、彼にとっては大閘蟹さえ獲ってくればどの漁師であっても関係無いし、漁師の代わりはいくらでもいるという事なのだろう。
「分かっておる。その為にわざわざ隆謝を使って前の網元を消し、お前を新しい網元に据えたんだ。その恩に報いる為にも、これからも儂の為にせいぜい稼げよ」
「へえ。心得てまさあ」
かしこまる杜。だがその時。
「……誰かに?」
チャキ。
隆謝が背中の刀を抜き、そっと壁に近づいて行く。
「どうした? 隆謝」
ドス!
だが隆謝は呂の問いに答えず、不意に壁に刀を突き立てたではないか。
〈うわ!〉
壁の向こうで子供の声がする。
サッと扉を開けて廊下に出る隆謝。そこには左肩を右手で押さえ、苦悶の表情を浮かべる亭林の姿があった。彼は門の前で役人たちと漁師たちが小競り合いを始めた際に、開いた門から縣衙内に潜り込んでいたのだ。
「盗み聞きとは趣味が悪いかに」
「てめえは亭林!」
隆謝に続いて廊下に出た杜が、亭林を見て言う。
「何者だ?」
「いえ、楊澄邨の朱っていう漁師の小倅でさあ」
呂の問いに杜が答える。
「そうか。村の人間か。今の話を聞いてしまったな?」
「くっそお!」
ダッ!
肩を押さえながら走り去る亭林。
縣衙に駆け付ける金山と靄超、そして逸雲。だが三人が門前の広場に到着した時にはもう、白水や斗里たちが捕らえられた後だった。
「おっさん!」
「おじさん!」
「おっとう!」
手枷を嵌められ、他の漁師たちと縄で繋がれた白水を見付け、話し掛ける金山たち。
「逸雲……。金山君……。靄超さん……」
苦痛に顔を歪める白水。棍で殴られたのだろう、顔は痣だらけで、割れた額から血も滴り落ちていた。
「何だ貴様等は! この男は県政府に対する反逆の現行犯で縛に付いたのだ。話をする事は罷りならん!」
だが兵士が遮ろうとする。
「すまねえ……。おらあ何も出来なかった……」
悔しそうに唇を噛む白水。
「亭林はどーした? 一緒じゃねーのかよ」
亭林の姿が無い事を訝しる金山。
「いや、家で待っているはずだべ……」
「立ち止まるな! さっさと歩け!」
「う……」
兵士に小突かれ歩を進めさせられる白水。
「一緒じゃないの? じゃあどこに……」
「あんちゃんたち、あそこ!」
「ん?」
逸雲が縣衙の方を指差す。開いた門の内側には、肩を押さえて走って来る亭林の姿があった。
「はあはあ!」
「待て!」
その後ろには数名の役人も走っているのが見える。間違い無く、逃げる亭林を、役人が追い掛けている構図であった。
「あんちゃんが!」
「何で追われてんだよ」
「そんなことより助けないと」
「分かってるっての」
バッ!
跳ぶ金山。
「はあ!」
ドガッ!
「ぐわっ!」
跳び蹴りで先頭を走っていた役人を一人蹴り倒す金山。
「はあはあはあ……」
「亭林君! 大丈夫!?」
「あんちゃん……!」
無事に靄超たちと合流する亭林。
「「!」」
ザザッ!
その間に金山が立ちはだかったため、役人たちは立ち止まる。
「どーしたんだ、その怪我」
役人たちを一応牽制しつつ(襲い掛かって来たところで返り討ちだが)、亭林に尋ねる金山。
「知縣と杜の話さ盗み聞きしとったら、あの導士さ見つかっちまって……」
「一人で乗り込んだのかよ。無茶しやがって」
呆れ半分の金山。もう半分は彼の勇気や行動力に対する賞賛だ。
「やっぱり知縣と杜さ同謀だっただ……。知縣さ雇ったあの胡って導士、あいつが蟹の化け物さ呼び出して、村の人たちさ襲わせてたんだべ……。それに前の網元さ事故で死んだのも、杜のやつさ新しい網元さするために、知縣と導士さ仕組んだことだっただ……」
「親父は殺されただか!?」
「そったらこと……!」
「何ちゅーことさするべ……!」
亭林の説明を聞き、縣衙の牢に連行されそうになっていた斗里や漁師たちが騒然となる。
「貴様等! 騒ぐな!」
「大人しくしろ!」
兵士たちが押さえ込もうとする。
「うるさいだ!」
「やっぱ知縣と杜さ、同謀だったんじゃねえべか!」
しかし漁師たちは収まらない。それどころか増々いきり立った。
「絶対に許せねえべ!」
特に父親の死の真相を知らされた斗里の憤りは凄まじい。
「蟹の化け物を呼び出すってことは、幻獸使いで間違いねーな」
靄超に確認する金山。コクリとうなずく靄超。
「靄超、亭林の怪我を診てやれ」
「分かったわ」
「あんちゃん、すっかりすてくんろ……」
靄超に抱えられて衙門の外に出る亭林と、心配そうに寄り添う逸雲。
「何だ、この騒ぎは!」
そこに呂と杜、そして胡隆謝がやって来る。
「呂大爺!」
斗里が呂に向かって叫ぶ。
「こいつが噂の知縣と網元か」
いかにもという悪人顔の二人を確認し、うべなるかなという感じで言う金山。斗里や漁師たちに確認したと言うよりは、独り言に近かったが。
「どういう事だ! あの小鬼はどうした!?」
「呂大爺! やっぱりおめえが、おらの親父さ殺した犯人だったんだな!」
しかし呂の問いに答えず、斗里が問い質す。
「何だお前は?」
「前の網本だった、後の小倅の斗里でさあ」
呂に問われ簡潔に答える杜。
「ああ、本来なら自分が次の網本を継ぐはずだと、以前上申して来た奴か。親子揃って目障りな連中よ」
「何だって!?」
呂の態度に激昂する斗里。この様な人間であれば、斗里の顔を完全に忘れている訳である。
「くそう! 親父の仇だべ! ぶっ殺してやるだ――」
「下がってろよ」
縄に縛られたままだが、呂に掴み掛からんばかりの勢いの斗里を、手で制する金山。
「おめえ様は……?」
白水以外は金山とは面識が無いので、斗里が訊いて来る。
「こいつらはオレが相手してやるぜ」
それには答えない金山だったが、斗里も味方である事は間違いない様なので、それ以上は訊かなかった。
「何だ、この生意気な小鬼は?」
「昨日話した旅の拳師らしいがに」
杜に代わって隆謝が説明する。昨日、湖畔から縣衙に戻った後、念のために色々と嗅ぎ回っていた金山の存在を報告しておいたのだ。
「ふん……。まあ良いわ」
自分で訊いておきながら、興味無さそうに切って捨てる呂。
「始末しろ! 一人残らず皆殺しだ!」
そして冷酷な命令を下す。
「「はは!」」
チャキ! スチャ!
兵士たちが棍を投げ捨て、腰に差した刀を引き抜く。
「け。口封じって訳か。いかにもわりー連中のやりそーなことだぜ」
「ほざけ!」
ブン!
一番近くにいた兵士甲が金山に斬り掛かるが、
ドゴッ!
斬撃が届くよりも先に、金山の肘鉄が顎を打ち据える。
「ぐはっ!」
軽く数メートルは吹き飛ばされる兵士甲。もちろんその一撃でダウンである。
「おのれ!」
金山目掛けて殺到する兵士たち。だが。
ドカッ! バキッ! メキッ!
「ぎゃあ!」
「ぐわっ!」
「がはっ!」
五十人はいた兵士たちを、あっという間にKOしてしまう金山。やはり常人の兵士では、何人束になったところで、金山には太刀打ち出来なかった。
「すごいだ……」
「何て強さだべ……」
金山のあまりの戦闘力に驚き目を丸くする漁師たち。
「さっさと逃げろ」
金山が白水に言う。
「だども……」
「斗里君、ここは彼に任せるだよ」
逡巡する斗里を白水が促す。
「手枷はどうすんべさ?」
漁師の一人が自分の手枷を見せる。
「外に仲間がいる。そいつに外してもらえ」
「そういう事だったら分かっただ」
「恩に着るだ!」
ダッ!
走って行く漁師たち。
「逃がさんかに!」
隆謝が動くが、
「おっと。テメーの相手はこのオレだ」
しかしその前に金山が立ちはだかる。
「昨日、お化け蟹を操ってオレを襲ったのはテメーだな。よくも不意打ちしてくれたな」
「ふん。我々の事を嗅ぎ回っていたからかに。出る杭は早めに打っておかねばならんかに。ただ、もう一歩のところであの毛丫頭達が来たから逃しちまったがにー」
「それで引いたのか」
なぜ優位に戦いを進めていたのにも関わらず、突然巨大蟹が引いたのかを疑問に思っていた金山だったが、その説明で納得が行った。金山に巨大蟹をぶつけている間は、隆謝は全くの無防備状態なのだ。そこを靄超に攻撃を受ければひとたまりもない。それゆえ、正体が露見する事を恐れて撤退したのだろう(靄超がその気になれば、幻獸に霊力を送っている人物を特定する事は難しくない)。
「今日は違うかに。この場で確実に殺してしまうおうかに」
「言ってくれんじゃねーかよ。水の中じゃなきゃ負けやしねー」
「それはどうかに?」
導袍の中から符籙を取り出す隆謝。
「幻獸傳喚、鐵甲螃蟹!」
カッ!
隆謝がかざした符籙――幻獸を封じた封獸符――が光り輝き、次の瞬間、巨大な蟹が姿を現した。間違い無く、昨日金山を襲撃したあのお化け蟹である。
「さあ、掛かって来るかに」
金山の言う通り陸地では昨日の様に有利には戦えないはずだが、余裕の笑みを浮かべる隆謝。
「そいつの甲羅の強度は分かってる。最初から本気で行かせてもらうぜ!」
ボオオオオ!
いきなり闘気全開の金山。
「はああ……!」
右の拳に全身の闘気を集中させる。〝十全十美拳〟の絕招(奥義)にして、金山の必殺拳である猛虎掏心拳で一気にケリを着けるつもりだ。
「愚か者かに!」
「!?」
ジュワジュワ……!
眉を顰める金山。鐵甲螃蟹の口から白い何かが出て来る。
「泡か……?」
金山の指摘通り、その白い物質は泡であった。口から溢れ出した大量の泡が、鐵甲螃蟹の全身を包み込んで行くではないか。
「何の真似だ――?」
間合いを保ったまま様子を窺う金山。
ジュッ!
泡が石畳の床に落ちた。するとそこに煙が立ち昇り、床に敷き詰められた石板が溶けてしまったではないか。
「酸か――!」
「鐵甲螃蟹の能力は津波や渦潮だけじゃないかに。濃酸の泡を体内で作り出し、吐き出す事も可能なのかに」
「ち……」
舌打ちする金山。
『煉氣彈や煉氣炮だったら泡に触れずに蟹自体を攻撃可能だが、それじゃ甲羅に弾かれて損傷は与えられねー。猛虎掏心拳だったら甲羅は砕けるだろーが、近付いたらこっちも泡に触れて溶かされちまう……』
内心で状況を整理する金山。煉氣彈は煉氣炮と同様、闘気を圧縮して光球として放つ技である。こちらも特定の流儀・門派の固有技ではなく、金山に限らずある程度の力量の拳師ならば使用可能だ。
「どうしたかに? かかって来ないのかに?」
「ぬかせ。そっちだって泡に隠れたままの状態じゃ、攻撃出来ねーだろ。幻獸を傳喚してる間は、テメーはどんどん霊力を消耗して行くはずだ。幻獸が消えればオレの勝ちだ」
生物としての個体の靈獸や妖怪などを傳喚した場合、傳喚という行為その物には霊力を消耗するものの、一度傳喚を終えてしまえば後は戦わせておけば良い。だが幻獸の場合、傳喚した状態を維持するためには、絶えず霊力を使い続けなければならないのだ。当然、霊力が尽きれば幻獸は消えてしまう。
「私が攻撃出来ない? 何の事かに?」
余裕の笑みを浮かべる隆謝。
ブルブル……!
白い塊が左右に小刻みに震え出す。中の鐵甲螃蟹自身が震えているのだろう。
「な――」
パーン!
次の瞬間、泡が辺り一面に弾け飛んだ。
「ンだとお!?」
サッ!
不意を突かれて驚きつつも、反応良くかわす金山。
「ぎゃあああ!」
「うああああ!」
だが、全く別な叫び声が縣衙の敷地内に響き渡った。先程金山に倒され、激痛に身動きが取れなくなっていた兵士や、気絶していた兵士たちが悲鳴を上げたのだ。地面に倒れていたところに、飛び散った泡が降り注いだ事による、いわばとばっちりである。
「おい! 仲間がいんだろーが!」
兵士たちは彼にとっては敵であるが、抗議する金山。
「仲間? ああ、倒れている連中の事かに。気にするなかに。そんな所で寝ている方が悪いかに」
「ンだと?」
この隆謝もまた、倫理観の欠如した側の人間であった。斗里の父を亡き者にした張本人なのだから無理もないが。
「他人の事よりも自分の心配をしたらどうかに? どうやってこの鐵甲螃蟹を倒せるかどうかを一生懸命考えるのだかに」
ジュワジュワジュワ。
再び鐵甲螃蟹が酸の泡に包まれる。
「それなら答えは出てる!」
「闘気を放出する技かに? それじゃ鐵甲螃蟹の甲羅はびくともしないがに」
「確かにそうだ。だが爆発で損傷は受けなくても、爆風で泡の鎧は吹き飛ばせるだろ。そこを狙えば! 煉氣炮!」
左手で闘気の塊を放出する金山。
ドーン!
光条が炸裂し、金山の狙い通り爆風で泡が吹き散らされ、鐵甲螃蟹の本体が露わになる。
「今だ! 猛虎――」
走りながら闘気を集中させた拳を鐵甲螃蟹に叩き込もうとする金山。
「甘いかに」
「!」
ブン!
鐵甲螃蟹が鋏を振り下ろす。
ドガッ!
地面に叩き付けられ、勢いそのままに周囲に飛び散った酸の泡に飛び込む金山。
「ぐああああ!」
酸に焼かれ苦悶の声を上げる。
「痛っ……。くそ、オレの一張羅が……」
ボロボロに腐食した道着を見て恨めしそうにつぶやく金山。靄超と出会ってから二週間ほどの短期間に、三着の道着が駄目になっている。
「蟹には鋏という立派な武器があるのだかに。どうしたかに? 水中でなければ勝てるのではなかったのかに?」
「くそ……!」
痛みを堪えて立ち上がる金山。ここまでの勝負は隆謝と鐵甲螃蟹の完勝である。昨日は湖で相手に地の利があったが、まさか地上で蟹の幻獸相手に一方的に押されるとは、全くの予想外であった。
「ほう。まだやる気かに?」
「たりめーだ」
しかし、だからと言って屈する金山ではなかったが。
「ちっ。靄超はまだ来ねーか」
靄超の灋術や符籙による援護があれば、有利に戦いを進められるのだが、まだ漁師たちの解放や怪我の治療を行なっているのだろう。姿は見えない。
「しゃーねー。やるっきゃねーか」
ビリッ。
穴だらけになった道着の上着を破り捨てる金山。
「勝ちに行くことにするぜ」
「何を言ってるのかに? お前に鐵甲螃蟹は倒せんかに」
「だから勝ちに行くっつっただろ。修行の一環だったら、ただ勝つための戦いはしねーが、テメーは生かしておくと世の中のためになんねー。――拳師のオレに無くて、幻獸使いのテメーにはある弱点を教えてやろうか?」
「何?」
「はあああああ!」
再び闘気を高める金山。
「その技かに?」
金山が猛虎掏心拳を使うつもりと思い、
ジュワ……!
三度、鐵甲螃蟹の体を泡で覆い尽くす鐵甲螃蟹。だが――。
「猛虎咆哮破!」
ドウッ!
金山の両腕から闘気の光が放出される。金山が使ったのは猛虎掏心拳ではなかった。猛虎咆哮破――。基本的には煉氣炮と同系統の、闘気を放出する技である。だが全身の闘気を両腕に収束させ、必殺の破壊力を生み出すため、その破壊力は煉氣炮の数十倍にも達する。単体への攻撃力で猛虎掏心拳に劣るが、遠距離を攻撃可能な事と、対象に着弾後大爆発を引き起こすため、広範囲を攻撃する事が可能なのがメリットである。
「ふ」
煉氣炮よりも遥かに太い光の束が泡に包まれた鐵甲螃蟹に迫るが、隆謝は余裕の姿勢を崩さなかった。闘気の奔流は泡を吹き飛ばし、そのまま鐵甲螃蟹に炸裂する。
ドーン!
大爆発が鐵甲螃蟹の体を飲み込んだ。
ゴウッ!
爆風により衝撃波が発生し、縣衙の建物を揺らす。やはり煉氣炮とは桁違いの破壊力であった。しかし――。
「惜しかったかに。中々の威力だったが、鐵甲螃蟹の外殻を破壊するのには、わずかに足りなかった様かに」
隆謝の言葉通り、煙が晴れて姿を現した鐵甲螃蟹の外殻は、またしても無傷であった。猛虎咆哮破の爆発力を持ってしても、その外殻の防御力を破るには、今一歩及ばなかったのだ。
猛虎咆哮破でも倒せなかった以上、これで金山が鐵甲螃蟹に勝つには、直接猛虎掏心拳を叩き込む事か、あるいは隆謝の霊力が切れるのを待つのみであるが――。だが強酸の泡に守られ、強力な鋏による攻撃法も持つ鐵甲螃蟹に、猛虎掏心拳を当てるのは至難であるし、そもそも隆謝の霊気がいつ切れるのかも分からない。正直、分が良いとは言えない戦況であるが……。
「!?」
しかし。鐵甲螃蟹の無事を確認するために視線を移した間に、金山の姿が消えているではないか。
「奴はどこかに? どこに行ったかに?」
周囲を見渡し金山を捜す隆謝。だが――。
「ここだよ」
隆謝のすぐ後ろで声がする。金山は隆謝の後ろに回り込んでいた。猛虎咆哮破を放った直後、既に移動を開始していたのだ。
「何!?」
ガシッ!
振り向く間も与えず、金山が隆謝の首に腕を絡ませた。プロレス技でいうチョークスリーパーホールドの体勢である。だがしかし、金山の狙いは呼吸気管を締め上げての窒息ではない。隆謝の首の骨をへし折る事つもりだ。
「き、貴様……!」
封獸符を持ったまま、必死の形相で金山の腕を外そうとする隆謝だったが、びくともしなかった。筋力では最初から勝負にならないのだ。
「さっきの答えを教えてやろうか? 幻獸使いは幻獸に守られなきゃよえーってことだ」
「き、汚いかに……!」
「だから勝ちに行くっつっただろーが。何回も同じこと言わすなよ」
グッ……!
腕に力を込める金山。
「ティ、鐵甲螃蟹――」
鐵甲螃蟹を呼び戻し、金山を攻撃させようとする隆謝。だがそれを待ってやるほど、金山はお人好しではなかった。
「はあ!」
気合とともに絡ませた両腕の力を一気に強める。
ゴキッ!
「がはあ!」
いともたやすく、隆謝の首をへし折った。
「……」
ドサッ。
封獸符が手から零れ落ち、無言で崩れ落ちる隆謝。即死であった。
バシュー!
次の瞬間、隆謝からの霊力の供給を断たれ、鐵甲螃蟹の体が霧散する。
「こっちにゃ、別に幻獸を倒さなきゃなんねー理由なんかねーんだよ」
「こっちも片付いたみたいね」
スタッ。
そこに靄超がやって来る。ただし縣衙の外ではなく、建物の窓から跳び出して来た。
「おせーよ。倒した後に来やがって」
ぼやく金山。靄超が援護してくれれば鐵甲螃蟹との戦いは楽になったし、もっと言えば、金山が鐵甲螃蟹を押さえておき、その間に靄超に隆謝を倒させる事も、またその逆も可能だったのだ。
「良いでしょ、勝ったんだから」
しかし靄超は金山の抗議を受け流す。
「他の連中は?」
「ちゃんと全員解放して、傷の応急処置もしておいたわ」
「よし。じゃああとは呂と杜とかっていう、黒幕を始末するだけか」
「そっちはもう捕まえておいたわ」
「何だそりゃ。いつの間に……」
靄超の手際の良さに、流石に驚く金山。
「縣衙の中で、その幻獸使いのおじさんが戦ってるところを見物してたわよ。負けたら逃げるつもりだったんでしょ。やることは分かってるもの。先に捕まえておいたわ」
「油断も隙もねー女だぜ」
苦笑する金山であった。
数日後、金山と靄超が旅立つ日がやって来た。
「本当に助かっただ。おらの親父さ仇討ってくれて」
焜山の町外れまで見送りに来た斗里が礼を言う。
靄超によって捕らえられた呂と杜であるが、斗里によってより上位の行政区域である穌州の知府(府の長官)に告発され、汚職の実態が暴かれた。呂と杜はありとあらゆるコネや賄賂を使って揉み消しを図ったのだが、流石に隆謝が斗里の親を殺害した事までは隠蔽出来ず、呂は罷免の上、官位を剥奪され、杜は家財没収という処分が下された。自業自得とはいえ数十年かけて築いた地位や財産を一瞬にして失うのだから、悪い事はするものではないが……。そんな理屈に耳を傾ける相手では、そもそもないのだから仕方がない。
なお、縣政府に対する反乱という形になったが、呂と杜の悪政に対するやむを得ない処置だったという事もあり、楊澄邨の漁師たちはお咎め無しである。まだ溱朝が眀の皇族の生き残りや遺臣などの残党勢力、眀末に蜂起した反乱軍の残党勢力を鎮圧し切れていないため、苛烈な罰を与えて、これ以上の反乱を誘発するのを嫌ったという側面もあるのだろう。
「おめえ様たちのお陰で村に平和が戻っただ。きっと出てった人たちも戻って来るはずだべ」
亭林と逸雲を連れて一緒に見送りに来た白水も礼を言う。
「だと良ーがな」
またも新調した道着を着た金山が多少の皮肉交じりに答える。
「蟹漁さえ出来ればみんな戻って来てくれるだよ」
「逆に乱獲して絶滅させないようにしてよね」
それこそ今度は本当に蟹の祟りが起こりそうな話である。
「もちろんだど。大閘蟹はこの村の財産だべ。亭林が大きくなる頃、いやもっともっと孫子の代まで漁が出来る様、みんなで守って行くべ」
「おらもいつかおっとうみたいな立派な漁師になるだ」
「あんがとな、あんちゃんたち」
四人に見送られ、焜山の町を後にする金山と靄超。
「これからどこに行くつもり?」
「さーな。とりあえず道着がボロボロにならない所ならどこでも良い」
靄超の問いに、冗談とも本気とも付かない返事をする金山。二人の行く先に、果たしていかなる事件が巻き起こるのか。それはまた次回の講釈で。
(劇終)




