第貳集 奥様は童養媳
登場人物
■龍金山……主人公。拳師(武道家)。流儀は〝十全十美拳〟。数え年十六歳。
■孫靄超……導姑(女性の導士)。火行系の灋術を得意とする。数え年十六歳。
■身材高……石景が雇った追っ手。
■太胖子……石景が雇った追っ手。
■李莉甯……新園に嫁いだ童養媳。
■王醉白……宋家で働く下男。莉甯を連れて屋敷から逃げ出す。
■宋石景……香汕の大企業・宋貿易集團股份公司の董事長(会長)。
■宋新園……石景の息子で宋貿易集團股份公司の總經理(社長)。
■蒲背狗……石景が追っ手として雇った導士。
■傅威内……石景が追っ手として雇った拳師。
■陳打絡……石景が雇った拳師。流儀は〝虎頭蛇尾拳〟。
「さあ新園、挨拶するんだ。この子が今日からお前の花嫁になる莉甯だ」
男は少女を連れて屋敷に戻って来た。
「やあ、莉甯。よく来てくれたね」
門の前で出迎える十歳ほどの少年。この仲華大陸では数え年を用いるので、実際には八歳と九歳の間だろう。
「あ、あの、おぼっちゃん……。きょうからこのおやしきでおせわになるリーニンです。よろしくおねがいします……」
莉甯と呼ばれた少女はおずおずと、ぎこちなく頭を下げながら言った。まだほんの小さな女の子である。
「会いたかったよ。莉甯。やっとぼくの所に来てくれたんだね」
「……」
笑顔で莉甯を歓迎する新園だったが、一方の莉甯は戸惑いを隠せなかった。
「ほら、ぼくの言った通りだっただろ。ぼくたちはこうやって結ばれる運命だったんだよ」
莉甯は表情こそ笑ってはいたが、だが瞳は虚ろなまま、どこか遠くを見詰めていた。
仲華大陸の中部を流れる大河・張江の南側の地域を指して広く江南という。江楠省は江南に位置する省で、肥沃な穀倉地帯である事を背景に、経済的に富裕な地域であり、同時に文化的な先進地域でもある。
ここは江楠省汰倉州紅灣鄕伍角場から西に五里(約二.九キロ)ほどの街道である。我々の世界の一里は約三.九キロであるが、この仲華大陸の溱代における一里は約五七六メートルである。これは一尺が約三二センチで、五尺(約一六〇センチ)を一歩とし、三六〇歩を一里としたためである。一六〇センチは一メートル六〇センチなので、それに三六〇をかければ五七六メートルになるという訳だ。
その街道を歩いている道着を纏った少年と、導袍(導士の法衣)を纏った少女。少年は名を龍金山と言い拳師(武道家)である。一方の少女は孫霧越、字(成人後に付ける本名とは別の名)を靄超と言い、導姑(女性の導士。導敎の尼僧)である。
金山は左手で傘を持ち、傘の先に荷物の入った麻袋と竹製の水筒をぶら下げていた。一方の靄超は肩掛けの鞄の中に荷物を入れている。
「あ~あ。どっかに何かパーッと儲かる良い話ねーもんかなー」
虫の好い話をする金山。
数日前に伍角場で起きた事件を解決した金山は、靄超の回復を待って(彼女が殭屍化しない事を見届けて)から旅立ったのだが、特に行く当ての無い旅であるため、とりあえず同じ方角に向かって村を出たのだ。
「そんな上手い話、ある訳無いでしょ。大体いつもいつもお金お金って言ってて、恥ずかしいと思わない訳?」
「け。無報酬で人助けなんかやってる方が、よっぽどどーかしてるぜ。しかも事件に首突っ込んだ挙句、黒幕に殺されかけてんじゃ世話ねーし」
「ちょっと! それ、私に喧嘩売ってるの!」
流石に聞き捨てならない金山の言葉に、気色ばむ靄超。
「からむなよ。事実だろ。オレが助けなきゃ、お前だって今頃殭屍の仲間入りだったろーが」
「それはちゃんと感謝してるわよ。でも私たちが関わらなかったら、あの導士は未だに悪事を重ねて、多くの人を苦しめていたわよ」
先日、伍角場を襲った事件は、Dr.キョンシーを名乗る灋術を悪用する導士によって村の義莊が乗っ取られ、彼の造り上げた殭屍によって富豪・何家が襲撃され、一家が惨殺された挙句、金品を強奪される……という陰惨極まりないものであった。それを解決したのがこの金山と靄超である。
「オレはこの世で三番目に嫌いなものは免費働きなんだ。もらうモンはきっちりもらわねーと」
そう語る金山であったが、しかし誰に依頼を受けたものではなく、まさか奪われた何家の財産をちょろまかす訳にもいかず、金銭的には何らの報酬も得ていなかった。
「悪人が一人減って、一人でも多くの人が平和に暮らせるなら、それってすごく良いことだと思わないの?」
「そーゆーのを頭の中がお花畑だってんだよ。人助けしてみんな幸せになった。その結果助けた方は野垂れ死に――何てのはオレは御免だね」
「でも感謝されて悪い気はしないでしょう?」
「さーな」
などと言い争いをしながら街道を進む二人。
「「!」」
と、その進行方向で、二人組の男と二人の男女とが、何やら言い争っている場面に出くわした。
「やっと追い付いたど」
「面倒かけさせやがって」
男二人組の方は、年齢はいずれも二十歳を少し出たほどであったが、見た目には対照的な二人だった。
一人は六尺(約一九二センチ)もある長身で痩躯。辮髪(後頭部を残して髪を剃り、残った髪を長く伸ばして三つ編みにして後ろに垂らす、元来は鏋洲族の髪型)を結っておらず、刈り込まれた短髪。顔自体は整っていなくもないが、切れ長で鋭い目付きをしていた。一言で言えば目付きが悪く、一瞥するだにチンピラの様な印象を受ける。
もう一人は辮髪を結っていたが、明らかに太り過ぎな男である。猫背な上に首が胴にめり込んでおり、身長は五尺(約一六〇センチ)も無いだろう。でっぷりと膨れた腹は服で隠し切れず、出臍が顔を覗かせている有様だった。大きな団子っ鼻に比して目は小さく、良く言えば愛嬌のある、悪く言えば締まりの無い印象だ。ただし背中に錘(棒の先端に楕円形の鉄球が付いた打撃系武器)と呼ばれるウォーハンマーの一種を二本差しているにも関わらず、平気な顔をしているので、人並外れた怪力の持ち主である事は見て取れた。
「さーて。お嬢さんを返してもらおうか」
チャキ!
言いながら牛尾刀(片刃の長刀)の切っ先を突き付ける長身の青年。
身材高:宋家に雇われた追っ手
「く……っ!」
スッ。
少女を自分の後ろにかばい、護身用に携帯している匕首を懐から取り出す色黒の青年。年齢は二十歳ほど。身なりこそパッとしないものの、材高とは対照的にさわやかな印象の好青年であった。
「おいおい、抵抗する気か? なるべく生け捕りにしろって話だが、抵抗するならてめえの方は殺しても良いって言われてるんだぜ」
材高が脅しを含んだ言葉を青年に投げ付ける。明らかに青年を見下している態度だった。
「そうだど。兄貴の言う通りだど。大人しく捕まった方が身のためだど」
肥満体の青年が材高に追随する。
太胖子:宋家に雇われた追っ手
「どの道捕まったらおしまいだ。それならやるだけやってみるさ……!」
だが青年は動じず、匕首を水平に構える。
「へ。だったら――死んでも恨むんじゃねえぞ!」
サッ!
牛尾刀を振り上げる材高。
「ちょっと待った、お二人さん」
「「ん?」」
突然何者かに声を掛けられ、振り向く二人。材高の方は剣を振り上げた体勢のまま固まった状態だ。
「何だ、赤老?」
後ろを振り向き、不遜な態度でそこに立つ少年――言う迄も無く金山である――に問い掛ける材高。
「誰だど?」
胖子も振り向き、金山の方を見る。
「別に。ただの通りすがりだよ。だが、こんな場面に遭遇して、見て見ぬ振りは出来ねーだろ」
「お金にならないことはしないんじゃなかったの?」
どこか嬉しそうに、突っ込みを入れる靄超。
「茶化すなよ」
「何いきなり出て来て訳分からねえ事言ってやがる? 邪魔すんじゃねえ」
突然出て来て話の腰を折られ、金山を睨み付ける材高。
「邪魔はすんだろーが。ほっといたらそっちの兄ちゃんを斬り殺す気だっただろ」
「たりめえだ。こっちはちゃんと忠告したんだ。抵抗するなら殺すってな。なのに抵抗するってんなら、容赦する義理はねえ」
「ちょっと。事情は知らないけど、こんな白昼堂々と天下の往来で刃傷沙汰なんて正気?」
「知るか。俺等は雇い主からお嬢さんを連れ戻せって頼まれただけだ」
「そうだど。それに男の方は別に殺しても良いって言われてるんだど」
依頼者も依頼者だが、受ける方も受ける方と言うべきか。どうやらこの二人は根本的に倫理観や罪悪感が欠如しているらしい。
「言われてるからって実際にやって良いわきゃねーだろ」
「うるせえな。関係ねえ奴が口出すんじゃねえ」
やや、語気を強めて材高が金山に言う。明らかに材高の機嫌が悪くなっており、周囲に緊張した空気が走る。
「見ちまった以上は無関係って訳にはいかねーっつーの」
だが、それでもなお、金山は引かなかった。場の空気は緊張していたが、金山にとってはどうという事も無かった。これ以上の修羅場を幾たびも潜り抜けて来ているからだ。
「こいつ、むかつくど。やっちまっていいだな、兄貴?」
埒の明かないやり取りに、先に切れたのは材高ではなく、胖子の方だった。
「ああ。可愛がってやれ」
スッ。
材高の返事を聞くと、胖子は右手で背中に差した錘の一本を引き抜く。
「これで叩かれたら痛いど。下手したら死ぬど。謝るなら今の内だど」
胖子の口調自体は間の抜けた感じであるが、錘の先端に付いた鉄球の重さは一鈞(三〇斤=約一七.一キロ)程度はゆうにあるはずだ。彼の言葉は脅しではない。
「それがどーしたんだよ」
ただそれも相手が常人であれば、の話である。相手が金山の様な常人を超えた超人的な力の持ち主であれば、話は変わって来る。現に金山は全く臆する所が無い。
「ふん!」
サッ!
金山の挑発に手心は無用と思ったのか、錘を振り上げる胖子。やはりかなりの怪力の持ち主なのだろう、重い鉄球の付いた錘を軽々と振り回す。それも、柄尻の方を持っているにも関わらず、だ。
「食らうど!」
ブン!
金山の頭目掛けて錘を振り下ろす。
「危ない!」
金山の身を案じ叫ぶ青年。
ガシッ!
しかし金山は傘を持っていない方の手、右手一本で錘を簡単に受け止めてしまう。
「何だど!?」
「受け止めやがった!」
信じられない光景に驚く胖子と材高。細腕とまでは言わないが、決して太くはない金山のどこにそんな力があるのか、全く予想だにしていなかった展開である。
「ンな驚くことでもねーだろ。このぐれーなら、ちょっと気の利いた拳師だったら誰だって出来る」
二人の、そして青年の驚きをよそに、何でもない風に言う金山。
「こ、こいつ……! は、離すだど!」
両手を使って柄を引っ張り、錘を金山の手から引き離そうとする胖子。だが――。
グシャ!
金山が腕に力を込めると、錘の鉄球部分が砕け散った。純粋な握力だけで鉄球を握り潰したのだ。
「お、おでの錘が!?」
自身のメインウエポンの、肝心要の鉄球部分を壊され、柄だけになった錘を見て驚愕する胖子。
「てめえ!」
ヒュン!
うろたえる胖子に構わず、牛尾刀で金山に斬り掛かる材高。しかし――。
パキーン!
こちらも一瞬で金山に刀身を折られてしまう。目にも留まらぬ高速の手刀を牛尾刀の腹に当て、へし折ったのだ。
「なあああ!?」
「あわわわわ!」
わずかな戦闘でいずれの得物も破壊され、恐れ慄く二人。
「すごい……!」
成り行きを見守っていた青年が感嘆の声を上げた。金山の戦闘力はまさに桁違いであった。大人と子供どころか、ライオンと便所コオロギぐらいの差はあるだろう。
「くそっ! てめえ、何で俺等の邪魔をしやがる!?」
悔し紛れなのか、事が上手く運ばなかった事への怒りなのか、材高が声を荒げて問い掛ける。
「人さらいだか何だか知らねーが、わりーことしてるヤツは見逃せねーだろ」
何ら臆する事無く答える金山。
「悪い事? ちげえよ。人助けだっての」
金山に指摘され、人聞きの悪い、と言いたげに反論する材高。
「人助けですって? どう見たって、その人たちを追い掛け回していたように見えたけど?」
そこでそれまで成り行きを見守っていた靄超が口を挟む。
「そこだけ切り取って判断すんじゃねえよ」
心外とばかりに口をへの字に曲げる材高。
「この兄ちゃんはな、依頼人の屋敷から花嫁を攫ったんだよ」
「花嫁をさらった……?」
緊張した面持ちのままの青年を見る金山。
「……」
金山の視線に押し黙る青年。
「おで等はその屋敷の主人から花嫁、つまりその後ろにいるお姉ちゃんを、連れて帰る様に依頼されたんだど」
「この人たちの言ってることって本当なの?」
靄超が青年の方に訊いた。
「「……」」
だが青年も、その後ろで心配そうな目で状況を見詰める少女も、その質問には答えずに黙ったままだった。
「答えられやしねえよ。屋敷に雇われてた下男のくせに、その家の花嫁をかどわかして逃げたんだからな」
「そうだど。とんだ不義理混蛋って訳だど」
「そうか。だがそれと、今こうして目の前に危機の人間がいるのとは、話が別だから、そっちを助けよう」
しかし何という事か、金山は材高と胖子の主張を聞き入れなかったではないか。
「何でそうなる!」
「おで等のやってる事は人助けなんだど!」
当然だが、金山の選択に納得のいかない二人。彼らの主張が正しければ、到底承服出来ない話だ。
「オレがこれからしようとしてるのも人助けじゃねーか」
「状況が違うだど!」
憤慨する胖子。
「まあ、良ーけどよ、まだやんのか? 武器が壊れちまってんじゃねーか」
「ぐ……!」
痛い所を突かれ、言葉に詰まる材高。正確に言えば、胖子の錘はまだもう一本あるのだが、それを使ったところでどうにか出来る相手ではない事は、わずか数秒間の戦闘で判明済みである。
「くそっ! 覚えとけよ!」
「この借りはきっと返すだど!」
ダッ!
捨て台詞を残しダッシュで逃げる二人。出した答えは逃亡であった。いや、彼らに言わせれば、依頼主に状況報告するための、戦術的撤退なのであろう。
「普通的な悪役っぷりだな……」
その背中を見送りながら、ぽつりとつぶやく金山。
「だが妙なこと言ってたな……」
「そうね」
二人の言葉が気に掛かる金山と靄超だった。
「ありがとう。助かったよ」
「ありがとうございました」
とりあえずの危険が去った事で、懐に匕首をしまった青年と、後ろの少女が声を掛けて来る。少女の方は金山・靄超と同世代だった。
「別に大したことはしちゃいねー」
「困ってる人を見掛けたら、助けるのは当たり前でしょ」
「いや、本当にありがとう。彼らは俺たちが先ほど立ち寄った町で、俺たちを捜し回っていたらしくて、見付からない内に逃げたつもりだったんだけど、追い付かれてしまったんだ」
事情を説明するが、そこで名乗ってもいない事に気付く青年。
「――ああ、すまない。名乗るのが遅れた。俺は王醉白だ。こちらは李莉甯。俺の仕える屋敷の主人の娘だ」
王醉白: 富豪の屋敷の使用人
「莉甯です」
少女も頭を下げて挨拶する。
李莉甯:醉白の主家の娘
「私は孫靄超、導姑よ。そっちの彼は龍金山。拳師よ」
端的に自己紹介する靄超。
「拳師……。だからそんなに強いのか」
金山の素性を知り、その戦闘力に納得の行く醉白。
「何か、さっきの二人が妙なことを言ってたけど。何で二人に追われてたの?」
「それは……」
「……」
莉甯と顔を見合わせ、口ごもる醉白。
「話してもらえれば力になるけど」
「また出たよ。得意のお節介が」
呆れる金山。靄超とはほんの数日の付き合いだが、彼女の性格を大体把握出来て来た。
「いや、俺たちに構わないでくれ。君たちを危険に巻き込みたくない」
しかし醉白は靄超の申し出を断る。
「あなたたちと一緒だと危険に巻き込まれるってこと?」
「そ、それは……」
「その……」
莉甯と顔を見合わせる醉白。
「どこまで行くつもりなの?」
さらに靄超が尋ねる。
「俺の田舎の、珠家角という町まで行くつもりだ」
「珠家角?」
訊き返す靄超。珠家角鎭は汰倉州に隣接する同じ江楠省に属する都市、淞江府の淸浦縣にある町の名だ(府は州よりも大きい行政単位)。縦横に張り巡らされた運河と小運河によって水運が発達した水郷であり、近隣の農村で収穫された米の集積地として発展して来た、淞江府の中心的な町である。
「ちけーじゃねーか。ここからなら大人の足なら三日も掛からねーぜ。船なら明日の朝にも着くぐれーだ」
「旅は道連れって言うし、せっかくだから一緒に行きましょう」
「いや、俺たちにこれ以上関わらないでくれ……。君たちを巻き込みたくないんだ」
同行を申し出た靄超だったが、醉白はなぜか断った。
「どうして? さっきの二人がまた追って来るんじゃないの?」
「それは……そうかも知れないが……」
「だったら私たちと一緒にいた方が安全じゃない」
靄超や金山と行動をともにするという事は、二人をボディーガードとして頼る事が出来るという事である。本来なら願ってもない話のはずである。
「それだと君たちに迷惑が掛かる。だから俺たちは街道を一旦北上してから、寶汕鎭の方を迂回して珠家角鎭を目指すよ。それで追っ手は何とか巻いてみせるよ」
にもかかわらず、醉白は申し出を断った。寶汕鎭は紅灣鄕の北に位置する町である。
「追われているのに、助けはいらないの?」
「……」
疑問を投げ掛ける靄超に、言葉を詰まらせる醉白。
「良いわ、醉白。訳を話しましょう」
莉甯が口を挟んだ。
「お嬢様……」
「ですが、ここに立ち止まっていると、またあの二人や他の追っ手がやって来るかも知れません。とりあえずは寶汕鎭まで移動しましょう」
寶汕鎭にやって来た金山と靄超、醉白と莉甯。仲華大陸では百戸未満の集落を邨と呼び、百戸以上、千戸未満の都市型の集落を鎭、都市を形成しない集落を鄕と呼ぶ。寶汕鎭はその名の通り鎭なので後者に分類される。
四人は目に付いた茶館に入る事にした。茶館とはその名の通り茶を飲ませる施設であり、我々の世界における喫茶店に相当するが、席料を支払えば席が終日確保される事もあって、常連客同士の談話・情報交換の場となる。そういう意味では休憩や簡単な食事目的の喫茶店と言うよりは、社交場・サロンの様な役割により近い。
「それで。何であの妙な二人組に追われていたの?」
席に着くなり、早速事情を訊く靄超。
「私は童養媳だったんです」
お茶に手を付けず、伏し目がちにそう言う莉甯。
「「童養媳……」」
全く予想していなかった単語が出て来て、流石に驚く金山と靄超。
童養媳――。子供の時から嫁ぐという、仲華大陸の一部の地方で見られる風習である。簡単に言えば許嫁・婚約者であるが、その実情はかなり異なる。主に寒村などの貧しい家庭の少女を、富豪が身受け金を払って買うのだ。売られた子供は買い取られた家庭で育てられ、成人した際に正式に婚姻を交わす。
「私の家には大きな借金があって、その肩代わりをしていただくことの交換条件として、私はあるお屋敷に童養媳として嫁いだんです」
「あるお屋敷?」
靄超が訊く。
「宋石景様です」
「誰だそれ? そんなヤツ知らねーぞ」
莉甯の説明に対し、金山が身も蓋も無い事を言う。もっとも、一般人が名前だけ出されてどこの誰かと分かるレベルの商人となると、眀初の沈萬參クラスの歴史に名を残す様な大商人だけであろうが。
「……獷東の大富豪です。香汕で貿易を行なって巨万の富を得た――」
代わりに醉白が説明する。獷東省は仲華大陸の南部、華南に位置する沿岸部の省で、眀代以前より海外との貿易で栄え、多数の華人・華僑を輩出した省である。省都は獷州府で、香汕はその獷州府に属する港湾都市である。波路土咖靁人が居留地とする馬烤に隣接しているため、特に西方大陸との貿易で盛えていた。
「香汕……。ああ、馬烤の近くか。だったら波路土咖靁との貿易で儲けてそーだな」
ポルトゥカーレとは仲華大陸では波路土咖靁と音写される、西方大陸のアンダルス半島に位置する国である。西方大陸の諸国に先駆けて逸早く海洋に進出を開始し、隣国のヒスパニア(こちらは比斯班尼亞と音写される)と共に〝大航海時代〟――この言葉もこの世界のこの時代には存在しないが――を牽引し、広大な海外植民地を獲得して隆盛を極めた海洋国家だ。しかし本国の人口の少なさと、植民地に依存する経済の体質、そして国内産業の発展の遅れから、爆発的に拡大した領土の維持が円滑に行なえず、一七世紀には早くも斜陽を迎えていた。
そして馬烤というのは廣棟省獷州府香汕縣と陸続きの、馬烤半島と近隣の島嶼からなる地域である。波路土咖靁人が建設した西方大陸風の建築物が並ぶ、異国情緒の漂う国際港湾都市だ。元来はのどかな漁村であったが、眀代の栖暦一五五七年(眀の嘉淸三六年)に波路土咖靁人が居留権を獲得し、眀の生糸・絹織物と、東方の島国・日泍の銀との中継貿易の拠点として繁栄した。だがまず一六三九年(眀の崇偵一二年)に日泍の鎖国政策によって日泍との貿易が途絶えてしまう。さらに一六四〇年(崇偵一三年)、波路土咖靁が同君連合に組み込まれていた、比斯班尼亞からの支配から離脱した事によって、比斯班尼亞の植民地・侶宋の埋尼拉との貿易が途絶えた事により、貿易港としては往時の勢いが失われていた。
「俺はそのお屋敷に仕える使用人だったんだ」
醉白が補足する。
「でも私はそのお屋敷のお坊ちゃんと結婚するのが嫌で、結婚式の前日に、彼と一緒にお屋敷を逃げ出したんです」
童養媳となった時点ですでに「嫁いでいる」のだが、ここで言う「結婚する」というのは、先述の通り「正式に結婚式を挙げる」という意味である。
「それって、世間で言う駆け落ち?」
靄超が訊く。
「そうだ。人はそう言うだろう。俺は主人を裏切って、お嬢様を連れて屋敷から逃げ出したんだから」
「それでさっきの二人が『人助け』って言ってたのね」
先ほどの二人組の片割れ、身材高の捨て台詞を思い出す靄超。
「確かに駆け落ちだったら、役人に捜索願い出す訳にはいかねーからな。靣子ってモンがあんだろーし。それで人を雇って捜させてたのか」
「そういう事だ。旦那様は恐らく追っ手としてさっきの二人組以外にも、惡棍や用心棒を雇っているはずだ。だからこれ以上俺たちに関われば、君たちを危険に巻き込む事になるんだ」
「そんなの平気よ。危険に巻き込まれるなんて慣れっこだもの。でしょ?」
しかし全く気にも留めない靄超。
「おいおい。本気でお人好しだな、お前。わりーが、オレは筋の通らねー話が嫌いでね」
だが金山の意見は違っていた。
「一つだけ聞かせてくれよ、にーちゃん。追っ手の連中はあんたたちが、珠家角に向かってる事は知ってんだろ?」
「それは……俺はお屋敷で働いていたから、当然素性は明かしているが……」
金山の質問の意図が分からず、戸惑いがちに答える醉白。
「じゃあ、珠家角で待ち伏せてしている可能性もある訳だ。だったらもしこのまま珠家角まで行かれたとして、あんたがそのねーちゃんを連れて家に帰ったら、きっとヤツらはそこにまで追っ手を差し向けて来るぜ。そーしたらあんたたち二人だけじゃなくて、家族にも迷惑が掛かんじゃねーのか?」
「……」
金山の懸念に沈黙する醉白。
「あんたは駆け落ちをする覚悟を決めて宋何とかってヤツの屋敷を出た。それにともなう困難に立ち向かう覚悟も持ち合わせている。だがあんたの家族はどーなんだよ。後先を考えずに駆け落ちをしたために、そのしわ寄せが来る。その状況をどう思う?」
「そうだね……。心配してくれてありがとう、金山君。だが俺の家にはもう誰もいない。十年以上前に両親が死んだ時に、みんなばらばらになってしまったから。だから俺は都会――穌州や瀇州、香汕に出て行って働いていたんだ。君の言いたい事は分かる。俺だってその点は考えているよ。そして良家から花嫁を攫って逃げて来た人間が、それが世間に知られた時に、どういう風に言われるかも分かっているつもりだ。だがそれでも俺はお嬢様と、いや、莉甯と一緒にいたいんだ」
きっぱりと言い切る醉白。その両の瞳に強い意志の炎が燃えていた。
「……どうやら嚴重らしいな。――じゃあねーちゃん。あんたはどうなんだ? あんたは親父さんの作った借金を、宋の親父に立て替えてもらうことと引き換えに、宋家に嫁いだんだろ?」
「え、ええ……」
うなずく莉甯。
「だが今あんたは宋の家から逃げ出している。童養媳として金で買われたあんたが、宋家から逃げ出せば、あんたの親にも迷惑が掛かんじゃねーのか?」
「それは――」
金山の指摘に表情を強張らせる莉甯。
「あんたがその宋家の敗家子と結婚したくねーのは分かるさ。好きでもないヤツと結婚したって、絶対に幸せになんかなれねーだろーしな。だが今言った通り、あんたがこのまま逃げ出したら、宋とかってヤツやその敗家子は、あんたの家の連中にもちょっかい出すだろ」
「……」
「そっちのにーちゃんはあんたのことを真剣に思ってくれてるし、靄超は好きであんたらと行動をともにしようとしてんだから、何が起きても構いやしねーだろーが、だがあんたの親はちげーだろ。童養媳として十年も前に送り出した娘が、今になって結婚を破棄したからっつって、宋家の連中からあれこれ嫌がらせを受けることを納得出来るかって話さ」
「ちょっと金山、言い過ぎよ」
靄超が咎める様な口調で金山を見る。彼の言いたい事は分かるが、それをこの状況で口にして、莉甯を責めるのは彼女にとっては酷に思えた。
「親なんだもの、きっと莉甯さんの気持ちを分かってくれるわ。大丈夫よ」
「それはそうかも知んねー。だがもう一度ゆーが、オレは筋の通らねーことが嫌いでね。あんたは童養媳となることを条件に、親の借金を立て替えてもらったんだ。だったら結婚を反故にする以上、きちんと話をして、宋ってヤツに金を返すなりして、筋道通すべきなんじゃねーのか。それを駆け落ち同然に逃げ出して来て……。一時の感情に流されて、残された連中のことを考えねーのが、オレは納得出来ねーんだ」
「違うんだ、金山君……! そうじゃないんだ……!」
何かを言いたげな醉白。
「良いわ、醉白。これは私たちの問題だから」
しかし莉甯が醉白を制止した。
「お嬢様……」
「先ほどは助けてくださってありがとうございました。ですがこれ以上お世話になる訳には参りませんので」
「そーか。じゃーな。お互い生きてたらどっかで会おーぜ」
そう言い残すと席を立ち、荷物を持って茶館を出て行く金山。
「……」
まだ何かを言いたげな醉白だったが、黙って金山の背中を見送った。
「すまない。俺達の問題に巻き込んでしまったために、君達の関係をこじらせてしまって……」
数秒経って、靄超の方に向き直り話を変える醉白。
「気にしないで。あの人、ああゆう人みたいだから」
ほんの数日の付き合いながら、大体金山の性格を飲み込めた靄超は、特に気に留めなかった。
「君も行ってくれ。後は何とか俺達だけで逃げ切ってみせるよ」
「私は一緒に行くわよ」
醉白は靄超にもここで別れる事を申し出たが、しかし、靄超は首を縦に振らなかった。
「いや、君も導姑なら確かに強いかも知れない。だが旦那様が雇った用心棒の中には、君が考えている以上の、凄腕の拳師や導士がいるかも知れないんだ。だから君に迷惑は掛けられない」
「だったらちょうど良いわ。私は修行の旅の途中なの。強い相手とどんどん戦いたかったところよ」
「……」
そう言えば流石にひるむかと思った醉白だったが、しかし靄超は逆に食い付いて来てしまった。
「まあ、良いんじゃない。私は好きであなたたちと一緒に旅したいんだから。だったらこっちも用心棒がいるでしょ」
微笑み、ウインクする靄超。
「……」
「……」
顔を見合わせる醉白と莉甯。こうまで言われれば断る理由は無かった。
「すまない。でも本当に危なくなったら、君は一人で逃げてくれ。俺たちがどうなっても構わないから」
「ありがとうございます……」
二人は深々と頭を下げた。
商海縣。張江下流域の支流・熿浦江の西岸に位置する港町である。
あえなく金山に追い払われ、身材高と太胖子の二人は雇い主が逗留している商海縣の縣城に逃げ帰っていた。縣城は縣の政治の中心地であり、商海縣城は伍角場から南西に一〇里(約五.七六キロ)ほどの距離に位置する、城壁に囲まれた都市である(ここで言う城はキャッスルという意味ではなく、シティーという意味であるが、仲華大陸の都市は城壁に囲まれているので、城と呼ばれる)。
「逃がしただと……?」
二人から事の次第の報告を受けるや否や、途端に壮年の男は不機嫌そうな顔になった。四十代半ばか。白髪交じりの辮髪の、恰幅の良い中年男性である。立派な金の刺繍が入った裾長の着物に、宝石(主に仲華大陸で珍重される玉と翡翠)や金の装飾品をこれ見よがしに身に着けている。我々の世界で言えば成金趣味と揶揄される感覚だったが、仲華大陸にも成金という言葉はあるが、成金趣味に相当する言葉は無い。
この男が二人の雇い主である宋石景である。
宋石景:香汕の貿易商
「何だよ、それ! 何やってるんだよ!」
石景の横に腰掛けた、扇子でパタパタと自分の事を仰いでいた男が横柄な態度で文句を言う。二十歳ほどの、丸眼鏡を掛けた小太りの青年である。胖子同様、良く言えば愛嬌がある顔立ちだが、お世辞にも美男子とは言えない。
宋新園:宋家の御曹司
「いやさ、お嬢さんと逃げた下男をあと一歩のところまで追い詰めたんですがね……。すんでのところで恐ろしく強い奴に邪魔されましてね……」
「そうだど。それでやむなく引いたんだど……」
「そんな言い訳が通るか!」
あれこれと言い訳する二人を一喝する石景。
「あの二人にそんな用心棒を雇うお金があるもんか。僕たちと違って、あいつらはろくにお金なんて持って無いんだから」
新園も二人の言い訳に反論する。
「いや、用心棒って感じじゃあ、ねえみたいです。ただの通りすがりみたいな……。ただその通りすがりが、半端じゃなく強いんでさあ」
「では何だ? お前達の手に負える相手ではないと?」
問い質す石景。
「ま、平たく言えばそういう事でさあ」
反省の色も見せず、ぬけぬけと言う材高。立場上無理とは言えないはずだが、やはり罪悪感という感覚は欠如していると見て間違いない。
「情けない。腕が立つと言うから雇ったんだぞ」
「腕が立つ事に嘘はありませんぜ。けどあれは別格だ。だからこそ、引かざるを得なかったんですよ」
「そうだど。おでらのせいじゃないんだど」
醉白と莉甯を取り逃がした事は事実だが、二人ともかたくなに自分たちの非を認めようとはしなかった。恐らく、いや、確実に、そもそもそういう人間なのであろう。
「旦那」
ガチャ。
そこにチンピラ風の柄の悪い男が扉を開け入って来た。
「商海縣の知縣に頼んでおいた応援ですが、明日には到着するらしいですぜ」
知縣とは正七品の文官で、縣の長官の事である。我々の世界で言うところの県知事であるが、この仲華大陸における「縣」は「省」の下級の行政区画である「府」に属する行政区画なので、我々の世界で言えば「市」クラスであり、知縣は「市長」クラスの役人となる。また、我々の世界でもかつてはそうであった様に、この世界のこの時代も行政と司法の境界線が曖昧なので、行政長官と裁判官の職務を兼務する部分があった。
「そうか」
ニヤリと笑う石景。事前に知縣に袖の裏を渡し、腕利きの拳師や導士を紹介してもらっていたのだ。という事は、石景の方でも初めから材高と胖子の二人の腕を信用していなかった事になるが、そこは一代で獷東でも有数の大商人に成り上がった、立志伝中の人物である。彼一流のリスクヘッジ術を身に着けているのであろう。
「それに例のブツも小運河を使って船で運べますぜ」
「ようし……。奴等は街道を北に向かって逃げたんだな?」
「ええ、そうでさあ。伍角場と紅灣鄕の間の街道で、一旦は追い付いたんですがね……」
石景の問いにうなずく材高。
「となると、寶汕鎭から西に抜ける気だな」
淞江府と汰倉州一帯の地図を見ながら目をギラッと光らせる石景。
「でも父さん、それだと遠回りになるよ。まっすぐ西の紅灣鄕を抜けた方が近いんじゃない?」
「分かっている。一旦北に迂回して我々の目を誤魔化すつもりだろう。だが逃がさんぞ。お前達の行き先など分かっているのだからな」
やはり醉白の素性が分かっているので、彼が故郷を目指す事も想定していた。
「増援が着き次第、華停・楠翔・沏寶に向かわせろ。儂等は珠家角へ先回りだ」
華停と沏寶は淞江府に、楠翔は穌州府に属する鎭である。
「へい!」
柄の悪い男が部屋を出て行った。
楠翔鎭。穌州府の嘉碇縣に属する町である。
「淨燄符、天罰!」
ボォオオオ!
靄超の投げ付けた符籙が青白い炎を上げ、殭屍を包み込む。
「オオオオ!」
苦悶の声を上げる殭屍。符籙とはいわゆるお札・護符の事で、淨燄符は聖なる浄化の炎によって霊体を攻撃する効果がある。体内に巣食う怨霊を消滅させられ、そのまま動かなくなる殭屍。
今倒した者を含めて、辺りには十体の殭屍が倒れていた(怨霊が消滅した状態では殭屍ではなく、普通に人間の遺体であるが)。
「馬鹿な!? 私の殭屍が全滅だと!?」
従えていた殭屍たちを瞬く間に倒され、驚愕する導士。この男は宋石景に雇われ、醉白と莉甯を連れ戻す様に命じられた追っ手である。
蒲背狗:宋家に雇われた追っ手
彼はこの楠翔で靄超たちに追い付き、醉白と莉甯を連れ戻そうとしたところ、靄超に邪魔され戦闘となったが、呼び出した殭屍をものの一分で全滅させられてしまったのだ。
「残念ね。この水平の殭屍じゃ、いくら数を揃えたって私は倒せないわ。出直したらどうかしら?」
殭屍には意識という概念が無いため、気絶や失神、昏倒と言った概念もまた存在しない。その殭屍を物理的な打撃で倒すのは中々骨の折れる作業なのだが、灋術という霊的な力で直接体内の怨霊を消滅させるという方法ならば、倒す事はそう難しくない。特に太陽光に対する処理を施しただけの殭屍であれば、靄超の敵ではなかった。
「殭屍どもを倒されておめおめと引き下がれるか! こうなれば私が相手をしてやる!」
しかし背狗は引き下がらなかった。
「食らえ、爆裂符!」
ヒュン!
導袍の袖口から符籙を取り出し投げ付ける背狗。爆裂符は着弾した場所に爆発を引き起こす効果を持った符籙だ。破壊力は我々の世界における手榴弾にも匹敵する。
ダッ!
だが靄超は構わず背狗へ向かって走る。
ドーン!
閃光と爆炎を上げ炸裂する符籙。
「残念ね!」
直撃したにも関わらず、靄超は爆煙を切り裂いて背狗の目の前に現れた。爆裂符が爆発する直前、結界符を展開していたのだ。結界符はその名の通り結界(霊的なバリアー)を張り巡らせる符籙である。その結界が爆裂符の爆発から彼女を守ったのだ。
「なあ!?」
全く無傷の靄超の姿に、目を見開く背狗。
「飛天噴燄!」
ボウッ!
さらに別の灋術を発動させる靄超。飛天噴燄は本来、炎を噴出し、それを推進力として空を飛ぶ移動系の術であるが、靄超はそれを応用して攻撃に利用する。
「な!?」
ドゴッ!
肘打ちが背狗の頬に炸裂した。飛天噴燄の推進力を使って自身を加速させ、肘打ちの攻撃力を上昇させたのだ。
「ぐは!」
ドカッ!
衝撃に吹き飛ばされる背狗。本来の靄超の力と体重では、決定的なダメージまでは得られなかったはずだが、やはり飛天噴燄による加速がものを言ったのだろう。
「つ、強い……」
背狗は地面を転げ回り、そのまま意識を失ってしまった。
「驚いたな……。君みたいな女の子がこんなに強いなんて……」
少し離れた場所で見守っていた醉白が感嘆する。
「言ったでしょう。私と一緒にいた方が安全だって」
しかし――。
「やるじゃな~い」
突然妙なイントーネーションの男の声がした。
「「!?」」
ガシッ!
莉甯の背後から首に手を回し、身動きを封じる。
「きゃあ!」
突然の事態に悲鳴を上げる莉甯。
「莉甯!」
思わず「お嬢様」ではなく、彼女を名前で呼ぶ醉白。どうやら二人きりの時はそうしているらしい。
「何だ、お前は!?」
「決まってるじゃな~い。宋大爺に雇われた追っ手じゃな~い」
莉甯の自由を奪ったのは、辮髪を結った筋肉質の男だった。
傅威内:宋家に雇われた追っ手(拳師)
『もう一人――!』
靄超が、背狗と殭屍との戦いに集中している隙を突いて接近していたのだろう。伏兵がいた事に気付かず、流石に焦る靄超。莉甯を人質に取られる形になってしまった。
「くそっ! 莉甯を放せ!」
考えるより先に体が動いてしまった醉白が威内に跳び掛かるが、
ドゴッ!
先に威内の蹴りが醉白のみぞおちに入った。
「がはっ!」
腹を押さえてうずくまる醉白。
「醉白!」
「お前に用は無いじゃな~い」
醉白を一瞥しながら侮蔑の言葉を投げ付ける威内。
「灼熱――」
ボォオオ!
その一瞬の隙を突き、靄超の左手に燃え盛る炎が生まれるが、しかし。
「動かないで欲しいじゃな~い。このお嬢さんの首、へし折っちゃうじゃな~い」
威内が莉甯の体を盾にする。
「くっ……」
灋術の発動をやめざるを得ない靄超。彼女の見立てでは、この威内という拳師は、金山に比べれば超一流とまでは言えないが、それでもあの身材高や太胖子よりは数段上の実力の持ち主であろう。莉甯の細い首をへし折るぐらいは、訳も無いはずだ。
「追わないで欲しいじゃな~い」
靄超を牽制したまま、後ずさりしながら少しずつ距離を取って行く威内。
「莉甯……!」
額に脂汗を滲ませ、呻く醉白。しかし痛みで体が動かせない。
「……」
押し黙る靄超。このままでは莉甯が連れ去られてしまうが、彼女を傷付けずに威内を倒す方法が思い浮かばない。ある程度の賭けになるが、リスクを冒して攻撃するか、それともこの場では一旦、莉甯を見殺しにするのか。ほんの数秒であったが、靄超が迷っていると……。
『え……?』
威内たちの後ろに影が現れた。
ドカッ!
次の瞬間、威内の後頭部に蹴りが炸裂する。
「ぐっ!」
「きゃあ!」
吹き飛ばされる威内。衝撃で莉甯も地面に倒れ込む。
「金山!」
叫ぶ靄超。突然現れた金山が、莉甯を人質にされ身動きが取れない靄超の窮地を察知し、助太刀してくれたのだ。
「不意打ちなんてずるいじゃな~い」
後頭部をさすりながら立ち上がる威内。
「人質取ってるヤツが言えた義理かよ」
威内が金山をなじるが、もちろん金山が動じる訳が無い。
「あなた、どうしてここに?」
「別に。たまたま西に向かったらお前らを見付けただけだ」
「そう……」
安堵する靄超。威内が立ち上がった時には、すでに莉甯と威内の間に金山が割って入っていた。再度莉甯が人質に取られる危険性は無いだろう。
「そう言えば宋大爺は、用心棒は二人いるって言ってたじゃな~い。お前がもう一人って訳じゃな~い」
「別に用心棒じゃねー。ただ人質取る汚ねーやり方が気に入らねーってだけだ」
「どっちでも良いじゃな~い。邪魔するならお前も片付けるだけじゃな~い」
「人質取ってどーにかってヤツが、まともにやってオレに勝てる訳ねーだろ」
挑発するつもりは無いが、思った事を口にする金山。
「言ってくれるじゃな~い」
しかし靣子にこだわるお国柄であるため、金山の口振りは威内のプライドをいたく刺激した。
ダッ!
激高し金山に殴り掛かる威内。
「ふん!」
バッ!
跳んでその拳をかわす金山。
「!?」
威内がかわされた事に気付いた時には、もう遅かった。
「飛龍斧頭腳!」
ドカッ!
金山の空中から直接振り下ろされた踵落としが、威内の頭頂部にめり込む。
「つ……強い……じゃ……な……い……」
ドサッ。
白目を剥いてその場に倒れ込む威内。靄超の見立て通りであるが、威内はやはり実力そのものでは金山に遠く及ばず、その一撃で失神してしまった。
「ありがとう。また助けられたわね」
「別に大したことはしちゃいねー」
早速金山に声を掛ける靄超だったが、金山はやはり何でもないという風に答える。
「大丈夫?」
そして醉白の方に向き直り、彼にも声を掛ける。
「あ、ああ……」
莉甯に心配させないためか、かなり無理をして笑う醉白。
「符籙を使うわ」
導袍の袖口から符籙を取り出す靄超。治瘉符という貼った者の負っている怪我を治療する、回復用の符籙である。導士に依頼して作成してもらった物を常備している一般家庭も多く、灋術の心得の無い者にも馴染みのある、最も基本的な符籙である。
「ありがとう……」
痛みが引いて行くのが分かり、無理をして作った笑みから、自然な笑みに変わる醉白であった。
「それにしてもまさにドンピシャの時機だったわね。まさかずっと付いて来てくれてた訳?」
金山に向き直り、茶目っ気を含んだ言い方で訊く靄超。
「ンな訳ねーだろ。オレはそこまで暇でもなければお人好しでもねー。たまたま向かった先にお前らがいたんだよ」
しかし金山はぶっきらぼうに否定する。
「とりあえず大丈夫そーだな。――じゃーな。オレは行くぜ」
「一緒に来てよ」
用が済んだとばかりに立ち去ろうとする金山を、靄超が引き留める。
「何度も言わすなよ。オレは筋の通らねー話が嫌いでね。わりーが、その二人の駆け落ちに協力する気はねー」
だがやはり金山は、醉白と莉甯が宋家に対する恩を忘れて、駆け落ちした事に対して納得が行っていなかった。
「違うんだ、金山君。それは君の誤解だ」
立ち上がり金山に何かを伝えようとする醉白。
「誤解?」
金山が醉白の話に耳を傾けようとした、その矢先――。
「莉甯。どこへ行くつもりだ」
醉白が訊く。莉甯が突然歩き出したのだが、彼女が進もうとしているのは、東の方角――元来た道の方角である。
「どこに行くんだ?」
「――旦那様とお坊ちゃんの所に戻ります」
「何だって――」
「ちょっと――」
莉甯の思いも寄らぬ言葉に驚く醉白と靄超。
「これ以上あなたにも、靄超さんたちにも迷惑は掛けられないわ。私がお屋敷に戻らなければ、きっと旦那様はこれから先もずっと追っ手を差し向けるわ」
「それは駄目だ。あの人たちが君に、いや、君たちにした事を忘れたのか。ここで屋敷に戻ったら、今までして来た事が全て無駄になってしまう」
「もちろん忘れてはいないわ。でもあの人たちは正確に私たちの行き先を追っているもの。たとえ珠家角にたどり着けても、結局は捕まってしまうわ。私に関わることで、これ以上あなたや他の人が傷付くところを見たくないの」
莉甯は自らの運命から逃れられない事を悟った様だった。
「悲しいこと言わないでよ。一度あなたたちの力になると決めた以上、何があっても私たちはあなたたちを守り通してみせるわ」
しかし靄超は己の信念を曲げない。
「おいおい。だからオレを勝手に入れるなっての。オレはその二人を助ける気はねー」
それでも金山は頑として首を縦には振らなかったが。
「いや、だからそれは君の誤解なんだ。旦那様とお坊ちゃんは君の思っている様な――」
「良いわ、醉白。私から話すわ」
何かを言おうとする醉白を、莉甯が制する。
「ごめんなさい。言葉が足りませんでした。――私の家に借金があって、それを宋家の旦那様に立て替えてもらって、その交換条件として私が童養媳になったというのは本当です。でも私には、その時にはもう、両親はすでにいなかったんです」
二人と別れる前に、詳しい話をする事を決めた様だ。
「両親がいなかった?」
「莉甯さんもなの?」
莉甯にも家族がいないとは思っておらず、驚く金山と靄超。
「はい。――私は香汕のある富豪の家に生まれました」
「香汕の富豪? じゃあ例の宋家と同じなのね」
「はい。私の父は海運業を営んでいて、私は子供の頃から父に連れられて、香汕の財界の人々が集まる晚會によく顔を出していました。その会場で宋家のご子息である、お坊ちゃんと出会ったんです」
「例の敗家子か」
金山の問いにうなずく莉甯。
「その場でどうやら彼に一目惚れをされてしまったらしくて……。それからと言うもの、会うたびに色々と言い寄られました。『結婚しよう』とか『付き合ってくれ』って」
「十年も前の話なら、そっちだってまだ子供だろ。全くとんでもねーヤツだな」
「話の腰を折らないの」
一応突っ込む靄超。
「でも正直私は、子供心にもその人のことが好きになれなくて……」
「そりゃ、相当なブ男なんだろーな」
結構ひどい事を平気で言う金山。
「それもあります」
結構ひどい意見にうなずく莉甯。
「――そういう訳で、私は彼の申し出を何度も断りました。そんなある日、彼がこんなことを言い出したんです。『素直にぼくの言うことを聞いておいた方がいいと思うよ』って。私は子供だったから、その時はその言葉の意味はよく分かりませんでした。だから、そう言われてからもお坊ちゃんの申し出を断り続けていたんです。……ところがそれから間も無くして、父の公司が波路土咖靁から輸入した紅衣炮を、当時眀と敵対していた鏋洲族に売り渡しているという嫌疑が掛けられたのです」
「紅衣炮――!?」
「阿武咯培阿製の大砲か。眀の軍隊が大量に使用して、溱の軍隊を追っ払うのに力を発揮したって言う……」
思わぬ単語に驚く金山と靄超。阿武咯培阿は西方大陸の音写である。波路土咖靁は先述の通り西方大陸の国であり、紅衣炮とはその波路土咖靁人が持ち込んだ大砲である(元々は紅夷炮と書いたが、後に同音の紅衣炮に改められた)。黒色火薬を使用する従来の大砲と異なり、錬金術の知識を駆使して調合された錬金火薬を使用する。その破壊力は旧来の大砲の比ではなく、我々の世界における、自走砲の榴弾などと比べても引けを取らないレベルにあった。
「現実に溱の軍隊が紅衣炮を使用していたのは事実です。ただそれは眀の軍隊が使っていた物を鹵獲したり、複製したりして使っていた訳で、もちろん武器の輸入など手掛けていない父の公司から流出するなんてこと、絶対に無いはずなんです。ですが当局は何者かの情報を鵜呑みにして、父の公司の船を強制臨検したんです」
「おいおい。まさか……」
結果を予測して顔をしかめる金山。
「――そのまさかです。父の公司が保有する貨物船から、絶対にあるはずの無い、紅衣炮が見付かり、父は当局に逮捕されてしまったんです」
無念そうに言う莉甯。
「そんなことって……」
喉がカラカラに乾き、後の言葉が出て来ない靄超。
「敵対する鏋洲族に、強力な武器を売り渡していたことが、国家に対する反逆罪と見做されました。当然父は無罪を訴えたのですが、判決は覆らずに死罪が課せられました。……父の公司は倒産し、家や財産は没収され、多額の借金が残りました。母は父を亡くした震驚と心労で、私を残して自殺してしまい、取り残された私は一人ぼっちで途方に暮れていました。……そんな時です。旦那様が、私が童養媳として宋家に嫁ぐことを条件に、父の残した借金を肩代わりしてくれるという話を持ち掛けて来たのは――。私は父も母も失い、住む所も食べる物も、着る物さえろくに無い状況で、ただの子供で働くことも出来ない身です。……私はその話を受け入れて、童養媳として宋家に嫁ぐ以外に、選択肢はありませんでした。お屋敷での生活は、経済的には何不自由の無い物でしたが、ただ旦那様には感謝はしているものの、やはりお坊ちゃんのことは、どうしても本心からは好きになることが出来ず、心の休まる日はありませんでした。……それから五年が経ち、お屋敷の使用人として醉白がやって来ました。――私は彼と出会ってから、初めてお屋敷の中で心安らぐ時間を手に入れました。もちろんお坊ちゃんや旦那様には秘密でしたし、会って話が出来るのは一日数分程度でしたが、彼と二人でいる時は本当に幸せでした」
「……」
莉甯の言葉に昔を思い出したのか、醉白が目を細める。
「……それからさらに五年が経ち――つまりこれは今年の話なんですが、お坊ちゃんが成人を迎えるに当たって、正式に婚姻を結ぶことになったんです。でも結婚式が近付いたある日、私はある事実を知ってしまったんです」
「ある事実?」
「旦那様とお坊ちゃんが話しているのを、偶然聞いてしまったんです」
余程の事があったのか、そこでわなわなと拳を震わせる莉甯。
「――父の公司の船に紅衣炮を忍ばせたのが、旦那様だったということを」
怒りを押し殺した声で、莉甯が告げた。
「な――」
「何ですって……」
衝撃の事実に絶句する金山と靄超。
「それじゃあ――」
「ええ」
うなずく莉甯。
「全ては二人の仕組んだことでした。お坊ちゃんが私を手に入れるために旦那様に頼んで、父の公司の人間を買収し、貨物船の中に紅衣炮を積み込ませたんです。その情報を当局に流し、さらに船を臨検した役人も、父の裁判を行なった灋官さえも、全て旦那様の息の掛かった人たちでした」
灋官とは裁判官の事である。
「何て、何て真似しやがる……」
搾り出す様にして、何とか声を出す金山。
「ひどい……」
こちらは憤りを通り越し、眩暈さえ覚える靄超。
「……おい。ちょっと待てよ。十年前ならその時はまだ、その敗家子も子供だろ。そこまでするか、普通? そんな粘着質なヤツがこの世にいるか?」
この世界にはまだ我々の世界で言うところのストーカーという言葉が存在しないので、その異常性を一言で説明する事が出来ない。
「狂気ね」
「私はその時になって初めて、以前お坊ちゃんの言っていた言葉の意味が分かりました。……分かって絶望しました。父に無実の罪を着せ、母を自殺に追い込んだ人たちと十年もの間一緒に暮らしていたこと。知らなかったとは言え、両親を死に追いやった人に感謝していたこと。好きでもない人の顔色をうかがって、いつわりの笑顔を作って暮らしていた自分がいたこと。――それを思ったらただ悲しくて悔しくて、もう何もかもがどうでもよくなってしまったんです。……でもそれを醉白に話したら、彼は『屋敷を逃げ出して一緒に暮らそう』って、そう言ってくれたんです……。だから、だから私はあの家を捨てたんです……」
話した事で怒りや悲しみ、悔しさが再び蘇ったのか、涙を零す莉甯。
「……」
黙ってその肩を抱き寄せる醉白。
「すまねー。そんな事情があったのに、知らずに、ひどいこと言っちまった。あんたがどんだけつらくて悔しかったのか、考えもしなかった……」
金山が頬を掻きながら、バツの悪そうに謝罪する。恩人を裏切り義理を欠いたと批判していた彼女が、まさか被害者だったとは夢にも思わなかったのだ。
「意外ね。素直に謝るなんて。人に頭を下げたことなんて無さそうな人だけど」
「話の腰折るなよ。オレだって悪いと思ったらちゃんと謝るっての」
靄超に茶化されたが、すぐに真顔に戻る金山。
「それで、その狗屎親子は今どこにいるんだ? オレは今、思いっ切りそいつらをぶっとばしてやりたくてウズウズしてるぜ」
真相を聞いて金山の腹は決まった。醉白と莉甯を助け、珠家角まで二人を無事に送り届ける事を。そして宋親子に犯した罪の報いを受けさせる事を。傲岸不遜で口は悪いが、悪を許さない気持ちはどこの誰にも負けないのである。
「いいえ。今回は私にやらせて。女の子の気持ちをずたずたに踏み躙るなんて絶対許せないわ。全国の婦女子に代わって懲らしめてあげるわ」
知り合って数日というわずかな期間であったが、早くも金山の影響が出始めたのか、彼女も言う様になって来た。
その後、追っ手に見付かる事も構わず(見付かった相手は全員返り討ちにしたので)船に乗り、珠家角鎭の目と鼻の先までやって来た一行。
「あれが珠家角か」
見えて来たのは江南の典型的な水郷である。運河と小運河が縦横に走り、石造りの橋が架けられ、その下を小舟が行き交う。黒い瓦屋根や漆喰の白壁からは赤い提灯が下げられていた。
「町の前に妙な連中がいるぞ」
動体視力以前に、単純に視力の良い金山が言う。三十人ほどの男たちが町の入り口の前、三〇丈(一丈は約三.二メートルなので約九六メートル)ほどの距離の街道上にたむろしているのを発見したのだ。
「追っ手ね」
「やはり待ち伏せしていたか……」
想像はしていたが、唇を噛む醉白。
「どうすんだ? 引き返すか?」
「いや。逃げてもどうせ同じ事だ。君たちの強さにすがらなければならないのは心苦しいが、あの町以外に俺たちには行く場所が無い――」
「そうこなくっちゃな。じゃあ遠慮無く暴れさせてもらうか」
ポキポキと指を鳴らす金山。戦いは避けられそうもない。避けようともしていないのだから。
珠家角に向かって歩いて行く四人。片や、町の前にいた男たちもこちらに向かって進んで来る。その中にはそれぞれ四人の男たちが担ぐ大きな籠が二つあった。
程なく、大声でなくとも会話出来る距離にまで近付いた。男たちが担いでいた籠を下に降ろす。
「ようやく見付けたぞ。莉甯、醉白」
そう言いながら籠から出て来たのは、あの宋石景である。馬車か船か、はたまた籠でそのまま来たのかは定かではないが、やはり珠家角に先回りしていた。
「旦那様……!」
その顔を見て醉白の表情が強張った。
「よくもやってくれたな。下男の分際で、主人の息子の花嫁をかどわかすとは」
そして莉甯を睨み付ける。
「お前もだ。父親の残した借金を肩代わりしてやり、二親を亡くしたお前を引き取って育ててやった恩を忘れおって」
「よくも……。よくもそんなことを……」
ぬけぬけと言う石景に、唇を噛み締める莉甯。
「やっと追い付いた。もう逃がさないぞ!」
新園も籠を降りてやって来る。今日は屋外だからか瓜皮帽(半球形の帽子。お椀帽)を被っていた。
「坊ちゃん……!」
「あんな絵に描いたような敗家子、いんのかよ」
「確かに関わり合いになりたくない類型だわ。結婚なんてもっての他」
新園の聞きしに勝るブ男ぶりと暑苦しさに、渋面になる金山たち。
二人の他に、彼らの乗る籠を担いでいた者たちを合わせて、ゴロツキ風の人相の悪い男たちが三十人ほど。その中には材高と胖子の姿もある。
「ちったあマシそうなヤツも混じってるか」
腕の立ちそうな相手を見定め、指を鳴らす金山。もちろん材高と胖子の二人はカウントされていない。
「もう逃がさないぜ、赤老んちょども」
「おで等の言った通りだっただど? おで等のやってる事は正しいんだど」
そこで存在を忘れられてはかなわないとばかりに、材高と胖子が口を挟む。
「そいつはどーかな。真相を聞いたらびっくりだ。やっぱあの時二人を助けて良かったと思ったぜ。こんな美人のねーちゃんが、あんな小胖子のブ男の嫁さんにされるのなんて我慢出来ねーからな」
ニヤリと笑う金山。
「同感。断然女の子の味方しちゃうわ」
「小肥佬のブ男だって!? それって誰の事さ!?」
「テメーだよ」
自覚の無い新園に金山が即座に突っ込む。
「何だって!? 何てむかつく細鬼仔なんだ! 父さん、こいつら懲らしめてやってよ!」
顔を真っ赤にして激怒する新園。
「言われんでもそのつもりだ。たっぷり痛め付けてやるわ」
「痛め付ける――? それはこっちの説詞だっつーの。テメーら廢物どものせいで、彼女がどんだけの目に遭って来たと思ってやがる?」
「儂は莉甯を童養媳として買ったんだぞ。そうでなければこの細妹仔はとっくの昔に野垂れ死んでおったわ」
「よくもそんなことがぬけぬけと言えるわね。彼女のお父さんを罠に嵌めて刑死させて、お母さんを自殺に追い込んでおいて」
「それでおためごかしに童養媳の話を持ち掛けるなんざ、やることがあくど過ぎるぜ」
「!?」
「お前たち、どこでその話を……!?」
なぜか事件の真相を知る、金山と靄超に驚く新園と石景。
「私がこの間、旦那様とお坊ちゃんが話しているのを聞いてしまったんです」
金山たちに代わって莉甯自ら説明する。
「――旦那様、私は十年前に私を引き取って、ずっと育てて下さった旦那様に感謝していました。でも真実を知ってしまったら、ただただあなたが、いえ、あなたとお坊ちゃんが憎いです。私から父と母を、何もかもを奪ったあなたがたが!」
「ふん……。知ってしまったのか。だがお前が悪いんだぞ。新園の言う事を断ったんだ。お前が素直に息子の言う事を聞いていれば、そんな手荒な真似はせんでも良かったんだからな……」
「何ですって……」
石景のあまりの言い種に、血が逆流する様な感覚が靄超を襲った。
「あなた正気!? 一体何考えてるの! 五歳かそこらの女の子が結婚なんて出来る訳無いじゃない! それも好きでも何でもない人だったら断って当然よ! それを親がしゃしゃり出て来て、無理やり童養媳にならざるを得ない状況まで追い込むなんて! 異常だわ!」
「そーゆー訳だ。テメーらは知らされてなかったみてーだが、その親子は本物の廢物混蛋だぜ」
材高と胖子に向かって言う金山。
「……まあ、正派な人間であろうがなかろうが、報酬さえ貰えりゃ俺等は構わねえ」
「そうだど」
そういう雇い主を数多見て来たのか、そもそも報酬さえ貰えれば、雇い主の人格は問わないのか、それともその両方なのか、特に意に介さない二人。こちらも相当のタマではある。
「あの細蚊仔が件の用心棒だ。奴を倒した者には最初の倍……いや、三倍の額の花紅を出すぞ」
「「おおー!」」
目の前にぶら下げられた人参に、ゴロツキたちからわっと歓声が上がった。
「かかれ!」
号令を下す石景。
「「お~!」」
刀や槍、斧などを持って一斉に金山に向かって行くゴロツキ軍団。だが、材高と胖子の二人は動かなかった。
「ん……? 何でお前たちは行かないんだよ?」
二人が動かない事に疑問を抱く新園。
「ふっ……。わざわざ俺等が行くまでもないって事でさあ」
「そうだど」
額に浮かぶ汗を悟られない様にしつつ、誤魔化す二人。
一方、果敢(?)にも金山たちに立ち向かって行ったゴロツキたちは――。
ドカ! バキ! ドゴッ! メリッ!
「何ぃ!?」
「ぐわ!」
「がはっ!」
「つ、つええ……」
戦闘シーンすら描かれずに、一瞬でボコボコにされるゴロツキ軍団。材高や胖子とどっこいどっこいの腕では、逆立ちしても金山には勝てなかった。
「あ~あ。案の定やられたよ」
「おで等、行かないで良かったど」
またたく間に全滅させられたゴロツキたちを、全く他人事の様に言う二人。
「何をやっている! お前達もさっさと行かんか!」
石景が二人に命令する。流石に雇い主は他人事では済ませてくれなかった。
「え?」
「嚴重かだど?」
「当たり前だろう! 何のためにお前達を雇ってると思ってるんだ!」
「お嬢さんを連れ戻すため」
嫌そうに答える材高。
「だったらさっさと行かんか!」
「いやー……。しかしあの赤老と戦う事までは、契約に盛り込まれて無いんでさあ……」
「そうだど」
「あいつが今まで送った刺客を返り討ちにした張本人ですぜ。俺等で勝てるんだったら、最初からお嬢さんを連れ戻してまさあ」
「そうだど」
「ふざけるな!」
まともな感覚の持ち主であれば口が裂けても言えない様な事を、平気でのたまう二人に激高する石景(当然と言えば当然であるが)。だが彼を、一人残った拳師が手で制した。
「打絡……」
「やりたくなければ下がっていろ。邪魔だ」
プッと口にくわえた楊枝を飛ばし、打絡と呼ばれた拳師が前に出る。年齢は二十歳を少し出た程度だが、物腰からして先ほどまでのゴロツキ連中とは違う。
陳打絡:石景が雇った拳師
「ダ、打絡!」
職場放棄をしている材高と胖子を除けば、唯一の戦力となってしまった拳師に向かって叫ぶ新園。
「殺せ! その細鬼仔を!」
「分かっている」
新園の言葉に不遜な態度で答える打洛。
「――小鬼、俺はその連中とは違うぞ」
倒されたゴロツキたちに、明らかに材高と胖子の二人を含めたニュアンスで打洛が言い放った。
「け、言ってろ。吠え面かくなよ」
「あの赤老は特別なんだど」
しかし金山の実力を身を持って思い知らされた二人は、蛙の面に水である。いや、むしろ打洛の身にこれから起こるであろう、不幸を哀れむ余裕(?)さえあった。
「門派を訊いておこう」
打洛が金山に尋ねる。金山の習得している、武術の流派を訊いたのだ。
「〝十全十美拳〟」
短く答える金山。
「じゅ、十全十美拳だと!?」
「まさか――!」
「強い訳だど!」
金山の言葉に驚く石景たち。
「そういうこと……」
ここに至って、初めて金山の実力のバックボーンを知った靄超も一様だった。彼女は金山がDr.キョンシーやクリムゾンキョンシーと戦った時にはもう、治療のためにその場を後にしていたため、金山の門派は聞いていなかったのだ。
「十全十美拳――万世最強の武術か……。貴様の様な小鬼が、あの大陸最強の武術の継承者とは驚きだが……」
「継承はしてねー。ただ流儀がそうだってだけだ」
「知っている。十全十美拳の継承者と言えばかの〝武功老師〟だろう」
「……」
打絡の出した名前にピクッと反応する金山だったが、特に何も言わなかった。
「出来ればそちらと手合わせしてみたいものだが――今日のところは弟子の方で我慢するとしよう」
サッ。
構える打洛。
「ちったあ、遣えるみてーだな」
立ち居振る舞いや体付きから打洛の技量を推し量る金山。
「並みの水平にしては、だけどな」
「ほざけ!」
ダッ!
金山の挑発に乗った訳では無いだろうが、走る打洛。あっと言う間に金山との距離を詰める。
「食らえ――千手緋怒羅拳!」
バババッ!
すさまじい速さで拳を繰り出す打洛。その腕の動きは、まるで千本の手があるかの様に見え、またその手の一本一本が意思を持った蛇の様にも見える。
「どうだ! この手の動き、見切れるか!?」
ズバババッ!
嵐の様に拳を振るいながら、徐々に金山との距離を詰めて行く打絡。その拳が金山に届くかという距離まで迫ったが、しかし――。
「おせーよ」
ガシッ!
打絡の両手首を掴む金山。常人の動体視力では、残像がかすかに見えるかどうかというほどのスピードであったが、金山は正確に打絡の拳を見極めていた。
「な――!」
ドカッ!
絶句する打絡の顎に、間髪を入れずに金山の蹴りが入った。
「がふっ」
ドサッ!
もんどりうって倒れる打洛。
「あ~あ。言わんこっちゃない」
「やっぱり強かっただど」
案の定と言った風な口振りの材高と胖子。
「くそっ!」
バッ!
流石に今の一撃ではKOされず、即座に起き上がり、再び金山に向かって行く打洛。
「はああ!」
ズバッ! ダッ! ブン! ヒュン!
続け様にパンチ、蹴り、手刀などを繰り出す。
「ふん!」
しかし金山はそれらをことごとくかわし、手で捌き、手の甲で防ぎ切ってしまう。
「くっ」
焦りの表情を浮かべ、一旦飛び退って距離を置く打洛。
「ば、馬鹿な……! 俺は上級拳師だぞ……! こんな小鬼に!」
息を切らせながら悔し気に言う。上級拳師とは仲華大陸における拳師の資格の一つで、登録すれば誰でもなれる三級拳師から上位の二級拳師になれるのは十人に一人、二級拳師がより上位の一級拳師に上がれるのは十人に一人、一級拳師が上級拳師に上がれるのも十人に一人と言われる。つまり上級拳師は千人に一人しか到達出来ない領域に達した拳師である――という事だが……。
「打洛! 高い金払ってるんだぞ! 負けたら承知しないからな!」
「誰に向かって言っている!」
新園を一喝する打洛。だが押されているのは新園にも石景の目にも明らかだった。
「上級拳師が歯が立たんだと……!」
思いも寄らなかった打洛の劣勢に石景も苛立つ。眀溱交代期の長きに渡る戦乱により、腕利きの拳師や術者が多数戦死した今、上級拳師の資格を持つ打洛は、雇った者たちの中でも抜きん出た実力者であったはずだが……。
「当てが外れたな」
その声が耳に届いた金山が言う。しかし何か策があるのか、石景にはまだ余裕があった。
「ふ、ふん……。商売というのはどんな時も最悪の状況を想定しておくものだ。この程度で儂を追い詰めたと思うなよ」
スッ……。
懐からフリントロック式の拳銃を出す石景。フリントロックとは火打石という意味であり、フリントロック式とは、火薬への点火に火打石を用いる前装式(先込め式)で施条の無い銃の事を指す。一七世紀に入り、従来のマッチロック式(火縄銃がそうである)に代わって西方大陸で普及している銃である。
「鉄砲?」
常人にとっては十分な脅威であり、脅迫の手段と成り得る代物であるが、生憎と常人ではない金山は全く意に介さなかった。
「父さん、あれを使うんだね?」
「そうだ」
父親の意図を理解し、尋ねる新園に短く答える石景。
「それって火薬で鉛玉を撃ち出す類型だろ。ンなモンじゃオレを撃ち殺すどころか、皮膚に傷も付けらんねーぞ」
鍛え抜かれた金山の肉体は鋼鉄よりも硬く、さらにその身を闘気で覆い尽くせば、拳銃どころか大砲ですら傷付ける事は出来ないだろう。あるいは錬金火薬を使った紅衣炮であれば話は別だが。
「さあ? どうかな」
パーン!
なぜか、金山に対してではなく、空に向けて銃を撃つ石景。
「……何の真似だ?」
「――?」
石景の行為を訝しる金山たち。当たったところでどうという事は無いが、銃弾を空に向かって撃つ、その意図が掴めなかった。
「ふふ」
「今に分かるさ」
不気味な笑みを浮かべる二人。次の瞬間――。
ヒュー!
「「!?」」
突如、風を切る音が周囲に響く。
ドーン!
「ぐあ!」
次の瞬間、金山の背中にどこからか飛来した砲弾が炸裂し、大爆発を起こした。
「うわあ!」
「きゃあ!」
爆風に顔を背ける醉白たち。数秒して煙が晴れると、道着の背中が破け、ひどい火傷を負った金山の姿があった。
「な、に……!?」
ドサッ。
その場に倒れ込む金山。
「金山!」
「金山君!」
突然の出来事に驚く靄超たち。
「一体何が!? どこから攻撃して来たんだ!?」
醉白が辺りを見回す。しかし周囲に打洛たち以外の敵の姿は見当たらない。
「……!」
冷静さを取り戻した靄超が、袖口から符籙を取り出す。
「千里眼符――!」
符籙を半分に千切り、その半分を空に投げる靄超。千里眼符は遠く離れた場所の様子を見る事が出来る〝千里眼〟の力を秘めた符籙である。符籙を半分に破り、その内の一枚を、様子を見たい場所に置き(今は靄超が空に投げたが)、残りの一枚を手元に置いておけば、符籙を通して我々の世界における監視カメラの映像を見る様に、遠隔地の様子を確認する事が可能である。
「あれは――紅衣炮!」
手元に残った方の符籙を目に当てる靄超。空に投げられたもう半分の千里眼符は珠家角の町を俯瞰し、町を見下ろす見張り台に設置された紅衣炮のビジョンを靄超の下に届けたのだ。
「あんな代物を持ち込んでいたなんて――!」
紅衣炮の存在を確認し、流石に驚く靄超。
「ふふふ。波路土咖靁の商人は金さえ積めば何でも用意してくれる。備え有れば憂い無しという奴だ」
念のための切り札として用意していた策が図に当たり、満足気にほくそ笑む石景。
「く!」
サッ。
靄超が袖口から別の符籙を取り出す。
「おっと。動くなよ、細妹仔。紅衣炮が狙っているぞ。例えお前はかわせても、倒れている仲間とその二人はそうはいかん」
何らかの抵抗を試みようとする靄超を、石景が制する。符籙や灋術を遣えば石景を倒す事は簡単だったが、同時に紅衣炮を無力化しなければ次の砲弾が飛んで来てしまう。
「くっ……」
悔しそうに唇を噛み締め、符籙を捨てる靄超。
ヒュー。
そこに風が吹いて符籙が飛ばされてしまう。
「高い金払って買っただけあってすごい威力だね、父さん! これぞまさに完全勝利だよ!」
周囲に新園の耳障りな叫び声が響いた。
「打洛」
顎を振る石景。
「ふん」
靄超が動かない事を確認し、醉白を睨み付ける打絡。
「――!」
ビクッと震え、表情を強張らせる醉白。
「主人に噛み付くとは悪い犬だ。お仕置きが必要だな」
フッ。
打洛の姿が醉白の視界から消える。
「な!?」
「こっちだ」
と、次の瞬間、あっという間にその後ろに回り込み、後ろ手に両腕を押さえ付けてしまう。
「ぐ!」
激痛に顔を歪める醉白。金山にこそ押されたものの、流石に超一流の拳師である。常人を凌駕したすさまじい怪力で、醉白には抵抗する事も出来ない。
「醉白!」
「ふはははは。良いぞ。こっちに連れて来い!」
ズザザ……!
石景の命に応え、醉白をその前に引きずって行く。
「ぐう……!」
何とか振り解こうともがく醉白であったが、やはりどうあっても抗えない。
「よくもやってくれたな」
グイ!
醉白の額を掴んで顔を上げさせる石景。普通ならば前髪を掴んで引っ張るべき状況だが、辮髪を結った醉白には前髪が無かったのだ(もっとも、この場にいる金山と材高以外の男たちは全員辮髪であるが)。
「押さえ付けろ」
材高と胖子に命ずる。
「了解!」
「分かったど!」
金山が倒されたのを見て、強気に戻った二人が後ろから醉白の体を押さえ付けた。やる事なす事全てにおいて最低最悪であるが、そういう生き方をして来て、今に至ったのであろう。
「お前、よくも僕の花嫁を!」
ドカッ!
新園が動けない醉白の顔を殴り付ける。
「ぐっ」
「醉白!」
バシッ! ドカッ!
「こいつめ! よくも!」
ドカッ! バキッ!
執拗に何度も何度も醉白の顔面を殴り付ける新園。もちろん彼は拳師ではないので、決して強い力ではなかったが、まがりなりにも大人の腕力である。たちまち醉白の顔が腫れ上がる。
「やめて! やめて下さい、坊ちゃん! 旦那様!」
新園のそばに駆け寄り懇願する莉甯。
「うるさい!」
ドカッ!
新園が莉甯を突き飛ばす。
「きゃあ!」
ズサァ!
砂埃を上げて地面に倒れ込む莉甯。
「抵抗出来ない人を……」
唇を噛む靄超。しかし紅衣炮がこちらを狙っている限りは、悔しいが彼女にはどうする事も出来ない状況であった。石景の言う通り、靄超だけなら砲弾をかわす事はそれほど難しくはないが、そうしてしまうと醉白と莉甯、そして倒れている金山の三人を見殺しにする事になってしまう。
「旦那様! 私はお屋敷に戻ります! だから彼を、醉白を許してあげて下さい! お願いです!」
地面に跪いた状態で、今度は石景に懇願する莉甯。
「お前が戻るのは当然だ。だが、駄目だな。……下男如きに息子の花嫁をかどわかされたとあっては、末代までの恥よ。それだけの罪をこいつは犯したんだ。その罰はきちんと受けてもらわねばな」
「そんな……!」
ドカッ! バキ!
その間もなお醉白を殴り続ける新園。
「やめてください、坊ちゃん!」
「うるさい!」
「きゃあ!」
すがり付く莉甯をまたも振り払う新園。
「お前、よくもこの僕に恥をかかせてくれたな!」
ドカッ!
今度は莉甯の方に向き直り、倒れている彼女を足蹴にする新園。
「あっ!」
短い悲鳴を上げる莉甯。
「待ちやがれ……小胖子混蛋……」
そこで金山がゆっくりと立ち上がった。
「金山!」
「金山君!」
靄超たちが叫ぶ。
「ほう」
これには流石に打絡も驚いた様子だ。先述の通り、紅衣炮の砲弾に使われる錬金火薬の破壊力は、原始的な黒色火薬とは比べ物にならない。亡国の足音が差し迫る眀朝が、優勢な溱軍を何とか押し留める事が出来たのも、この紅衣炮による戦果が多分にあったからなのだ。
「ちぇっ。あいつまだ立てるのか。おい、打絡、もっと痛め付けてやってよ」
新園がつまらなそうに言う。
「金山君、もう良いわ、立たなくて! 私たちのために戦ってくれてありがとう。でも良いの。私はお屋敷に戻るわ」
「言わなくて良い」
「え?」
金山の発した言葉の意味が分からず戸惑う莉甯。
「言わなくて良い……!」
「金山……君……?」
「嫌なんだろ!」
「!?」
金山に怒鳴られ、ビクッと肩を震わす莉甯。
「屋敷に帰りたくねーんだろ」
「良いのよ、金山君! 私はお屋敷に戻るわ! それで全て上手く行くの!」
「上手く行く? そいつと、そいつらと一緒に暮らすのがあんたの幸せかよ!」
「良いから! そのまま寝ていて! もう構わないでくれて良いわ!」
「両親を死に追いやった張本人なんだろ! そんな連中と一緒にいて、あんたの本当の笑顔なんて見られる訳がねーだろ!」
「――!」
押し黙る莉甯。
「ちげーだろ……!」
念を押す様に、金山が強い口調で言う。
「言えよ、ねーちゃん。そんな小胖子君と一緒に暮らすのは嫌だって」
「良いから! あなたがこれ以上、私たちのために傷付くところを見たくないわ!」
「言え! そんな暑苦しくて汗っかきの狗屎胖子と暮らすのは嫌だって!」
「誰が暑苦しくて汗っかきの狗屎肥佬だよ!」
聞き捨てならない悪質な悪口に抗議する新園。
「……!」
うつむき唇を噛む莉甯。
「……やっ……」
うつむいたまま、小声で何かをつぶやいた。
「何? 何だって?」
莉甯のつぶやきを聞き取れず、新園が訊き返す。
「いや……。私は暮らしたくない。この人と……。こんな人と……。父に無実の罪を被せて死なせて、母を自殺に追い込んだこんな人たちと!」
顔を上げて大声で叫ぶ莉甯。
「莉甯……! おまえぇえええ……!」
わなわなと全身を震わせる新園。
「そいつを――その言葉を聞きたかったんだ」
ニヤリと笑う金山。その身に力が戻った。
「だったら任せといてくれよ。そこの小胖子君にあんたは絶対に渡さねー」
新園を指差しながら金山が言う。
「よくも僕を亞丁にしてくれたな! 打洛、早くそいつを殺しちゃえ! 許さないぞ、お前たち! 絶対に!」
怒りで顔を紅潮させつつ叫ぶ新園。
「面白い小鬼だ。ここで殺すのは惜しいが、資助者からのご要望でな。私怨は無いが死んでもらおう」
打洛が金山に近付いて行く。
「心がぽかぽか温かくなるよーな、幸せな話を聞かせてもらったからな。今のオレはちょっと強いぜ」
首をコキコキと左右に振る金山。
「懲りない小鬼だ。ならば今度は確実に息の根を止めてやろう」
「さっきの倒下は紅衣炮のせいだろーが。テメーの攻撃なんざ一発も食らっちゃいねー」
「ほざけ! 蛇臂壓絞殺!」
シャッ!
金山の首を目掛けて右手を振るう。五指を蛇の口に見立てて、蛇が獲物に噛み付くかの様に金山の首筋を狙うが――。
ドゴッ!
「かっ……は!」
蛇の牙よりも先に、金山の肘打ちが打洛のみぞおちにめり込んでいた。
「ば、か、な……。こ、こんな、こ、小鬼に……、お、俺が、このお、れ、が……」
ドサッ。
苦悶の表情を浮かべ、地面に倒れ伏す打洛。
「すっ込んでろ、タコ」
冷徹に斬り捨てる金山。
「打洛!」
「狗屎垃圾め!」
毒づく宋親子。
「覚悟は良いか、狗屎堆ども」
金山が今度は宋親子の方に向き直り、怒気を孕んだ声で言う。
「亞丁めが! 勝った気になりおって! こちらにはまだ切り札がある事を忘れるな!」
パーン!
もう一挺別の拳銃を取り出し(一発しか撃てないので)、再び空に向けて鉄砲を放つ石景。
「……」
「どうしたの、父さん?」
「何だ?」
パーン!
さらにもう一挺、拳銃を取り出し、また一発撃つ。
「……」
チラッと靄超の顔を見る金山。
「……」
黙ってコクリとうなずく靄超。
「え? 何で? 何で紅衣炮を撃たないんだ?」
「何故だ? どうして撃たない?」
焦る宋親子。
「どうした!? 何故撃たない! 銃声は聞こえているはずだ!」
「何とか間に合ったみたいね」
「何?」
靄超の言葉に反応する石景。
「紅衣炮を操作してた人たちなら、今頃符吏にやられちゃってるわよ」
符吏とは符籙によって作り出される紙製の人形である。使用した術者そっくりの分身を造り出す場合と、官吏の姿をした別人を造り出す場合との二通りの使用法がある。戦闘力は使用した術者のおよそ十分の一であるが、紙に込められる霊力は限られるため一流の拳師や術者、高位の妖怪相手では到底太刀打ち出来ない。ただし囮や、忍法で言う空蝉の術の様に、攻撃を受けた際の身代わりとして使う事も出来るため、他の符籙や灋術と組み合わせる事により、様々な戦法を取れる様になる。
「フーリー?」
「どういう事だ!?」
「さっき私が出した符籙、あれって符吏を傳喚するための物だったの」
靄超に説明されて、その場面を思い出す石景。確かに靄超が袖口から何かの符籙を取り出していた。傳喚とは言わば召喚と同じ意味の言葉だ。
「たまたま風が吹いて飛ばされちゃったけど、せっかくだから利用させてもらったわ」
飛ばされた符籙が彼らの見えない場所で符吏となり、そのまま紅衣炮の所まで行き、操作している連中を攻撃した訳である。
「符吏の戦闘力は術者の十分の一だから、紅衣炮の方にも強い護衛を配置してたら完了だったけど、詰めが甘かったわね」
「え~!?」
「こ、細妹仔! 貴様!」
狼狽する宋親子。
「動くな二人とも! 動けばこいつを殺す!」
しかし石景が銃を醉白に向ける。一体何挺持っているのか、弾の入った別の銃である。
「と、父さん!?」
「何だ!」
新園の焦りの声に石景が訊き返す。
「あいつらが!」
見ると、醉白の体を後ろから二人掛かりで押さえ付けていたはずの材高と胖子が、彼を放り出して、戦場から遠ざかろうとしているではないか。
「悪いな、旦那。俺等はこの仕事下ろさせてもらうぜ」
「その赤老を敵に回すと命が危ないだど」
すでに一〇メートル以上離れた場所から報告する材高と胖子。
「何だとお前等! 何を言っている!」
「契約は破棄だ!」
「じゃあなだど!」
ダッシュで立ち去る、いや、逃げ去る二人。
「こら! 待て! 待たんか!」
その背中に向かって叫ぶ石景だったが、しかし自分が一番可愛いこの二人が止まるはずも無い。細身の材高はともかく、丸々太った胖子の方も中々の逃げ足の速さである。
「金で雇ってる連中なんざ、あんなモンだ」
「分かり易くて大変結構だわ」
二人組の対応を皮肉る金山と靄超。
「は!」
バシッ!
「ぐっ!」
醉白が、石景が注意を逸らした隙を突き、すかさず彼の手首を手刀で叩き、拳銃を弾き落とした。
「すいません……旦那様」
「き、貴様……!」
手首を押さえながら、悔しげな表情で醉白を睨む石景。
「ここまでだな」
珠家角に到着する前までに醉白に追い付いた追っ手は、すでに全て返り討ちにされている。そしてこの場では、取り巻きのゴロツキ三十名はKO、用心棒のはずの二人は逃亡、虎の子の上級拳師もKOされてしまい、もう戦力は残っていなかった。
「ぼ、僕らをどうするつもりだ……!」
「わ、儂は、儂は宋貿易集團股份公司の總經理だぞ……! 香汕の大富豪の……! その儂に手を出せばどうなるか分かっているんだろうな……!」
何とか虚勢を張る二人。
「今更そんなくだらねー脅しが通用すると思ってんのか?」
当然だがそれで金山が引き下がる道理が無い。
「あなたたちがどこの誰であろうとも、あなたたちのしたことは許せないわ」
ボウッ!
無論、靄超もである。彼女の右手に灋術の炎が燃える。
「ま、待て!」
「お金ならいくらでも払うから! だから命だけは!」
どんな悪逆非道な人物でも、追い詰められれば最後の最後にする事は同じらしい。命乞いを始める石景と新園。だが――。
「あなたたちの犯した罪は、お金じゃ償い切れないわ」
「地獄で金勘定でもしやがれ、廢物混蛋」
もはや靄超と金山の怒りを鎮める事が出来る人物は、この場の、いや、この世界のどこにもいなかった。
珠家角鎭の入口で醉白と莉甯と別れる事になった。
「ありがとう、金山君。靄超さん。何てお礼を言って良いか……」
靄超の治瘉符のお陰で多少腫れは引いたが、まだ痛々しい顔に笑みを浮かべる醉白。
「お二人がいなかったら、私はずっと両親を陥れたあの二人の言いなりでした。本当にありがとうございます」
頭を下げる莉甯。
「私は何もしてないわ。お屋敷から出ようとした二人の勇気が、彼の心を動かしたのよ」
謙遜する靄超。
「いや。――悪かったな。きついことを言っちまって。あいつらをぶっ飛ばしたのは、せめてもの詫びだ」
感謝されてもどこか面映ゆく、鼻を掻く金山。
「気になさらないでください。それ以上のことを、あなたは私たちにしてくださいましたから」
「ああ。たった今、本当の自由を手に入れたよ。一番大事な人と一緒にね」
醉白が莉甯の肩を抱き寄せる。
「そう。でも、現実からは逃げようと思えば逃げられるけど、最後の最後まで逃げ切れはしないわ。困難な道だけど、覚悟は良い?」
「ああ。もちろんだ。あの時、お嬢様を、いや、莉甯をお屋敷から連れ出した時から、その覚悟は出来ている」
「本当にありがとうございます。金山君、靄超さん」
またも深々と頭を下げる莉甯。
「俺達、二人で力を合わせてこの町で生きて行きます」
「そーか。幸せにな」
短い言葉で祝福する金山。
「いつかまた会えると良いわね」
「はい」
靄超の言葉にうなずく莉甯。金山と靄超、醉白と莉甯はそれぞれ別の道を行く。
「あの二人にだけは、幸せになって欲しいわね」
「疫病神は地獄に叩き落してやったんだ。そーなってもらわなきゃオレが困る」
二人の幸せを願う金山と靄超だった。
右から左に「珠家角鎭」と横書きされた牌坊(入り口の門)を潜る金山と靄超。
「特に予定は無いんでしょう? せっかく珠家角まで来たんだから、あの人に会いに行ってみない?」
「ああ、あの導士のおっさんか」
靄超の言わんとする事を理解する金山。伍角場で出会った、この珠家角の城隍廟で管理人をする事になっている、喬放生導士の事だ。
「顔ぐれーは出すか。珠家角名物の粽子でも食ってからな」
そう言って、菜館(食堂)を物色し始める金山。
「その前に服買いなさいよ。背中破けてるんだから」
そんな金山を靄超が止める。金山は先ほどの戦いで、紅衣炮の直撃を背中に受けているのだ。
「そういや背中がスースーすんな」
醉白の顔を治療する際に、金山も治瘉符を貼ってもらっていたのだが、流石にその回復力だけでは、完治には程遠かった。
「大火傷よ。その損傷でよく粽子を優先しようとしたわね」
呆れる靄超。
まずは金山の服を買い、それから食事を取る事にする。だがこの町でも新たなる事件が二人を待ち受けていたのだった。それはまた次回の講釈にて。
(劇終)




