星より近く
教室に吹き込む風に、甘い香りが混じっている。
大好きな、金木犀の香り。秋の匂い。
窓からのぞく空は、すっきりと青くて。いつまでも眺めていたくなる。
「梨乃っ。理科室行こうっ」
麻子に肩をたたかれて、われにかえった。
「えっ、つぎ理科だっけ。英語だと思ってた」
あわてる私に、麻子はしょうがないなとため息をついた。
「なに、ぼーっとしてんの。好きな人のことでも考えてたー?」
「いないし、好きなひとなんて。知ってるくせに」
麻子を軽くにらむ。麻子は最近彼氏ができたから浮かれているんだ。
夏休み明けから、ぽつぽつ、うちのクラスでも「つきあっているひとたち」が増え始めた。だけど、私はまったくそういうのに縁がない。麻子も、ほかの友だちも、私のことを「オクテ」だと言って笑う。中2にもなって恋もしたことないなんて、って言われる。普通だと思うけどなあ。
教室を出て、麻子と話しながら歩いていたら、どんっ、と大きな何かにぶつかって、はずみで、教科書やノート、ペンポーチを落としてしまった。
「いったあ……」
「大丈夫?」
「は、羽村くん。ごめんなさい」
ぶつかった「何か」は、同じクラスの羽村くんの背中だった。羽村くんはすごく背が高い。すでに180センチを超えていそう。
私がまごついている間に、羽村くんはしゃがんで、私の道具を拾いはじめた。
「ご、ごめんなさいっ」
「いいって」
ぶっきらぼうな、低い声。怒ってるんだろうか? 羽村くんは教室でも落ち着いていて、友達といっしょにいても、あまりはしゃいだり騒いだりしない。眉もきりっとつり上ってるし、めったに笑わないし、ちょっとだけ怖いなって思ってた。
何も言わずに、拾ったノートを私に手渡すと、羽村くんは去って行った。
「羽村、いい奴なんだけど。ちょっと無愛想だよねー」
麻子はそう言うと、私のほうを見て、なぜか、にやりと意味ありげにほほえんだ。
「なに?」
「羽村ってさ。梨乃のこと、かわいいって言ってたらしいよ」
「へ?」
私? と、私は自分の顔を自分で指さした。羽村くんが? 私を?
麻子は、こくんとうなずいた。
自慢じゃないけど、生まれてこのかた、一度だって男の子に「かわいい」なんて言われたことない。家族や親せきにすら言われない。
思わず、自分のほおを手のひらでつつみこんだ。なんだか、熱い。
私のどこがかわいいの? 羽村くんの趣味が変わってる? いや、そもそも誰かと私を間違えてたんじゃないのかな?
気持ちがふわふわしていた。授業にも、ちっとも集中できない。
ぼうっとしている間に理科の授業は終わり、給食の時間も終わり、昼休みも終わってしまった。
チャイムが鳴る。5時間目は、文化祭の係り決めをする。
「じゃあ、希望の係のところに、自分のネームプレートを貼ってくださーい。多いところは、あとでジャンケンで決めまーす」
文化祭実行委員の多田くんが黒板の前に立って、仕切っている。 クラスの出し物はすでに決まっている。「プラネタリウム」だ。
みんなが、ぺたぺたとネームプレートを貼っていくなか、私はぐずぐずと迷っていた。
今、希望者がいないのは、ナレーション原稿作成、の係。天体や宇宙や星座の解説を考えるってことだよね。大変そうだけど、文章を書くのは得意なほうだし。原稿を作るだけで、自分で読まないでいいなら、これにしようかな。
えいっ、と。黒板に自分のプレートを貼る。と、ほぼ同じタイミングで、私のプレートの上に、「羽村」のネームプレートが貼られた。
えっ。羽村くんも、原稿係希望なの?
思わずふり返ると、私の真後ろに羽村くんがいて、ばっちり目が合ってしまった。
「……あ。あの」
かあっと、顔が熱くなった。何か言わなきゃと思うのに、何もことばが浮かばないよ。
「はーい。じゃあ、希望が出そろったので、みなさん自分の席に戻ってくださーい」
多田くんがぱんっと手を叩く。私は逃げるように自分の席に戻った。
なんで? どきどきする。
かわいいって言われただけで。それも、言ってた「らしい」ってだけで、自分で聞いたわけじゃないのに。私、気にしすぎだよ。
話し合いはどんどん進み、結果、私は希望通り「ナレーション原稿作成係」になった。
しかも、羽村くんとふたりで。ふたりだけで!
ホームルームが終わったあと。羽村くんは私の席にやってきた。
「宮田さん」
「は、はいっ!」
声をかけられただけで、びびってしまう。羽村くん、まったく笑ってないんだもん。
「文化祭。大変そうだけど、がんばろうな」
「は、はいっ……」
これから文化祭当日まで、ふたりで作業するんだ。私、大丈夫かな?
翌日から、文化祭準備がはじまった。
プラネタリウムの投影機は、市販のものを使う。クラスに持っているひとがいるらしい。あとは、段ボールで暗いドームをつくったり、星に関する展示をしたり、飾り付けたり。
放課後、みんなが教室で段ボールを切ったり貼ったりしている中、私と羽村くんは図書室にこもって資料とにらめっこ。
「文化祭本番の日の、中学校上空の天体の解説と、あとは、秋から冬のオーソドックスな星座の解説でいいんじゃないかな」
たんたんと、羽村くんは告げる。
「当日の空については、星座アプリで調べておいた」
「すごい……」
私、なにもやってない。あわてて、星の本をめくって、星座のページをひらいた。
「わたし、知ってるの、オリオン座だけだ……」
夜空を見たって、星座なんてわからないもん。
「オリオン座のベテルギウスは、もうすぐ寿命を終えようとしている星らしい」
「星が? なくなるってこと?」
興味をそそられて、本を見た。
「ベテルギウスって、太陽から640光年も離れているんだ……。光が届くまでに、640年もかかるってことだよね?」
「そういうことだな」
想像もできないよ。あまりにも遠すぎて、自分の存在も、自分の世界も、すごくちっぽけに思えて。
じっと押し黙ってしまった私を見て、羽村くんは、いきなりふきだした。
「えっ? な、なにがおかしいの?」
羽村くんは一生懸命笑いをこらえている。こんなふうに笑うとこ、はじめて見た。
「ごめん。すっごい神妙な顔してたから。つい」
そんな風に言われると、すごく恥ずかしくて、顔が熱くなる。
「今日はこのくらいにして、早く帰らないとな」
そう言われて窓の外を見ると、もう陽は沈んで、オレンジ色の空が、だんだん淡いむらさき色に変わりはじめていた。
いくつか本を借りて、図書室を出る。
「遅いから、送ってく」
つぶやくように、羽村くんは言った。
「あぶないから」
「……いいのに。私の家、遠いよ」
私の声は、なぜか、消え入りそうになってしまった。
「だったら、なおさらだろ?」
小さく、羽村くんがほほえむ。また、笑った。私の心臓、とくとくと鳴っている。
黄昏時の街を、ふたり並んで歩く。
背の高い羽村くんのとなりにいると、149センチの私は、まるで小さな子どもみたいだ。制服を着ていなかったら、高校生と小学生の兄妹に見えるかもしれない。
羽村くんは私の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いてくれている。ずっと無言だけど、もう怖いとは思わなかった。ただ、なんだか……、胸が詰まったような、苦しいような、へんな感じがする。
「あっ」
ふいに、私は足を止めた。
「金木犀の匂いがする」
ひんやりした10月の、黄昏の空気に混じって、金木犀の甘い香りが、鼻先をくすぐったのだ。思いっきり、吸い込む。
「この匂い、すごく好き」
つぶやくと、羽村くんも歩を止めた。
「そうか? 芳香剤の匂いっぽくね?」
「えっ! そんなことないし!」
思いがけず興が覚めるようなことを言われて、私は羽村くんを軽くにらんだ。羽村くんは苦笑した。
「たぶんこれ、俺んちに生えてる金木犀の匂いだと思う」
羽村くんの家の? こんなに強く香るってことは、この近くってこと?
「少し遠回りになるかもだけど、よかったら見てく?」
思いがけない提案に、私はこくりとうなずいた。
脇道に入り、少し奥に進んだところに、羽村くんの家はあった。白い大きな、洋風の一戸建てで、庭も広い。
「すごい。すてきな家だね」
もう、あたりが薄暗くて庭の様子は詳しく見えないけれど、金木犀の大きな木があるのはわかった。むせかえるほどの、濃い香りがする。
「見かけだけは、な」
羽村くんの低い声が、なぜだか少し、淋しげに響いた。見かけだけ……?
「そうだ。宮田さん、ちょっと待ってて」
急に羽村くんは大きな声を上げると、門扉を開いて敷地に入っていった。何だろう?
しばらくすると彼は戻ってきて、私に、金木犀を一枝、手渡した。
「えっ。いいの?」
黙って、羽村くんは頷く。淡いオレンジ色の、可憐な小さな花たちが、甘い香りを放っている。
「ありがとう」
すごく、うれしい。
「早く行こう。遅くなってしまった」
羽村くんは自分の家をあとにして、歩き出した。
「う、うん」
それから彼は、私の家まで、しっかりと送ってくれたのだった。
私は金木犀の枝を、水を張ったガラス瓶に挿して、自分の机に飾った。
甘い香りが私の胸の中に満ちて、そして、全身に広がっていく。
羽村くんは優しいひとだと思った。優しいひとだと思うと、なぜか胸の奥が甘く疼いて、今日彼が見せた笑顔を思い浮かべると、また胸が苦しくなって。
ごはんの味もわからないぐらいだし、お風呂でもぼうっとしてシャンプーを2回もしてしまうし、布団に入っても眠れない。
――私のこと、かわいいって言ってたって、ほんとかな。
つい、そんなことを考えてしまっていた。
想像の中の羽村くんが、私の目をまっすぐに見つめて、「宮田さんはかわいいよ」と低い声でささやく。
「ひゃああああっ!」
思わず叫んで、がばっと飛び起きた。心臓が、ありえないぐらい速く波打っている。
少し前まで、羽村くんのことを、怖くて近寄りがたいとさえ思っていたのに。
なのに。なのに。
気がつけば、彼のことばかり考えてしまっている。
私は単純な人間なのかもしれない。
文化祭の準備は着々と進み、ナレーション原稿も順調にかたちになっていった。私たちは図書室ではなく、みんなが作業している教室で内容を詰めていった。
そしていよいよ、文化祭前日。クラス全員で居残りして、ドームを組みたて、教室に展示物を貼っていく。すべての作業を終えた時、もう外は暗くなっていた。
遅いから集団下校するように、という先生の指示があって、みんなと一緒に下校する。男子は男子で、女子は女子で固まって、遠足みたいにぞろぞろと歩いて帰った。
私は麻子たちとおしゃべりしながらも、羽村くんの背中をずっと見つめている。大きな背中を。
文化祭が終わってしまったら、彼とのかかわりも、なくなってしまうのかな。
頬を撫でていく風が、ひときわ冷たく感じる。思わずため息をこぼすと、麻子が、
「告りなよ」と、私の耳元でこっそりささやいた。
「え?」
こ、こくる?
「羽村だよ。最近、梨乃、羽村のことばっか見てるじゃん」
ずばりと麻子に指摘されて、私はぎくっと固まった。
「好きになっちゃったんでしょ?」
「えっ。ち、ちがうよ。ただ単に、ちょっと気になるっていうか、つい見ちゃうっていうか……」
もごもごとごまかした。ちっともごまかせてない気がするけど。
毎日毎日、羽村くんと交わした会話を、脳内で反芻して、彼にもらった金木犀の花をぼんやり眺めてため息をついているけど。でも、す、好き。って……。ほかの人の口から言われると、くすぐったくて逃げ出したくなる。
「梨乃が勇気出したら、うまくいくと思うけどな。羽村だってあんたのことかわいいって言ってたわけだし」
「そのことだけど。ほんとなの?」
「ほんとだよ。澤部たちが言ってた。男子で集まったときに、誰かがうちのクラスの集合写真持ってきてたらしくて。その場のノリで、誰がかわいいって思うかいっせいに指さそうってなったんだって。んで、羽村はあんたを」
麻子がぜんぶ言い終わらないうちに、
「宮田さん!」
と、羽村くんが私を呼んだ。びっくりして心臓が縮みそうになってしまった!
麻子はにまにましながら私の背中を押す。
羽村くんのそばに寄ると、彼は、空を指差した。
「オリオン出てるよ。赤いのがベテルギウス」
「あっ。ほんとだ」
すっかり暗くなった空に、明るい星たちが光っていた。オリオンは真ん中の3連星が特徴的だから、私でもすぐにわかる。
「640年前の光だね」
「ん」
プラネタリウムのナレーション原稿にも、ベテルギウスのことを盛り込んだ。
もうすぐ爆発して、命を終えようとしている星。だけど、その光が地球に届くまでに、640年もかかる。もしかして私たちが見ているのは、もうすでに失われた光なのかもしれない……、って。
「不思議だよな」
羽村くんがつぶやいた。
「星は好きなんだ。自分が塵みたいにちっぽけに思えてくる、その感覚が好きで。だからって、自分の悩みがなくなるってわけじゃないけど。それでも、遠い果てしないものに思いを馳せてると、なんとなく落ち着くんだ」
静かに、羽村くんはそう言った。
「ごめんな。急に、こんな自分語りして」
「……ううん」
自分の悩み、ということばが引っかかって、棘になってちくりと私を刺す。
羽村くん、なにか悩んでいることがあるんだ……。
「いけね。みんな、もういない。俺たち、置き去りだ」
羽村くんは、何かをごまかすみたいに、ははっと笑った。
一緒に作業するようになって、たくさん彼の笑顔を見るようになった。だけど、さっきの笑みは。どこか、悲しげで……。
「羽村くん。あの」
彼の学生服の裾を、きゅっと、つかんだ。
「あの。私……」
なにか、わけのわからないかたまりが、胸の奥からせりあがってくる。苦しくて、こんな気持ちははじめてで、私は。
「私、羽村くんのことが、」
なにを告げようとしているんだろう。
「好きです」
どうして。今。私は、こんなことを打ち明けてしまっているんだろう。
羽村くんの背中が、泣いているみたいに見えたから。彼が無理して笑顔を浮かべたのを見た、その瞬間。彼が、なにか途方もない淋しさを抱えているような、そんな気がしてしまったんだ。
「そばにいたい、です」
自分が、まさか、こんな気持ちになるなんて。
きゅっ、と。学生服を掴んでいる手に、力をこめる。心臓はこわれそうなほどに高鳴っていた。
「……ごめん」
低い声で、羽村くんはそうこたえた。
「ごめん。おれ、宮田さんのことはきらいじゃないし、いっしょの係で仲よくなれて、よかったと思ってる。でも」
澱のように沈んでいく、静けさ。
街は夜に飲みこまれていた。
オリオンは光りかがやいている。640年前の光は、かがやいている。
「わかった」
と、私は言った。張り裂けそうなほど、胸が痛いよ。
「……送るよ」
羽村くんは、小さく、つぶやくように私に告げた。
はじめての恋は、あっさりと終わってしまった。あっけないほどの幕切れ。
文化祭当日、プラネタリウムは好評だった。暗幕を貼って真っ暗にした教室、段ボールで作ったドームの中も完璧に黒く塗り上げ、投影された星空に合わせて、ナレーション係の子が解説を読み上げる。
私と羽村くんが考えた、星空解説。
文化祭。生徒たちはみんな浮かれて、テンション高く盛り上がっている。
麻子たちといっしょに、他のクラスの展示を見て回って。ふいにひとりになりたくなって、みんなと別れて、廊下にたたずんで、窓の外の空を眺めていた。
吹きこむ風に、甘い香り。
あの日羽村くんにもらった金木犀は、まだ私の机の上にある。
オレンジ色の小さな花は、すべて散ってしまっていた。星屑みたいな花だと思った。
花は散るし、星も消える。
ふられてしまったけど、羽村くんとは、友達でいたい。悩んでいることがあれば、打ち明けてほしい、って。さんざん泣いた私は、それでも、彼の力になりたいな、って。そう思って文化祭にのぞんだ。
なのに、羽村くんはいなかった。欠席、らしい。
ぱたぱたと廊下を駆けてくる足音が近づいてくる。騒々しいなと思って見やると、麻子だった。
「梨乃っ!」
「どうしたの、そんなに息を切らして」
「さ、っき。澤部たちが噂してたんだけどさ。羽村、」
どきりと、した。羽村くんの名前を聞いたとたん、胸に鋭い棘が刺さる。
「羽村。転校するんだって」
「えっ」
頭が真っ白になった。
「ほんとなの?」
「わ、かんない。でも、澤部が、羽村のお母さんが先生と話してるのを聞いた、って」
「なんで、どうして」
あの、金木犀の木のある、広い庭つきの白い大きな家が、脳裏に蘇った。
見かけだけはな、と自嘲ぎみにつぶやいていた、羽村くんの横顔も……。
「ごめん、麻子。先生に、具合が悪いから早退しますって言っておいて!」
「えっ。ちょ、梨乃っ?」
私は駆け出した。
校舎を出て、まっすぐに、羽村くんの家へと。
甘い香りが近づく。濃く、深くなっていく。
羽村くんの家の門扉は開いていた。ためらっている時間はない。まっすぐに進み、インターフォンを鳴らす。
全速力で飛ばしてきたから、息が切れて苦しかった。だけど、早く羽村くんに合わなきゃ。会わなきゃ、私、二度と、彼に。
――どちらさまですか?
羽村くんの声だ。高鳴る胸を押さえて、私は自分の名を告げる。
と、扉が開いた。
「宮田さん、どうして」
ジャージとトレーナーすがたの羽村くんが、目を丸くした。おでこに熱冷ましのシートを貼っている。……風邪だったんだ。
へなへなと力が抜けて、私はその場にくずおれた。
「羽村くんが転校するって聞いて。もしかして、もう出発しちゃったのかと思って……」
涙があふれてくる。恥ずかしくて、見られたくなくて、あわててごしごしとぬぐった。
「転校するのは本当だけど、まだみんなに話してないし、いきなり行ったりはしないよ」
「そ。そう、だよね……」
冷静に考えたら、その通りだ。なのに、私、気が動転してしまって。
「ごめんね。具合悪いのに、いきなり来ちゃって……」
すごく恥ずかしい。そして気まずい。
「あがりなよ。今、誰もいないから」
こくんと、うなずいた。羽村くんは自分の部屋に案内してくれた。
「最後の文化祭だから行きたかったけど、熱出ちゃって。もう下がったけど」
「その。……いつ、転校するの?」
冬休みには、と、羽村くんは答えた。お母さんの実家のある、長野県に行くと。地図でしか知らない、テレビでしか見たことのない場所だ。
「おれんち、さ。両親が離婚するんだ。母さんが、ずっと、同居のじいちゃんばあちゃんに冷たく扱われてて。父さんも見て見ぬふりで。耐えられなくって、もう出ていく、って」
羽村くんはひと息に、そう言った。彼の抱えていた淋しさの正体を、はじめて知った。きっと今まで誰にも言えずに、心の中に貯めこんでいたんだろう。
「おれは母さんについていく。父さんにはこの家に残るように説得されたけど、ごめんだ。学校変わるのは淋しいけど、でも」
羽村くんはそこで、ことばを切った。
「宮田さんとも、せっかく仲良くなれたけど」
それでも、羽村くんの瞳は揺らがない。自分で決めたこと、なんだね。
「最後に、一緒に過ごせて嬉しかった」
「最後だなんて、言わないでよ」
切なくて。彼がこんな風に、私とのかかわりを絶とうとしていることが、もどかしくて。
「私、やっぱり羽村くんが好きだよ。羽村くんが転校しても、その気持ちは変わらないよ」
ぎゅっ、と。ひざに置いた手に、力をこめる。
「でも俺、そばにいられないから。たとえつきあっても、ほかのやつらみたいに、一緒に帰ったり、どこか出かけたり、そういうこと、できないから。遠くに行くから」
「でも。星より、近いよ」
考えるより先に。私は、そう口にしていた。
「確かに長野は遠いけど。同じ国だし。空に浮かぶ星たちに比べれば。全然、近いじゃん」
私は、あふれる涙をのみこんだ。
羽村くんは、泣きそうな顔で笑うと、私の手を、そっと握りしめた。そして。
「ありがとう。……俺も、本当は、宮田さんが好きだ。ずっと好きだった」
と。低い声で、私に告げた。