黙ってあたしに抱き締められて?
シルクのパジャマを纏い、階段の上からオレを呼んだのは、この娼館一の稼ぎ頭、ローズ。二十ウン歳だという噂なのに、まだ十代であるかのような若々しさと美貌を誇るねーちゃんだ。
「お菓子でも食べて、一緒にお喋りしましょ?」
嫌そうな顔をしたババアの、長い溜息。
「……入ンな」
仕方なさそうに顎をしゃくるババア。
多分、本気で嫌なのだろう。けど、ナンバーワンの機嫌は取っておきたいというところか?
オレは、ローズねーちゃんのお気に入りだし。
「お邪魔します」
綺麗に飾ってある表側とは違い、少し狭い猥雑なバックヤードを歩き、階段の上から手招くローズねーちゃんの部屋へ。
ベッドと小さなテーブル、丸椅子が二脚だけの質素な部屋。香水なのか、ふんわりと甘く香る花のような匂い。
中に入ると、ドアに鍵が掛けられる音がした。
手紙類をテーブルへ置くと、背後から熱い体温にふわっと抱き締められる。
「……」
無言で、抱き締められる。柔らかくて熱い体温、ローズねーちゃんの甘い匂いに包まれる。
暫くされるがままにして――――
最初はそっと。そして、段々と力が籠って行く。ぎゅっと強く、ローズねーちゃんが自分自身を守るように。
ローズねーちゃんは、オレの命の恩人だ。
あの女に殺されかけたとき、オレに人工呼吸をして息を吹き返してくれた人。「気付かなくてごめんね」と、泣きながら後で謝ってくれた人。
多分、オレのことを好きでいてくれるであろう彼女は、オレの大好きな人だ。
他の女は怖いけど、ローズねーちゃんは平気。
物心付いたときには、既にこうやって抱き締められていた記憶がある。
ローズねーちゃんがオレに求めるのは、黙って抱き締められること。子供が、精神安定の為にぬいぐるみを抱き締めるようなものだと自分で言っていた。
ぬいぐるみは喋らない。だから、オレも喋らない。黙って抱き締められる。「ぬくもりが欲しくなるの。でも、男は駄目。男に縋ると、二度と立てなくなるわ。女の子も駄目。同業の子に、弱味は見せられないもの。だから、コルドちゃん。あたしのぬいぐるみになって? あたしの、ぬいぐるみ。温かくて柔らかいぬいぐるみ。いい? コルドちゃん、ぬいぐるみは喋らないの。黙ってあたしに抱き締められて?」と、昔言っていた。
トクントクンと、ローズねーちゃんの心音と呼吸する音が響く。
煩わしく構われるのは苦手だが、こういうのは悪くない。彼女がオレに要求するのは、黙って抱き締められることだけ。
静かに無言の温もりが続き――――
「……はぁぁ……」
やがて、深い溜息が吐かれた。
「……ありがとう。コルドちゃんは、本当になにも言わないから好きよ」
少し疲れたような甘い声。ふっと力が緩み、頬に柔らかな唇が落とされる。
「オレも、ローズねーちゃんは好きだよ」
「嬉しいわ。明日も……来てくれる?」
甘い声に微かな震え。まだ、精神安定が足りないようだ。
「いいよ。暫く来てなかったし。他のねーちゃん達が寝てる時間ならね」
他のねーちゃん達は、少し怖い。あの女ではないと判っているが、ローズねーちゃん以外の女に触られるのは、苦手だ。
「なら、お昼過ぎに来て?」
「OK。でも、下通るのめんどいから、窓から入ってもいい?」
窓を指す。窓の外には木が生えていて、窓の方へと枝を伸ばしている。それを伝えば窓から簡単に行き来ができる。ただし、枝はあまり太くない為、大人が乗れば折れるだろう。
「なら、鍵を開けておくわ」
「うん」
「じゃあ、明日ね? 待ってるわ」
「わかった」
お土産にと、ローズねーちゃんがクッキーの缶詰めをくれた。手紙類も忘れずに持ち帰る。
さて、まだ日は落ちないし――――
図書館でも行くかな。と、歩き出したところで、銀灰色の大きな犬がぬっと現れる。
「っ!」
忘れていた。ファングがいたんだっけ?
ものすごく嫌そうな顰め面だ。なのに、付かず離れず後ろから付いて来る。
ふと、思い出した。
「そういえば、犬は香水が嫌いなんだっけ?」
ゆらりと振られる尻尾。
「なら、離れれば?」
思案するように足を止めるファング。
やっぱりこの犬は、とても頭が良い。明らかに、言葉を解している。
そしてファングは、オレから距離を取ることにしたようだ。少し離れた位置から銀灰色の毛並が付いて来る。
道を歩いていると、
「コルドっ!」
ホリィの声がした。めんどくさいな。
「一緒に帰……」
帰ろう、と言いかけたであろう言葉が途切れ、ソバカスの笑顔がムッとしたような表情へと変わる。
「どこ行ってたの?」
「……」
「ローズねーさんとこ、だよね?」
否定も肯定も面倒だ。溜息が出る。
「黙ってたって、匂いで判るんだから! この香水、ローズねーさんのだし」
ホリィだってローズねーちゃんのことは嫌いじゃないクセに。いつの頃からか、オレが彼女と二人切りで会うと、なぜか不機嫌になる。
しかも、理由を聞いても言わない。
「……」
こういうときは、だんまりに限る。
「ちょっと、なんか言ってよ」
「……帰る」
「もうっ、コルドのバカっ!?」
なんか言えというから帰ると言ったのに、バカとは理不尽な。
「あからさまに面倒って顔するなっ」
口を尖らせるホリィ。
仕方ない。どうせ、この件に関してはオレもホリィも折れないことは判っている。ここは一つ、お茶を濁すことにしよう。
「……クッキー、貰った。帰って食べよ」
返事の前に、ホリィの手を取って歩き出す。振り解かれないから、多分嫌ではないのだろう。まあ、帰ることに異存が無いだけなのかもしれないが。
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