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時計塔の鐘が風で揺らされるなか、風で眼が乾くのを嫌った白狼路樹は身につけていたジャケットで顔を隠しながら通路を走っていた。
走っている先には勤め先であるフレイ・マンションの分厚い木製のドアがあり、路樹は体全体でドアを壁の中に押し入れるようにして隙間を作り、自分の身体が入る程度の隙間ができたら、すかさずそこをすり抜けた。
マンションの中は茹でたキャベツと濡れた雑巾を混ぜたような匂いでする。
路樹の勤め先はここの四階にあり、階段に向かって進んで行った。
ここの階段の踊り場には窓は無く、同じポスターの様なものが貼られている。
そのポスターには老人――隻眼長髭の杖を持った老人が描かれていて、登る度に眼が合ってしまうのだ。
老人の隻眼に。
『ヴァルファザーがあなたを造られた』
そう絵の下に書かれている、このポスターには魔法仕掛けが施されていて常に見るのだ。
俺を。
正確には、ヴァルファザーと呼ばれるこの老人が描かれた絵を見るやつの眼を見るのだ。
たとえ背を向けても、眼球があるであろう位置に絵に描かれていた眼は見つめるのだ。
こんな絵がこのフレイ・マンションの中どころか、この街全体に貼られているのだ。
こうして、ヴァルファザーと眼を、階段で三階、通路で二回、曲がり口で一回、勤め先のドアに一回合わせ、中に入るとそこは紙束の山だ。
紐で縛られる事も無く、乱雑に積まれた紙がテーブルだけではなく、床にも椅子にも積まれ、小さな紙束を幾つか跨いで自分の所定の位置へ。
例外も無く、路樹の机にも紙束の山が積まれていた。
書類を読み上げる者もいれば、紙を燃やす者もいて、白目を剥きながら紙を食べているヤツもいる。
そんな彼らには共通点がある。俺もだが。
彼らは確認しているのだ――
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戦は安心を呼び
束縛は自由を創る
無知は人を勇敢にする
現在を意味するヴェルザンディと名付けられたこの部屋では文字通り『現在』を造っている。
正確に言えば、彼らの言葉を借りるのであれば『完全な現在』と言うべきか。
ここにある多くの紙束は、ヴェルザンディから出たら街に住む人々に配られる。
その街の人々が読む記事だからこそ、誰かが内容を確認しなければならない。
仮に読んで不安になる内容が書いていれば困るので、安心できる内容に治すだけだ。
ここにある紙は親紙と親紙それぞれに属する子紙に分かれていて、親紙に書いてある内容が子紙に反映される。
親紙の内容が変われば自動的に子紙の内容も同じように変わる。
仮に配られた子紙の内容に問題が見つかれば、すかさずここにある親紙の内容が修正され、より『完全』になるのだ。
仮に修正が不可能なら破壊すれば、その子紙も同時に消滅する。
明日の天気、作物の状態、政治的な話やら、諸外国の状況、連載中の小説等、街の市民に伝えられる情報の全ては必ずここを一度通る事になる。
街の市民は『完全』である故に、全ての情報は当然『完璧』だ。
だからそもそも確認する必要は無いのだが、より『完全』に近づける事は可能であり『完成』すれば、より市民達は『完全』なる情報を手にする事ができる。
ここは『完全』を『完全』にし、『完全』を『完全』に伝える。
『不完全』が仮に実在するとしたら、それを排除するためにここはあるのだ。
ここは『ミズガルズ』偉大なるヴァルファザー達によって作り上げられた『幸福』で『完全』な街であり世界――
そう表現するのが『完全』とされていた。
勿論、この地に産まれた落ちた俺もまた完璧である――
そう路樹は思っていた。
完全で完璧なる路樹はその日の仕事――
今季のミズガルズ農業地区で生産された大麦の量が年間平均消費量の七割相当の所を十一割相当と『より完全』に導き『完成』とする仕事だ。
既に『完壁』であった話は『完成』のままであったが、『完璧』であるが『完成』に導かれていない関連の話を探し『完成』とする作業にその日が費やされた。
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仕事を終え、自室に戻った路樹。
寝室の壁に描かれているヴァルファザーの絵は路樹を見つめていた。
ヴァルファザーの隻眼がゆっくりと閉じ、その姿を消した。眠ったのだ。
創造主であるヴァルファザーが眠る時、完全である者もまた眠る時を意味する。
路樹は寝台の下からノート、不揃いの紙を紐でまとめた物ではあるが、をとりだし。
窓から差込む月明かりを頼りに、書き綴った。
帰りたい
帰りたい
帰りたい
帰りたい
帰りたい
何度も続けて書かれていた。ほぼ全てのページに。
帰るべき場所は既にこの部屋にいるにも関わらず、路樹は『帰りたい』と隠し持っていたノートに書き綴っていた。
これが彼が今、本気で思っている事なのだ。
彼が今いる場所はミズガルズ。
決して、彼が帰ると称して行こうとしている場所ではない。
彼は『日本』と呼ばれる場所に。
彼は
帰りたい
と
思って
い
た
。