自殺ゲーム
歩美は退屈な日常に耐え切れず、自殺ゲームという遊びを考えた。
自殺ゲームとは簡単に言うと、自殺の寸止めを故意に繰り返すことだ。
駅のホームを意味深な顔でじっと見つめて飛び降りる素振りをみせること。歩道橋から道路を見下ろし、転落しそうになるくらい身を乗りだすこと。
人気のない赤信号の道路で立ち尽くしてみたり、洪水寸前の川岸で傘も差さずに寝転んだりもした。
危険な行動を繰り返してみることで、周囲の人の反応を窺うことが唯一の楽しみだ。
当たり前だが、大抵の人は戸惑いと焦りの入り混じった表情で歩美を諭す。
「そんなことはしちゃだめだ。悲しむ人がいるだろう」
「命を粗末にするな! 君はまだ若いから、将来がある。いくらでもやり直せる」
「どうしたの? 学校でなんか嫌なことでもあったのかい? 気分転換に好きなことを――」
どれもこれも予想通りの反応だった。
悲しむ人などいないし、将来が明るくなるような見込みなど全くない。何かを愛せるほど自分を肯定することができない。
そんな歩美を満足させるような反応はなかなか得られなかった。それでも、死を目の前にするという臨場感は期待以上に甘美なものだった。
冷めた心を沸騰させるほどに心臓は脈打ち、肺は揺れ震えた。脳内物質のせいなのか、快楽さえも感じた。
だから今日も歩美は自殺ゲームをする。まさに生死をかけた綱渡りだ。
名も知らぬ駅の電車のホームで降りてみた。
すぐに先端に向かい、良さげなスポットを探す。人の流れが絶妙に疎らな場所を見つけ、そこに狙いを定めた。
若い、色艶の良い女性が黄色い線の前で次の電車を待っている。
この人は自分にどんな言葉をかけてくれるだろうか。歩美は含み笑いをし、女性の後ろに立った。アナウンスが次の電車が来る時間を知らせた。あと数分で次の電車がくる。
歩美は力なく俯き、意気消沈しているような演技をした。
そして女性の後ろから横に移動し、あっという間に黄色い線を踏み越えた。
ホーム転落まであと数十センチのところまで来て、ぴたりと立ち止まる。
女性は携帯を見ているようで、歩美に全く関心を示さない。
(この人は外れかもしれないな)
どんなに危険な状況に陥ってみても、歩美に全く関心を示さない人はこれまでもいた。そういう人々は別に人情に欠けているわけではなく、ただ面倒くさいだけなのだ。
考えてみれば誰にでもそういう一面はある気がする。
人身事故で電車が止まったって、狂った予定に苛立つ人はいても死んだ人間に黙とうを捧げる人はいない。人が殺されたニュースを見ても、意にも介さず朝飯を平らげることができる人のほうが多いだろう。
全てはいちいち他人の痛みに付き合ってあげることが面倒くさいからだ。
皆、自分のことで精いっぱい。
ある意味それが最も健全な反応なのかもしれない。
歩美は図らずも物思いにふけってしまった。
「死にたいの?」
「え?」
ふと顔を見上げると、真横にさっきの女性がいた。
「こんな危険な所に立って……飛ぶ気なんでしょ?」
(なんだ、良かった。当たりだったのね)
歩美は安堵し、
「はい。もう、この世に未練はないので」と言った。
「そう。じゃあお姉さんも一緒に死んであげる」
「は?」
その女性は歩美の手をとると、爽やかに微笑んだ。
「どうせ死ぬなら一人より二人のほうが寂しくないでしょ? 私達、なんだか太宰治になったみたいね」
「いや、その、私は――」
「それとも一人で死にたい?」
「違います、そういうわけじゃなくて」
「決まりね。じゃあ二人でいこっか」
線路が電車に踏まれてビートを刻む音が聞こえた。耳障りな甲高い軋音と、機械的なアナウンスの声。全ての音が色褪せているように感じた。
女はわずか数十センチの導火線を徐々に進みはじめる。
電車が遠くに姿を現した。この時になって初めて、駅員が注意する声がかすかに聞こえた。
もう遅い。駄目だ。バッドエンドでゲームオーバーだ。
半ば諦めつつも、歩美は必死に女性の手を振りほどこうとした。
しかし、固く握りしめられた手は、非力な歩美ではびくともしなかった。
「やめて! いや! 助けて!」
そう叫んだ瞬間、無情にも電車はホームを突き抜けた。
やがて駅は静まり、近くの踏切の音だけが鳴り響いていた。
二人の女は黄色い線の上に倒れ込んでいた。
「どう? 死にたくなくなった?」
「……」
「声も出ない? 無理もないね」
「あ、あの、私……」
振り絞った声は、驚くほどガラガラに枯れていた。
「死にたいくらい追い詰められた人間を留める方法があるとしたら、それは一つしかない。死の恐ろしさを教えることよ。生きるより死ぬほうが痛いってことを思い出させるの」
女性は滔々と語ると、腰が抜けている歩美を抱きしめた。
「思い出してくれた?」
声を出そうと思っても、言葉にならない。
歩美の頭はこんがらがっていた。何を言えばいいのかわからなかった。
ゲームを滅茶苦茶に壊された怒りをぶつけるべきなのか、諭してくれることを感謝するべきなのか。
開口一番、出た言葉は無意識によるものだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
自分は誰にむけて謝っているのだろう。
ゲームのつもりが本当に殺されそうになって、むしろ謝ってほしいくらいなのに。
歩美の手はまだ震えていた。
「……寂しかったのね。大丈夫。私も寂しいから。でも、生きてる」
その言葉を聞いた瞬間、歩美の瞳から大粒の涙が溢れてきた。
歩美は自殺を試みることで、確かに快楽を得ていた。
しかしそれは所詮、死ぬふりに徹しているだけで、児戯にも等しい幼稚な行動だった。だから何度やっても真の満足は得られず、退屈だけが予定調和のように心に残った。
その退屈を人々の反応の単調さのせいにして納得していた。
でも、この女性のおかげでようやく歩美は自殺ゲームを始めた本当の目的に気付いた。
きっと、死を目前にすることで自分を生に踏みとどまらせたかったのだ。
そして、その目的の通り、確かに死にたくなくなった。
それでも、生の空しさは心から消えてくれないようだ。
歩美は名も知らぬ駅で、名も知れぬ人の肩に抱かれて嗚咽した。
次の列車がホームに停車し、忙しない人々が二人を横目に降りていった。
ありがとうございました。