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真田 優介は安堵していた。
「いやぁ……外って、良いですねぇ」
「……あ、そう」
前髪で顔は半分近く隠れているが、それでも丸分かりなほどに緩んだ顔で、彼は解放の喜びを口にしている。その様子を見ている宮村はと言えば少し引き気味だ。それもそのはず、数日前までほぼ引きこもり同然だった常にムッツリしている男が急にだらしない顔で外出を喜んでいるのだから。今いるのが学校だというのも関係ない、家ではないという事実だけが全て。
真田だって通常ならばそんな事は口が裂けても言わないだろうが、家が占領されて三日、彼もそろそろ限界を迎えていた。
「何かもう、家とか帰りたくないですねぇ」
「お前、それ昨日も言ってたぞ? ……ってのを俺は昨日も言ったぞ?」
前言撤回。かなり前の段階から限界を迎えていた。
吉井が家にいる生活にも少しは馴染んできたし、悪くないと思わない事もない事もない事もなかったが、やはり他人が家にいる事の違和感と言うか圧迫感。緊張感はそう簡単に消えるものではない。あるいは、その感覚が消えたからこそ、そこには結婚という観念が生まれるのかもしれない。
恐ろしい。ついに恋愛・結婚というものの真髄を見極めてしまった。本当に、なんて恐ろしい。よもや自分がそんなものを理解する日が来るとは。
「何度だって言いたい気分なんです」
「お前さぁ、家で何かあったの?」
「いえ、そういうワケじゃないんですけど。ただ急に、外の風ってのが凄く良い物のように感じ始めたんです」
「……まぁ、分からんけどさぁ」
宮村は真田が何に悩んでいるのかは知る由もない。面倒なので説明は未だに一切していないからだ。そして隠し続ければそれだけずっと一緒に暮らしている事になってしまうのでどんどん説明が難しくなる。もうこの事実を知られないまま何とかするしかない。
「分かんないんならそれで良いんです。それともアレですか、自分は人の心だって見通せるとでも思ってたんですか? そんなワケないじゃないですか馬鹿ですねぇ」
「いや、うん。いつも通りっぽいからもう良いわ」
解放感でどうもテンションが高い。真田の口は絶好調で回り始める。前髪をサラリとかき上げながら煽り口調で言うと宮村は肩を竦めるだけで特にそれ以外のリアクションは返さなかった。
これがいつも通りと思われているのが微妙に納得いかない。が、この時の真田はそんな事にも気付けないくらいに浮かれていた。
「ほらほら、馬鹿話はここまで。今日もあの真っ赤っか野郎を探しに行きますよ」
「お前はその話になるといつもよりもっと口が悪くなるなぁ」
「気のせいですよ、気のせい。ヘイヘイ、レッツゴー」
「あ、こら。押すなって」
明らかに温度差のあるリアクションをしている宮村の背後に素早く回り、強引に押して前進する表情はやたらと晴れやか。もはや別人なのではないかと疑われるほどのものであったという。
そんなこんなで歩く事十分ほど。目的があるためか少し早歩きの二人は三週間前に一人の魔法使いと出会った場所まで到達していた。
宮村はボンヤリと歩きながら時折大きな欠伸をして、真田はと言えばその前を足音も立てず歩いているが微かに鼻歌が漏れ聞こえてくる。そうして特に会話の必要性も感じる事なく歩いていた二人だったが、いつもの如くと言うべきか、宮村が口を開いた。内容はもちろん先程の続き。
「でもマジでどうしたんだ? いや、殺る気があるのは結構なんだけどさ」
「ん、うぅん……ほら、やっぱり急に襲われでもしたらたまったもんじゃないじゃないですか」
「おー、じゃないじゃない」
本当の所は喋れたものではないので建前としてやる気を出した理由の一つを挙げてみたが、それに対して返ってきたのは言葉尻の語感が気に入ったのか適当な相槌。こちらが悩みながら話しているというのにこれなのだから定期的にイラっとさせられる。
もっとも、真田と宮村では情報量が違うので身の入り方が違ってくるのも仕方ない事ではあるのだが。
「逃げるのは結構ですけど、急に来て急に逃げられたらこっちとしても追いかけるしかないワケで、それで逃げ切られたら探したくなるのも仕方ないワケで」
「んー……やっぱよく分からん。最近のお前はよく分からんなぁ」
それもそうだ。真田自身もグダグダと言い訳のような理由説明をしている内に何を言っているのか分からなくなってきている。普段の真田ならばむしろ逃げ切られたら触らぬ神に何とやらと言って探そうとしないかもしれない。
真田の方針はずっと『振りかかる火の粉を払う』だけだ。例外と言えば宮村になるのだが、それにしても火の粉が舞う前に消火したのであって、今回のように火を点けようとしている人間をぶっ飛ばしてやろうなどと好戦的に動く事はまずない。
どんどん言葉が上滑りしていく自分に内心少し動揺をし始めているが、それは表情には出さない。顔が隠れているのは本当に便利だ。しかし、喋っているとどこかでボロを出す可能性が高い。なので流れを変える。もとい、戻す。
「そうですか? でも人の心が見通せるワケないんですよ、馬鹿ですねぇ」
「それはもう良いんだって」
同じ言葉を繰り返した真田に対して呆れたような視線を宮村は向ける。真田が暴言でも吐けば宮村はそれをサラリと受け流す。それがいつも通りの流れ。これが真田の手に入れた話術。
もっとも、こんな手は宮村相手にしか使えないものであるが。
「まぁ、お前がそんなマジになるなら俺も協力するけどさ」
そう言って話を打ち切った宮村は、想定通りに追究する気を失ったのだろうか。それとも時折変に頭の回るこの男の事、何か離せない事情がある事を察したか。そんな事はどうだって構わない。天然でもそうでなくても、話を終わらせてくれた事に感謝するだけ。
「……ありがとうございます。流石、持つべきは竹馬の友ですねぇ。どうか僕の下で竹馬の如く働いて下さい」
「それは……どうやって働けば良いんだ?」
素直に感謝の言葉だけを言う事も何となくできずに軽口を叩いてみると宮村は眉を潜めた。自分が文字通りに真田の足元で竹馬のようになっている姿でも想像したのか。それはほとんど肩車だが。
そんな顔を見ていると少し可笑しくなってきて、思わず小さく笑ってしまう。動揺したり考え込んだりはしたが、解放感で気分が高揚している事は変わりないのだ。拳を口の前に置いて笑っていると、右隣からも微かに笑い声が聞こえてくる。
真田は基本的に性格が良くはない。口を開けばそちらも悪い。しかし、こうして隣を歩く男は。そして家で帰りを待つ女性は、それを認めて受け入れて、笑ってくれている。もしかするとこれは、非常に恵まれているのではないだろうか。
そんな女性のような被害者をこれ以上増やさないために、そんな男と共に戦おう。薄い笑顔の裏で真田は決意を新たにした。




